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朝、目が覚めたので時計を見ると、針は六時よりも少し前を指していた。ベルが鳴る前に目覚ましを止めて顔を洗いに一階へ降りる。家の中は静まりかえっていたが、リビングのテーブルにビールの缶が三個転がっていたので、母は昨夜のうちに帰ってきたらしい。
きっとまだ眠っているだろうから、音を立てて起こさないよう気を付ける。父は……また外泊したようだ。玄関に彼の靴だけが見当たらない。
顔を洗って完全に目を覚ましてから、今度はお弁当を作り始める。今日は冷凍食品を使ってお弁当箱の隙間を埋めることにした。
ササミとほうれん草のチーズカツに、ひじきの煮物を電子レンジで解凍する。温野菜を使ったココットは自分で手作りして、やっぱり欠かせない卵焼き。
朝食はどうしようかな。母が食べるかもしれないので、スクランブルエッグとレタスをちぎっただけのサラダを二人分作り、自分の分はキッチンで立ったまま食べる。
一人きりの食事なら、いつもだいたいこんなものだ。お腹が膨れればそれでいい。
「そういえば、昨日要が買ってきたオムライスは、意外に悪くなかった」
要がうなじに噛みついてきたあと、私たちはお互いの悪口を言い合いながらオムライスを食べた。くだらない悪口の応酬で、小学生の喧嘩みたいになってしまったが、とにかく賑やかでちょっと楽しかった。
一人きりで過ごす夜の寂しさを忘れることができたので、要にはとても感謝している。たとえ、彼が学校や公の場で平気で人の腕にかじりついてくるような犬みたいな男でも。
「おはよう、スミレ。いつも朝食作ってくれて悪いね」
ダルそうな声の母がリビングに現れた。寝不足なのか、顔色があまり良くない。
「おはようお母さん。昨日は遅かったみたいだね」
「うん、残業のあとに少し飲んできたから」
「そう……」
残業で疲れているのに、わざわざそれから飲みに行ったということは、もしかしたら最近できたという恋人と会っていたのかもしれない。
「ねえスミレ。今度の休みの日にさあ、お母さんと一緒に出かけない? 」
母は少しだけ眉を寄せて、こちらの様子を窺うように話題を振る。
「いいけど、買い物?」
母が誘ってくれるのは珍しい。怪訝に思ったが、二人で出かけるのは久しぶりだから嬉しくなった。ところが、母は親子水入らずで出かける気はなかったらしい。
「ううん、そろそろスミレに青木さんを紹介したいと思って」
「青木さんって、お母さんの恋人の?」
「そう。恋人ができたって告白したのが、五月の連休だったでしょう。あれからもう二ヶ月も経ったし、スミレも二年生になってから学校生活も大分落ち着いてきた頃だろうから、この機会にどうかな」
その質問に答えられず、私は唇を噛み締めて母の顔を見返していた。こんな、いつもと変わらない、なんでもない朝に相談してほしくなかった。
私がなかなか返事をしないことに焦れたのか、母は重いため息を吐いた。
「気が進まないのはわかるけど、そろそろスミレも覚悟を決めてほしいのよ。お母さんと一緒にこの家を出て、青木さんと一緒に暮らすのか。それともここに残って、父さんと向こうの女と一緒に暮らすのか……」
母は嫌悪を込めて、父の相手を「向こうの女」と呼ぶ。本当は、片桐さんという名前も知っているのだが、母は頑なに彼女の名前を口にしない。
片桐さんは、以前一度だけ母あてに電話をかけてきたことがあった。私がその電話の取り次ぎをしたので、彼女がどんな声をしていて、どんな話し方をするのか知っている。
電話口の彼女の声は、か細くてびっくりするほど震えていた。きっと、緊張していたのだろう。しかし、恋に一途な女は恐ろしい。彼女は母に、父の心は自分にあるから、もうこの家には父を返さないという内容を話したのだ。あのときの真っ青な母の顔は、今でも忘れることはできない。
「私はこの家を離れたくないけど……お父さんたちとは一緒に暮らせない。絶対に無理」
私がそう答えると、母は当然だという顔をして頷く。
「じゃあ、やっぱり休みの日は空けておいてね。大丈夫、青木さんはとてもいい人だから」
「……わかった」
母は私が承諾するのを見届けてからバスルームへ入っていった。
私は食べかけの朝食の残りを口に入れ、ため息をそれらと一緒に飲み込んだ。スクランブルエッグはもうとっくに冷めてしまっていて、美味しいとは思えなかった。
身支度を整えて家を出ると、雲一つない晴れた空が眩しかった。何気なくお向かいに目をやると、ちょうど要が出てくるところだ。彼はあくびをしながら眠たそうな顔で歩きだす。
私は要の背に声をかける。
「おはよう」
「おう、昨日はごちそーさん」
要はこっちを振り返り、軽く手を上げる。さらりと昨夜のお礼を混ぜてくるあたり、彼の育ちの良さが垣間見える。昨夜はあんなに強引に夕飯を作らせたくせに、そういうところが憎めない。
向かう先が同じなので、どちらともなく並んで歩く。こうして登校するのは、しばらくぶりだ。
「ずいぶん早いね。要にしては珍しい」
「ああ、今日だけはマジで遅刻できないんだ」
「どうして? 日直?」
「いや。実は四日連続で遅刻してるから、もう後がないんだよ。もし今日も遅刻したら、罰として居残り掃除させるぞって担任に脅されてんだ」
あきれてなにも言えない。よくそんなに連続で遅刻できるものだ。でも、そう言われてみれば要は昔から寝汚い奴だった。
「いつもギリギリまで寝てるからだよ。これを期に、もっと早く起きる習慣を身につけたほうがいいね」
「そんな事言われても、朝弱いんだからしょうがないだろ。一人じゃ絶対に起きられる気がしない」
そう言って大きなあくびをする要は、まだ半分寝ぼけた状態のようにも見えた。
「そうだ。お前、朝起こしに来いよ。そうすれば毎朝ちゃんと起きられる気がする」
「えー嫌だよ。面倒くさい」
「じゃあモーニングコールでいいや。明日から必ず七時に電話してくれ」
要のその一言で、私が彼に電話をすることが決定したらしい。まあ、電話一本くらいならかけてあげないこともない。
「そういえば私、要の携帯番号知らないや」
「は? 嘘だろ、こんな長い付き合いなのに!」
「いや本当に。そもそも、番号交換したことないじゃない。いままでは家に行けば要に会えたし、緊急の連絡なんかは連絡網とか友達経由で回ってくるものばっかりだったから」
要は立ち止まると、ポケットからスマホを取りだし、高速で操作し始めた。電話帳に私のアドレスがないかを確かめているのだろう。
私たちは長い間、付かず離れずの微妙な距離を保ちすぎたのかもしれない。そのせいで、今まで電話で話をする必要がそもそもなかった。それが、こうして番号が必要になったこということは、二人の関係が少し変化した証拠だ。それが良い変化であるのか悪い変化であるのかは、よくわからないけれど。
要はまだ、アドレス帳から私のデータを探しているらしく「違う、ない、マジで登録してないとか……」とぶつぶつ言っている。
私も要のスマホ画面を覗き込んで、自分の名前がないか一緒にチェックする。後ろから画面を覗き込むのはマナー違反だということは分かっているが、彼ひとりでは探しだせないような気がしたのだ。そして、やっぱりそこには私の名前はない。
「へー、要のアドレス帳、女の子の名前ばっかりだね」
「普通こんなもんだろ」
そうだろうか? 私のアドレス帳には、異性の名前はあまり登録されていない。
要は強面系とはいえ誰もが振り返るようなイケメンだ。彼の周りには女友達もたくさんいるし、その中には友達の枠を超えたがっている人たちも、いっぱいいるに違いない。
「じゃあ、これが私の番号だから、後でそこに着信ちょうだい。私も登録しておくから」
私はノートの端を破って番号を書き込み、それを要に手渡した。
「メールアドレスが書いてない」
「こんな場所でアドレスまで書くのは面倒くさい。モーニングコール係りなら、番号だけ知ってれば十分でしょ」
私の言葉が腑に落ちない様子の要だったが、彼は素直に手渡されたメモをポケットにしまった。
そのとき、私たちの前に大きな声でおしゃべりしながら登校する三人組が現れた。背の低い男子生徒が一人と、彼を挟むように並んでいる女子が二人。どちらも顔だけは見たことがあるような気がする。よく見ると、要と同じクラスの人たちだ。
女子の一人が、要に気付き、こっちに向って手を振る。
「おーい要。おはよー!」
彼女はよく手入れされている長い髪をさらりと揺らし、要のそばまで小走りでやってくる。パッチリとした目をした華やかな美少女だ。
「こんなに早い時間に登校してるの初めて見たよ。今日は頑張って早起きしたんだね」
「ああ、眠くて死にそう」
「えらいえらい。明日も頑張れよ」
彼女は、要の背中をバンバンと音がするほど勢いよく叩く。けっこう力が強そうだが、要は特に不快な様子も見せず、彼女の好きにさせている。
あとの二人が追い付いてくると、背の低い男子が要の背を叩く女子の手を掴んで顔をしかめた。涼しげな一重が印象的で、高校生にしては珍しく落ち着いた雰囲気をしていた。
「エリカ、叩きすぎだ。要が困ってるだろ」
「なによ奏太。やきもち?」
奏太という男子がやんわりと注意すると、エリカと呼ばれた女子は口を尖らせる。しかし、彼はそれには取り合わず、要に向って拝むような仕草をする。
「うちの彼女が悪かったな」
「別に。大して痛くねえし」
どうやらこの二人は付き合っているらしい。それにしても、クラスが違う私は会話に入るどころか、彼らの名前と関係を理解するので精一杯だ。なんとなくのけ者にされたような気がして、要から少し距離を取る。
すると、その隙間を埋めるように、ボブカットの小柄な女子がするりと要の隣に並んだ。彼女もまた、人目をひくほど可愛らしい顔立ちをしている。ぽってりとした唇がつやつやと光り、どことなく肉感的なシルエットにドギマギさせられる。
要のクラスは顔面偏差値が高い人しかいないのだろうか……
ボブカットの女子は要の袖をちょんと引っ張ると、長い睫毛を瞬かせて要を見上げる。
「そういえば要君、今日は一時間目の数学当たる日でしょ。宿題のプリントやって来た?」
「あー、忘れてたわ」
「それはまずいよ。結構難しかったから」
「マジか。授業始まる前には終わらせるつもりだったのに」
「私のプリント見せてあげるよ。問題数も多かったから、急がないと写しきれないかもよ」
要の袖を掴んだまま、彼女は急かすようにぐいぐいひっぱる。要はダルそうにしたまま数歩前に出たが、頭をかいて華奢な手を振り払った。
「いや、奏太に見せてもらうからいいや。近藤に貸し作るとなんか後が怖えから」
「えー。そんなことないよ。帰りにちょっとクレープおごってくれるだけでいいんだよ」
近藤と呼ばれた女子は、いたずらを見透かされた子どものようにペロリと赤い舌を出す。うーん、可愛いけどあざとい仕草だ。
私は三歩下がった場所で、目の前で繰り広げられているやり取りを眺めていた。完全に蚊帳の外にいるので、まるで芝居を見ているような気持になってくる。
そのとき、要がとつぜん観客に徹していた私を振り返る。
「というわけで、悪いけど俺先に行くわ」
「え……あ、うん」
まさか話しかけられるとは思っていなかった私は、びっくりして頷くことしかできなかった。
要は別に気にした様子も見せずに、奏太という男子を促して足早に行ってしまった。男子二人に置いていかれた女子たちは、慌ててその後を追いかけていく。とり残された私は、なにがなにやらさっぱり分からないままだった。
でも、さっきよりも一人で登校する方が気は楽だ。もしかすると、話に入ることができない私がこれ以上気まずくならないように、要が彼女たちを連れて行ってくれたのだろうか?
もしそうならとてもありがたい。この恩は明日のモーニングコールできっちり返してあげよう。
私は肩の力を抜いて、のんびりと歩き始めた。