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次の日、私は約束の時間に遅れないように慶吾さんの店に向かった。昨日は何も考えずにカジュアルな服を選んでしまったが、今日は少し違う。要の隣に彼女として気後れせずに並ぶには、武装する必要があるのだと最近知った。
デコルテが綺麗に見えるように少しだけ胸元が開いた白いノースリーブのシャツに、ウエスト部分にリボンがあしらわれた黒いフレアスカート。少しでも足を長く見せたくて、ちょっぴりヒールの高いサンダルを合わせた。
少しでも大人っぽく仕上げたつもりだったが、やっぱり子どもが背伸びをしている感は否めない。それでも、待ち合わせの店に着いて顔を合わせたとたん、慶吾さんは私の努力を認めて褒めてくれる。
「お、今日のスミレちゃんはすごく綺麗だね。似合ってるよ」
まるで呼吸をするように褒め言葉が口から出てくるのは、人たらしの習性なのだろう。
「ありがとうございます。今日はちょっとだけ気合い入れてきました」
「スミレちゃんはそのままでも十分可愛いよ」
「いえ、そんな心にもないお世辞言わなくても大丈夫です」
「お世辞じゃないのに」
慶吾さんはやれやれと言いたげに頭をかく。
褒めてくれるのはとても嬉しいが、彼の言葉を真に受けてはいけない。慶吾さんにとって、私は『義理の妹』という特殊なフィルターがかかっている恐れがあるのだ。
湊人さんが店の奥から顔を出してきたので、全員そろったところで要のバイト先のカフェへ向かう。慶吾さんが車を出してくれたので、彼の好意に甘えて乗せてもらうことにした。
カフェ専用の駐車場に車を停めて、三人で赤い庇のあるカフェの扉を開けた。
「こんにちは」
慶吾さんが愛想良く声をかける。
店の中は数組のお客さんがいて、昨日ほど空席が目立たない。今日は忙しいらしい。カウンターの中で洗い物をしていた要と狭山さんが、「いらっしゃいませ」と声をそろえてこちらを振り返った。
要は客の正体が私たちだと気づくと、驚いたように目を丸くする。
「慶吾さん? それに湊人さんも?」
「お邪魔します」
二日連続で店に顔を出す恥ずかしさから、私はちょっと顔を伏せるように頭を下げる。要に無断で店に慶吾さんたちを連れてきてしまったのも、実は後ろ暗い原因のひとつだ。
「びっくりした。来るなら事前に連絡入れろよ。慶吾さんたちも、どうぞ座ってください」
要がカウンターから出てきて、私たちを席に案内する。
通されたのはカウンターから最も遠い奥まった席だ。もしかすると、要は少しでも私たちを遠ざけたかったのかもしれない。その証拠に、彼は水を置いてすぐに立ち去って行った。
「いらっしゃいませ。メニューはお決まりですか?」
しばらくしてから、狭山さんがメモを片手にメニューを聞きに来た。彼女は今日も綺麗だ。パリッとしたブラウスに黒いエプロン。すっきりとしたショートカットから覗く耳には、小さな赤いピアスが輝いている。白い肌に映える上品な赤い色は彼女にとてもよく似合っていた。
どんなに高校生が背伸びをしたって、本物の大人には適わない。そんな違いを見せつけられたような気分になった。
狭山さんは私と目が合うと、唇を微かに綻ばせた。
「あ、あなた昨日も来てくれましたよね」
「……はい」
さすがに二日連続で来店すれば顔も覚えられているのだろう。すると、要が手を止めてちょっと上ずった声を出した。
「あー、実はこいつ俺の彼女なんです」
「ええ!?」
狭山さんが目を丸くして私を見た。どうやら私が要と付き合っていることは知らなかったらしい。
「本当に戌井君の彼女なんですか?」
「はい。そうです」
私の答えを聞いて、狭山さんは一瞬だけ動揺したように目が泳がせる。しかし、彼女はすぐに口元に笑みを浮かべ注文を取る。
「私はアイスコーヒーをお願いします」
「俺たちはホットコーヒー」
「かしこまりました」
サラサラとペンを走らせていた狭山さんの手が一瞬止まり、視線が慶吾さんたちにくぎつけになる。どうやら、改めて見た湊人さんと慶吾さんに目を奪われたようだ。二人ともタイプは違うがどちらも人目を引く容姿をしている。おまけに、今日は二人ともいつになく愛想良く微笑んでいる。
いつも笑顔の慶吾さんはともかく、普段無愛想な湊人さんまでほほ笑んでいるので、私はなんだか気味が悪くなってしまった。
狭山さんがいなくなってから、私はこっそりと彼に話しかける。
「湊人さんどうしたんですか? いつになく笑ってるからびっくりしました。そんなに顔の筋肉を酷使して大丈夫なんですか?」
「お前、気を許した相手にはけっこう失礼だよな――まあ、いいけど。今のが狭山だろ?」
「はい」
「彼女がどんな奴なのかちょっと確かめてくるから、お前らここで待ってろ」
そう言うや否や、湊人さんは狭山さんを追って立ちあがった。私が止める間もなく、湊人さんは狭山さんを呼び止め、笑顔で話しかけている。さりげなく肩に手を置いたりしているのが見えるが、ここからではどんな話をしているのか分からない。
私は湊さんのあまりの豹変ぶりに、空いた口が塞がらなくなった。普段は仏頂面で腕を組んだまま、いつまでも黙っていることが多いのに、今の湊人さんはどこからどう見てもコミュニケーション能力に優れた軟派な美青年だ。顔が良い分、断りづらいのが余計に性質が悪い。
「湊人さんを止めなくていいんですか?」
「ん。あいつのやりたいようにやらせてみようよ」
慶吾さんが面白そうな顔で二人を眺めている。とくべつ嫉妬している風もないのだが、腹の底ではどう思っているのかは分からない。ちょっと後が怖い気がして、私は慶吾さんの顔色を恐る恐る確かめる。
「慶吾さんは、湊人さんが女の人と親し気に話をしてても平気なんですか?」
「ああ、それは大丈夫。あいつは基本的に女性嫌いだし、俺と違って他に目移りしたりしないからその点は安心してる。でもだからこそ、スミレちゃんにはちょっと嫉妬するな」
「え? 私ですか!」
「だって、普段は女の人とは話もしたくないほど女性嫌いの湊人が、勇気を振り絞ってスミレちゃんのために狭山さんに近づいて行ったんだよ。本気で君の事を気に入っていなけりゃ、そんな事は出来ないよね」
そう言われてみれば、たしかに湊人さんが狭山さんの本質を見極めてくれようとしているのは、ぜんぶ私のためだ。
慶吾さんは穏やかな目付きでカウンター席の前で話込んでいる二人の背中を眺める。
「湊人が本気だしたらさ、男女問わずどんな奴でも落ちると思うんだ。あいつの性格を差し引いても、あの顔にはそれだけの魅力がある。まして、今の猫かぶりモードの湊人だったら、たいていの女性はイチコロだ」
それからしばらくして、湊人さんは見たこともないような笑みを浮かべて狭山さんに手を振ってからこちらへ戻ってきた。
「おかえり湊人。どうだった?」
慶吾さんが興味津々と言った様子で尋ねる。
「ぜんぜん手ごたえなしだな。一応バイトが終わってから食事に行かないかと誘ってみたんだけど、まったく脈なし。ホイホイ釣られるような女じゃないってことだけは分かった」
私たちのテーブルへ戻ってきたとたん湊人さんの笑顔は消え、いつもの不機嫌そうな顔に戻る。まるで仮面を剥ぎ取ったように一瞬で表情がガラリと変わったので、私は驚くやら感心するやらで声が出ない。
慶吾さんは、湊人さんの百面相などまったく気にならないらしく、ふむふむと考え込みながら頷いている。
「そっかー、もしかしたらちょっと厄介な相手かもね」
「あの、どうして厄介なんですか?」
私はだんだん不安になってきた。
「湊人ほどのイケメンに誘われたのにあっさり断るなんて、身持ちが固い証拠だよ。それなのに、要君には家まで送ってもらってるんだよ? それだけ彼女は要君に本気だっていうことじゃないかな」
「あ!」
私もようやく事の重要性が分かってきた。
誰でも良いわけじゃないんだ。きっと、要だから送ってもらいたいという事だ。
「私、ちょっとお手洗いに行ってきます」
私は立ちあがった。今さらながら危機感で胸が押しつぶされそうになってきた。こんなに不安な気持ちになるなら、もういっそのこと、湊人さんのようにバイトなんてやめてくれと要に訴えてみようか。
そんな事を考えながら女性用のトイレに入ると、私の後を追うように誰かがトイレに入って来た。
「あの、ちょっといいですか?」
個室に入る前だったので驚いて振り返ると、そこには狭山さんが立っている。私は妙な胸騒ぎを覚え、返事を返すことも出来ずにその場に棒立ちになる。
狭山さんは、何も答えない私を見て話を聞いてくれるとおもったのか、ぺこりと頭を下げた。
「私、狭山と言います。戌井君といつも同じ時間に働いてます」
「あ、えっと、石脇です」
「昨日はごめんなさい。さっき戌井君にあなたのこと聞きました。まさか彼女が来てるとは思ってなかったから、バイト終わりに彼に送ってもらってりして……」
狭山さんは申し訳なさそうに頭を下げる。緊張しているのか、ちょっとそわそわしていて落ち着きがない。
「じつは私、ちょっと持病を抱えているせいで、人並みに働く事が出来ないんです。昨日も途中から具合が悪くなってしまって、マスターが戌井君に送ってくれるように頼んでくれたから、何も考えずに二人の好意に甘えてしまいました。本当にごめんなさい」
「いえ、狭山さんが体調悪そうなのは、私も昨日見ていて分かっていたので、もういいです」
心から申し訳なさそうな様子で顔を伏せる彼女を見ていると、だんだんこちらが悪い事をしているような気持ちになってきた。
もしかすると、要に置いて行かれた事をいつまでも根に持っている私の方が、心が狭い人間なのかもしれない。私は頑張って忘れられるように、精いっぱいの笑顔を狭山さんに向けた。
「わざわざご丁寧にありがとうございます。昨日の事は、もう気にしないでください」
こうして謝ってくれたのだから、気にするのはもうやめよう。そう思ったそのときだった。狭山さんが思いつめたような表情のまま、勢いよく顔を上げた。
「あの、こんなことを頼むのはおかしいかもしれないけど、これからも戌井君に送ってもらうことを許してくれませんか?」
「え?」
「病気のせいで、一人で夜道を帰るのが少し不安なんです。昔から満足に学校にも通えなかったせいで友達も少ないし、家族も遠方に住んでいるから、こんなこと頼めるの戌井君しかいないんです」
「え、いや、でも……マスターの御親戚なら、マスターに送ってもらった方がいいんじゃないでしょうか?」
私がそう言うと、狭山さんは一瞬悔しそうな目をこちらに向けて唇を噛んだ。キッと睨みつけるような彼女の目には、うっすら涙が浮かんでいる。
「私、戌井君が好きです」
「え!?」
「あなたは、いつでも好きなときに戌井君に会えるんでしょう? 私は、ここで働いている間しか彼と会えないんです。ほんの少しぐらい、彼の時間をゆずってくれてもいいじゃないですか!」
私は返す言葉が見つからず、唖然としてしまった。しかし、狭山さんの口はまだ止まらない。
「一目ぼれなんです。こんなに人を好きになったのは初めてで、少しでも同じ時間を過ごしたいと思っているだけなのに……」
「いや、そう言われても」
瞬きもせずに私を睨みつけている狭山さんの目から、涙があふれ出した。
「あなたが羨ましい。どうしてあなたと戌井君が出会う前に、私が彼と出会えなかったんだろう。そうしたら、絶対にあなたになんか負けなかったのに」
狭山さんはそう言うと、声を殺して泣きだした。興奮したせいで、顔が赤くなっている。
私はそんな彼女にとても腹が立っていた。それなのに、頭の中は妙に冷静で体の芯がすうっと冷えていく。もしかすると、さっきの胸騒ぎはこれを予期していていたのかもしれない。
「私よりも前に要と出会いたかったなら、十三年前から出会ってなくちゃいけないですね。私たち、幼稚園の頃からの幼なじみなんです」
「え?」
狭山さんが驚いた様子で顔を上げる。
「家がお向かいだったので、子どもの頃からお互いの家に行き来してました」
「え? だって、付き合ったのは最近なんでしょう?」
「ええ。付き合ったのはつい最近です。でも、要は五歳の頃にはもう私の事が好きになっていたそうですよ」
狭山さんは私と要の付き合いの長さに驚いたのか、口元を震わせて黙った。
「十二年間の片思いを実らせた要が、たった四日前に出会った狭山さんになびくと思いますか?」
私が大真面目にそう言うと、狭山さんはブルブルと肩を震わせた。
「そんな……そんな事やってみなきゃ分からないじゃない!」
「それなら勝負します? 私と狭山さん、どちらが要に選ばれるのか」
私の言葉に、狭山さんは一瞬動揺したように瞳を揺らす。
「そんな風に戌井君を試すような事、したくない」
「でも、私から要を奪いたいんでしょう? どんなに綺麗事を言っても、彼女持ちの男をと付き合いたいっていうことは、けっきょくそういう事ですよ。それとも、自信がありませんか?」
私に挑発され、狭山さんが握っていた拳にぐっと力を入れる。いつの間にか、彼女はもう泣いていなかった。
「分かった。戌井君が私たちのどちらを選ぶのか、白黒はっきりつけましょう!」
「それじゃあ勝負の内容は、要が私たちの内のどちらと一緒に店を出るのかで決めましょう。私と一緒に帰るなら私の勝ち。狭山さんと一緒に店を出て、そのまま昨日のように家まで送り届けるなら狭山さんの勝ち。もちろん、要にはこの勝負の事は一切秘密にします」
「私が勝ったら、あなたはもう二度と戌井君と私の事に口を挟まないでくださいね。今後、うちの店にも来てほしくありません」
「いいですよ。それじゃあ私が勝ったら、今後一切、無理やりあなたを家まで送らせるのをやめてください」
「そんな、無理やり強要したわけじゃ――」
「そうですか? オーナーにまで頼まれたら、普通の人は嫌とは言えないと思いますよ」
狭山さんはバツが悪そうな顔をする。もしかすると、オーナーにも根回し済みで、彼も一枚噛んでいるのかもしれない。
私は狭山さんに念を押すために、ぐっと彼女を下から見つめる。
「どんな結果になっても、絶対に約束は守ってもらいます」
「分かってます。そっちこそ、約束守ってくださいよ」
狭山さんは私の視線から逃げることもせず、まっすぐにらみ返すと、頬に残っていた涙の跡を拭ってホールへ戻って行った。




