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幼なじみは噛みつき魔  作者: 山石コウ
二章
27/32

8

 朝、カーテンを開けると雨の音が聞こえてきた。今日はあいにくの雨だ。

 慶吾さんたちと遊園地へ行ってから三日が過ぎた。部屋の中の段ボールも大分片付き、青木さんの家で暮らすことにも慣れ始めていた。

 今日は平日なので、母も青木さんも仕事だ。私は午前中は家の掃除や洗濯を引き受け、午後からは要のバイト先へ見学に行く約束をしている。

 一人で訪ねるのも寂しいので、由佳理ちゃんに一緒に行かないかとメールを打ってみる。すると「もちろん行くに決まっている」という彼女らしい返事が返って来たので、駅前で待ち合わせをすることにした。

 要が働いている店は、昼間は普通のカフェで誰でも気軽に入れるそうだが、五時を過ぎるとお酒も飲めるようになるらしい。そのため、未成年のバイトは五時になるとみんな上がるというのがルールだそうだ。

 私たちは夕方四時頃にカフェに向かうことにした。うまくいけばバイトを終えた要も一緒に帰ることができる。

 待ち合わせ場所に着くと、もう到着していた由佳理ちゃんが傘を片手に待っていた。

 私は手を振りながら慌てて彼女に駆け寄る。

「ごめんね、待たせちゃった?」

「ううん。そんなに待ってないから走らなくていいよ!」

 由佳理ちゃんは、水たまりに足を突っ込みながら走ってくる私をハラハラしたような目で見る。靴をびしょぬれにしないか心配なのかもしれない。

「お待たせ。じゃあ行こうか」

「うん。スミレちゃんお店の場所分かる?」

「大丈夫。要に地図送ってもらったし、そんなに複雑な道じゃないんだって」

 地図アプリで確認すると、大通りからそう遠く離れていない場所にその店はあった。決して目立つ場所でもないので、ちょっとした穴場らしい。

「それにしても、戌井君がバイトするなんて珍しい。彼、働くの初めてなんでしょ?」

「うん。本当は要の友達のバイト先なんだけど、その人が足を怪我して動けなくなったから、その間だけの代わりなんだって」

「ああ、植木君だっけ。あの背が低いけど男前な人ね」

「そう。よく知ってるね」

 私が感心すると、由佳理ちゃんは得意そうに胸を張った。どうやら、イケメンの情報はそれなりに把握しているらしい。

「私は、てっきりスミレちゃんと遊ぶための軍資金を稼ぐためなんだと思ってたよ」

「あー、それも、少しあるかもしれない」

 私は自分の左腕に巻かれている菫の花のチャームが付いたブレスレットにちらりと目をやる。今日は要に会えるので、これを付けてきていた。

 私が初めてプレゼントされるアクセサリーは自分が贈りたいという理由で、要は慶吾さんの店でこれを買ってくれたのだ。高校生には高い買い物だっただろう。

 おそらく、要の貯金をだいぶ圧迫したに違いない。だから、彼がバイトを始めたのは半分くらい私のせいなんじゃないかと思っている。

「あ、ここでしょ。けっこうオシャレなお店だね」

 由佳理ちゃんが指をさしたのは、ワインレッドの庇のついたカフェだった。店の前には鉢植えが置かれていて、そこには赤や黄色の花が咲いている。モスグリーン色のドアには小さなベルが付いていて、開くとチリリリンと可愛らしい音で来客を告げた。

「いらっしゃいませ」

 すぐに女性の店員さんが声をかけてきた。背が高く、手足がすらりと長くて姿勢が抜群にいい。小さな顔に、スッキリとしたショートカットがとても似合っている。

 彼女はまるで、女性誌から抜け出てきたんじゃないかと思うほど、スタイルも容姿も整っている。

「何名様ですか?」

 店員さんがほほ笑む。

「あ、二名です」

 私たちはほんの一瞬だけ彼女に見とれていたが、すぐに我に返った由佳理ちゃんが返事をした。

 店員さんは控え目な笑顔で「ご案内します」と店の奥へ案内して、水の入ったグラスを二つテーブルに置いていった。

「びっくりした。すごく綺麗な人だったねー。もしかしたらあの人、素人じゃないかもしれないよ」

 由佳理ちゃんはがテーブルの上に身を乗りだし、私の耳元へ顔を寄せる。

「芸能人かもしれないってこと? でも、こんな普通のカフェで芸能人が働いたりするかな?」

「いやいや、分からないよ。どこかの事務所に所属だけはしてるけど、なかなか売れずにくすぶってることもよくあるらしいし」

 そんなものだろうか。でもたしかに、彼女は普通の人とは醸し出している雰囲気がどことなく違う。

「まあ、そんなことより戌井君を探そうよ」

 私たちはキョロキョロと店内を眺めながら目当ての要を探す。ホールはそれほど広くないので、探すのは簡単だ。しかし、要の姿は見当たらない。

「あ、いた!」

 由佳理ちゃんが指さした方を振り返ると、店の奥から買い物袋を持った要が現れた。どうやら、買い出しに行っていたらしい。

 白いワイシャツ姿に、腰には黒いソムリエエプロン。飲食業ということで外見に気を遣っているのか、前髪もきちんとセットして横に流している。それだけで、普段見せる横顔よりもずいぶん大人びているように感じた。

「戌井君って背高いから、こういう制服よく似合うね」

「そうだね。でもシャツの首元開きすぎ」

 ちょっと余談になるが、要は首周りが締め付けられるのが昔から嫌いだった。首が太いせいもあるが、ボタンを上まで止めると窮屈に感じるらしい。しかし、こういう客商売で気崩した服装でいるのは良くない。

「こっちにオーダー取りに来ないかな」

 由佳理ちゃんはメニュー表を抱えて手を上げる。しかし来てくれたのは、初めに私たちを案内してくれたさっきの店員さんだった。

「ご注文は?」

「イチゴのタルトとチーズケーキ、どちらもケーキセットでお願いします」

 私が注文を告げる。店員さんは素早くメモを取っていたが、急に彼女の体がぐらりと傾き、握っていたボールペンが彼女の指から滑り落ちて机に音を立てて転がった。

「大丈夫ですか」

 私は咄嗟に店員さんの体を支えた。由佳理ちゃんも、心配そうな顔でボールペンを拾う。

「あ、失礼しました」

 店員さんは立ちくらみでも起こしたように額に手を当て、ボールペンを受け取った。よく見ると、少し青い顔をしているみたいだ。

「具合悪いんですか?」

 失礼かと思ったが、心配でつい体の調子を尋ねてしまった。

「すみません。最近少し寝不足で……。お見苦しいところをお見せしました」

 店員さんは眉を下げて笑い、オーダーの確認をしてから戻って行った。声に張りはあるものの、やっぱり彼女の足取りは少しふらついている。

 目を瞠るほどの美人だが、どこか少し不健康そうな女性だ。

 私たちは、彼女が置いて行った手元の水を飲む。沈黙を破ったのは、由佳理ちゃんが先だった。

「なんか、ほっとけない雰囲気の店員さんだね」

「うん、具合悪いならあんまり無理しないほうがいいのにね」

「スミレちゃん気を付けなよ。ああいうちょっと儚い美人に男は弱いんだから。要君、まだここで働くんでしょ? たぶん何もないとは思うけど、気にかけておいたほうがいいよ」

 由佳理ちゃんの忠告が胸に刺さる。

 要に限ってそんなまさか、とは思うが、絶対に無いとも言い切れない。

 もちろん彼のことは信頼しているし、私に隠れて浮気なんて不誠実なことが出来るタイプじゃないはずだ。だから、要が私以外の人を好きになったときは、本気のときだ。

 心配し始めたら心穏やかではいられなくなってしまった。

「そういえば、スミレちゃん引っ越しはもう済んだんだっけ?」

「うん。先週の日曜日に無事終わったよ。青木さん思った通りいい人だし、その息子の慶吾さんも手伝いに来てくれたんだ」

「新しいお家で上手くやっていけそう?」

「たぶん大丈夫。とにかくお母さんが幸せそうで、いつもニコニコしてる」

「そうなんだ。良かったね」

「うん、ありがとう」

 由佳理ちゃんにも心配をかけていたので、嬉しい報告ができて良かった。報告ついでに、昨日慶吾さんたちと遊園地へ行った事も話すと、由佳理ちゃんが驚いた声を上げる。とりわけ、私と湊人さんが仲良くなったことには驚いていた。

「ええ! あのときの店員さんと仲良くなれたの!?」

「そうなの。自分でも信じられないんだけど、きちんと話をしてみたらすごく真面目でいい人だったよ。……どっちかというと、ちょっと問題ありなのは慶吾さんの方だったんだよね」

「ああー、なるほどねー。未来のお兄さんの方が独占欲も承認意識も強かったわけだ」

 由佳理ちゃんは、「そうなんだー」と意外そうな顔で頷いている。

「男の人同士のカップルか……。私たちには想像も出来ないくらい大変な事もあるんだろうね」

「そうだね。でも、なりふり構わないくらい一途な湊人さんのスタイルは、真似できないけどちょっと羨ましいと思うんだ」

 要はモテる。だから、いつ他の人に誘いを受けるかも分からない。そのときに、私が彼女として独占欲をむき出しにするのを、要は嫌がるんじゃないだろうかと不安になってしまうのだ。

 要の彼女になってみて分かったのは、私はたぶん、自分で思っていた以上に独占欲が強いということだ。

 さすがに「私以外の女と喋らないで」とまでは言わないが、街中で出会う綺麗な女の人を視界に入れて欲しくないし、学校で仲のいい女子とほんの少しの触れ合いだって本当は嫌だ。

 男女共学の学校生活において、女子とまったく接触せずに生活することは出来ない。それをちゃんと分かっているのに、ここまで強い独占欲を発揮してしまうのは、ただのわがままでしかない。

 由佳理ちゃんにそう打ち明けると、彼女は急に呆れたように笑った。

「誰だってみんなそうだよ。私だって、彼氏と二人で会ってるときに彼が他の女の方ばっかり見てたら、踵で思いっきり足ふんづけるよ」

「そうなの?」

「そうだよ! スミレちゃんは戌井君の彼女なんだから、よそ見されたら足を踏む権利があるの!」

 声がだんだん大きくなってきた由佳理ちゃんをなだめながら、私は考える。本当にそんなことしていいのだろうか。

 どこまで要の行動に干渉していいのか分からないから、まずは慎重に行動にしなくちゃ。きっと、長く付き合ううちに、恋人らしい距離感がお互い分かるはずだ。でも、今はまだ嫉妬に駆られて行動するのは怖い。

「じゃあ、要に嫌われないように加減しながらやきもち焼いてみる」

「いやいや、それじゃあスミレちゃんの方がストレスたまるでしょ。加減なんてしなくていいんだよ。嫌なことは嫌、嬉しいことは嬉しいってそのまま伝えればいいの」

「んー、でも、あんまりわがままばっかり言って困らせたくないし……」

「もう、どれだけ臆病になってるのー!」

 ついに由佳理ちゃんは頭を抱えてしまった。こんなに親身になってもらっているのに、なんだか申し訳ない。

 由佳理ちゃんが言いたいことは、ちゃんと理解しているつもりだ。互いに思っていることをなんでも伝えることができれば、それが一番いいに決まっている。でも私は、要に嫌な思いをさせるくらいなら、多少のことは我慢しようと思う。

 そんなとき、要が私たちのテーブルへやってきた。ちょっと渋い顔をして私たちを確認して、手に持っているトレーの上には注文したケーキと飲みものが載せられている。

「お待たせしました、ご注文のケーキセットです」

 要は知り合いに給仕するのが恥ずかしいらしく、ちょっと顔が強張っていて声もムスッとしていて愛想のかけらもない。しかし、彼は何も聞かなくても私が注文したイチゴがたっぷり乗ったタルトを目の前に置き、由佳理ちゃんの方には濃厚クリームのチーズケーキを置いた。

 それを見て、由佳理ちゃんが目を丸くする。

「すごいね。戌井君、私たちが注文聞かれたときその場にいなかったのに、どうしてどっちがどのケーキ頼んだか分かったの?」

「スミレの好物がイチゴだから。昔から甘い物食べるときは絶対イチゴのメニューを選ぶんだよ、こいつ」

「へえ、なるほどねー」

 由佳理ちゃんがにやにやしながら私のわき腹をつつく。どうやら私の好みを把握している事をからかいたくてたまらないらしい。

 要は伝票をテーブルの上に置いて、少し声を落とす。

「俺もう少しで上がりだから、お前らちょっと待っててくれよ。一緒に帰ろう」

「うん、初めからそのつもりで来たんだよ」

 由佳理ちゃんがそう答えたので私も頷く。

「ここ、夜から酒だす店になるから、明らかに未成年の客はそれとなくオーナーに追い出されるんだ。だから五時少し前くらいに店の前で待っててくれよ」

「分かった。要も残りの時間頑張ってね」

 私が手を振ると、要もこっそり片手を上げてカウンターへ戻って行く。なんとなくいつもと違う要の姿にドキドキした。

「戌井君、この分じゃここでも人気出ちゃうかもしれないね」

 ケーキをぱくつきながら由佳理ちゃんが不吉な事を言い出した。理由を聞くと、彼女は奥の席に目線を投げる。そこには、二十代半ばくらいの女性客三人がそわそわした様子で要を目で追っている。

「あそこの人たち、さっきから戌井君が出てくるたびに盛り上がってるんだもん。何回も水もらったり、注文取りに来させたりしてるみたいだし」

 言われてみれば、彼女たちは頻繁に手を上げているようだ。

 今の時間、店員は要と女性スタッフだけなので、二分の一の確率で要が用件を聞きに行っているのだが、そのときだけやたらと甲高い声が上がっている。

「かっこいい店員がいたら騒ぎたくなる気持ちも分かるけど、あそこまでいくとなんか露骨すぎて気分悪い」

 由佳理ちゃんは不機嫌そうな顔を隠そうともしない。実際、要が呼びとめられている現場を見てしまうと、私だっていい気はしない。

 ちょっと上目づかいで見上げられようものなら、不安で胸が押しつぶされそうになるし、腕に触れられればムカムカして美味しいケーキも喉を通らない。

 悪い事は重なるもので、ちょうどそのとき、要が女性の店員さんに声をかけられて立ち止まった。

 店員さんは要の胸元に顔を近づけると、ワイシャツにするりと手を伸ばす。そして、外れていたシャツのボタンをすべて留め、緩んでいたネクタイを締め直した。

 彼らの会話はここまで聞こえてこないが、店員さんは慣れた様子でネクタイを直すと、要の胸をポンポンと叩いた。

 私は声も出せなかった。

 職場の先輩と後輩としては、ありえなくはない光景だ。でも、知らない女の人にネクタイを直される要が、私はたまらなく嫌だと思ってしまった。

「何いまの!」

 由佳理ちゃんが鬼のような形相でこちらを振り返る。

 私は固まったまま、何も言えなかった。

「なんでさっきの店員さん、戌井君にあんな親し気なの!? 戌井君も戌井君だよ、あんなされるがままなんて、すっごく納得いかないんだけど」

 由佳理ちゃんはもっと不満をぶちまけたそうにしていたが、そのときとつぜん彼女の携帯が震えた。今まで般若のようだった顔付きがすうっと穏やかになっていく。

「あ……」

「彼氏から?」

「うん、ゼミの合宿が終わったんだって。これから会いたいって誘われた」

「行っておいでよ。しばらく忙しくて会えなかったんでしょ? こっちは大丈夫」

「ありがとうスミレちゃん。こんなときなのに、一緒にいてあげられなくてごめんね」

 申し訳なさそうに謝ってから由佳理ちゃんは席を立った。

 私は手を振って彼女を見送る。店を出るその後ろ姿はどこか嬉しそうに弾んでいた。大好きな人に会いに行くのだ、嬉しいに決まっている。

「いいなあ……」

 由佳理ちゃんは全力で恋を楽しんでいるように見える。彼女は、私のように些細なことでためらったり我慢したりしない。

 私ももっと、由佳理ちゃんみたいに怯えずに彼氏と彼女という関係を楽しめる性格なら良かった。自分に自信があって、好きな人の隣に胸を張って並べるような性格なら良かったのに。

 そろそろ要のバイトが終わる時間だ。私は席を立ち、会計を済ませて店を出る。もう夜の店員さんと交代した後だったので要には会えなかったが、ここで待っていればきっと彼も気づくはずだ。

 待ちぼうけの間、なにもすることがないのでぼぅっと空を見上げていた。朝から続いている雨は、まだ細々と降っていた。

 よく降るな、ここのところ晴れの日が続いていたから、恵みの雨を待ちわびている人たちもいるかもしれないが、やっぱり私は雨は苦手だ。

 私は傘を畳んだまま店の庇の下へ避難する。足元が雨でじっとりと濡れている。ちょっと苦手な感触だ。

 要はまだやってこない。

「遅いなあ」

 五時で上がって、着替えを済ますのに十分ほどかかるだろうか。時計を見ると、五時十五分を差している。もしかすると、従業員は違う出入り口を使っているのだろうか。

 そんなことを考えながらじっと待つ。それでも、いつまで経っても要は姿を現さなかった。

 さらに十分が経過したとき、私のスマホが鳴った。見ると、要からの電話だ。

「もしもし」

『あ、スミレ? 連絡遅れてごめんな。今も店の前にいるのか?』

「お店の前にいるよ。今どこ? まだバイト上がれないの?」

『いや、店はもう終わったんだ……』

 なぜか要の歯切れが悪い。私はなんだか嫌な予感がした。

「なにかあったの?」

『本当に悪い、実は一緒に帰れなくなったんだ。俺と一緒にシフトに入ってるバイトの狭山さんって人がいるんだけど、今日ちょっと体調崩してて、俺が送って行く事になったんだ』

「え?」

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 私が言葉に詰まっているのも知らず、要は申し訳なさそうな声でどんどん話を進める。

『狭山さん、オーナーの親戚だそうで、心配だから家まで送って欲しいってオーナーに頼まれたんだよ。彼女一人暮らしで迎えに来てくれる家族もいないらしい……。それで、実はもう裏口から店を出たんだ』

「あ、そうだったんだ……」

 私は肩をガックリと落とした。

『ずっと雨の中待たせておいて、本当に悪い』

「ねえ、私も彼女の家まで付いて行ったら駄目? そうしたら狭山さんを送ってから一緒に帰れるよ」

『悪い。狭山さんの具合が本当に良くないらしい。すぐにでも送って欲しいって頼まれたから、もう彼女の家の近くなんだ』

 要の声は本当に申し訳なさそうだ。こんな声を出されたら諦めるしかない。

「そっか、分かった。私はこのまま帰るね。要も気を付けて」

『ごめんな。スミレも鈴原と一緒に気を付けて帰れよ』

「……うん」

 電話を切ってから、私はしばらく足元の水たまりを見つめていた。要には、由佳理ちゃんが一足先に帰ったことは伝えられなかった。

 要と同じシフトに入っていた店員といえば、モデルのようにスラッとしたあの女性しかいない。彼女は狭山さんと言うのか。

 要は今、あの人と一緒に歩いているのかと思うと、胸が張り裂けそうに痛んだ。

 どうして? どうして要がそこまで彼女の面倒を見なくちゃいけないの? 迎えも頼めないほど友達いないようにはとても見えなかった。そもそも、オーナーの親戚ならオーナーが送って行ってあげればいいのだ。

 考えれば考えるほど嫌な気持ちがあふれてくる。しばらく唇を噛みしめて地面ばかり見ていたが、私は傘をさしてようやく歩き出した。

 送ってくれたお礼に、お茶でも飲んで行かない? なんて、常套句だ。見たところ、狭山さんは私たちよりも年上のようだったし、年下のくせに変な遠慮するなと強引に要を誘うかもしれない。そうなったら、要はどうするんだろう。

 いや、悪い方にばかりに考えてはいけない。狭山さんは本当に具合が悪そうだった。彼女には下心なんてまったくないかもしれない。

 でも――絶対にないとは、いいきれない。

 あれだけ美人なんだから、年下の高校生なんて手玉に取るのはたやすいだろう。要だって、誘われれば悪い気はしないはずで……

 そこまで考えて、私はその場から歩けなくなってしまった。傘を持つ手がブルブル震える。今すぐ要を追いかけたい。でも、狭山さんの家がどこにあるのかも分からないので、追いかけようがない。

 いつの間にか傘を持つ手から力が抜け、私は雨に打たれていた。

 傘も指さずに立ち止まっている私を、不審な目をして道行く人たちが振り返っている。でも、どうすることも出来なかった。

 雨が冷たい。心の中はもっと冷えていた。

「こんな所で傘もささずに何やってんだ?」

 不意に声が掛けられ、私の肩に温かい手が触れる。見上げると、そこには湊人さんがいた。

「お前、どうしたんだよ。泣いてるのか?」

 ボロボロと涙を流している私を見て、湊人さんが焦ったような声を上げた。そして、力が入らない私の手から傘を奪い取った。

「何があったのかは後で聞くから、とりあえず一緒に来い。このままじゃ風邪ひくぞ」

 そう言って、私の肩を抱くようにして自分の傘の元へと引き寄せ、湊人さんは歩き出した。私は返事も出来ずに、ただ彼に連れられて足を動かしていた。

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