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待望の夏休みがやって来た。終業式の日にもらった成績表のことはひとまず脇に置いておくとして、せっかくの長期の休みを満喫しない手はない。
とはいえ、まずは引っ越しをしなければならないので、現在私の家はどこもかしこも段ボールだらけだ。午前中のうちに引っ越し業者さんが来てくれる事になっているので、家の前でトラックを待っていると、向かいの家から要が出てきた。
今日は力仕事をする予定だからか、紺のタンクトップとカーキ色のカーゴパンツ。そして、首には白いタオルを巻いている。まさに「これから肉体労働をします」という格好だ。
「おはよ」
要の声は少し眠そうだ。
「おはよう。わざわざ手伝いに来てくれてありがとう」
「いや、俺が言いだしたんだから気にするな。ところで――スミレのおばさんには俺のことちゃんと話してもらえた?」
「もちろん。要が彼氏になったって言ったら、お母さんすごく喜んでたよ」
「そっか、良かった」
要は明らかにホッとした顔で胸をなでおろしている。どうやら、反対されやしないかと気が気でなかったらしい。
私たちの話し声が家の中にまで聞こえたのか、とつぜん母が玄関からひょっこりと顔を出した。
「あら、要君久しぶり。今日は忙しいのに手伝いに来てくれてありがとう」
要は母の顔を見たとたん、背中に棒を突っ込まれたみたいにしゃきっと姿勢を正し、首に巻いていたタオルをむしり取ると、深く頭を下げた。
「お久しぶりです、おばさん。話は聞いていると思いますが、スミレとお付き合いさせてもらってます。よろしくお願いします」
「こちらこそ、いつもスミレの事を気にかけてくれてありがとう。至らない娘ですが、よろしくお願いします」
母も深々と頭を下げる。
私だけがその場に立ったまま、二人の後頭部を見ていた。どうしよう、空気をよんで私も頭を下げたほうがいいのかな。でも、誰に? 二人に?
そんなとき、引っ越し業者のトラックが到着した。私は天の助けとばかりに、まだお互いお辞儀したままの二人の頭を上げさせて、業者さんを迎え入れる。
来てくれた作業員はなんと一人だ。トラックもごくごく小さな物が一台。大きな家具はほとんどここに置いていくので、これで十分らしい。
「それじゃあ、さっそく作業始めます」
業者さんはあっという間に荷物をトラックへ積み込んでくれる。要が手伝ってくれた甲斐もあり、ものの一時間もかからずに段ボールの山はすべてトラックに収納された。
業者さんは、あらかじめ伝えておいた青木さんの家へトラックで向かう手はずになっている。しかし、一応迷わないようにと、母の車がトラックを先導することになったので、私たちも母の車に乗り込んだ。
「ふう、さすがに暑いわねー。今冷房付けるよ」
母は車内の設定温度を十九度に設定した。クーラーが唸りを上げて冷気を吐き出す。それでも、車の中は蒸し風呂のように暑い。
私と要は後部座席に並んで座った。どちらともなく目を合わせたあと、遠ざかって行く私の家を黙って振り返る。
さよなら、私の家。さよなら、お父さん。
鼻の奥がつんと痛んだが、見えなくなるまでずっと目を逸らさなかった。子ども時代を過ごしたあの家には思い出がたくさん詰まっている。もう二度とあそこに戻ることはないのだと思うと、急に涙が込み上げてきた。
ふいに、右手にじっとりと汗ばんだ熱いものが巻きついた。隣の要を見ると、彼の手が私の手を包むように握っている。
「ありがとう、要……」
「ああ」
涙はこぼれなかった。要がこうして隣にいてくれるなら、新しい環境でもきっと上手くやっていける気がする。彼とはもうお向かいさんじゃなくなっても、こうして心が寄り添っていれば大丈夫だ。
そのとき母がどんな顔をして運転していたのかは分からないが、大音量で音楽をかけ始めた。もしかしたら、気を利かせてくれたのかもしれない。
青木さんの家の前に着くと家の前で青木さん親子が出迎えてくれた。
「そろそろ来る頃だと思ってました。ちょうどいいタイミングでしたね」
母は青木さんたちに向かって深く頭を下げる。
「これから、娘ともどもお世話になります」
「そんな、京子さん頭を上げてください。お世話になるのは僕も同じですから。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
青木さんはすっかり慌ててしまっている。
私も母に倣って頭を下げた。お世話になる身なので、挨拶はきちっとしておきたい。
慶吾さんは青木さんの横で、要に目を止めた。
「お、彼氏君も来たんだ。体けっこう鍛えてるんだね、引っ越し屋さんかと思ったよ」
「戌井要です。いつまでも彼氏君っていうのもなんなんで、名前で呼んでください」
慶吾さんにバシバシとむき出しの肩を叩かれて、要は少し迷惑そうな顔をしている。やっぱり、慶吾さんが少し苦手らしい。
青木さんは要とは初対面なので、不思議そうに二人のやり取りを眺めていたが、母がそっと耳打ちしたとたん、納得したように笑顔で頷いた。
要との関係を隠すつもりはなかったが、なんだか親戚のおじさんに初めて交際相手がバレてしまったような、なんとも恥ずかしい気持ちになった。
「あのー、まずは大きい物から運びたいので、どこに運べばいいのかだけ指示してもらえますか?」
すっかり待ちぼうけをくらっていた引っ越し業者さんが、しびれを切らして声をかける。
私たちはようやく我に返り、荷物を運び始めた。
二階建ての青木さんの家は思っていたよりも広く、私専用の部屋も用意してくれていた。
「急ごしらえだから居心地悪いかもしれないけど、しばらくの間だから我慢してくれるかい?」
申し訳なさそうに青木さんが案内してくれた部屋は、淡いオレンジ色のカーテンがかかった八畳ほどの部屋だった。日当たりも良いし、風通しもいい。
「普段は物置きにしていた部屋なんだけど、急いで掃除して新しいカーテンを付けたんだ。本当は好きな色を聞いておくべきだったと思ったけど、つい嬉しくて張り切ってしまって……」
青木さんは、私に気に入ってもらえなかったらどうしようかと、大きな体を縮めてもじもじしている。熊のような体格なのに、青木さんがそんな事をするとなぜか可愛らしく思える。
「オレンジ色大好きです。ありがとうございます」
私の言葉を聞くと、青木さんは笑顔になった。そこへすかさず、荷物を持った慶吾さんがやってきた。
「あ、隣は元俺の部屋だよ。今はほとんど要らない物を置いてあるだけの部屋だけど、なにか欲しい物があったらあげるから、遠慮なく言ってね」
慶吾さんは、さりげなく隣の部屋のドアを開けて中を見せてくれた。そこにはたくさんの段ボールが積まれていて、カーテンも毛足の長いラグも黒い色をしている。一見するとスタイリッシュにまとまっているのだが、棚の上にはドクロの置物が置いてあったり、なんだかよく分からない幾何学模様のタペストリーが壁に貼ってある。
「……必要な物は持ってきているので大丈夫です」
丁重にお断りしておいた。
青木さんたちの協力のおかげで、トラックから家の中へ荷物を運ぶのはあっと言う間だった。引っ越し業者さんは丁寧に挨拶をして帰って行き、こまごました荷物は生活していくなかでゆっくり解く事にした。
そろそろお腹が空いてきたなと思ったタイミングでリビングに呼ばれたので一階に下りると、母がテーブルにお寿司を並べていた。スーパーで売っているパックの物ではなく、すし屋にあらかじめ注文していた寿司桶だ。
「今日はみなさんお疲れ様でした。忙しいのに、私たちのためにお手伝いいただいて、本当にありがとうございます」
母はお礼を述べて、大人組には缶ビールを配り、私と要にはジュースのペットボトルを回した。そして、自分はお酒は飲まずにペットボトルのミネラルウォーターを開ける。
暑いなか作業していたので、みんな喉がカラカラだ。さっそく乾杯して喉をならして流し込む。
「あー、生き返った」
けっこう本気の口調で、要がそんな言葉をため息と一緒に吐きだす。
私は近くにあったすし桶の中からアナゴとマグロを取り、隣に座っている要の前に置いた。要は昔からこってりした味が好きなので、この二つは絶対に外さない組み合わせだ。
要も私の席から手が届かない位置に置いてある厚焼き卵を取り、私のお皿に入れてくれた。
「なんか君たち、熟年の夫婦みたいだね」
慶吾さんがじっとこちらに目を向けている。どうやら今の私たちのやり取りをすべてを見ていたらしい。
「何も言わないのに、お互いの食べたい物が分かるってすごいよ」
「そうですか?」
「別に、いつものことなんで」
お互いに好みは知り尽くしているので、もう確認しなくても相手が何を食べたがっているのかは理解している。私たちにとってはいつもの事だったので、こうして改めて感心されると嬉しい半面、すごく照れる。
「そりゃあ、二人は幼なじみだもん。小さいときから仲良しだったしね」
母がからかうように口を挟む。
「え、スミレちゃんたちって幼なじみだったんですか?」
慶吾さんがすかさず食いついてきたので、母は今までの私たちの関係を全部暴露してしまった。と言っても、彼女の分かる範囲のエピソードが主だったので、幼稚園や小学生の事ばかりだったのでホッと胸をなでおろした。
最近のものは、親にはとても話せない。
食べて飲んで、青木さんたちの話を聞いているうちに、いつの間にかあっという間に時間は過ぎた。壁にかかっている時計を見た要が、驚いた様子で腰を浮かせる。
「俺そろそろ帰ります」
要がそう言って立ちあがったので、彼を送って行くために私も腰を上げた。すると、母が車を出してくれると言うので、一緒に要を車で家まで送り届ける。きっと、母はこのためにお酒を控えていたのだろう。
「今日は手伝ってくれてありがとう」
要の家の前でお礼を言う。
「いや、そこまで感謝される働きしてないから」
要は複雑そうな顔をする。どうやら、思っていたよりも運び出す荷物が少なかったので、ちょっと物足りなかったらしい。
「そんなことないよ。要君がスミレのベッド組み立ててくれたから、おばさんも助かっちゃった。ありがとう。これ、少ないけど今日のバイト代」
母がそう言って要に封筒を握らせる。要は恐縮したように固辞していたが、母にしつこく受け取ってくれと頼まれてようやくそれをポケットにしまった。
「それじゃあ、要君の両親にもよろしくね。今度改めてご挨拶に伺いますって伝えてください」
「はい。送ってくれてありがとうございました」
母は緩やかに車を発進させた。私は窓を開けて、こちらを見送っている要に手を振る。もう要とご近所さんではなくなってしまった。物理的な距離を感じて、いまさらながら胸が苦しくなる。
「あの家を出るの、ちょっとさみしい?」
母が尋ねる。
「うん。ちょっとね」
「スミレにとっては、十七年住んだ家だもんね」
「……うん」
窓から吹き込んでくる生ぬるい風を顔に浴びていると、私のポケットにしまってあるスマホが震えた。見ると、たった今送り届けたばかりの要からメールが届いている。
『今日はお疲れ。お前さ、別れ際に泣きそうな顔するなよ。家が近所じゃなくたって、会いたいときに会えるし、声が聞きたくなったら電話もできるだろ。もし寂しくなったら、真夜中でもいいから連絡しろ。もう青木さんの家までの道は覚えたから、チャリで行ってやる』
私はつい笑ってしまった。要は、なんでもお見通しだ。
私と母が青木さんの家に戻ってくると、青木さんと慶吾さんはべろんべろんに酔っ払っていた。どうやら、ずっと二人で飲み続けていたらしい。昼間引っ越し作業で疲れていたせいもあり、酔いが回るのも早かったのかもしれない。
「青木さん、ここで寝ちゃうと背中痛めますよ。自分で起きられますか」
母がリビングの床で伸びている青木さんを起こし、肩を支えながら寝室へ付き添っていく。
二人の背中を見送ってから、私は慶吾さんの向かいに座った。テーブルの上には、なぜか飲み終わったビールの缶が天井に向かって高く積み上がっていた。
「親父さあ、実はすげー酒弱いんだよ。今日は京子さんとスミレちゃんが引っ越してきてくれたから嬉しくて、自分の許容量超えて飲んじゃったんだろうな」
「慶吾さんはお酒強いんですか?」
二人で飲んだとはいえ、机の上の空き缶はかなりの量だ。よく見ると、机の下にはなんだか高そうなラベルの瓶が二本転がっている。これは、ウイスキー?
「んー、俺はそれなりかな。いくらでも飲めるけど、普段よりも若干ハイになるから面倒くさいってよく仲間に言われる」
そう告げる慶吾さんは、たしかにいつもよりもテンションが高い。顔が全体的に赤くなっていて、目がトロンとしていた。
慶吾さんは新しい缶を引き寄せ、プシュッと小気味よい音を立ててからそれを私の方へ差し出した。
「親父がつぶれちゃった事だし、今度はスミレちゃん付き合ってよ。少しくらい飲めるんじゃない?」
「いえ、未成年なんで無理ですよ」
目の前に突きつけられているビールの缶を押し返して断ると、慶吾さんはとたんに頬を膨らせる。
「真面目だなー。せっかく未来の妹と親交を深めようと思ったのにさー」
高校生だと分かった上でお酒を勧めてくるなんて、大人としてどうなんだろう。それに、彼の仲間が言うように絡み方がいつにも増して面倒くさいことになっている。
「はいはい、分かりましたよ。お酒は飲めませんけど、こっちだったらいただきます」
テーブルの上に置いてあったオレンジジュースをグラスに注いで手に取った。出しっぱなしになっていたせいで少しぬるい。
慶吾さんはビールの缶を私のグラスに合わせ「乾杯」と言って飲みほした。
「急に環境変わったから疲れたでしょう? もし何かあったら、お兄さんがなんでもお願い聞いてあげるから、いつでも相談していいんだよ」
慶吾さんはそう言って胸を張る。もしかして、兄貴風を吹かせたいのだろうか。
しかし、私は首を傾げてちょっと考えた。
「実は、まだあんまり環境変わったっていう実感はないんですよ。お母さんが離婚したのもつい最近聞いたばかりだし。それに、このお家でお世話になってからまだ数時間しか経ってないので――」
「もしも親父の事で何かあったら遠慮なく俺を呼んでね。基本的にはお人好しなんだけど、たまにお節介な所があるから」
慶吾さんは楽しそうにお酒を飲みながらケラケラと笑う。笑い上戸なんだろうか。
「京子さんに会ってからさ、親父すげー幸せそうなんだよ。俺のお袋がさあ、俺が小学生の時に事故で亡くなって、それから親父はずっと独り。なりふり構わず俺を育てて、俺が成人しても恋人一人作れなくて、気づけば男やもめで十八年」
「そうだったんですか」
青木さんほどいい人なら、きっとお世話をしたいという人や、一緒になりたいと言ってきた人もたくさん現れただろう。それをすべて断って、彼は子育て一筋で今の年まで過ごしてきたらしい。青木さんとはまだ知りあって日が浅いのに、そんな生き方がなんだかすごく彼らしいと思ってしまう。
「それから、湊人のことなんだけどさ……」
快活だった慶吾さんの口調が少しだけ鈍る。
「この間は、あいつが失礼なことばかり言ってごめんね。あいつの家もちょっとわけありで、そのせいで少し女性不審なんだよ。本人の許可がないから詳細は伏せるけど、本当はさびしがり屋で繊細な奴なんだ」
慶吾さんが語る湊人さんは、私の中の彼のイメージとはだいぶ異なる。どちらかと言えば、彼は嫉妬深くて狂暴だ。
「いいえ、あの時は私もケンカ腰だったから、こっちも悪かったんです」
顔を合わせなければ言い合いにならないかもしれないが、この先、慶吾さんと義理の兄妹になれば、どうしても関わることがあるかもしれない。私は複雑な気持ちでため息を吐いた。
「どうしたら湊人さんに、義理の妹だと認めてもらえるんですかね」
「んー、たぶんスミレちゃんが俺の好みのタイプど真ん中だから、湊人はあんなに心配して噛みついてくるんだと思うんだよ」
さらっととんでもないことを言われ、私は自分の耳を疑った。ここは聞き返した方がいい場面だろうか? それとも、このまま流してしまった方が平和でいられるのだろうか?
私がなにも言わずに固まっていると、慶吾さんは再びゲラゲラと笑う。
「そんな深刻にならなくても大丈夫だよ。たしかにスミレちゃんみたいに、一見大人しそうなのに気が強い子はすごく俺の好みなんだけど、妹になる人には手は出さない。それに、要君に怒られるのは怖いしね」
そんなに軽い口調で「大丈夫」と言われても、なんだかいまいち信用できない。無意識に慶吾さんから距離を取ってしまったのは、私の防衛本能がそうしろと言っているのだと思う。
「どちらにしろ、また湊人に会う機会があったら、こないだみたいな事は絶対にさせない。だから、あいつのこと嫌いにならないでほしいんだ」
あそこまで嫌われると、なんだか逆に清々しいような気がしてくるから不思議だ。あの湊人さんがケンカ腰にならないのか疑問だったが、今は何も言わずに黙って頷いておいた。




