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幼なじみは噛みつき魔  作者: 山石コウ
二章
20/32

1

 要と付き合っていることを認め、一緒に登下校したりお昼ご飯を食べるようになったとたん、周囲からの私たちへの関心は急激に薄れていった。本当に、要の目論見通りになったので驚きだ。

 おそらく、時期もちょうどよかったのだと思う。いよいよ期末テストが始まった。

 みんなバカップルのことなんて構っている暇はない。あちこちで教科書を広げたり、自作の単語帳の中身を唱えたりしている。

 このテストが終われば、ようやく待ちに待った夏休みだ。しかし、一教科でも赤点を取ってしまえば、補習授業が待っているのでみんな必死だ。

 私は赤点の心配をするほど成績は悪くないが、気を抜くと苦手教科は平均点を下回ってしまうことがあるので、気合いを入れて教科書の中身を暗記する。

「ねえねえスミレちゃん、今日帰りにどこか寄り道していこうよー」

 由佳理ちゃんが帰りのホームルームの後でニコニコしながらそう提案してくる。

 彼女は成績が良い。ものすごく良い。テスト前に焦って教科書など見なくたって、いつも学年で五番以内を目指せるほどの秀才だ。

「由佳理ちゃんは余裕でいいね。私は明日のテストのこと考えるだけで胃が痛くなってくるから、今日はパス」

「えー、息抜きも必要だよ?」

 なんと言われようとも、今日は真っ直ぐ帰って苦手な教科を徹底的に復習しなければいけない。

 由佳理ちゃんは私の隣の席に腰を下ろし、窓の外へ視線を飛ばす。

「あーあ、早く夏休みになってほしいよ。スミレちゃんと一緒に遊びに行くの楽しみにしてるんだから」

「そうだね。まずプールには絶対行こうね。それから買い物行ったり、映画もいいね」

 教科書から目を離し、楽しい休みに思いを馳せる。来年は受験の年なので、思いっきり遊べるのは今年までだ。私たちはお互いの予定をすり合わせ、この夏を満喫する計画を立てている。

「でもね。あんまり私とばっかり遊んでたら戌井君がヤキモチ焼くだろうから、ちゃんと彼とのデートの予定も立ててあげてね」

「あ、そっか」

 今までの夏の過ごし方とは違うということを、うっかり忘れていた。でも正直なところ、どのくらいの頻度で会えばいいのか分からないし、どこに遊びに連れ出せばいいのかも迷ってしまう。それに、下手に期待して会えない日が続いたら立ち直れない気がしていた。

 それを由佳理ちゃんに相談すると、彼女はガックリと肩を落とした。

「……不憫。戌井君が不憫すぎる。長い片思いの末にようやく付き合い始めたっていうのに、肝心の彼女がこんなんじゃあね」

「すみません」

 考えてみれば、要に夏休みの予定を聞いたことはなかった。もしかしたら、彼はなにか考えてくれていたかもしれないのに。

「もうね、スミレちゃんは考えなくてもいいよ。きっと戌井君がいろいろと計画していると思うから、ぜんぶ彼に任せなさい」

「……はい」

 駄目な彼女ですみません。でも、まだ夏休みまで時間はあるので、テスト勉強の合間に私も遊びに行きたい場所のリストアップだけはしておこう。

 帰りのホームルームを終え、一緒に帰る約束をしていた要と一緒に校門をくぐる。

 テスト疲れのせいか、彼は少し足元がふらついて少しやつれた顔をしている。そういえば、要は昔から若干成績に不安なところがあった。

「顔色悪いよ。昨日あんまり寝てないの?」

「……寝たら、忘れる」

 なぜか片言になっている。眠さが限界を突破して言語機能が正常に働いていないのかもしれない。こうなったら、なにを話しかけても駄目だ。

 こんな状態の要に休みの予定を聞けるわけもなく、私たちはそのまま別れて家に帰った。

「しっかりご飯食べて、ちゃんと寝なきゃ駄目だよ」

 要の後ろ姿に声をかけたが、はたして彼に届いているだろうか。その足取りは頼りない。

 家に戻った私は昼ごはんにチャーハンを作り、少し休憩してからすぐに教科書を開く。明日は苦手な歴史なので、限界まで年表を頭に詰め込んでいく。

 気がつくと、もう夕方になっていた。どおりで部屋が暗いと思った。スマホが点滅していて、母からメールが届いていることにようやく気付く。見ると、今日は帰りが遅くなり、外で食事を済ませてくると書かれていた。

 すっかり凝り固まってしまった体を伸ばしながらキッチンに入る。私だけなら、夕飯は適当に済ましてしまおう。

 とりあえずご飯を炊こうと思って米櫃こめびつを開けると、中身が空っぽになっている。さすがに主食抜きではお腹がもたないので、買いだしのために近所のスーパーへ。

 店内はちょうど値引きの真っ最中らしく、たくさんのお客でごった返していた。狭い通路にあふれている人たちを掻きわけ、五キロの米を持ちあげてレジに並ぶ。夕方の込み合う時間ということもあり、既に行列が出来ていた。

 お客のほとんどは女性だ。そのなかで、一人だけ男性が並んでいる列がある。後ろ姿しか見ることはできないが、黒いTシャツに同じ色の皮のパンツ。いかり肩で服がはじ飛びそうなほど筋肉質な人だ。こんな住宅街の小さなスーパーにいるのが不思議なほど周囲から浮いている。

 彼の買い物カゴの中にワインボトルが二本だけ入っているが見えたので、私は彼の後ろに並ぶ事にした。勝手に買い物カゴの中を確認したのはちょっと失礼だったかもしれないが、少しでも商品が少ない人の後ろに並んで早く帰りたかったのだ。

 どうやらみんな思う事は同じだったらしく、私の後ろにもあっと言う間に清算を待つ人たちの列が出来上がる。私も米袋を一つしか抱えていないので、清算は早く済むと思われたのだろう。

 店員さんは二人体制で、流れるように次々と会計を済ませていく。こんな雰囲気の中で支払いにモタついたら辛いだろうなと心配になり、鞄の中から財布を取りだしておく。

 すると私の前にいた黒づくめの男性が、今まさに支払いをするという段階で素っ頓狂な声を上げた。

「あ、ヤベ……三百円足りない」

 どういう神経をしているのか分からないが、彼は少しも焦る様子を見せずに財布の中身を覗き込んでいる。そして、そこにお金がないと知ると、のんびりした手つきでパンツのポケットを探りだした。

「あー、ちょっと待ってくださいね。たしか小銭入れを持っていたような――」

 そうは言いながらも、小銭入れはいっこうに見つからない。店の人たちは困惑した顔をしながらも、急かすことなく見守っている。

 しかし、レジに並んでいる人たちはそんな男性の様子にイライラを隠せなくなってきていた。私の後ろの人が、これ見よがしにため息を吐いている。

 黒づくめの男性は、周りをイラつかせていることに気づいているはずなのに、それでものんきな声を出しながら懐を探ったりしている。

 見ているこっちの方がいたたまれなくなってきたので、私は思い切って彼に声をかける。

「あの、良かったら足りない分をお支払いしましょうか?」

 差しでがましいとは思ったが、このままではいつまでたっても会計の順番が回ってこない。

 私の申し出に、彼は驚いたように目を丸くしてこちらをふり向いた。

「ありがとう、助かるよ」

 そう言われたとたん、私は返事も返すことも出来ずに、彼の顔を凝視してしまった。

 彼には眉毛がほとんどなかった。眉頭の部分はかろうじて残ってはいるものの、その他の眉毛が見当たらない。おそらく剃ってしまったのだろう。

 おまけに瞳の色が左右で違うし、唇にはシルバーのリングは二つ光っている。顔自体は格好いい部類に入るのかもしれないが、あまりにも奇抜すぎるファッションに驚いてしまって、私は彼を見上げたまま固まった。

 その後なんとか財布から三百円取りだして男性に手渡し、自分の会計も済ませ出口へ急ぐ。

 すると、さっきの男性が私を見つけて話しかけてきた。

「さっきは悪かったね。でも君があの時声をかけてくれて本当に助かったよ」

 その男性は私が買い物を終えるのを待っていたらしく、真っ直ぐこちらにやって来て、私の隣に並んで歩きだす。

「その米、重そうだね。車で来てるから、もしよかったら家まで送って行こうか?」

「いいえ結構です。気にしないでください」

「そうか。今は持ち合わせがないんだけど、借りた金は必ず返すから、君の連絡先を教えてくれないか?」

 彼はそう言ってポケットから携帯電話を取りだす。連絡先を交換しようと言っているらしい。

 たしかに連絡が取れなければお金を返すことはできないが、どこの誰とも知らない人に住所や番号を教えるのは抵抗があった。

 彼は私が困っているのを察したらしく、「ごめんごめん」と謝りながら携帯電話をしまってくれた。

「初対面の変な男に番号教えるのは怖いよな。じゃあ俺の名刺を君に渡すから、時間の空いているときにでも連絡して。もちろん非通知でかけてもいいよ」

 そう言って、彼は真っ黒い名刺を差し出した。どこまでも黒い色が好きなようだ。

「俺はいつもここに居るから、もし暇があったら直接来てくれても構わないよ。ちゃんとお礼はするつもりだから、出来ればまた会ってほしい」

 ほとんど無理やり私の手に名刺を握らせると、彼は片手を上げて去って行った。

 こっちの話をほとんど聞かないほど強引な人だったが、怖がったらちゃんと引き下がってくれるあたり、そんなに悪い人には見えなかった。

 手元に残された名刺を見ると、そこには白抜きで『Black―Brilliant』と書かれている。どうやら店の名刺らしい。何を売っていて、どういう店なのか、何一つ書いていない。真っ黒な名刺と相まって、怪しい事この上ない。

 駅前の住所が書かれているので、そう遠くないところにあるようだが、そこへ出向くかどうかちょっと迷ってしまう。とにかく怪しさしか感じない名刺だ。

 裏を見ると、代表取締役の名前には『青木慶吾あおきけいご』という名前が載っている。ふと、どこかで聞いたことがあるような名前だと思ったが、どうしても思い出せなかったのでそのまま財布にしまっておくことにした。

 今はテスト期間なので、この件をどうするかは後回しだ。三百円くらい、彼にあげたと思ってそのままにしても構わない。そんな事を考えながら、私は米を抱えて家に戻った。


 テスト期間最終日。全てのテストを終えたあとの解放感と、それまで睡眠時間を削って徹夜ハイになっている生徒たちがあちこちで吠えるように「終わったぞー」と喜びの声を上げている。

 そこそこ頭の良い学校のはずなのに、このときばかりはみんな頭悪そうに見えてたいへん楽しい。

 そういう私も、ようやく長いテスト期間が終わって浮かれていた。

 しばらく勉強机に向かうもんか。今日はいっぱい遊んで帰るんだ。そんなこと企みながら、いそいそと要のいる七組に彼を迎えに行く。

 七組の教室を覗くと、なぜか要の姿は見当たらなかった。もしかして先に帰ってしまったのかと不安になったが、彼の席に鞄が置いてあるのが見えて、ホッと胸を撫でおろす。置いて行かれたわけじゃなくて良かった。

 廊下で彼が戻ってくるのを待っていると、一人の男子生徒が近づいてきた。高校生男子にしては背が低く、特徴的な切れ長の一重の目をしている。

「あ、石脇さんだ。もしかして要を迎えにきたの?」

「え、そうだけど……」

 誰だけっけ? どこかで見たことはあるような気がするが、名前が思い出せない。

 私が困惑していることに気がついたのか、目の前の男子は軽く頭を下げて自己紹介を始める。

「あ、俺は植木奏太うえきそうた。要と割と仲良くしてます」

「石脇スミレです。いつも要がお世話になってます」

 二人で深々と頭をお辞儀をしながら、なんで私はこんな廊下の隅で堅苦しい挨拶を交わしているのだろうと思ってしまう。

 しかし、植木君はすぐに頭を上げる。なんだか妙に笑顔だ。

「要は今保健室に行ってる。でも、もうすぐ戻ってくると思うよ」

「え、具合が悪いの?」

「違う違う。あまりの眠さに耐えきれなくなった要が、ホームルーム中に居眠りして、運悪く椅子から転がり落ちた拍子に机の角に頭打って、ものすごいたんこぶ作っただけ」

「机の角に頭ぶつけたって……」

 信じられない。なんでそんなコントみたいなことになったんだ。

 植木君は、とつぜん黙りこんだ私が要を心配していると勘違いしたらしく、安心させるように続けた。

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。さっき様子見に行ったら元気そうだったから」

 植木君はその時の様子でも思い出したのか、くすくすと笑い声をあげる。

「それじゃあ俺は帰るけど、石脇さんはもう少し待っててやってよ」

 植木君はそれだけ言うと、鞄を持って颯爽と帰っていった。

 テスト明け。おまけに金曜日という事もあり、あっという間に生徒たちの姿は消えた。

 私は静かになった七組の教室にそろそろと入り、要の席に腰を下ろした。他のクラスに勝手に入って、おまけに要の席に無断で座っていると思うと、悪い事をしているみたいで胸が少しドキドキした。

 どこも同じような造りの教室なのに、貼っている掲示物が違うだけで、私のクラスとは大分雰囲気が違う。

 要の席に座って待つことしばし。いつの間にか、私はうとうとし始めていた。

 要ほどではないけれど、私も昨夜は睡眠時間を削って勉強していたから、少し眠い。

 要の席はちょうどいい具合に木陰が出来ていて、開けっ放しになっている窓から気持ちの良い風が入ってくる。

 私は机に突っ伏して瞼を閉じる。涼しい風が吹くたびに私の髪が机に散らばった。

 ああ、もう少しこのまま眠っていたい……

 そのとき、ふいに私の頭に手が置かれた。眠くて目が開かないが、誰かがそっと私に触れているのがわかる。

 頭に置かれた手は、私を起こさないように注意を払っているらしく、そっと優しく髪を梳いている。

 夢うつつのまま温かい手を受け入れていると、その手が私の髪をかきわけ、隠れていた私の頬を露わにした。何をするつもりなのかと思う暇もないほど一瞬の隙に、私の頬に柔らかいものが触れる。

 小さな息遣いが耳を掠め、私は慌てて目を開いた。私の目の前には、いつの間にか要が立っていた。

「いつからそこにいたの」

「たった今もどってきたとこだけど?」

 びっくりしている私とは違い、要はいつも通りの調子だ。眠っている私にちょっかいを掛けたとは思えないほどの落ち着きっぷりだ。

 もしかして、私の夢だったのだろうか……?

「えっと、なんでもない」

「じゃあ早く帰ろう。俺腹減ったよ」

「そうだね。帰り道でなにか食べて帰ろうか」

 要が何も言わないので、私はさっきのことは気にしないことにした。例え夢だったとしても、それはそれで良い夢が見られて幸せだ。

「もう頭は大丈夫なの? 椅子から落ちて怪我したんだって?」

 私は要の顔を仰いで吹き出しそうになった。彼の額には、小さく切ったガーゼが貼られている。ただでさえ人相が悪いのに、そんな所に傷を負ってしまったら、まるでケンカに明け暮れる不良みたいだ。

「なんでお前がそれ知ってるんだよ」

「植木君に聞いた」

 要は自分の失態をバラされたことが恥ずかしかったのか、眉間に皺を寄せて黙りこむ。きっと頭の中で植木君に毒づいているのだろう。

「もしかして、昨日も寝ないで勉強してたの?」

「まあな」

「努力は認めるけど、連続で徹夜するのはやめた方がいいよ」

 私が注意すると、なぜか要はムッとしたようだ。

「言っとくけど、全部お前のためだからな」

「なんで?」

「付き合って初めての夏休みなんだから、どうしたって気合い入るだろ。もし会えるんだったら、俺は毎日でもスミレに会いたい。補習で時間つぶされるなんてあり得ない」

 私はその言葉を聞いて、ポカンと口を開けてしまった。

 彼は見るからにクールそうな外見をしている。実際、これまで物事に積極的に取り組む様子もなかったし、自分のペースを崩されるのを嫌う性格だと思っていた。

 だから、付き合いを始めたと言ってもせいぜい週に一度遊びに出掛けられれば良い方だろうなと思っていたのだ。

「なんでそんなびっくりした顔してるんだよ」

 私のリアクションが気に入らなかったのか、要が青筋を立てながら私の顎を掴む。ギリギリとした締め付け具合が、彼の怒りを表しているようだ。

「いや、そんなに予定合わせてくれると思ってなかったから、ちょっと驚いて」

「お前……さては俺とそんなに頻繁に会うつもりじゃなかったな」

 その通りだとは口が裂けても言えなかったので、私は必至に要から視線を反らす。

 これはまずい。由佳理ちゃんと立てていた予定をいくつかキャンセルして、要との時間を作った方がよさそうだ。

 私の表情から頭の中の事がダダ漏れになっていたのか、要はさらに低い声を出し、こちらに覆いかぶさるように私と目線を合わせようと躍起になっている。

「くっそムカついた。休み入ったら、毎日お前の家に押し掛ける。インターフォン押さずに『スミレちゃーん遊びましょー!』って外でわめき散らす」

「いや、それはちょっと勘弁してください」

 昔はそうやって、お互いの家の前で大きな声を張り上げていたのも懐かしい思い出だ。でも、今の要の野太い声でそれをやられると、迷惑以外のなにものでもない。

「せっかくの夏休みなんだから、用事がなくても顔くらい見に行っていいだろ?」

 要は少しだけ拗ねたように口を尖らせている。ビジュアル的にはまったく可愛くないのに、私は要のその仕草にドキドキした。

「うん。私も、要に会いたい」

 素直にそう告げると、要はようやく笑顔になった。

 どこからどう見ても、正真正銘バカップルだ。いつの間にか、私たちの頭のネジはかなり緩くなっていたみたいだ。

 彼氏と彼女という関係は不思議だ。今まで二人きりで話す機会はたくさんあったのに、こんなに自然に彼に甘えることはできなかった。きっと要だって、甘い言葉を言えるタイプではないはずだった。

 私だけにそんな事を言ってくれるのが嬉しくて、私は先を歩く彼の手を取った。恥ずかしさを紛らわせるためにぎゅっと強く握る。

「なんだよ。もうバカップルのふりしなくてもいいんだけど」

「いいの。私がこうしたいの」

 私も要も、お互い相手の顔を見る余裕はなかった。もしかすると、照れって伝染するのかもしれない。

 せっかくの夏休みだ。時間の許す限り要と一緒に過ごしたい。でも、これからは今までのように気楽に互いの家を行き来することができなくなってしまうことだけが残念だ。

 休みに入ってすぐに、今住んでいる家から出ていく事になったのだ。


 父の浮気相手である片桐さんが家に来た事を母に報告すると、母は嫌悪感を露わにして引っ越しの予定を早めると宣言した。

「焦って離婚の準備を進めるのもよくないと思っていたけど、そんな事があったならすぐにでもここから出た方がいいわ。夏休みに入ったらすぐに引っ越すよ」

「でもお母さん、次に住むところも決まってないのに大丈夫なの?」

「大丈夫。任せておきなさい」

 胸を張ってそう言った母。私は不安を残しつつも、引っ越しを了解した。


 そういう経緯で引っ越しをすることになったのだと要に打ち明けると、彼も残念そうに顔を曇らせる。

「そうか、やっぱりスミレとおばさんが家を出ることになるんだな」

「うん。家の名義はお父さんのものだからね。それに、片桐さんがいつまた来るかわからないから」

 彼女は私たちが住んでいる家にずいぶん執着しているようだった。おそらく、立派な外観をしているあの家は、彼女の理想の家庭を築くのに必要不可欠なのだろう。

「お前があの家からいなくなるなんて、なんか想像もつかないな」

「うん、私もまだ夢でも見てるみたいだよ。私ね、夜窓を開けて要の部屋の電気が付いているのが見えると、わけもなくホッとしてた。本当はずっとお向かいさんでいたかったなあ」

 なまじ近い距離にいただけに、離れて暮らすことに不安を感じてしまう。どこへ引っ越すのかまだ目途は立っていないが、きっとどこへ行ってもさみしさを感じてしまうだろう。

「会いにいくよ。お前が来てほしいなら、朝でも夜でも迎えに行ってやる」

「ふふ、朝は無理でしょ。寝起き悪いんだから」

「夏休み、いっぱい遊ぼうな。そんで休みが終わっても、ふたりでいろんな所に行ったり、一緒に過ごそう」

「そうだね。新しい家にも絶対に遊びに来てね」

 いつの間にか指を絡めてお互いの手を握っていた。

 私たちは幼なじみから恋人同士になった。でも、長い間「幼なじみ」という関係でいたせいなのか、その名残がなくなってしまうのはなんだか少し寂しい気もした。


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