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幼なじみは噛みつき魔  作者: 山石コウ
一章
19/32

閑話ー要の独白ー

 一組の臼井という男が気に入らない。一見穏やかで人のよさそうな容姿をしているが、あいつは絶対性格悪い。あのスカしたようなフレームレスの眼鏡だって、優等生然とした態度だって、すべて己を良く見せるための計算にちがいない。

 なぜそんなことが分かるのかと問われれば、あいつがスミレの見ていないところで俺を睨み付けるからだ。まるで俺がすべての元凶だと言わんばかりの表情で、スミレに相応しいのは自分だという顔で。

 ああ、本当にくっそムカつく。俺たちの間に割って入ってこようだなんて、身のほど知らずもいいところだ。なにが「戌井か自分かどちらか選べ」だ。スミレが俺を選ばないはずがないのに。


 スミレが中庭できっぱりとあいつを振ったときのことは、今思い出しても痛快だ。

 スミレが俺の事をどう思っていたかを知ることができたのも嬉しい誤算だった。今まで恋愛の対象に見られていないという自覚はあったが、少しは彼女の心の中に入り込む事に成功していたらしい。

 それにしても、スミレがあそこまで恋愛に臆病になっていたとは思わなかった。

 そのおかげで今まで悪い虫も寄ってこなかったわけだが、そのせいで俺はしなくてもいい苦労をたくさんさせられたのだと思うと、正直言って複雑だ。

 遠まわしに告白しても伝わらないし、行動で示そうと手を握っても「寒いの?」とかトボケた事を言われる始末。

 その度に心が折れそうになったが、しつこく想いを寄せ続けた過去の自分をほめてやりたい。


 俺がスミレを意識しだしたのは、五歳の頃だった。あいつはすっかり忘れてしまっているらしいが、あれは幼稚園で親の迎えを待っている最中の出来事だった。

 俺とスミレはその日、園庭の隅で遊んでいた。遊んでいたと言っても、地面に絵を描くという地味な遊びをしていたせいで、俺たちの周りには誰も寄り付きもしなかった。

 二人きりで会話もなく、ただ黙々と地面に絵を描いているだけ。俺はちっとも面白くなくて、もっと他の遊びをしたかったが、スミレは頑としてその場所から移動する事を拒んだ。それなのに、スミレもまったくお絵描きを楽しんでいるようには見えない。

 よく考えると、その日のスミレの様子はおかしかった。大きな声を出してはしゃいでいるかと思えば、急に暗い顔で押し黙ってしまったり、いつもは先生の言うことはきちんと守るのに、わざと叱られるような事をしたり。

 俺はそんなスミレが心配だった。だから、片時も離れずに見守っていたんだ。

 沈んだ顔をしながら地面をぐりぐりと棒でえぐっていたスミレが、急に口を開いた。

「ねえ、もしもお父さんとお母さんがケンカして、どっちかがお家からいなくなったら、要はどうする?」

「え? 分かんないけど、行かないでって止める」

「どうやって?」

 それまでつまらなそうにしていたスミレが、俺と視線を合わせてにじり寄ってきた。真剣な表情をしているところを見ると、スミレの両親のどちらかが家を出て行きそうになっているのだろう。

 俺は下手な事は言えないと子供ながらに感じて、一生懸命考えた。

「ええっと――冷蔵庫に取ってあるアイス食べていいから、行かないでって言う」

 スミレはたちまち深いため息を吐いた。どうやら俺は彼女の期待していたような答えを出せなかったらしい。

「そんなんじゃ駄目だよ。お父さん、アイスなんかでお母さんと仲直りしてくれないもん」

「スミレのお父さんとお母さん、ケンカしてるの?」

「……うん。私がいるとピタッと止まるんだけど、夜にふたりで大きな声でケンカしてるの聞いちゃったんだ。昨日も一昨日もケンカしてる。それで、お父さんがお母さんに、言うこと聞けないならもう俺は家に帰ってこないって言ってた」

 俺はスミレになんて言葉をかけたらいいのか分からなくなった。彼女の大きな瞳から、ポロポロと涙がこぼれてきたのだ。

「スミレ泣くなよ。そうだ、俺の家に来ればいいよ。さみしくなったら俺の部屋で一緒に遊ぼう。俺、お母さんにスミレも家にいていいか聞いてみるから。夜も怖くなったら俺の部屋で布団並べて寝ればいいんだよ」

「う、かなめぇ……」

 スミレは俺のスモッグの裾を握りしめ、嗚咽を漏らして泣き出した。その様子はまるで、この手を離したら世界中で独りぼっちになってしまうと言わんばかりだ。

「怖いよ、お父さんもお母さんもずっとイライラしてるんだもん。私が話しかけても、ぜんぜん笑ってくれないの」

「大丈夫だよ。俺がついてるから。ずっと一緒に遊んでやるから泣くな!」

 顔を伏せたまま、俺の腕に痛いほどしがみついていたスミレだったが、不意に彼女が顔を上げる。目に涙をいっぱいためて、声にならない声で唸る。そして、俺の手にカプリと噛みついた。

 俺はそのとき驚きすぎて「へあ?」とか間抜けな声を出したような気がする。

 スミレは俺の手に噛みついたまま、きつく目を閉じて泣きじゃくっていた。その姿は、まるで小さな動物みたいだった。きっと彼女自身、高ぶった感情をどうしたらいいのか自分でも分からなかったのだろう。

 とつぜんのことでびっくりしたが、こんな方法でしか自分の感情を吐き出せないなんて、スミレがとてもかわいそうになった。

 今にして思えば、その同情がいけなかったのかもしれない。そのときの俺は、あいつを守らなきゃいけないというスイッチが入って、完全におかしくなっていた。

 スミレに噛まれたところがじくじくと疼いて、まるでそこから正体不明の毒が染み込んでいるみたいだった。毒はいつのまにか俺の全身へと広がり、急に心臓がバクバクと激しく鳴っていた。息が苦しい。やべえ、なんだこれ……

 スミレは、俺が痛みを感じないように無意識に加減をしているのか、彼女の小さな歯はそれほど深く皮膚に食い込んでこない。しかし、そのなんとも絶妙な刺激が心地良くて、もっと強く噛んでくれとすら願ってしまった。

 そして、このかわいそうでかわいい幼なじみをぎゅっと抱きしめてやりたい衝動に駆られていた。

 俺が心の中でそんなことを考えているとは知らず、スミレは落ち着きを取り戻したとたん、ハッとして俺の手から口を離した。

「ごめん……こんなことするつもりじゃなかったのに……。要ごめんね痛かったよね」

 またポロポロと涙をこぼしながら懸命に謝ってくる。

 その姿に俺はくらりと目眩がした。なんだこれ、俺いったいどうしちゃったんだよ。

 荒ぶる心の内を必死に隠して、何でもない風を装ってみる。それなのに、スミレは俺の手を両手で包み、罪滅ぼしのように擦っていた。

「要ごめん、もうしないよ。本当にごめんね」

「ぜ、ぜんぜん痛くなかったから、もう気にするな。――前にうちのお母さんが言ってたんだけど、悲しいことや怒っている気持ちを我慢し過ぎたらいけないんだって。ずっと我慢してたら、体の中が悲しいのでいっぱいになって爆発するんだって。きっと、スミレは爆発しそうになってたんだ」

 スミレはキョトンとした顔で俺の話を聞いている。きっと、こんな話をする人は彼女の周りにはいなかったのだろう。そう思うとまた胸が痛くなった。

俺はスミレに言い聞かせるために再び口を開く。

「だから、悲しいのや怒ってるのがいっぱいになったら俺のとこに来い。今みたいに噛んでもいいし、それで足りなかったらパンチしてもいいから」

「でも、それじゃ要が痛いよ」

「俺は男だから、それぐらい平気だ。それに、お前に噛まれるぐらい、たいしたことない」

 むしろ、すごくドキドキした。できればもう一度くらいしてほしい、なんてことは口が裂けても言えない。

「ありがとう」

 俺の手を握ったまま、スミレは笑った。安心したようなその笑顔は俺をのぼせ上がらせるには十分だった。

 みるみるうち頬が熱くなってきた俺の耳に、どこからかカメラのシャッター音が聞こえてきた。

このときはまったく気づかなかったが、あとで勝手に写真を撮りやがった母親に抗議したときには、その写真は向かいのスミレの家に焼き増しされた後だった。

 あのとき花開いた俺の初恋は、小さな歯形と一緒にずっと心に痕を残した。

 世間一般には理解されがたいフェチズムかもしれないが、好きな女に噛みつきたいという欲求は、このときから俺の一部になって切り離すことはできなくなっていた。

 噛みつきの衝動は独占欲。甘え。所有権を主張したいという証。調べれば調べるほど当たっている。

 俺はスミレに噛みつきたい。でも、それと同じくらい、アイツに噛んでほしいと思っている。

 スミレにはそんなことはまだ言えない。でも、いつか、そのうち……


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