11
昼休みのあと、表面上はいつもと変わりなく放課後までの時間を過ごした。授業中はしっかりノートを取り、休み時間は由佳理ちゃんとお喋りをした。
しかし、どうやら私の知らない所で色々なことが起こっていたようだった。
授業中に手紙を回し読んでいる生徒がいたり、スマホの画面から目を離さない人がいつもより多いような気もする。気のせいだといってしまえばそれまでだが、遠巻きにこちらを窺いながらひそひそされることもあるのでいたたまれなくなってしまった。
断片的に聞こえてくる「ワイルド」だとか「獣」とかいう単語から察するに、要が私の腕に噛みついたことが話題になっているのだろう。
三年生の間で流れている悪質な噂じゃなくて良かったと思う反面、これはこれでダメージは大きい。
「あんまり気にしないほうがいいよ」
ホームルームのあと、由佳理ちゃんはそう言って慰めてくれたが、気になって仕方がない。いまのところ、直接私に確認してくる強者はいないが、いつ誰が話を振ってくるかとビクビクしてしまう。事実なので訂正のしようがないのも辛い。
みんなが早くこの話題に飽きてくれることを願いながら、私はそそくさと帰り支度をして教室を出た。
靴を履き替えていると、とつぜん誰かに後ろから肩を掴まれた。驚いて振り返ると、眉をつり上げて唇を噛み締めている近藤さんの姿があった。
なにか用かと話しかける前に、彼女が「こっちきて」と言いながら、私の手を引っ張った。
「待って、まだ靴が……」
二人とも上靴のままだったが、近藤さんは気にする様子も見せず、私を外へ連れだそうとする。
「そんなことどうだっていいから黙って付いて来て!」
近藤さんは、いままでにない剣幕で怒鳴る。玄関にはまだ他にも人の姿があったので、大きな声に驚いた彼らが、一斉にこちらに注意を向けてきた。
仕方がないので、私は黙って彼女の後ろをついていった。おそらく、こんなに興奮した状態では普通の話し合いにはならないだろう。衝突が避けられないのなら、せめて誰にも見られない所で向かい合いたい。
連れてこられたのは、日の当たらない校舎裏だった。ここは生徒も先生も滅多に通らないので、呼び出すにはうってつけの場所だ。
先を歩いていた近藤さんが足を止めてこちらを振り返る。大きな目がきゅっとつり上がり、憎々しげに私を見上げる。
「どういうつもり!」
そう叫ぶや否や、近藤さんの平手が空を切って私の頬をバチンと打った。
いきなり手が飛んでくるとは思っていなかった私は、避けることも出来ずに正面から思いきり頬を打たれた。驚きで感覚が麻痺してしまったらしく、痛いというよりただ熱いとしか感じない。
近藤さんは、反論も反撃もこないことに勢いづいたようで、さらに声を高くして叫ぶ。
「要君にベタベタまとわりつかないで。彼女でもないのに、昼休みにあんなことさせて気持ち悪い! 」
どうやら近藤さんは、要が私の腕に噛みついたあの場面を見ていたらしい。あのときの様子を思い出したのか、唇を噛み締めて悔しそうに地団駄を踏んでいる。
「前に私の邪魔はしないって言ってたくせに、要君にあんなこと! ほんともう無理、我慢の限界。お願いだから、もう要君に近づかないって約束してよ」
近藤さんは息継ぎもせずにそれだけ言うと、私をドンと突飛ばした。
さすがに二度目ともなると、彼女の行動も予測がついていた。私は今度は両足を踏ん張って、後ろに倒れるのを防いぎ、あえて後ろに退かずに近藤さんのほうへ近づいた。
お互いの息が届くすれすれまで顔を寄せ、近藤さんのシャツの襟を掴む。
「近藤さんが要の事をどう思っていようと私には関係ない。だから、普通に告白するだけなら邪魔はしないよ。要が誰と付き合おうと、それはあいつの自由だから。でも、私と要の関係にこれ以上口を出してくるなら、黙ってられない。要が誰と友達でいようが、近藤さんにはまったく関係のないことだから」
威圧するつもりで彼女を至近距離から見下ろし、普段よりも一段低い声でそう告げた。
近藤さんは驚いているのか、大きな目を真ん丸に見開いている。
私の怒りは頂点に達していたが、手をあげるつもりはないので、それまで掴んでいたシャツの襟から手を離す。彼女とは体格に差があるし、先に叩かれたからといって、こちらも同じ土俵に上がったら負けのような気がした。
「私だっていいかげん頭にきてるの。鬱陶しい言いがかりつけずに、さっさと告白でもなんでもしてくればいいでしょ。あ、もしかしてフラれるのが怖いの?」
いままで言いたい放題言われていたフラストレーションをぶつけると、近藤さんは顔を真っ赤にしてブルブルと拳を震わせた。
「……あんたなんて、ただの幼なじみじゃない。要君のこと本気で好きじゃないくせに、なんの努力もしないで要君の隣にいられるなんて許せない」
悔しさを大きな瞳に滲ませ、唇をぎゅっと噛みしめながら、彼女は目を反らさず挑むように睨み付けてくる。
その目力の強さに、一瞬だけ気持ちが揺らいだ。恋愛として「好き」じゃないと言われると、なにも言えなくなってしまう。
本当なら好意に順列なんて存在しないはずなのに、一部の人たちの間では、恋愛としての「好き」が一番優先されるべきだという意識が浸透している。恋愛至上主義の人たちは意外と多いのだ。
しかし、ここで怯むわけにはいかない。
「勝手なこと言わないで。要のことが好きっていう理由だけで、あいつの人間関係にまで口出していいわけじゃない」
「なに言ってるの? ライバルを減らさなくちゃ勝ち残れないんだよ。私の方が先に要君を好きになったんだから、そっちが身を引くのが当然でしょ」
近藤さんは、なにを当たり前の事を言わせるんだという顔をしている。
まさか、こんなにも話が通じないとは思わなかった。近藤さんは、恋愛はなによりも優先されるべきだと信じているらしい。
たしかに、彼女の言うことも少し分かる。同じ人を好きになった場合、先にそれを宣言したほうに優先権があるという暗黙の了解も存在するくらいだ。でも、私にはそれが正しいことだとは思えない。
「そう……近藤さんの言いたいことはよくわかった。でも、私は納得できない。これからは人を叩くときは気を付けてね。今度は倍にして返してあげるから」
叩かれたら叩き返す。宣言した以上手加減はしない。こうなったら、徹底的にやりあってやる。
彼女は私の本気を感じ取ったのか、一瞬ビクリと肩を震わせたが、すぐにそれを恥じるようにきつくこっちを睨みつける。
「そっちこそ、後悔してもしらないから。そんな態度しか取れないなら、これからもっともっとひどい噂が流れることになるんだからね!」
捨て台詞を残し、近藤さんはかけだした。
去り際まで私を睨みつけていたので、もしかしたらまたなにか仕掛けてくるかもしれない。でも、こちらも引くつもりはまったくない。
ふと上靴のままだったことに気付き、私は外靴に履き替えるために一度校舎へ戻ることにした。近藤さんにさんざん理不尽に責められたおかげで、お腹の中に嫌な気分がぐるぐると渦巻いている。それを少しでも発散させたいのに、けっきょく嫌な気持ちは抜けないままだ。
学校を出て信号待ちをしている間も、近藤さんの言葉が頭から離れない。もしあのまま彼女の話を聞き続けていたら、私は彼女をぐーで殴っていたかもしれない。
近藤さんが言うように、要のことを好きという気持ちでは彼女に負けているのかもしれない。でも、彼女は要の気持ちを大事にしない。私にはそれが許せないのだ。
「ああもう、ほんと最悪な気分」
悪意をぶつけられるのは慣れることができない。軽く受け流すことができない性格が嫌になる。
むしゃくしゃした気持ちが収まらず、誰にも聞かれないように小さくため息を吐きだした。すると、誰かが私の肩をポンポンと叩いた。
不思議に思って振り返ると、自転車に跨がっている臼井君が、私のすぐ後ろで手を振っていた。
「やあ、石脇さんも今帰り?」
「臼井君? びっくりした、自転車通学だっだの?」
「そうだよ。家まではけっこう距離あるんだけど、どうしても朝の超満員のバスに乗る気になれなくてね」
「ああ、わかる気がする」
私はバス通学ではないが、学校の近くのバス停で降りてくる生徒たちは、みんな朝からぐったりして疲れた顔をしている。きっと車内で揉みくちゃにされたんだろうなーと思って見ていたが、本当にすし詰めの状態になるらしい。
「一度バスに乗って登校してみたんだけど、そのときは内臓飛び出るかと思ったよ。あんな思いをするなら、自転車通学で筋肉痛に悩まされた方がましだって一年の頃に思って、それからずっとね」
「大変なんだね」
家が遠いと通学は本当に大変だ。私は幸いにも徒歩で通学できるので、すし詰めのバスとも筋肉痛とも無縁だ。
「ところで、こんな所でため息吐いてどうしたの?」
「なんで私がため息吐いてたってわかったの」
私の後ろ姿しか見ていないはずなのに、どうして彼はこんなにも目ざといのだろう。観察力がありすぎて若干恐怖を感じる。
身を引きながら尋ねると、臼井君は肩をすくめて困った顔をした。
「怖がらせたならごめん。信号待ちの間に石脇さんを見つけたから、声をかけようとしたんだ。そうしたら、すごく肩を落としているように見えたから、もしかしてまたなにか困っているのかと思ったんだ。いつも石脇さんのことを見張ってるとかそういうんじゃないから、安心して」
誤解されたくないのか、臼井君は必死だ。クールなメガネキャラが崩壊するほど身振り手振りを使って説明している。
「大丈夫、分かってるよ。初めからそこまで疑ってないから」
そう言ってなだめると、彼はようやく落ち着きを取り戻した。
「誤解されなくて良かった。でも、本当に疲れてるように見えたんだよ。もしよかったら、家の近くまで送っていこうか?」
臼井君は自転車から降り、私の持っている鞄をさりげなく籠に入れてしまった。断る隙をまったく見せないほど彼の仕草は押しつけがましくない。
当たり前のように横に並んで歩きだすので、私は拒絶の言葉を言うタイミングを逃してしまった。
こう言っては失礼だが、臼井君は人間関係が希薄なイメージがあったので油断していた。
「あれ、石脇さんそっちの頬どうかしたの?」
「え?」
指で示された場所に手を当てると、そこに触れた瞬間ピリッとした痛みが走った。
臼井君は、例の観察者のような鋭い目で私の頬を凝視する。
「引っ掻き傷だね。そんなに深い傷じゃないけど、ミミズ腫れになってる。もしかして、これやったの近藤?」
本当に彼は人を観察するのが上手い。おまけに推理するのも得意なようだ。誰にやられたのかもすっかりバレてしまっている。
私は苦笑いをするしかなかった。
「……ちょっとトラブルに巻き込まれただけ。ミミズ腫れくらい大した傷じゃないから平気だよ」
「舐めときゃ治るって?」
「そうそう。そのうち治るから心配しないで」
大騒ぎするような傷ではないと主張したつもりだったのに、臼井君は急に真面目な顔付きになって顔を近づけてくる。そして、私の顎に手をかけた。
「こんなとこ、どうやって自分で舐めるの? それとも戌井にしてもらうの? 」
臼井君の目が剣呑な光を帯びる。
「そもそも 、石脇さんがこんな目にあっているのは戌井に原因があるんだろ? 彼はそれをちゃんと理解してるのかな」
臼井くんは、痛ましいものを見るような目をして触れるか触れないかの距離で指先を頬に滑らせてきた。くすぐったくて、背中が一気に総毛立つ。
私は反射的に臼井君の手をはねのけていた。うまく理由は説明できないが、臼井君に触れられるのはあまり好きじゃない。
「要はちゃんと状況をわかってるよ。守ってやるって言われたけど、私がそれを断ったの」
臼井君は手を払われたことなど気にしない素振りで、私が言った言葉の意味を考えるように腕を組んで黙りこんだ。そして、自分の鞄の中からスマホを取り出した。
「ちょっとこれ見てくれる」
そう言って、さっと片手で画面を操作して私に差し出す。
見てもいいと許可されても、他人のスマホを本人の目の前で見るのは少し抵抗があったが、ちらりとディスプレイを見て絶句してしまった。
それは、無料で登録できるコミュニケーションサイトの一ページだと臼井くんは説明してくれた。限定された会員しか見ることができないページらしいのだが、そこには私と要についての書きこみがあった。
『今日の昼休み七組の戌井が一組の石脇の手を噛んでたとこ見た。やべえ、あれどう見ても付き合ってる』
『なにそれエロ』
『え、でも石脇が戌井のこと脅して言うこときかせてんじゃないの? なんかそんな風に女子たちが騒いでた』
『マジで? じゃあ石脇の趣味なの? あんな大人しそうな顔してんのにすげえ。引くわww』
最後のコメントまで見ることはできず、私はスマホを伏せて臼井君へ返した。私の知らないところで、勝手な噂が飛び交っているのが怖かった。
今日の昼休みのことがみんなの興味を引いてしまうのは仕方ないと思っていたが、実際に囁かれている内容を文字として見てしまうと、仕方ないではすませることができないほどの嫌悪感を抱いてしまう。
「ここのサイトに登録してるのは、男が多いみたいなんだけど、こういう噂って男子よりも女子の方が伝わるの早いだろ。もしかすると、もっとひどいことになってるかもしれない」
臼井君はスマホをしまいながら淡々と話しを続ける。
「それに、石脇さんを悪役に仕立てるような悪質な噂も混じっているのが気になる。戌井を脅して言うことをきかせてるなんて、普通ならあり得ないだろ。戌井のことが好きな誰かが、君に嫉妬しているんじゃないかな」
臼井君の眼鏡の奥の瞳が、「心当たりはあるか?」と問いかけるように私を見ている。
そう言われて、真っ先に近藤さんの名前を思い浮かべてしまった。しかし、慌ててそれを打ち消す。証拠も無いのに疑うのはよくない。それに、あの噂は三年生の間で流れていたものだから、近藤さんとは直接関係ないはずだ。
臼井君にそう答えると、彼はまだ納得していないように首を捻る。
「うーん、本当に近藤は無関係かな? たとえば彼女が三年生の知り合いに、ちょっと面白おかしく石脇を陥れるような嘘の話をしたとしたら? 戌井って人気があるだろうから、こういうゴシップは広がっていくの早いよ。そうして広まった噂を撤回するのは、ほとんど不可能だ」
臼井君の話を聞きながら、私は気が遠くなってきた。とくに被害がなければ噂ぐらい流れていても大丈夫だと思っていた。でも今は、そんなのんきなことを考えをしていた自分を叱り飛ばしてやりたい。
怯えている私を気の毒に思ったのか、臼井君は申し訳なさそうに頭を垂れる。
「ごめん。怖がらせるつもりはなかったんだけど、石脇さんがあんまり真剣に考えてなさそうだったから、危機感を持ってほしかったんだ。それと……ちょっと戌井にムカついたから、八当たりした。ほんとごめん。」
「いや、臼井君は現実を教えてくれただけだから、なにも悪くないよ。むしろ教えてくれてありがとう」
感謝の気持ちを伝えると、臼井君はなぜか少しさびしそうな顔をした。
「いつでも相談に乗るよ。ちょっと邪道だけど、一発で噂を吹き飛ばす裏ワザもあるから、辛くなったら俺に言って」
「そんなこと出来るの!?」
「うん。でも、助けられるのは石脇さんだけだよ」
「どういうこと?」
「戌井じゃなくて、俺を選んでくれたら教えてあげる」
臼井君は目線を前に向けたまま、私の方を見ずに笑った。いつもの人の良さそうな笑みじゃなかったのが、少し気にかかった。




