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それは、初めはただの遊びだった。幼なじみの要がカプリと私の腕に噛みついて、ピンク色の歯形をつけるという、ちょっと変わった遊び。
ぜんぜん痛くなかったし、ただくすぐったいばっかりだったから、私は彼に腕を噛まれてもクスクスと笑っていた。
私たちのうち、どちらがこの遊びを先に始めたのかは分からない。でも、幼稚園児だった私は、べつにおかしなことだと思わなかった。だから、たまに要が噛みついてきても振り払わずに、彼のやりたいようにさせていた。
あのとき、もう少し私が嫌がっていたら、きっと要にあんな影響を与えることはなかったのかもしれない……
「いたっ! 」
私の手首の裏側の柔らかい部分に、容赦なく歯を立てている男がいる。彼の名前は戌井要、高校二年生。伸ばしっぱなしの長い前髪に日焼けした黒い肌。背が高くてモデルのように長い手足。しかし、鋭くつり上がった目付きと不機嫌そうな表情のおかげで、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
最近の私たちは、会えばたいてい言い争いをしている。理由は簡単だ。要が私に文字どおり噛みついてくるのだ。そしていまも、私の腕には彼の歯がしっかりと食い込んでいる。
「痛い、放してよバカ!」
私の声が聞こえているはずなのに、要はまったく意に介した様子も見せずに、モグモグはぐはぐと柔らかい肉の感触を確かめるように歯を立てている。ちらりと前髪の隙間からこちらを睨み付けて、またガブリ。
移動教室から戻る途中で幼なじみとすれ違ったと思ったら、あっという間に腕を取られ、人気のない場所まで連れていかれてしまった。そこからは、まるで気に入ったおもちゃをかじる犬のように、私の手をがじがじと噛み続けている。
「ちょっと、本当にもうやめてよ」
人目を気にして声を潜めながら抗議の声をあげるが、要は無視を続けている。なんのつもりでこんな事をするのかわからないが、私の堪忍袋の緒はもうとっくに限界だ。
「いい加減にしてって言ってるでしょ!」
私は持っていた教科書で要の頭をスパーンと叩いた。ようやく解放された腕に赤い歯形がたくさんついているのを見ると、ここが学校だという事も忘れて泣きたくなった。
こんなに痕が付くまで強く噛むなんて信じられない。
「こんなことして、ほんとにどういうつもりなの!」
叩かれた要は悪びれる様子もなく、赤い舌でペロリと唇を舐めている。そんなふてぶてしい彼の態度は、さらに私をイラッとさせた。
おそらくこの顔は、自分が悪いだなんて思っていない。その証拠に、要はふんと鼻を鳴らしてこちらをじっとにらみ付けている。
「別に、たいした意味はない」
「なんだと!? とにかく、もう二度としないでよ!」
「嫌だ」
要は瞬きもせずにこっちを見据え、唸るように低く答える。気の弱い人なら、その視線だけで怯えて謝りたくなってしまいそうだ。
人相は悪いが、要は一部の女子の間で非常に人気が高い。目付きが鋭すぎることを除けば、彼はファッション雑誌のモデルも務まりそうなほどのイケメンだ。
学校内でも立っているだけで目立つので、同学年のみならず、年下の一年生や三年生の先輩たちにも人気があるらしい。
彼に構ってもらえて羨ましいと言われることがたまにあるが、こんな関わり方は正直嫌だ。容赦なく鋭い歯で噛まれると、飛び上がってしまうほど痛いのだ。
私は恋愛にも通常の付き合いにも異常性を求めていないので、会話をしたり普通に優しくされたい。それに、いくら人目がないとはいえここは学校の廊下だ。学校でこんな事をするなんて、要の頭はどうかしているに違いない。
要は叩かれた頭に手を当てて、ムッとして舌打ちをしている。
「スミレが悪い。俺のこと無視しただろ」
「あんたが毎度毎度人のことかじるからでしょ! こんな風に待ち伏せされて、その度に痛い思いさせられるんじゃ相手にする気も失せるわ」
いつもよりも執拗な噛まれ方をしたのは、どうやら私が要を無視したことが原因らしい。彼は不満そうな顔で再度舌打ちをする。
眉間の皺がすごいことになっているし、鼻の頭にも皺が寄っている。そんな顔をすると、牙を剥いて威嚇する野犬にそっくりに見える。
しかし、私も負けずに要をにらみつけた。動物の喧嘩と同じで、私たちのにらみ合いも、先に目を逸らした方が負けというルールが存在する。
「わざわざお前に会いに来てんだから返事くらいしろよ」
「よく言うよ。こんなことしておいて、挨拶してもらえると思うほうがおかしいでしょ」
「……まんざらでもないくせに」
まるで、私が喜ぶから噛んでやっていると言わんばかりの発言に、頭の血管がプチンと切れる。
「そんなわけないでしょ、この変態が!」
渾身の力を込めて、要の長すぎる脛を蹴る。
「痛って!」
ローキックが見事に入った。要は折り畳み式のガラケーみたいに腰を曲げて悶絶する。
私はフンと鼻を鳴らしてその場から立ち去った。やられたら倍にしてやり返すのが私のポリシーだ。これに懲りて、私にちょっかいをかけるのを慎めばいい。
私は自分の教室へ向かって足早に歩く。ば要のせいでよけいな時間をくってしまった。すると、背後からパタパタとこちらへ駆けてくる足音が近づいてきた。
「待ってよ、スミレちゃん」
さっきまで一緒に廊下を歩いていたはずの、鈴原由佳理ちゃんが駆け寄ってくる。要に連行された時に、どうやら彼女を置いてきてしまったらしい。
「ごめんね由佳里ちゃん。イライラしてたからすっかり忘れてたよ」
「うふふ、そうだと思った。スミレちゃん凶暴なうえに短気で鳥頭だから、すぐいろんなことを忘れちゃう」
にこにこの笑顔でそう罵られたので、私は彼女に平身低頭謝罪した。
由佳理ちゃんとは中学のときからの付き合いなので、お互いに遠慮なく言いたいことを言い合える仲だ。なにより、笑顔で歯に衣着せぬ物言いをする彼女のことがとても好きだ。
「スミレちゃんは黙っていればおとなしそうな美人なのに、どうしてこう喧嘩っ早いんだろうね」
「返す言葉もありません」
私は昔から、外見と中身がちぐはぐだと言われてるこちが多かった。なぜか初めて会うはずの男子に「詐欺だ」と怒られたこともある。
おそらく、背中に届くほど長い黒髪と、目元にある泣きぼくろのせいで、おとなしく慎ましやかに見られてしまうのだろう。この二つの特徴のせいで、口を開く度に色々な人たちにがっかりされている。
「噛まれたところは大丈夫? ちょっと見せてごらん」
そう言って由佳理ちゃんは私の手を取る。
「あらら、けっこうガッツリやられてるね。これはしばらく痕が残るかもしれないよ」
「今日は特に痛かったよ。でも大丈夫、そのうち消えるから」
由佳理ちゃんはしげしげと赤い歯形を眺める。
「それにしても、どうして戌井君はこんなことするのかな。なにか心当たりはないの?」
「んー、それがぜんぜん思い当たる節がないから困ってるんだ。小さい頃はふざけて噛まれたこともあったけど、大きくなってからそんなこと一度もなかったし……。二年生になってから急に始まったんだよね」
そう、よく考えれば不思議な話だ。要とは長い付き合いだが、こんな風にいきなり有無を言わさず噛みつくようになったのは、本当につい最近なのだ。
幼いうちは男女の垣根も低く、家がお向かい同士なので仲良く育った。幼稚園も同じだったので、私たちは毎日のように暗くなるまで遊んでいた。
その後、共働きで忙しい私の両親は私が小学校に上がったタイミングで、一人で留守番させるようになった。一人きりの留守番は心細く、私はよくないと思いながらも要の家を訪ねてしまうことがよくあった。
おばさんは嫌な顔もせずに家に招き入れてくれた。そして母に掛け合い、夜の間は要の家で過ごせるようにしてくれたのだ。このときから、私と要は本当の姉と弟のように同じ時間を過ごすようになった。
中学生になれば少し距離も変わるかもと思っていたが、要の家は変わらず私を受け入れてくれた。おかげで、クラスが離れても要とは毎日顔を合せていたし、私たちにとっては一緒に過ごすことが当たり前になっていた。
今思えば、そのときの要は私を噛むことは一度もなかった。
高校に入学してから、要の家にお世話になり続けるのは気がひけた。私は要の家に今までの感謝を述べて、自宅で過ごすことに決めた。
最初の一年は、慣れない自炊は大変だった。それでも、そのうちに何でも一通りこなせるようになっていった。
学校では要とはクラスが別れ、教室が離れてしまうと互いの接点がほぼなくなってしまうことに気付いた。
慣れない高校生活は忙しく、あっという間に月日は流れ、一年生の頃はほとんど要に会うことも話をすることもなく過ごした。
二年生に進学した現在も、こうして待ち伏せでもされなければお互いの顔を見ることさえ難しい。
「本当に、どうして急にこんなことしだしたんだろう」
「スミレちゃん、本当に分からないの?」
首をひねる私を、由佳理ちゃんがなんとも言えない顔で見つめる。そしてなにか言葉をいいかけたが、諦めたように口を閉じて首を横に振った。
「……本人に心当たりないなら、今はそっとしておく方がいいかな。それより、もう昼休みだよ。早くお弁当食べよう」
「そうだね。私もお腹減ったよ」
教室に戻って机を並べ、二人でお弁当を広げる。由佳理ちゃんのお弁当箱は男子柔道部員並みに大きい。しかも全体的に茶色でまとまり、二段目には白いご飯が隙間なく敷き詰められている。
背が高くほっそりとした体型に似合わず、彼女はよく食べる。本人曰く「非常に燃費が悪い」のだという。どれだけ食べても太らないなんて、羨ましすぎる。
「うわあ、スミレちゃんのお弁当美味しそう! 」
由佳理ちゃんが私のお弁当箱を覗きこんで目を輝かせる。今日のお弁当は金平ごぼう入り卵焼きにアスパラの肉巻き。それから海老とパプリカのマヨ炒めだ。
「別に大したことないよ。昨日の残り物も使ってるし」
由佳理ちゃんは私のお弁当箱へ熱い視線を注いでいたが、ふと表情を緩める。
「最近スミレちゃん、ずっとお昼ご飯食べてなかったから心配してたんだよ。でも、食欲戻ってきたみたいで良かった」
由佳理ちゃんの言う通り、ここ数日は食欲が落ちていたから、昼食は飲み物だけで過ごすことが多かった。でも、今日はがんばってお弁当を作って来たのだ。
「良かった良かった。さあもっとお食べ」
由佳理ちゃんはそう言うと、自分のお弁当箱からカラアゲとエビフライを取り出して私のお弁当箱へ移す。
「え、そんなにいいよ。由佳理ちゃんが食べる分が減っちゃうよ」
「大丈夫大丈夫。その問題は、そっちのおかずたちを味見させてくれれば解決するから」
とめる間もなく、あっという間におかずのトレードが完了していた。
「親切に見せかけておいて、初めからこれが狙いか」
「そういうこと。じゃあいただきまーす!」
嬉しそうに私の作った卵焼きを口に入れる由佳理ちゃんを見ていると、なんとなく心が和む。
お弁当を食べながらとりとめもない話をしていると、どこからか強い視線を感じた。不思議に思って辺りを見回すと、教室の戸口に見慣れない三人の女子が険しい顔をしながらこちらを見ている。
彼女たちは私と目が合うと、慌てて顔を引っ込める。しかし、去り際に振り返ってこっちを睨みつけることは忘れない。
「なにあれ、感じ悪いね」
「……うん」
怒り混じりの由佳理ちゃんの言葉に同意する。直接声をかけてくれれば対処できるのに、睨まれた程度じゃ抗議することもできない。
最近こんな事がよく起こる。なんだか視線を感じることが多くなったし、少し離れた所から「え、あの人がそうなの?」という話し声が聞こえてきたりする。
「戌井君にファンの子たちをどうにかして、って頼んでみたらどう?」
「うーん、あんまり効果ないと思う。要が自分のファンをちゃんと認識してるとは思えないし。それより、あいつが私に変なちょっかいかけてこなければ、こういう事も減るのに」
要と顔を合わせることがなかった一年生の頃は、まさに平和そのものだった。しかし、彼が少し前から私のことを待ち伏せするようになったとたん、周囲の女子生徒たちの目付きが変わり始めたのだ。
「今度、私がどれだけ迷惑に思ってるかちゃんと説明しなきゃだめかな」
女子たちに目をつけられた元凶の顔を思い浮かべて、拳を握りしめる。
そんな私を見て、由佳理ちゃんはなんとも微妙な笑みを浮かべるだけだった。