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あかつきの海  作者: 羊野棲家
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 あかりが、消えた日から二週間後、大沢は、その海を眺めていた。あの日からしばらく滞在して毎日この丘に来たが、あかりは見つけられなかった。ぽっかりと穴の開いた心を抱えてサウサンプトンに戻ったのだが、もしかしたらと思い再びこの丘に戻ってきた。姉はあの日以来、姿を見せていない。近くに居るような気はするのだが。

 改めてこの丘で海を眺めていると不思議と気持ちは落ち着いた。しかし二週間を経て得た結論は一つ。あかりはもういないということだ。

 あの事件の直後、今度こそ前向きな考えにはなれないと思った。実際、身辺は片付けたと思っていたので、いまさら研究所に舞い戻っても何をする必要も無いと思っていた。しかし自宅に帰るとファックスや電子メールがいっぱい溜まっていた。論文や書籍に関する内容のもので、放ってもおけず仕方なく研究所に顔を出したが、次々と用事は発生した。その用事に借り出されているうちに、このまま普段通りがやってくるような気がしたし、論文の打ち合わせでは、笑顔すら出てきた。いったいこの俺はなんたる薄情ものだ。こんなに身近な人が亡くなった後でも、こういう人間なのだ。そう、この経験は、大沢にとって覚えがある、遭難事故に続く二度目だ。これでいいのだろうか、しかし何もできない。いいようのない不安が頭に湧き上がるが、何かの拍子に忘れている自分がいる。俺はなんて薄情な人間なんだ、と自己嫌悪に陥る。しかし前回亡くなった人とあかりとでは、親密程度が全然違う。普段居て当たり前の人が居なくなることによる、自分の立ち位置、存在する位置が分からなくなってしまったようだ。

 別に周りの世界がそっぽを向いたわけではない。完全だと思って上梓した論文は手厳しい指摘を受けて修正しなければならなかったし、することはたくさんあった。来月の家賃はどうするのかとマニヤール氏に聞かれてもいた。大沢はそれらに対して惰性で動いていた。エンジンの壊れた船で、はしけからも遠く離れている。


 大沢は遠くの海を見て、大きく息を吸った。この土地の空気はいい。あかりの言っていた通り、H市でオーロラの洗礼を行けたときの空気に似ている。緯度が高いからかもしれないここに来ればあかりのことを思い出すことができる。

 しかし、自分のことは良いとして、あかりは無事に新しい命を得たのだろうか。それならばいいが、姉の当初の話からすると、その課題は失敗しているはずだ。このまま東京に戻れば、苦しむあかりたちの一族が居るはずだった。彼らはあかりを救えなかった自分を責めるだろうか。何より、あかりの姉は、何を解決しろというのだろう。あの姉の言うことだから何かしら意味があるのだろう。しかし今の自分には全く分からない。あの姉の言うことだから期待してしまっているのだろうか。だから、あきらめきれていないのだろうか。

 そんな大沢にとって、心の安らぐのは、この丘であかりを感じながら時間を忘れることだ。ここには、あかりの存在の名残があった。きっとあかりはこの土地と一緒になったのだろうと思う。だからこそ、この土地は自分に優しいのだろう。大沢は涙をためながら、あのオーロラによって自分たちの関係が変わった日にように、あかりがそこにいるかのように心を開いた。これがせめてものあかりへの手向けだ。


 あのとき一緒にオーロラを見たのが一番幸せだった。

何で僕だけ生き残ったのだろう。一緒に死んでしまえばよかった。いや、いまでも僕は死にたい。

 それはよくない。

 よくなくない。僕には何も残っていない。論文も著書も、それが何だ。人生のやり直しなんてしたくないんだ。あかりがいないのに、東京へ帰る何の意味がある。イギリスに留まる何の意味があるんだ。やはりイギリスに来たのは間違いだったのか。

そんなことはありません。

 いや、そうだ。俺はあかりとの日々を忘れたくない。でも忘れてしまいたい。いっそ何も知らなければよかったんだ。

 ありがとうございます。人間さん。

 ありがとう、だって?この感覚は前にもあったような。幻覚にしては妙に現実感がある。まさか。

 大沢は、振り向いたが漆黒の闇には何も見えなかった。そうだよな。あるはずがない。あのオーロラの日は特別だった。別に死んだわけではなかったし。

 今も死んでいません。

でも姿は消えた。まあ、あのときも突然いなくなったのだから同じと言えば、同じだが…。いや状況は違うぞ。違う。確かにいる…。


―やっと気づいてくれたのですね。ずっと語りかけていたのに

「ど、どこだ?」

 大沢は素っ頓狂な声を出して、周りを見渡した。しかし暗いのか何も見えない。

―いますよ、すぐそばに

「いない。見えない。どこだ?みえないぞ。ちっ、幻覚か」

―本当に近くです。あなたの中ですから

「うそだろ。まさか、僕の中って」

―そう、あなたの体と心の中に

「そんなばかな。それって、死んだってことだ。それは違う。思い出は、いつか消えていく。僕は自分の心の思い出と話しているだけなんだ」

 大沢はうろたえた。そうだ、死んだものの声だけが聞こえてくるなんて事があるはずなかった。それは常識だ。科学者の端くれ云々ではなく、認められない。

―どうでしょう。それはあなたしだい。いえ、私しだいでもあります。

「なんだ、心の中で思ったことにそれっぽく反応しちゃって、幻覚もここまでくるとは、念入りだな」

 大沢は、自分に聞かせるようにそういった。やっぱりあかりは、いない。彼女は死んだのだ。人の死を受け入れるには、時間がかかる。人によっては、何ヶ月、何年もかかると言うことを聞いたことがある。特に重要な人の場合は、それはありうる。これは俺があかりを好きだったから、その反動に違いない。砂漠の中で遭難したものは、間違いなく幻を見ると言う。あのサン=テグジュペリだって、不時着したサハラの砂漠の海で、なんども幻のオアシスを見たと書いてあった。

―そうかもしれません。認めるのは、大沢さん自身です。でも私の声、聞こえますよね

 大沢は、大きく首を横に振った。俺はどうかしてる。動揺してるんだ。そう、あのときのように。あの山の事故のように。

―ああ大沢さん、つらい思い出って、それなのですね。私に見せてください

 大沢は、拒否した。断固拒否だった。思い出したくないし、封印していた。しかし、記憶は、押さえ込もうとする意思とは反対に、洪水のように流れ出そうとしていた。

 大沢は頭を抱えるように、激しく拒絶した。

―いやだ!

―その記憶を閉じこめておくのはやめましょう。もう起こった事は、変えられないのです。さあ私に、見せて。

「そんなこと出来る訳がない。俺はあかりの死を受け入れられないのか、やめてくれ、思い出したくない」

―私は、なにもしてませんよ。あなたの心が自ら開くのを求めているのです。もう全て思い出してください、記憶を封印しないで!

 大沢の頭の中は混乱しつつも、嫌な冷め方を感じていた、青白い世界の中で、ほのかにたゆたうグリーンのエーテルが脳の中にどっぷりとつかるように、頭がひんやりして冷めてゆく、そして現実からあの感覚をひきもどす、まるで夢から醒めるように、光の波がエーテルの中を伝わっている。大沢は、ゆっくりと、ぼんやりと思い出しつつあった。

 記憶の封印をとかなくたって、その時のことは覚えている。忘れられるものか、と思った。何の前触れもなく落石が、前を歩いていた女子学生に当たったこと、はじけるように軽く飛ばされたその体、血まみれの頭、顔、髪、明らかに失われてゆく体温、立ちすくむ教授、仲間たち。誰の目も、直視できない絶望的で呆然と恐怖の目をしていた。血が止められなかったんだ。寝袋で包んで降ろしたんだが、血が、止められなかった。あの重さが恐ろしい。くそっ、肩に食い込むような、つまり重さが死んでいるんだ。だから、怖い。怖かった。

―わかりますよ

 優しい声がささやいた。

「うそだ!」

―そうです。言葉で意思を伝えあわなければならない人同士なら、わかりません。でも私はあなたの記憶を、その重みを思うことが出来ます

―うそだ、俺はびびっていた。その重みから逃げたくて仕方なかった。背中が染み出てくるような錯覚、ねっとりとして生暖かいような感触が背中で、それが全身に伝わるような感覚。こんなに悲しいのに、俺はぞっとした。そして大きな悲しみの中に居るのに、どうして個人の恐怖におののいているのか。何が怖いのか。死を背負っている、その感覚!


 大沢の頭にそのときの感覚が、なんとも苦い焦燥感、底がなく、全く光のない真の闇のような感覚を思い出した。真の闇は、光を発するものも反射するものも全くない。そんな底なしの、上下がどちらかも分からない闇。闇でなくて何かが押し付けているのかもしれない。光を発しない何かが自分を圧迫する。一体、何もないのかもしれない。虚無が闇の正体かもしれない。そんな闇が体をぴったりと満たし、どっぷりと首筋から頭全部を飲み込もうとする。ああ。だめだ。怖い。耐えられない。目を覚ますんだ。心を封印しないと! いつもの手続きに脳の回路が切り替わる、限界だった。

 

そのとき…。

 

 大沢の目から大粒の涙があふれ出た。

 あれ、大沢は、不思議な感覚だった。まるで現実感がないのだ。これは俺の涙ではない、と思えた。誰が泣いているのだ。誰かが泣いていた、それは間違いない。俺のではない涙。これは、何を意味するんだろう。しかし今は涙が出るのに任せておいていい気がした。なぜなら今確かに、涙が、あの闇から、自分を救い出してくれたからだ。


 しばらくすると涙は自然に収まった。気持ちも少し落ち着いた。落ち着いたのは誰なのか? 大沢は自問したがあまり意味のないことに思えた。今起きていることを受け入れるしかない。とにかく自分の心は落ち着いたのだ。それでいいだろう。やがてあかりの声が聞こえた。

―そうやって、十字架を背負って行くのですか。

―そう

 大沢は空を仰いで空を見た。青い空が目に映る。空の青色の美しさは大気の反射だ。大気の厚みを実感することができないが、その美しさは実感することができる。大気の厚みを実感できないからと言って悲しむ必要はない。理屈をつけて実感することも必要ない。これまで自分は悲しい思い出を封じ込めようとしたが、今は、受け入れるしかないと思えた。少しは変わることができただろうか。あかりと出会ってから、だと思う。

―それで、気持ちは楽になりましたか。

―もちろん、君がそうやって思い出させなければね。

 それは嫌味だったが、すぐに後悔した。余りに無意味なように思えたからだ。

―でも、今はもう少し、楽かな。

―君が死んでしまって悲しかったよ。また繰り返しなのかって、思った。

―えっと私は、大沢さんが考えられているよりもっと精神的な存在なのです。

―そう簡単に理解できるものか。僕はきっと君の思い出と話しているんだ。

―大沢さんと私が心を一緒にわかちあう。人間同士にはそんな結びつきはできません。素敵なことだと思いませんか。人と海に棲むものが一緒になれるただひとつの方法で、奇跡なのですよ。とっても、うれしい

―君は、それを知っていたのか?

―いいえ、古い言い伝えで聞いたという程度です。実際にあるかどうかは半信半疑でしたが。

―もし本当だとして、これから君は僕のどす黒い心にがっかりするはずだ。人の中はどす黒いんだ。見掛けはいい人でも

―そうかもしれません。私もたくさんの人を見るようにしてきました。人は言葉が話せる代わりに、気持ちを伝えるのが苦手です。それは誤解を生み、ねたみを生み、憎しみを生む。私が人間に生まれていたら、やはりそうなったと思います。

―じゃあ、やはり君は僕のその黒いところを見つけてしまう。それが怖い。

―何が怖いのですか、それは私も同じですよ。

―違う。ちがうよ。君はそれが常識だったんだろう。君は簡単に言うが、基礎的な常識の違いは、決定的な致命傷になる。僕は、君と全く違う。人間は、醜い心は隠すことができる。もう何世代も、そんな生き方を繰り返してきた。それは遺伝子に受け継がれている。その積み重ねは、醜いよ。君たちとは決定的に違うんだ。最初の基本から違っているんだ。君は、君が全く理解できない、何世代も積み重ねられたどす黒さを、見ることになるんだぞ


 大沢は思う。僕たちの祖先が紡ぎあわせてきた遺伝子は、こんな突拍子もない出来事には対応できずに自らの首を絞めようとするはずだ。二つの精神の融合なんてありえない。どんなに親しい人間でも分かり合うことは難しい。だからってこんな風に異常な状態で融合するなんて、ありうるだろうか。異常すぎる。しかし、異常な状態といえば、白鳳丸での航海も異常だった。あの嵐の中、通常ではありえないはずの、長谷と酒を酌み交わしたのだった。あれで長谷とは仲良くなったのだが。そうか、そんなこともあったっけ。しかしそんなに単純でいいのか。人間の心はもっと複雑だろう。僕は、その考えを捨てきれない。それとも複雑化しているのは、自分自身だろうか。複雑な答えを求めようとすれば、複雑な回答がある。逆に単純な答えを求めようとすれば、そんな回答が見つかるのかもしれない。難しく考えたから、難しい人間になった。そんなはずはないよな。科学で真理を求めようとして、上段に構えているわけではない。科学万能主義でもない。混乱しているのか。


―私にもわかりません。私たちはお互い、傷つくかもしれません。でも、

 あかりは一呼吸置いた、

―そうでないかもしれません

―大沢さんは、自分だけが、どす黒いって思っているようですが私たちも、心が全て通じてる、と思っているだけかもしれません。でも、それは誰にも分からないじゃないですか。私は大沢さんの考えは、分からない。大沢さんも私が分からない。でも今、私と大沢さんは対等なんです。同じ精神の下で、すこしずつ理解すれば良いです。もう逃げられませんから。逃げられないなら解りあうしかないです。そうするしかないのです。もう怖いものはないですよ


 少しばかりの沈黙ができるほど、大沢はあきれた。正論だ。しかし、そんな単純なことか。でも、それができるなら、いいな。心は落ち着いた。

―僕はふたり、人間のままでそんな試行錯誤しながら、心で触れ合いたかったな。それも、悪くないと思うよ。

―そうかもしれません。でも、そのままでは、大沢さんの心は、私に理解できたでしょうか。難しいです。この人と人の間にある溝はそれを難しくします。大沢さんが私たちと同族になればそれは、かないますよ。でもそれは出来ません。精神的なものが実体のあるものになれても、実体のあるものが、精神的な存在にはなれません。

―まあ、ね。人は、何回抱き合ったって絶対にひとつになれない。どんなツーカーの夫婦だってお互いはわかっていない。お互いの熟練者になっているだけで、心の中を理解しているわけではない。分からないことが分かる。でもそれは、何にも変えがたい、おもいやり、という意思につながる。

―そうですね。私たちの種族には、おもいやり、って言葉は存在しないのです。お互いの意思が通じますから。人間だって、お互いがわかりあいたいのだと思います。相手を思いやる気持ちやそれを知りたいが上の努力、心の使い方。人間はすばらしい努力をしていると思います。もっとも重要視しない人もたくさんいるようですが。


―人間なんて、大っ嫌いだった子がよく言うよ。

―そうでした。でも人間さんと触れ合っている間に、少し理解できたこともあったのです。そして分からないことも分かりました。それは、大沢さんや長谷さん、見知らぬすれ違った誰か、から少しずつ教えてもらいました。もし私も人間に生まれれば、きっと同じ生き方をしたのでしょう。それで人間を責めるのに一体何の意味があるのだろうって。

―意味は、無いのだろうね。今を生きるしかない。

―私を認めてくれますよね。

―言わなくても、わかるのだろう

―いえいえ、そう簡単ではないのです。心が一つになっても思考は二つです。でも肉体が離れているよりはわかります。うん。

 あかりの微笑が手に取るように分かり、心が満たされる。あの強く優しい眼差しが。なんて気持ちがいいのだろう。


―でもひとつだけ耐えられない、残念なことがあるな

―まだ、あるんですか

―君をこの目で見られないじゃないか。抱きしめられない、そのぬくもりを感じることが出来ない

―ふう、まだそんなことを。人間ってのは寂しがりやです。ほんっとに分からないです。大沢さんの体は、大沢さんですけど、私でもあるのですよ。隠しておこうかと思いましたが。そこの海を見てください

大沢はのろのろと体を動かして、一番近くの水面を見た。

―良いですか。

 その声とともに、不思議な水面は小さく震えあかりの姿を浮かび上がらせた。銀色の髪をしているあの姿だ。

 大沢はまぶたに熱いものを感じた。そしてひとつぶの涙が、滴った。これは、間違いなく僕の涙だ。大沢は、そう思った。そして、大沢は気を失うほどの心の安らぎを感じた。遠くに、はるか遠くにあかりの声が聞こえていた。

―どうです?ひとつの心より、ふたつのほうが、暖かいでしょ。


 26


 すっきりと明るい青空に広い丘が続くコーンウォールの草原に大沢と、あかりの姉の姿がある。

「二人羽織みたいな状況には、慣れましたかしら?」

 この人は、やはり人間臭い。しかし空港で一瞬だけ見たやつれた顔はしていなかった。それはただ単に、自分やあかりが一緒になったことで重荷がなくなっただけなのだろうか。それともこの人も、衰えつつあったのだろうかそれは自分にはわからないのだ。あかりと意思疎通ができてもあかりにもわからない。

 でもそれは、悪いことではない。理解するための糧とすれば良いのだから。

「いえ、全然慣れませんね。数日に一回は、ケンカしています。価値観の違いというか、あまりに正論過ぎて、ちょっと人として受け入れられないといいますか。ケンカすると呼んでも応えてくれないときもありますし。頭の中に二つのOSがあるようなものですが、意外にプライバシーがあるのですね。意外だったな」

「ふふ。若い人たちはいいですね。私も、もっと若かったら、どなたかとそんな風になりたいですよ」

「しかしこの現象、今でも、信じられませんよ。人に話したらカウンセリング行き違いなしです。科学者としては否定したいな。ところで日本へは、いつ戻るのですか」

 姉は、うなづいた。

「そうねえ、あなたたちも見届けたことだし、もう帰ろうかな」

「まさか歩いて帰るなんて、言わないですよね。あかりは歩くのが好きだったなあ」

―もう、やめてください

「私たちにとって地上を歩くのは特別な充実感があるのです。そうそう私は、ちゃんと飛行機で帰りますよ。パスポートもありますからね。人の姿で長いですし。実は隠し事も多いんだから」

―まさか姉様が隠し事?

―私たち一族は、あなたたちのお帰りをお待ちしていますよ。それまで諦めません

―あなたたちのその熱意は、尊敬します。僕も、負けてられないな。こちらで論文と調査本が出版できたら帰ります。日本語訳も作りたいですし。実は同じ研究所のインドやヴェトナムの人から訳したいという申し出があります。彼らは、非常に先進的な考え方を持っている。いわゆる先進国の方が、利権が絡んで正しいことでも手を付けられずにいる。ただ国の機関の人も目をつぶっているわけではない。安くて効果的な方法があれば採用されます。まあお金がないんですよ。あかりには怒られますが、彼らの求める方法を探求するのが、今環境にかかわる科学者の求められる役目だと思いますよ。

―安く、という点なら私たちがお手伝いできるかもしれません。私たちも一緒に、その壁に立ち向かいます。でも本当に、あなたたちは私たちの希望です。希望があれば生きていける。たとえどんな結果になっても

―まだ何も成し遂げていませんよ。結果が全てです。お別れする前に、ひとつ教えてください。あなたが僕の死を持ってあかりを生かそうと言ったのは、こうなることが分かっていて僕を試したのですか。

―さあね、私の心を読んでみてください。

 大沢は、あかりの力も得て意思を疎通しようとした。しかし姉の真意はわからなかった。あかりは、このようにアクティブに相手の気持ちを読むことはしたことがないという。大沢は心の中で嘆息した。そうだ、彼らには、そのような行為自体必要としていなかったのだから。まだまだ考え違いは多そうだ。謝るあかりを大沢は慰めた。それを見計らったように、姉が語りかけてきた。

―あかりが人間の姿で相性が悪かったのは本当です。あかりと大沢さんが一緒になる可能性があることは知っていたのですが、私たちにも伝説のようなもので、決定的な方法はケース・バイ・ケースで運任せです。でも大沢さんなら納得してもらえそうでしたから。あかりをとっても好きだったでしょう? でも万一適応が悪くても、あかりは、この土地に棲むことができます。あるいは、うまく二人が融合できれば、人間界にしっかり私たちの意思が根付くことになる。大沢さんには申し訳なかったけど、どちらになっても、私たちには、悪くない話でしょ?

―そして、世界の人魚や水の精たちの物語が、全て悲しい話で終わっているのにはわけがあるのです。新たに困難に立ち向かう者は、試練を受けて悩まなくてはいけません。結果だけではなくて、過程も大事なのです。ハッピーエンドになると分かっていたら、努力しないでしょ。

―なんと、驚いたな。僕たちは試練に耐えられた、というか、運が良かっただけか!

 私も伝説は聞いていましたが、すべて不幸だと聞いていましたから。

―あらら。二人とも、もう試練を超えてつもりでいるのかな。まだまだ、これから大変ですよ。この後のことはわかりません。あなたたちがいつまで生きられるのか。このまま死ぬまで二人でいられるのか。

―そうか、そうですよね。


 大沢とあかりは、空を仰いだ。姉もそれに倣った。光が地上に注ぎ、草原の海に光が踊っているようだ。あかりは思う。この大空にも、私たちのような普段は人とかかわりあわない何かがいるのかもしれない。空に地上に海に、私たちの知らないことは多く、将来は無数にある。

「ここは、とても気持ちがいい場所ですね」

「そう。僕たちの好きな場所なのです」

「うん。がんばって。では、東京で会えるのを楽しみにしていますね」

 大沢とあかりは、返事も肯きもする必要はなかった。言葉も高感度センサーも必要ない自然な意思疎通ができるにはまだまだ時間が必要だ。しかし一歩を踏み出すことは出来たのだ。今はそれで満足しよう。


 太陽は、光を惜しげなく降り注いで、草原や木々で緑色の可視光線を反射し、それ以外は熱エネルギーとして丘全体を暖めている。草々から放たれた水蒸気が光り輝く空気に舞う。水蒸気は、わずかに自ら揺れ動いてほんの少しまとまったとき、風が生まれた。美しい草原全体が風にたなびいて揺れた。限りなく小さな水の粒は、天高く風にあおられて流れるように舞っていった。はるかに、どこまでも深い青空のかなたへ向かって。


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