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あかりの姉がイギリスへ来たと聞いたのは、渡欧して一年目が終わり、その年初めて春の便りを感じたあとにかかってきた一本の電話からだった。すぐ合いたいという電話の口調から、ただ事でない問題があることは察することができた。あかりに関わることでなければいいが、と思う気持ちがある。しかし、あの姉が俺に話ということであれば、あかりについての話に間違いないのだろう。大沢は、湧き上がる不安をぬぐうことができなかった。
空港で待ち合わせをしていたが、大沢は姉の姿を先に見つけた。その姿に、大沢は少なからず驚いた。それは疲労の蓄積した人の顔だった。優雅でしっかりした印象を受けていた大沢には違和感があった。それでも隠せない疲労困憊の雰囲気は容易に見て取れた。飛行機の長旅で疲れたのだろうか。そういえば、あかりが初めて渡欧したときも、相当疲労したようだった。この家系はどうも飛行機か長旅に向いていないのかもしれない。しかし姉の顔つきは体の疲れではなく、心の疲れに思えた。この人も何か重いものを抱えているのだろうか、と大沢は思った。それでも、いざこちらを認識した姉は、以前の優雅さを取り戻してこちらに近づいてきた。大沢は、その変化具合も異常に感じた。
「急な呼び出しでも来ていただいて、ありがとうございます。大沢さん。お久しぶりですね」
あかりの姉は、やはり丁寧な口調で、話し始めた。
「こちらこそ。渡欧の件では、お世話になりました。しかし今回は急なことで驚きました。しかし彼女に内緒ということがどうも解せませんが」
「あかりに会う前に、あなたと会っておかないとね」
「どちらにしてもお姉さんのお願いなら断れませんよ」
「ありがとう。何かを察していただいているようでありがたいですね。今からする話は、大沢さんには納得できないこともあるかもしれない。あるいは、逆にスッキリ納得してもらえるかもしれません。では話しますよ」
姉は、少し間を空けた。大沢の反応を見ているようだった
「まず、あかりや私たちは、普通の人間ではないのです。大沢さんも、うすうす感じていたと思うのですけれど、わたしたちの一族は、深く海に関わって生きてきました。普通に人間の姿で、生活しているように見えますけど海とのつながりは、人間よりも遥かに強いのです。海に生きる生物だと思ってください。昔は、人間には人魚とか、精霊とか呼ばれたこともあります。昔話や言い伝えで断片的に残っていることもあります。話の内容は尾ひれがついていますが、事実を基にしたものも割とあるのです」
大沢は、さすがに予期していない話の内容に当惑した。ただ姉が何が冗談でからかっているわけではないこと感じ。とりあえず聞くしかない。実際、姉はこちらを伺っているようだ。さすがに、大沢が受け入れられるか観察しているらしい。
「よかった、大丈夫なようね。では続けますよ。私たちの先祖は太古の昔に人間と袂を分かつように、海と暮らしてきたのです。私たちの一族は海の中に住んでいると思って結構です。他の地域や世界でもそのような種族がいるのです。ただ数は少なくひっそり暮らしているから、普通の方には合うことなく寿命を終えてしまいます」
「私たちの一族は古くから東京湾周辺に棲んでいました。あなたたちの言う文明、科学とはできるだけ接しないようにしてきました。しかしこの数百年は、人間たちの科学の発達するにしたがって、人間と無関係で要られなくなってしまった。特に海洋資源が枯渇する恐れがあることになってやっと人間は、環境を考え始めましたが海の中はもうすでに深刻な事態だったのです。われわれは人間に干渉しない掟がありましたが、それを破ることにしました。まず私たちは、海に棲むものを人間社会に送り込み始めました。私たちは、人間の良心に訴えれば理解してもらえると思っていました。海洋の実情を知ってもらいたかったのです。自然保護や環境に理解のある団体を設立して人間たちにそのような面を見せることにしました。でも人間たちが嘆くのは、その場だけで長続きしませんでした。そこで研究者に実情を知ってもらい、科学の力を用いて海を元に戻すことを考えました。大沢さんは、地道で特に東京湾内に関しては着実な研究をしていた、と私たちは思ったのです。特にデータの質さえ良好なものが与えられれば必ず、実情を広めて、提案してくれると考えたのです」
「それで、試料採取を手伝うと言ってきたのか」
「そう。他の大先生は、けんもほろろでした。権威主義ではなく、前向きで実直な方を狙ったのですが、あかりのアプローチの悪さもありましたが。大沢さんは最後のチャンスだとみんな思ったのですよ。しかし大沢さんにも問題もありました」
大沢は、だまされたような気がした。研究が進んでもだまされたのでは、少し寂しい気がして否定的なことを言いたくなった。
「そうでしょうね。僕の研究は広く世間に知られているわけでもないし、何か手法が確立されているわけでもない。単純にお金で援助すればいいとか、役所やNPOから近づいても、大いに警戒しましたよ。シーシェパードみたいに無謀なやつらも居るしね」
姉は首を振って否定の意を示した。
「そうではありません。私たちも何度も失敗して学んだのです。正義をどれだけ振りかざしても、人は動かせない。地位の高い人は高い見返り、いやすみません。高度な見返りというべきでしょう、が必要なのです。私たちにそんな力はありません。その点、大沢さんは、地位も高くなかったのでチャンスはあると思いました。
「一方で不安どれくらい私たちの力になってくれるかはわかりませんでした。大沢さんの経歴で、過去に教育者という立場で、つらい思い出があったことが分かっていましたし…。私も含めて、みんなあなたを手伝う自信がなかったのです。それに私たちの努力が一向に実を結んでいませんでしたし。要するに私たちは遅すぎたのではないか、もう環境は元に戻らないのではないかと考え始めていました。地上へ派遣されたものは、人間たちが真剣に環境のことを考えていないことを知りつつあったし、海に残されたものたちは、長年蓄積した汚染は、消えないことが直感的に分かってきていたのです。あかりが、あなたと充実した研究を行ったとしても、一族が本当に生き残れるのか確証は持てませんでした」
「これは少し前の話ですが、私たちの一族で最も若いあかりを地上に出すことも不安でした。そもそも大沢さんには関係ないですが、一旦人間になってしまえば、元の戻ることはきわめて難しいのです。あかりは皆の説得を聞いたうえで最後まで役に立ちたいと言いました。最終的に私たちは、賛成しましたが苦労することは分かっていました。通常、われわれが人間世界に入るときは、断片的な経験を十分に重ねてから入るのです。そのような練習や事前教育がされる前にあかりは地上に出ました。言葉足らずなのはそのせいです。熱意だけで空回りしていたのも知っています。人間の考え方を学ぶ前に人間世界に出ましたから。その点大沢さんは、辛抱強くあかりに説明してくれたので、あの子もそれを聴くようになりました。本当に感謝しています」
「それは、友人のおかげですよ。僕は受け入れようとしていませんでしたよ」
本当だった。あかりとけんかになったとき、長谷と話していなければ、他の研究者と同様に、たたき出していただろうと思う。
姉は、微笑んだ。
「私たちの個体数は極めて少ないのですが、その代わり寿命は人間よりはるかに長いのです。しかし陸上でうまく生きられるかどうかは、各個体の適応能力によります。水の中の環境で長く生きてきたので、水のない生活は大変なのです。本来生きられるはずの生命の長さを削って生きていると思ってください。一族は、海の中なら千年も生きることができるのだけど、陸上では、適応できなければ数年から十数年が限度なのです」
「あかりは、一族でもっとも若いのですが汚染後の世代なので体力がありません。地上で何年生きられるかは、よくわからないのです。私の仲間たちでも、体の弱いものからなくなっているのです」
話は深刻になっていっていた。大沢は何を自分に話そうとしているのか、測り兼ねていた。こちらに来てから、ルームシェアのような状態であかりと住んでいるが、あかりの体調がすぐれないときはたまにあった。しかし気に留めることはなかった。そういう時、あかりは、水が合わないだけですよ、と言っていた。
「そもそも海にいれば人間とはかかわりません。人間に混ざって地上にいるものは、仲間たちの期待を背負っているわけですから、最後まで努力をしなければなりません。あかりもそうすべきです。人間と生活している仲間の中には海にもどって、少しでも長生きしたいというものもいるのですが、それになんの意味があるのか」
大沢は、そろそろ理解の限界を超えている、耳をふさぎたいと思った。姉は自問自答でもするように、たんたんと話す。このまま聞いているとおかしくなりそうだ。
「ちょっと待ってください。どうしてそんな話を私にするのですか」
「ごめんなさい。それは、あなたが人間の中でも理知的な人で、科学の進歩を担っている人だから。そんな人たちが何も手を打ってこなかったからことに対する愚痴ですよ」
姉は、怒りというよりは悲しそうな顔をして言った。
「本当は、渋谷の真ん中で私は叫びたい。今の海で、こういう生き物が苦しんでいることも知ってほしい。私には、科学的なことは分からない。でも私たちが元のように暮らすには、汚染物質が今の半分くらいに良くならないとだめなのだと思う。それなのに人間は、汚染に気づいていながら。悪化する傾向について黙認している」
大沢は、なんとも答えられなかった。分かっていながら何も出来ていないのは、確かにそうだ。しかしあまりに正論すぎる。姉の話したい真意はまだ不明だが単なるおとぎ話をしようとしているわけではないらしい。
「それは正しいかもしれない。調査結果では、半年間でも汚染物質は増加しています。ただもう少し前の僕の雑な調査に比べればその増加率は減ってきている。ごくわずかですが、汚れの進行は止まりつつある」
大沢はこういったものの自信はなかった。以前の調査は精度が悪いので、あかりが加わった後の調査と比較していいものかどうか。しかしいまこの場では、こう言うしかなかった。
「そうかもしれない。汚れは進んでいるが、少し汚している程度になった。それが、あかりが大沢さんを必死になって手伝ってやっと分かったこと。私たちが地上へ出て命を削って、何十年もたってやっと出てきた効果なのですね」
あかりの姉にしては、少し感情的な話し方になっていた。
「ごめんなさい。でも多少良くなったってだめです。いますぐ、相当良くならないといけないのに、止まりさえしない。人間は分かっていてもとめられない。最悪の生き物」
それは穏やかで美しい人が語る、底の無い深みからの嘆きの声だった。
大沢はなんて言葉を掛けていいのかわからず、呆然としていた。姉はやはり東京湾調査を放棄したことを恨みに思っているのだろうか。しかし研究者の立場からは、あの時点でどうしようもなかった。大沢としては、むしろ東京での研究成果は、第一歩としては画期的だと思っていた。調査結果はできる限りの学会やセミナーで伝えた。こうして広めることで、まずは悪くなる加速度を少なくして、やがて現況で保てるようになり、少しずつ良くしていけばいい、と思っていた。
しかし渡欧するかどうか迷っていたとき、止めてくれれば良かったのだ。あかりも大沢もすでにどこで研究しても良いと思っていたのだから。
「それならなぜ、僕らの渡欧を止めなかったのです。僕はあの時もう渡欧にはこだわっていなかった。地道にあの研究を続けても良いと思っていた」
「私は、みなを説得したのよ。夢を見るのはやめましょう、どこか別な姿で生きることを目指すか、静かにみなで滅びる日を待ちましょう、ということをね。もちろん滅びることを賛成する人は居ないとは思っていたけど、他の方法を探るように意識を変えてもらいたかった。あかりにはあなたとともに旅立って、希望のある道筋を探してほしかったの。たとえ私たちが東京湾で滅びてもいつかまた、海はきれいになると思えるように」
「皆できれいな海に移住したらどうです」
「それはできません。生まれた場所で死ぬまで暮らすのが、決まりなのです。それが自由に長く生きられる私たちの定めなのです。でも状況は変わりました。あなたとあかりが十分親しくなった今、新たな道があります。よかった」
「あなたには、人ではない私たちを受け入れられる唯一の人間としてお願いがあります」
「あなたとあかりは、強い絆で結ばれつつあります。しかし、あかりの地上での命は長くないかもしれません。だから、あかりを海に戻してあげたいの」
「東京に戻りたいということですか」
「いいえ。その方法もありますが、汚れた海に帰っても長く住む事はできないから。あかりには、新しい海で生きてほしいの」
「そんな方法があるなら、やっぱり皆で移住すればいいじゃないですか」
「先ほども言いましたが、基本的に私たち一族は生まれたところでしか生きていくことができません。私やあかりがこうして、他の土地でもいられるのは、人間になったからなのです。でもあかりには、新しい海で私たちの後をついでほしいのです。それが私たちのとうさまや残された者の願い」
「それは無理でしょう。彼女、嫌がりますよ。きっと」
「でもあなたとなら、やって行けるのではないかしら」
「やはり難しいでしょう。あかりがあなたたちを置いていくとは思えない。僕でも反対する。話したところで、どうなるか」
「その前に、大沢さんにお願いしなければなりません。人間になった者が、元に戻るためには、愛する人の生命が必要なのです。それは、巷の水の伝説である、ルサルカや人魚姫の話の通りなのです。そしてこの点が、皆が移住できない理由でもあります。私たち一族の中には人を憎んでいるものも居ますが、憎しみの中からは新しい命は授かれません」
大沢は、くらくらした。この人は自分に死ねといっているのか。今日はなんて日だ。自分は、どこにいるのだろう。この場は現実なのだろうか。気を失いそうだ。しかし失えなかった。どこでこんなことになったのか。わからないが、ここにあるのが現実なのだろう。おそるおそる聞いた。
「つまり、命を差し出せということですか」
「そう」
「昔はどうあれ、そういうことを彼女がそれを受け入れるとは思えないな」
我ながらたわごとだと思ったが、我慢できずにこういった。姉は微笑みながらそれを見ていた。
「そう。うらやましいな。若い人たちはそうじゃないとね」
「でも都合がいいようだけど、苦しむのは大沢さんだけでいいの。ごめんなさい。大丈夫なのです。生まれ変わるとき、前の記憶は一切残りません。あなたとの研究とか、思いでも全て失います。だから。大丈夫。あなたの暖かい命をいただいて、あかりが生まれ変わったとき、あなたの記憶はない」
大沢は思わず声を上げた。
「ばかな! それはあかりにとって幸福なのか。記憶までなくして。一族の種が残せれば、それで済む問題か?」
姉は大沢だけでなく、自らも言い聞かせるように、落ち着いた口調で話す。
「そうですよね。記憶をなくして見知らぬ土地に一人。あかりは幸せになれるか…。時間はかかるでしょう。百年か千年か。でも一族は確かに救われます。時間は人が決める単位。いずれ、再興できるでしょう。」
「私は一族を代表してあなたにお願いします。私たちの最後の希望であるあかりを生まれ変わらせてあげてください。あの子には、新たな魂となってこの土地で生きて充実した生命を全うしてほしい。
あの子は、苦しみながら良くがんばったと思う、体力的に弱いことだけでなく明るい性格でもないのに。人間世界に出る時、当初私や海に棲む一族の長は反対したんです。成功するよりなにより、あかりが傷つくのは目に見えていたし。でも自分で志願していたし、使命をあきらめようとはしなかった」
「傷ついていましたか。そうかもしれない」
「それは、いいのです。いまさらですが、人の考え方を間接的に学ぶより、自分で直接学べてよかったのかもしれません。一族のものが人になるときは、多かれ少なかれみんな苦しむ。人間だって人生に何度も人間関係で悩むでしょ。同じです。でも、あなたに最後に人間の代表として償ってもらえれば、一族も納得する。そういう人間も居たことに、安らぎを感じて最後を迎えられます」
大沢は、何もいうことが出来なかった。
「私の使命は、あかりの生まれ変わりを見届けて、皆に報告することなのです」
姉は、大沢を見つめた。言葉には強い意志が込められているのを大沢は感じた。あかりであれば心で何か訴えるだけだったろうが、姉の言葉は心と言葉でも訴えかけてくる。しかし大沢は、あかりと会話するときのように心を開くことはできなかった。そうしてしまえば、全て受け入れてしまいそうな気がしたからだ。それは正直怖かった。
「逃げるかもしれませんよ」
言葉の空白に耐えられず、大沢はつぶやいた。必死に抵抗したつもりだったが、沈黙という圧迫が心に強くのしかかっていた。
そんな大沢の気持ちを察したのか、姉はにっこり笑った。しかし大沢には、さびしい笑顔に見えた。大沢は姉の顔から眼をそらして下を向く。とても寂しい顔だった。姉が立ち上がる気配を感じて、大沢は顔を上げた。
「私は、人間は嫌いではないですから、最後まで人間の姿でお互いに良い方向に進むようにがんばろうと思っています。でも一族みな居なくなるのは、やはりつらい。遠くても私たちの希望が永遠に存在するのであれば、最後の日まで心もやすらかにいられます。あなたが落ち着いてどうするか決まったら、連絡ください。あなたが思えば私から会いに行きます。もう心でお話できるのですよね」
いったん引き揚げるという言葉が、正直に、大沢の心を軽くした。
「汚いところまで見透かされるようで、僕は苦手です。でもその技能は、死ぬのならもう要らないですね」
「そんなことはないですよ。一族としてあなたを責任もって少しだけ幸せにさせてあげられますから。その能力は、持っていたほうがいいですね。では待っていますね」
姉はそう言うと、立ち上がって席を離れた。大沢も立ち上がって挨拶するべきであったが、その気力が無かった。荒唐無稽な話だと笑うことも、あかりのために命を差しだすために涙を流すこともできなかった。今はどこかで落ち着いて事情の整理しかないように思える。
大沢は、生も死もどうしてこんなに、自分にまとわりついて苦しめようとするのだろう、と思う。いっそのこと何も無かったかのように、今すぐ空港に直行して東京に帰ればいいのか。それとも不条理の中、まるで犬のように命を差し出すのが潔いか。
大沢は頭がくらくらして倒れこみそうな気がした。しかし倒れこんで頭を抱えていてどうなる。歩けば少しはいい考えが浮かぶかもしれないと思い、立ち上がったが、底のない悲しみが全身を覆いつくすように体を蝕み、引きずり下ろそうとした。
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大沢は、三時間ほど歩いた。ヒースロー空港から最も近いウエスト・ドレートンの駅まで、では物足りず、駅を通り過ぎ、コラム・アヴェニューの木々の下をとぼとぼと歩いた。しかしこの木々は大沢の心を落ち着かせるには十分な距離ではなかった。こんな時は、故郷である北海道、もしイギリスならハイランドにいかないとダメか、と思った。そんなことを考える余裕ができたことに気づいて、大沢は内心ほっとした。そしてようやくウエスト・ドレートン経由で空港へ戻った。空港に留めてある車の狭い車内に乗り込むと、少し落ち着いたはずの心が、周囲から孤立した錯覚で、またざわざわと騒ぎ出した。頭の中のパニックはまだ収まっていないようだ。しかしこうしてもいられない。大沢はディフェンダーのキーを回した。さあ、車の運転に集中だ。この母国イギリスにもどった車と心中するわけにいかない。最近はすっかりエンジンの調子が落ちている。そう、気力を振り絞った。
研究所のゲストハウスに帰ると、入り口では守衛のリュシアン・マニヤール氏がニコニコしてこちらを見ていた。そのニコニコぶりはいつもより加算されている。
「ただいま、リュシアン。何かあったのかい」
マニヤールは、ご機嫌な様子で、笑いながら答えた。彼は三十歳程度であるが、ラテンの血が混じっているらしく、大げさで笑顔の耐えない好人物であった。
「いや、ボクはどんな悪いたくらみにも加担してないヨ」
まあ、そうだろうな。最初の笑顔が怪しいんだよ、と大沢は思った。マニヤールは、何度聞いても答えないため、仕方なくゲストハウスへと向かった。結局家に行くまで何かはわかりそうもない。二人で共同のキッチンのある部屋にはすでにあかりが戻ってきていた。二人は義理の兄弟ということでゲストハウスに住み込んでいた。このゲストハウスは、長期の留学者や研究者のためのもので、単身者から、既婚者まで入居できた。大沢たちは、家族用で個人的な二部屋に加えて大きめの共同部屋のある独立した建物に住んでいた。
あかりは表向き、私設の秘書という立場として研究所に勤めてもらっていた。大沢の研究も東京のように単純な調査だけではなくなっていた。しかしあかりはこちらに来ても、もぐっての試料調査を行いたがった。以前の切迫感はなくなっていたものの、自分の能力を使いたいという意思は強かった。
そんなことを考えていると、ふと先日の事を思い出した。あかりが、海へもぐりたがるのを、たしなめたときの話だ。あかりは、海はどこへ言っても海ですから。きっと都会人に任せておいたらすぐに汚れてしまう。こちらでもそれに苦しむものたちを救いたいです、と言ったのだ。そのとき、大沢は眠かった頭が突然すっきりしたような気持ちがしたものだった。
あかりは、以前ナイフのように鋭さや冷たさがあった。今も一本気は変わらないが、優しさがある。単に自分の関わる場所を救いたいだけでなく、海に覆われた地球を認識している。それも大沢や政治家のように頭の中でなく、感覚的に。あかりには、また笑われそうな気がしたので、その時は追及しなかったが、確かにそう思ったのだ。この視点は、大沢にはうらやましかった。俺はこんなに視点を変えられるだろうか、どんなきっかけがあれば、変えられるだろう。そしてそのきっかけが目の前に現れたとき、それを受け入れられるだろうか。自信はない、と思ったのだった。
大沢は、食事をしながら、姉とであったことを話すかどうか迷っていたが、いずれ感づかれると思い、思い切って話してみることにした。
「ところで姉さんが所用でこちらに出てきて、今日あったんだよ」
「え?」思わずあかりは聞き返した。大沢には、その反応は珍しく思えた。と同時に不吉な予感を感じないわけにいかなかった。「姉様が? そう、ですか。何かあったのかな」
あかりの不安感もすぐに伝わる。二人の間には、ぎこちないながらも意思の疎通がある程度直接的にできるようになっていた。
「元気そうだったよ。突然来て僕らを脅かしたかったみたいだ。でも君のことを、すごく心配していたよ。実は黙っていてくれと言われていただが、話してしまっていいかなあ」
大沢は少しおどけていった。
「姉様は、心配性なのです。いつも私のことを心配してくれて。私が落ち込んでいると、いつもいろいろ気を使ってくれるのですよ」
あかりは少し笑ったが、大沢には、やはりどこかさびしげに見えた。一族みんなを置いてきたことに良心が痛むのだろう。しばし沈黙があった、空気が重い。今、大沢が抱えていることをお互い、すべて知ってるような感じもしてしまう。オーロラの夜以来、うっかりするとあかりに、思いを察せられることが、しばしばあった。それがいい場面もあるが触れられたくないこともあり、油断できない、と思っていた。
特に今日の件については、口にはできない。大体、俺はどうせよと彼女に話せばいいのか?
自分の命を捧げるから、ここの土地で生きろと言うのだろうか。そんなこと、突拍子が無さ過ぎるし、納得できないだろう。自分自体、命を捧げるという、非現実的な話を認められないでいる。
重い空気に耐えられないからなのか、あかりが口を開く。
「論文の進行はどうですか」
「まあ順調だけど、汎用性を確保するための、機器開発が問題だね。東京の計測会社の岡本氏とはいろいろ話しているが。まだまだだね。メイドインジャパンにこだわるつもりは、ないのだけれどね」
話しながら上の空であり、大沢は、正直に言って混乱から脱しきれない自分を感じた。
どうする?どうすればいい?大沢は食事しながらも、自問自答した。しかしいい考えは全く浮かばなかった。
食事の後、あかりがうきうきした顔で話しかけてきた。
「実は、すごく良いものがあります。ふふ、きっと驚きますよ。研究のうまくいっていない大沢さんも、これでリラックスできること請け合いです」
「研究がうまくいっていない、ってのは聞き捨てならないな」
あかりの無邪気な顔を見ると、気分転換がうまくいったのだろうかと思える。こちらも面映い。
「じゃじゃーん」
あかりらしくない行動にすこし戸惑いながらも。
閉じていた、隣の大沢の部屋に入ると、なんと床にコタツが置いてあった。
この部屋は質素とはいえ、洋間だ。全く似合わない。
「な、なにこれ?」
「見ての通りのこたつですよ。ほら、日本人のルーツです。
ルーツ。ルーツの意味を間違えているのではないかと、大沢は思った。
「こたつは、見れば分かるよ。どこから持ってきたの?」
「ふふ、どこから持ってきたかは、秘密です。私にも引き出しがありますから」
「まてよ、これは俺の東京のアパートにあったやつじゃないか」
「あらら、わかりますか」
あかりはきょとんとして言った。
「そりゃわかるだろ、自分ものだよ」
「大沢さんの部屋にあったものを長谷さんに頼んで送ってもらったんです」
「それなら、君の引き出しじゃなくて、おれの引き出しだよ。妙な言葉を覚えてるが、使用法は、まだまだ苦手だな。しかし参ったなあ。こたつか。こんなものをワザワザ送らせたのか」
似合わないにもほどがある、しかし、笑える。イギリスでコタツか。日本にあったって妙に郷愁を誘うのだ。ましてや、こんな異国にあればなおさら効果があるじゃないか、大沢は思った。本当に、今日の話は現実なのか、と思った。
「ところで、床、どうしたの?」
ふふ、とあかりや姉を思わせる笑いかたで、楽しそうに答えた。
「私とリュシアンさんで、考えたんです。床はやっぱり冷たいから、マットレスと絨毯が敷いてあります。さあさあ入りましょう」
じゅうたんの下には古い、マットレスが引いてあった。マットレスはふわふわするが、じゅうたんがあるため、弾力は多少抑えられている。そうはいっても、やはりボヨボヨする。
「マットレスじゃあ、妙にやわらかいな。おしりが沈んでしまう」
あかりも感触を試していたが、しっくりこないようだった。
「あれ、やはり畳じゃないとだめですね。でも、これで寝ることができますよ。こたつで寝るのは良い気持ちですから」
「いや、いっそのことマットレスはないほうがいいだろう」
二人で向き合ってコタツに入った。あかりは暑がりなので、電気入れていないがじんわりあったかい。体が少しずつあったまるのを待つだけで無言だった。暖かい。思いの伝わるようなありがたい暖かさ。
「こうなると、畳が欲しいな。長谷に畳を送らせるか」
「昔を思い出します。初めてコタツに入ったとき」
「そうだな。あれは僕が酔っぱらった時だろう。看病に来てくれたのか、文句を言いに来たのか、よくわからなかったが。炬燵に無理矢理入れたら足が触れて激怒して、そんなものに入っていられますかって怒って帰っただろう」
「よく覚えていないです。でも、こたつなんて見たことも聞いたこともなかったですし。でも人の生活は寂しいなって思ってたけど、人は人なりに触れ合い方があるんだって知りました。しまいにふたりとも寝てしまいました」
「そうだったね。ははは」
大沢は笑いながら、ふと底の深い悲しみを感じた。自分たちが目前に控えている悲劇とのギャップが大きすぎる。今ここにある幸せは、続かないことが決定しているのだ。こんな悲しいことがあるだろうか。この悲しみから逃げる手立ては無いらしい。不穏の重力井戸は、ぽっかりと深い暗闇の口をあけて自分たちを飲み込もうとしている。自分たちには逃げ場がない。涙が自然に出た。なぜ泣くのかよく分からないが、涙が出た。
「どうしたました? 何故泣いているのですか。今日、姉さまと何かあったのですね」
「いや、そうじゃないんだ。ほら、こたつが。なんとなく懐かしくてね。本当は笑うつもりだったのに、何で泣いているのだろう。おかしいな。ほら、僕たちはここへ来るまでいろいろあったじゃないか」
大沢は、とぼけたが、あかりはごまかされないだろう、と思った。自分は、あかりに話して一緒に泣きたいのだ。同情してほしいのだ。心の会話は苦手でも、伝えたい心があればあかりは感づいてしまうかもしれない。大沢は気がついた。姉があかりに会わなかった訳を。この二人は互いに嘘がつけないのだ。会えば、事の重大さと、その後すべきことが分かってしまう。姉は、あかりは拒否することがわかっている。そうすれば彼ら一族の末裔をここに残すと言う姉の希望は、当然果たせないだろう。この件はあかりの同意なしで進めなければならないのだ。今、姉たちは、まるで人間のように心に隠し事が出来なければ、彼らは皆滅びるしかないのだ。だから大沢が一緒にいる今が、最初で最後のチャンスとなる。
大沢は、涙を拭いた。姉や残された彼女の仲間たちのためにも、自分の不幸な気持ちを彼女に悟られてはなるまい。それに、さっきの姉との会話をあかりに知ってもらって、一体どうするというのだ。一緒に泣いてもらうのか、同情を買うのか?
あかりは心配そうに大沢の顔を覗き込んだ。
「あの良くない話なら、心、で会話しますか?」
「いや必要ないよ。ちょっと研究で行き詰まったところがあってね。情緒不安定になったようだ。もう少し考えがまとまってから相談する。上手く出来る自信も無いし。それよりなによりセンチメンタルにさせたのは、このこたつだ」
大沢は、そういってごまかした。
「本当ですか? でも研究の深い部分は私には分からないですね」
あかりは寂しそうな顔をした。
「うん。仮に悪い話だとしても大事な話は、そう特に君に対しては、よく考えて伝えないと、誤解されてしまうからな。君たちの語法にまだ慣れてないよ」
大沢は、ちょっと話をそらしておこうと思ったが、つい君たちの語法と言ってしまった。焦ったがどうしようもない。なにせ敏感に心を読む種族だ。一世一代の心のウソをつかなければならない。冷静に慎重にならなければならない。しかしあかりは、気づかなかったようだ。この辺りはまだ人間界で慣れていないということか。
「人間、特に都会人の悪いところですよ。考える前に話してしまえば、一緒に考えることが出来て、良いと思います」
「その説は、尤もで面白いけど、それは皆が一度に切り替わらないと腹の探り合いで大変になるだろう。お前から先にやれよ、って感じかな。その形は、ひとつの理想ではあるけど、心理的な駆け引きとか面白さがなくなるんじゃないかな」
「そうでしょうか。駆け引きがなくても最初から気持ちが分かっていればどうすれば良いか決まりやすい、と思いますよ」
「それはそうだ、君は正しいことを言っている。困るなあ」
大沢はそういって、笑って話を切り上げた。こたつのことにせよ、心の会話にせよ、あかりは大沢のことを考えてくれているのだ。少し前までは、単に東京の海をきれいにすることにこだわっているようだったが、今は、決してそれだけではないのだと思えた。これが何を意味するのか。あかりは重大な使命を持って都会にやってきた。そして一族の大事な使命を一時置いてでも、ついてきてくれたのだ。総合的に見れば、見張りと言った要素もあるのかもしれない。しかしオーロラの洗礼の日以来、あかりの心に以前のような使命への固執、狭い視野は解消されていった気がする。今考えると根強い人への恨みがあったはずだが、少なくなったようだ。彼女に何があったのかはよく分からないが、変わったのは確かに思えた。あかりの優しい心づかい、何かを犠牲にして心を砕いてくれている、そのあかりに、自分は何をして報いてあげられるのだろう。
それは、結論は目の前にあるような気がした。彼女の望みは、すでに一個人的なものから離脱している。すでに東京湾だけを救えれば良いとは、思っていない。その視点からなら、自分でも彼女の望みをなえてあげることが出来るかもしれない。彼女たちの一族は救われないかもしれないが、しかしどこか他の一族は生き延びられるかもしれない。それに彼女がこの地で生まれ変わるなら、東京湾での環境破壊のような過ちが起きないように、護るシステムを作っておけば良いではないか。それをこの場で実践すればいいのだ。
人間とか、誰か特定の利益と思わずに、ただ自然が保たれるような監視システムを作り上げればいい。そうすれば彼女たち一族も、人間の新たな世代もしばらくの間、安心して過ごせるだろう。そしてやがて、自然と人間との調和を保てる時代が来るかもしれない。その時が、いつになるかわからなくても。
準備は整っている。不確実性の問題に対しては統計的手法を用いた計測理念を確立した。実証サイトは、東京湾でプロトタイプが完成している。これらに汎用性を持たせるための安価な機会が必要だ。水質センサーは、東京にある岡本の計測会社が開発中の、空中・水中・地中統合型GPS発信機を用いることで耐えうるだろう。この開発には、以前あかりに頬を張られた原因となった海洋ゼネコンの会社が大いに出資してくれていた。いままでこれらを結びつけることが無かったが、なんとかなりそうだった。あかりを護る“ゆりかご監視システム”が構築できそうだった。
ここまで考えると、大沢の心は不思議と落ち着いた。彼女と結ばれないとしても、彼女のために十分貢献できる方法はある。それは、ただの見掛け倒しの好意でなく、自分オリジナルの、他の人に出来ない愛し方でないのか。それで十分じゃあないか、と大沢は思った。彼女の役に立てそうだ。僕が死んでも「ゆりかごシステム」が護ってくれる。ただ彼女に命をささげて死ぬのではない。自分の存在意義が残るような気がした。そして過去の忌まわしい事故以来、惰性のように生きてきた自分の命が、役立つのだ。これは、悪くない。いや、ものすごく良い機会だ。
あかりは、大沢が最後に言葉を発したときと同じように、大沢を見つめて座っていた。もう無理に心を読もうとはしなくなっていた。ただ、こっちを見つめてくれていた。この子にはかなわない。でもこの子のために何か残せるのなら、そのための生も死もたとえ苦しくとも幸せだ。
「ところで、ひとつお願いがあるんだ」
大沢は、以前あかりがやったような笑顔を真似たつもりで、切り出した。
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大沢はそれから約三ヶ月、研究室にこもった。夜も極力帰宅せず、研究室でわずかな睡眠をとった。あかりには、食事を運んでもらうことと、分析のまとめと論文の誤字・脱字チェック、清書をお願いした。お互いにハードなスケジュールであったが、最後の三週間は特に睡眠を削ってでも大沢は没頭した。あかりは、体調について心配したが大沢の顔は、充実感だろうか、健康に見えたし、食事もおいしそうに食べていた。それでいて燃えるような熱意を持っており、妨げるようなことは言えなかった。それでも、たまには生き抜きでもさせたいと考え、ドライブや散歩しようと話しかけた。しかし、大沢はこういった。
「お願いだ。あと少し、あと少しだけやらせてくれ、やるべきことがわかったんだ」
そして最後の三週間のうち、最後の三日間は完全徹夜だった。あかりは、さすがに休ませるべきだと思い、研究室の扉をたたいた。
「大沢さん、いくらなんでも、三日徹夜は体を壊しますよ、お願いだから、少し休んで」
大沢は、机から振り向いた。
「できたよ」
投稿用の論文が三本、これは二本が限られたエリア内での調査成果のまとめ、残りの一本は、調査方法の学術的根拠を確立させたもので、実験的手法と統計的手法を取りまとめることに成功していた。そして、別冊で研究成果のデータ集すべてを公開することにしていた。これらを用いて研究成果が正しいかを確認することが出来るはずであった。そして調査手法をとりまとめた本、特に対象の規模や汚染状況に準じて、予算の大小に応じて計画を立てられるように配慮していた。さらに実験計画法を用いることで、不確実性を極力排除する理論を確立していた。そして検証方法。査読ではねられることもあるかもしれないが、ある程度は受け入れられるだろうし、英国海洋研の実力者を共著にお願いしており、不測の事態にもある程度備えることが出来た。
「完璧ではないが、満足してる。ありがとう」
大沢は文字通り倒れた。そしてその顔は究極に疲労していたが、笑顔であった。
それから大沢は、一ヶ月ほどかけて、論文と出版の準備を行った。論文の投稿は共著者の理解度が違うこともあり、根回しに相当な時間がかかった。また新型計測器の開発では、日本から岡本に来てもらって直接打合せなどを行わないと、詳細部分は決まらなかった。それらを受けての論文と書籍の修正など、多忙を極めた。無事論文の投稿を終えて、新型計測器のプロトタイプ五十個が、大沢の手元に届くころには、すっかり夏を迎えようとしていた。港町サウサンプトンに、さわやかな風が吹いた。
大沢は、今度こそ最後であろう、岡本や関係者との打ち合わせを。ロンドンで行った。そして一日は、ロンドンで姉と会った。その翌日、あかりをドライブに誘った。どこに行きたいの、という大沢の質問に、あかりは、ある写真を見せた。それには、美しい草原と海の広がる風景が映っていた。コーンウォールだ。サウサンプトンからは、車で二時間ほどの距離である。
どうして、ここがいいの、と大沢が訪ねると、あかりはこう答えた。
「大沢さんと見た海に似てる」
確かに。北海道のオホーツク側の地形と似ているかもしれない。わざわざそんなところを選ばなくても、あかりがすごしてもいい場所を選ぶべきだと思ったが、それは愚問な気がして何もいわずに頷いた。
翌日出かけるとき。これで最後だと思うと何かとついつい片づけてしまっていた。最近はあきらめがついたのか、落ち着いている自分がいるようだった。そうそう、埼玉のお袋にも電話しておかないとな、そんな妙な余裕があった。その時あかりが入ってきた。
「あれ、妙に片付いてますね」
あかりが不審そうに言った。大沢はまずいと思ったが、研究もまとまったので、たまには片付けたいんだ、と答えておいた。
雑誌に掲載された草原なんて、すぐには見つからないだろうと思っていた、大沢だったが、あかりは恐るべき嗅覚でその場所を探り出した。明るい太陽が、ほとんど無風の草原を照らしていた。青い海はないでいて、優しい顔をしていた。広い草原と透き通る青い空は、大沢とあかりの心を十分に穏やかにしてくれた。
「良い場所でしょう」
「うん」
持ってきた昼食を済ませると、大沢は、いまこそ本題に入るべきだと思った。話さなくてもいいかもしれない。話さずに、あかりを生まれ変わらすことも出来るだろう。しかし一方で、それはあかりをだますことになる。その誤解を持ったまま彼女を生まれ変わらすことは、彼女にとって良くないのだ。姉は、二度目に会ったとき、結果でなくプロセスが大事だと言った。それは、こういうことなのではないのだろうか。そして自分で考えて判断しろとも言った。
「今日はありがとう。話したいことがあるんだ。言葉では上手く話せない」
あかりは深刻な顔をした。
そして、二人は心の会話をした。あかりの顔がみるみる青ざめていく。
―な、何いってるんですか?
―そういうことなんだ。僕は、もう覚悟が出来ている。君は新しい生命になって、あたらしい海で生きて欲しい。
―僕は、十分に目標を達成できたと思う。この三ヶ月、欲得なしで、純粋な論文とデータ集、書籍の原稿が書けたと思う。この時代に見返りなしで、だよ。そして君とも出会えた。オーロラの夜から幸せだった。もう十分。あとは君を送り出すことが出来れば僕の役目はほぼ終わる。もう穏やかな晩年の気分だよ。
―僕は君が好きだ。結婚したいとか、体を重ねたいとか、そういうことじゃなく、自分の理解者として、かけがえなく思う。君の一族の運命も知った。僕は僕の十字架を背負っている。きっと誰でも何か十字架を背負っていると思う。ここまでの人生で僕の出来ることはやれたと思う。あとは君が十分に生きられるように務めを果たしたい。
―大沢さん、何を言うのですか。いやです、そんな、そんなことできません、できるわけない。
―大沢さんを無くして、その人との記憶を失ってまで、父様も姉様もなく、ここで一人ぼっちで生きろと言うの。そんなこと考えられません。
―新しい、この地の精霊として生まれ変われる。ここは自然の慈愛に満ち溢れている。
―そんなのいやです、絶対に嫌です。
―今の君の新しい使命は、一族の生きた証を絶やさないことだ。東京の海に棲むものたちはそれを願っている。君たち一族を根絶やしにするのが人間なら、僕は一人でも救いたい。君はその価値がある。僕の遺言はすでに完成させた。君の使命は海を戻すことだろう?君がやってくれた成果は、論文に永遠に生きる。そして科学的な試料採取の手法と、科学的根拠のある解析手法で、もっと広まる。今のままでは少し悪くなる程度がゆるくなってるくらいだが、きっと広まる。君は、その経過をまだまだ監視しなくちゃいけない。僕のことより使命を果たすことが大事だろう。東京の一族は、絶えても、世の中にはまだ苦しんで待っている連中が居るんだろう。
―だからって、大沢さんが死ぬ必要はないでしょう。一族が滅びれば良いのです。もともと、行き続けられる可能性は低いのですから。
―君の意見はいつも正論なんだ。論破されそうだから、もう繰り返さないよ。僕のやるべきことは、あとひとつだ。そして君の使命は、生きるということだ。
―で、できません。それなら残りの者たちで最後まで生きるだけです。もし大沢さんが死にたいなら、私も一緒に死ぬしかないです。大沢さんがいなくなれば私の一族が滅びるのも確実です。私も死にます。
―それでは、僕が死ぬ意味がないだろう。みんな死んでしまうなら君だけでも生かしたいよ。
―大沢さん、逃げましょう。
―君たちの一族から逃げるのは大変そうだよ。世界は海でつながっているしな。
雨が降ってきた。
―君を泣かせたくない。それにこの海と草原は簡単には汚れはしない。僕が研究成果で守ってあげる。英国海洋研に、この場所のモニタリングを提案している。陸・海・空。君は僕の提案した観測網で守られる。
霧のような細かい雨が、あかりを覆い隠すようだった。自分は何度、この子を泣かせただろう、と大沢は思った。そして姉からもらった、二つの小瓶を取った。
「だめ、やめて。いやぁ」
あかりは、力なく言った。
大沢は小瓶のうちひとつの栓を空けた。
「大丈夫。それにしても僕は幸せだよ」
にこりと笑って見せた、あかりが見せてくれた希望の微笑みのように。あんな風に上手く出来ないが、そしてそれを飲み乾す。大沢は、あかりにも差し出そうとしたが、あかりは、その力も無く受け取れない様子だった。それを見て大沢は、体をあかりに寄せて、肩にそっと手を置いた。そして自ら、もう一瓶も開け、口に含んだ。これであかりの悲しみを全て白紙にすることができるだろう。これであかりは新しい世界で生まれ変われるのだろう。そして泣きじゃくるあかりの唇に重ねた。姉のくれた液体をあかりに口移す。液体を飲ませるだけだった。それだけだ。この時初めて大沢は暖かいものを感じた。この柔らかいものはなんだ。大沢は唇を離せなくなった。俺はあかりに下心なんて抱いてない。そんなはずはない、
意識が朦朧としてきた。大沢は意識をはっきりさせようとして唇をあかりから離し、あかりを強く抱きしめた。いや違うかもしれない。あかりを離したくなくなったのかもしれない。いまさらだが、彼女との時間が過ごせなくなることが惜しい。この小さくて暖かい可憐な少女を僕は好きだ。気づくのが遅かったが、気づかないよりはいいじゃないか。
まとめてあった髪がほどけて雨にぬれて銀色に見える。あかりは薬のせいで気を失っているのか、もう穏やかな顔となっている。今までも時折見せていた優しい微笑だった。この様子だと上手く行っているようだ。よかった。本当に良かった。せめてあかりを抱きしめながら逝きたい。
そして大沢は意識を失った。
*
大沢の目が覚めたとき、目の前には赤く夕陽が映える空と海があった。地球から見える最も遠い太陽の光とはいえ、太陽の輝きは、あまりにまぶしすぎる。大沢は太陽に手をかざした。手に隠れた太陽。その隙間からは、ほのかに白む西の空が覗いている。大気は酸素や二酸化炭素、わずかなオゾンも含まれるのだが、そのおかげでこんな輝きに触れられる。見えない物質のおかげで。僕たちは感激できるのだ。僕はまだ夢を見ているのだろうか。夢、死んでも夢って見るのか?そして今度こそ目が覚めた。
あかりの姉がいた。ニコニコしていた。
「お帰りなさい。生きてましたね」
「ここは天国じゃあ、ないよな」
「天国ではありません」
大沢は重いからだを起して、周りを見渡した。あかりはいない。何もない。薬を飲ませるために抱きしめたはずだったが、大沢の手の中には何もない。それより、なぜ自分は生きているのか。これまでの記憶を失ったのは、俺のほうではないかと思ったが、それはないようだ。姉の笑顔にだまされたが、あかりがいなくて自分が生きていることに矛盾を感じるのにさほど時間はいらなかった。あかりは、どうしたのか、自分が生きてることは、失敗したのかと、矢継ぎ早に姉に聞くが、姉はそれに答えず笑顔を静かなニュートラルな表情に戻して、立ち上がった。
「大沢さん。どうなったかは、これから順にわかってゆくでしょう。ご自分で確認してください。後は、あなた次第です」
そういわれても困る。冷静に考えて事情を把握しているのはあかりの姉だけだ。どこにいるんです、あかりは! この土地の精霊になれたのか、と大沢は聞いた。
「慌てないで、大沢さん。失敗したわけではありません。でも想定した結果とは異なりました。その答えは、あなた自身が持っているのです」
「何わけわからないことを、言ってるんだ」
「あなたとあかりが、どうなったかは、あなたが感じて、あなたが、解決してください」
姉はそういうと、大沢の手をとり立たせた。そして、答えは一つではないものですね、とつぶやいた。