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13
年が明けて春が過ぎ初夏を迎えようとする時期、地球惑星合同学会が開催された。その五十八番ブースではちょっとしたどよめきが起こっていた。それは、全体の学会では目立つものではなかったが、参加した関係者にとっては、大きなニュースであった。会場の隅ではきっちりとスーツを着こなした役人風の二人の男がさっそくこの研究を話題にしていた。
「この研究の成果、本当だとすると極めて危険ですね」
「昨年まではたいした成果が上がっていなかったが、今年はすごいね。相当ねっとり調査したなあ。ちょっと油断してたよ。今取り上げられるのは困るなあ。いずれ、僕らの省の港湾環境部が、取り組まなければならないのだが」
「これがちゃんとした論文になると、少し困るかもしれません。ちょっとよそで研鑽してもらったらいかがでしょう」
「そうだねえ。これを見た環境保護団体に取り込まれると困るよ」
「しかしよくぞ短い期間にこれだけの綿密な調査をしましたね」
「そう。詳しく話を聞きたいが、僕は立場的に動けないな」
「それは私の方でやりましょう。深口研なら財団法人の海洋研究所ですし、話はしやすい」
「君に行ってもらっていてよかった。海外の研究部門の口はあるかな」
「それはもちろん。まあ、そういう口は、あるっていうより、用途に応じて作るんですよ。彼の上司は西田教授ですね。温厚な方ですし、周りに反体制派の方もいません。田沢女史のような」
「やめてくれよ。反体制かなんか知らないが、あの人は苦手だ、あまり僕らの立場は考えてくれないからな。ああならないようにも、上手く話をしておいてくれ」
「わかりました。西田教授に紹介してもらいますよ」
それから数日後、大沢は、西田教授にゼミのあと、話しこんでいた。そのあと、長谷に何を話していたか聞かれた。
「ちょっと突然で驚いているんだが、英国海洋研に研究員として行ってみないかと言われてる。まだ内密の話らしい」
「何い! そりゃあすごい」
「僕の研究が認められたのか、別の意図があるのか。イギリスの新設高速炉発電所の周辺海域の影響調査に、僕の研究成果を取り入れたいってことらしい。金も出してくれるらしい」
「一体、どうしちゃったんだ。もしかして、担ごうってんじゃないのか」
「俺もそう思った。唐突な気もする。金の出所は経産省らしい。一応、深田海洋研究所経由らしいのだが。将来、地層処分とか高速炉の調査手法とかに興味があるようで、彼らの味方になるように包められるかもしれない」
「そこまでは、分からないと思うぞ、考えすぎだろう。まあ、協力してもらえる先生としては使われるだろうな。そうだとしても、科学者としての立場を崩さなければいい話だ。過剰に恩を感じる必要はあるまい。それにしても急だな。今の湾の研究もあるしな。完成させたとはいえないだろう。対策や方法についても具体的な話はできていなんじゃあないのか?」
「一応、深口研が丸ごと抱えてくれるらしいのだが。こちらとしては、あまりにも現状が中途半端だという話はした。しかしお金の点で急いでいるらしい。西田先生の話では、この間の学会発表を聞いて、今東京湾で爆弾を爆発させたくない意思があるのでは、と言っていた。国として環境については、取り組みつつあるので、あまり大きな騒ぎにはしたくないらしい。汚いよな。そんなつもりは無いのに」
「それじゃあ、追っ払うわけか、そりゃひでえ」
「ただ追い払いたいわけでもないらしい。そのあたりの意図が、よくわからないんだよ。どうも東京湾の本格モニタリングは考えているから、その前に一つ、実施例を作って来い、という事らしい」
「都知事の圧力かもしらんぞ」
「それにしても、今東京湾をやめるのは、あまりに中途半端だ」
「ううむ。ちょっと唐突だな。湾の調査が完結するのに、どれくらいかかるんだ?」
「ううむ。それに回答するのに問題がある。海外に行くにせよ、ここでやるにせよ、この調査法には、欠点があるんだ」
「ツンデレ少女か」
「うん。今回の調査方法は安く、しかし効果は抜群だ。裏付け試料もちゃんとあるし。それは彼女がいるからなんだよね」
「イギリスにいくなら、連れていかないかんな」
「いけないだろう! 大学一年生だぞ、それも。よその大学だし」
「ああそうか。なんか、いつもいるからそういう気がしないな。まったく、不思議な子だよ。しかし彼女なしでやれるのか?それも深口研が引き取るのかな。まあ、大手の研究機関ではあるがね」
「まあ待てよ。そもそも、向こうで何を求められているかが、問題だ。普通に考えると向こうでも東京湾方式を適用しつつ、一般化した手法を構築、ううん、模索?する」
「それは、今ここでやってるじゃあないか。同じだぜ」
「そうだよな。しかし彼女を連れて行かなければ、今の方法は続けられない。俺はあんなに潜れないし、もぐったとしても、あんなきっちり試料採取できない。金を掛ければできるのだろうが、とてもそうなると、試料数は予算内に限られてしまう。データ数が増やせない。結局それでは解析の質が落ちる」
「そんなものが研究テーマになるかよ。しかしサウサンプトンの英国海洋研なら、研究の環境としては、申し分ない。研究費用も出してくれるんだろ。それだけなら、実にうまそうな話だ」
そういいながらも、長谷も少し顔を曇らせた。
「これは、個人的な意見だが、ここまでせっかく研究が進んでいる湾の調査を中断するのもどうかと思うよ」
「わかってる。ただ、もともと東京湾の汚染はこんなに深くやるつもりはなかったんだ。最も汚染されている場合の情報収集をしておきたかったのと、全体的に汚染が進んでいる場合のシミュレーションができればいいと思っていたし。そんな初期の段階なら、俺だってこの話に飛びついた」
「それが、ツンデレ少女の出現によって、思わぬ成果が得られ始めたと」
「そう最近の調査結果によると思っていたよりひどいんだ。拡散の効果はあまり大きくなく、滞留しているんだ。ゲル状になっているところも多い。流れ込む河川の水量が今年は渇水で多くなかったせいで、湾内の対流が活発でないこともあるんだが。自然の治癒能力、というか浄化機構かな?を大きく超えてしまったのか、汚染物質の流入量が多くなったのか、理由はまだ良く分からない」
「それは、春の地球惑星合同学会で発表したやつだな。ちょっとした話題になったと聞いた」
「しっかりしたデータがある事実だからね。ただ解析は不特定な要素が多くて説得力は強くないので、現状では研究報告で、論文にはならないんだ。俺は研究成果より、この速さで汚れが進むことに関して、ちょっと鳥肌が立った」
「ううむ、この状況で頓挫するのは、悔しいね」 長谷はここで、大きく背を伸ばして、うぉぅ、と叫んだ。「だから、一人でやるなっていってたんだよ、学生もいない、共同研究者もほとんどいないんじゃあ、どうしようもないじゃないか」
「それを言うなよ。一人でやりたいと言うのはあるんだ。別に他人が信用できないわけじゃない。西田先生は、欧州行きは断ってもいいと言ってくれている」
「俺は、棄権に一票だな。しかしツンデレ少女が納得するとも思えんぞ。まあ泥酔した時のようにケンカせず、よく話して見ろ。お前の唯一の共同研究者だからな」
長谷はそういって去っていった。彼なりに気を使ってくれていて、ありがたいと思う。頭の中で整理がついていると思うことでも、口で話すと、意外な論理の破綻があったり、情報の欠落があったりするものだ。それに頭の中を整理することもできる。
大沢は、正直言って悩んでいた。問題はシンプルであるが、結論を出すのは少々悩ましい。海外の研究所への留学が必ずしも良いというわけではない。しかしフィールドを持つ学問では、いろいろな場所で経験を積むことは、将来貴重な経験となるはずである。大沢は学部、大学院、今の研究所と全て異なっている。大沢が学部生のときの恩師は、同じ大学の大学院へ行くかどうか迷っているとき、他へいけと説得してくれたものだった。帰ってくるのはかまわないが、それまでは他で学んで来いと言ってくれた。水質や土質にかかわらず、どの場所も二つと同じ性質を示すものはない。大体同じはありうるが、全く同じは存在せず、そのわずかな違いは、非常に重要な意味合いがあるのである。
海外の著名な研究所行って研鑚を積み、確実な理論と実習を元にその能力を帰国後、各地で適用するということは、これまでの彼の生き方と整合するものだった。今、東京湾の研究を行っているが、これも理論を実践するための、いちフィールドなのである。学部で学んだ某北陸地方の入り組んだ湾、卒論のフィールドとなった千葉県の湾岸、修士や博士論文ではもっと様々な地点の調査結果を基にしている。これらの事例は、世界で認められる研究にはならない。しかし英国海洋研究所のような大きな研究機関や、あるいは公共的に意味のある場所で調査ができれば、国際的にも認められやすい。海外で認められれば、国内の役人や学会にも受け入れられやすくなり、最終的には東京湾の解析は、これまでより進むと思われた。
しかし、あかりは反対するだろう。彼女は試料採取等、フィールドでの協力者であるが共同研究者に近いものがある。しかし実のところ、あかりの行動力の源は、東京湾を救いたいという一点によるものである。研究手法や、他の環境調査のために骨折ってくれるとは思えなかった。そんなあかりが、海外行きに賛成してくれるとは思えない。
英国行きの諾否への回答の期限が数日後に迫っていたが、大沢は結論を出せずにいた。とりあえず、あかりに相談をしなければならないのは、分かっていたが勇気がなかった。自分は何を苦悩しているのだろうか、と頭を抱える日が続いた。
14
数日後、試験室で分析を終えた大沢とあかりは、久々に落ち着いて話せる環境にあった。大沢は、むしろそのような環境を探していた。そんな気持ちは、遠からず、あかりに伝わっていたようだった。ひと段落着いたところで、あかりのほうが切り出した。
「大沢さん、何か言いたいことがありませんか?」
やはりあかりの勘はいい。覚悟ができていたわけではなかったが、ここで言わなければもうギリギリになりそうなところまで来ていた。大沢は腹を決めた。
「ある」
あかりは、よかった、という顔をして、何でしょうか?と言った。
「まあ、たいした話じゃないけど。いや、それはうそだな。深刻な話だ」
「はい。なら話してください。言いづらいということは、よくない話。ですね?」
あかりは、大沢の顔をじっと見ていった。
あかりは、人間との会話の難しさを嘆く。あかりたち海に棲む一族に言葉はない。水の中に棲むものは、振動が伝わりにくいという点で言葉が発達することはなかった。そのかわり相手に伝えたいことを考えれば、そのまま伝えられる能力が発達した。意思は自由に相手に伝えることができる。環境が異なる人間にはそのような能力は必要なかったのだ。人の間には空間がある。この空間はすべてを断絶する溝となる。意思を伝えるには空気を震わせて、音にして相手に伝える。だからこそ多彩な思考、個人の思想の高度な発達が可能となった。いわゆる芸術や思想について、海中に生きるものについては、到底想像できない文化であった。あかりは人になったら、少し時間ができたなら人間文化について触れたいと思っていた。しばらくその気は失せていたが、先日の音楽芸術に触れたことは極めて刺激的だった。それに人間の世界でも意思を伝え方も最近分かってきた。目を見て顔の表情を見て心を込めて伝えればよい。そういえば、姉が言っていた。
――人間は気持ちを伝え合うのは、恥ずかしいと思っている一面もある。たとえば、夫婦とか恋人とか、親子とか自分の周りにいる限られた人のみがそれをできると思っている。
あかりは大沢の苦悩を知りたかった。海に棲むもの同士であれば、その苦悩は容易に共有できる。共有がすべてよいとは限らないが心は軽くなる。大沢にもその方法を教えてあげればいい。海に棲むものは無意識にそれをやっているけど、人間にも方法を教えてあげれば出来るかもしれない。
「大沢さん、話しづらいことがあるのなら、こんな方法があります」
「ん? 」
「なかなか言いづらいことや、話しづらいことがあるのでしょうけど、私は友達と、こうします。伝えたいことを、具体的に心の中で思います。心の中で形にするのです」
「心で形を作る? 」
「そう、できますか?一緒にやります。だまされたと思って」
「どうかなあ」
「難しいと思いますが。まずは、単純な事柄でも良いです。おなかがすいた、とか」
大沢は、思わず笑った。確かにそういう本能の思いなら伝わりやすいかもしれない。大沢は、ううむとうなりながら、おなかがすいたと考えてみた。
「そうです。それで、その気持を見えないですが、形にしてみてください。私に伝わるかもしれません」
「そこがわからないね」
大沢には正直、分からなかった。気持ちを伝えるとはどういうことなのか。普通人間同士では、言葉を解して意思を伝える。ツーカーの仲というのもあるが、それは夫婦や長い付き合いの友人が多く、その期間の間にたくさんの意見を交わしたり、意思の疎通を交わしたりしたから、ちょっとしたしぐさに反応できるようになっただけだ。人間はいいセンサーを持っている。熟練すれば他人には見えないしぐさも判別できるようになるだけの話だ。あかりとは、とてもそんな仲になったとは言えない。
「おなかがすいたという気持を、心の中で見えないですが形にして、私に伝えたい、と思ってください」
やはり伝わっていない、と大沢は思った。さらに強くおなかがすいたと考えて見た。
「う~~ん、これでどうだ」
あかりは、何も感じなかったようだった。
「ダメ、ですね。力んでもダメですよ」
大沢は、ばかばかしいと、思った。少し付き合えば飽きるだろうと思っていた。しかしあかりが一生懸命なのを見ると、少し気の毒な気がして、すこし真剣になってもいいかと思えた。どうせだめだと思ってやるのは、何につけ、時間の無駄である。そう考えてみると、ツーカーの仲になるということをあかりが考えているとは、思えない。何か、特別な伝達手段なのだろうか。脳波、振動?いや、それ以前に。少し前向きに慣れそうな気がした。
「そもそも、おなかがすいていない状況ではだめじゃないかな」
「そうですね。じゃあ、もっと切実な気持ありませんか?感覚的に繊細にならないと」
「感覚的に繊細に?よけいに、よくわからないなあ」
「感覚的で良いのです」
あかりは大沢の顔を覗き込んでそういった。しっかりした目はとてもきれいだと思った。見つめるあかりの顔は真剣そのもので、その心が受け取れるようだった。そして何よりまじめさが、かわいく、いとおしさを感じた。その瞬間あかりの顔が輝いた。
「あ、何かわかる気がします。なんでしょう暖かい感じ。これは! 」
あかりは、顔を赤らめた。
大沢は、何が伝わったか見当がついた。大沢も恥ずかしかった。これなら口で言ったほうがまだ楽だ。あかりの反応を見ると、ただかわいいという気持ちが伝わったわけではないような気がする。いわゆる好意、それが下世話であれば、いとおしいと思う気持ちだろうか、そういう形で伝わったのだろう。
「はい。あの、よく伝わりました。ですが。その、ありがとうございます」
あかりは、そういって、いつもの冷静な顔に戻った。むしろ大沢は意識してしまう。意識すればするほど、殻ができてしまうのだろう。あかりの言う感覚的というのは、もっと誠実かつ真剣に強く思うことなのだろう。それは考えるのでなく、無意識化で行われなければならないのだろうと大沢は思った。
そのあとも、あかりとの意思の疎通の練習に付き合うことにした。
「うん、なんか切実な感じですね?何だろう」
あかりは、首を何度もひねりながら説明してくれるのだが、なかなかうまく行かなかった。
「まだ、力んでるのかな」
「ええと。大沢さんの場合は、無理に考えない方が良いみたいです。あとは慣れでしょうか。少しは進歩しています。でも言葉がなくても、伝わることがあることはわかってもらえたと思います」
大沢は、愛情はうまく伝わったのに、他のものが伝わらないことが、妙に気になり、そんなあかりの慰めを聴きながら他のことを考えていた。愛情の時と何が違うのだろう。
そうだ。あかりは形作れと言ったけど、純粋に悩めばいいのかもしれない。この件は、あかりのことであり、大沢のことでもある。あとはあかりが汲み取ってくれる。伝わらなくても、僕のせいじゃあない。カウンセリングみたいなものだ。カウンセリングという言葉に、すこし不吉な印象を感じたが、それはすぐに頭から追いやった。
そして、大沢は真剣に考えてみた。あかりに愛情が伝わった時のように純粋にそのことだけを思うことにした。海外の有名な研究所から誘われていること、そのためには東京湾汚染調査は、一旦中止せざるを得ないこと。あかりを連れて行きたいが、その熱意を理解しているので言い出せない、しかし一緒にきて欲しい事。堰を切ったように意識の流れができる。流れが二人の心にまとわりつくように流れてゆくといい。これが口で言えれば苦労しないんだが、と大沢は思った。
大沢は思わず目を閉じていた。どれだけの時間がたったのか、よく分からない。ふと気づくと雰囲気が変わっていることに気づいて目を開けた。
目の前には、青ざめたあかりの姿を見た。先ほどまで、ほんわかオーラを放っていた姿とはまるきり違った。一瞬で空気が、いや空気中の水蒸気が凍ったようだ。
「信じられません。私、大沢さんのことを信じた。最後までやり遂げる人だと。途中で投げ出すのですか?」
大沢は、舌をうった。すべてをあまりにもストレートに理解されてしまったと感じた。この子には不思議な能力がある。それはわかった。それより問題は、どうやらネガティブな考え方が伝わったらしい、と言うことだった。しかしネガティブであれ、アクティブであれ、分かってしまった以上、ちゃんと話をしなければいけないのだ。いままで延ばし延ばしにしてきたが、ここにいたっては、ごまかすことはできないだろう。
「違う。東京湾の汚染を見捨てるわけじゃない。この仕事をやり遂げたいがために一旦離れるだけだ」
「その間、海の汚れが進んでしまいます。ただでさえ、瀕死の状態なのに」
「それは後で取り戻せる」
「もどせない! 一旦壊したものは元にはもどらない。大沢さん、それ、わかってるはずなのに!前にも、今が大事って言ったです」
そう、そう言った。今の研究成果からは現実として汚染は拡大しつつあることがわかりつつあった。戻すことが容易でないどころか、現在の状況さえ保つことは難しい。
「そう。壊れた生態系は戻せない。今すぐに保護して現状を少しずつ回復させるのが今できる最善の策」
「どうして、それをしないのに、他のところへ行くのです」
「今の僕の力では、そこまで持っていけないんだ。そういう対策は、国や都の仕事だ。でもうまい方法を開発すればチャンスはある。国や自治体に提案することもできる。逃げたり、あきらめたりするわけではないよ。もっと画期的な方法と、理論、実績を積んで必ず東京湾をきれいにする」
「破壊的に汚染されてることは、分かってる。結果出てる!この間発表した。話題にもなった!今、なぜ動かないです」
大沢は、激しく燃えるあかりの目を見て話した。言い訳に聞こえてしまうだろうか。しかし僕の思いは彼女に正しく伝えたい。ここで逃げるわけにはいかない。
「だめだ。原因を究明する前に対策なんかを訴えてしまえば、理屈付けでつぶされる羽目になる。そうすると立ち上がるのは大変だ。寄り道に見えるかもしれないが、今きっかけは作った。このあと海外で力を蓄えて、後で堂々と証明すればいい。国や都に働きかけるのはそれからだ。今動くより、ずっと効率的だ。最終的にゴールはそっちのが近い。どちらが速いかの方が、君にとっても重要だろう」
あかりは依然として納得できない顔で、大沢を真っ向から睨みつける。
「人間の言う、効率的、は信用できない」
人間?君だって人間だろう、といいかけたが、今の問題はそれではないと思った。あかりの苦悩は理解できる。でも自分は言わなければならない。続きを話そう。
「僕の東京湾での研究の成果は、君がいなければできなかった。この先も君の協力が必要だ。それほど思い上がってるわけじゃない。君がいてこそ、複雑な海の状況を把握できた。感謝してる。君についてきてほしい」
「いやです」
「君は、僕の気が変わらないように、君は僕を見張らなければいけないだろう」
すっとあかりの顔から血の気が引いた。情熱で攻撃的な目ではない。冷静で誰も信じていない。最初に出会ったときの冷たい目だ。
「私は大沢さんのために協力したと違う。海を元に戻すために協力した。ここの海を元に戻さないのなら、あなたに協力することはできない」
「待ってくれ、東京には必ず戻る。戻らないわけじゃない。でもそのためには、僕一人では無理なんだ。君の力が必要だ。手伝ってほしいんだ。正直に言うと、君の能力だけではない。君にいてほしいんだ。僕個人のためにもついて来てほしい」
あかりは、顔をそむけた。大沢の自分への想いはさっきの心の会話でわかっていた。しかし。私には使命がある。大沢を手伝うのはこの海をきれいにするための手段なのだ。私の行動には東京湾のための意味しかない。それ以外に何の意味があって今、人の姿をしているのか?
大沢に好かれることに何の意味があるのだろう。人間の世界では喜ばしいことなのかもしれない。しかし私にはその気持ちに浸ることはできない。いまだって人間は苦手だし、海に帰りたいと思う。ならば、こう答えるしかない。
「それは、私の使命とは、関係ない。ついていく理由はない」
冷たく大沢を見つめる、あかりの目から、涙が落ちた。それは異様な光景で、あまりに痛々しかった。大沢は、ほろほろと涙を流すあかりをみて、胸をかきむしりたいくらい後悔した。自分中心の思考の結果が、あかりを公私共に惑わせてしまった。自分の行動全てが、空しい。よくも考えてみろ、何歳下か?一回り以上は違うだろう。そんな子相手に、何を言ってるんだろう。なんとかしなければいけない。
「ごめん。俺はどうかしていた。確かに、英国行きはうまい話なんだ。君の言うとおり、ここに戻らないかもしれない。一人で行くしかなさそうだ。そうだ。実は、東京湾の汚染については、まだ何人か研究してるやつがいる。ま、ライバルみたいなものだが、彼らを紹介してあげられると思う。むしろ、ここまでの研究内容を公表して、かれらに後を引き取ってもらっても良い。君の目的に合う調査は十分に進められるように、手配する」
大沢は、そうは言ってみたが、あかりなしで海外へ行き、どのような研究ができるか、全くイメージがわかなかった。何のために研究しに行くのだろうとも思えた。彼女がいなくては、これまでのような調査は難しい。そんな状況で、研究を進められるのか、疑問であった。何ができるのか、まったく予想がつかない。
東京湾の汚染の研究にしても、大沢のようなアプローチをしているものは少ない。自分に比べれば他の研究者は、まだ広い目でしか研究対象にしていない。十分彼女の目的と、調査方法を理解してもらって引き継ぐには時間と根気が必要だと思った。
あかりは、まだ、涙を流していた。大沢には、その目は何かの意思を伝えているのかもしれない、と思った。厄介払いなのか、と言っているのだろうか。大沢の思いを汲み取ったように、あかりはその気持ちを汲み取ってほしく、なにか思っているような気がした。しかし、大沢にはそれはできない。どうしようもなく寂しい気持ちがわくだけで、慰める言葉も思いつかなかったが、何か言わなければ耐えられなかった。
「もうすこし考えてみてほしい。姉さんとも相談してくれ。また話そう」
大沢は、外に出てタクシーを捕まえてあかりを乗り込ませた。あかりは頼りなく座っているため、大沢もタクシーに乗せただけで放っておくわけにはいかないと思い、乗り込んだ。しかし大沢はあかりの家を良く知らなかった。とりあえず知っている住所、中野区弥生町とはなしかけたところで、無言であかりに制された。あかりは、無言だったが、運転手は一人で「ああ、こっちね」「ここ右折ね」と一人で反応している、変な人だな、と大沢は思った。しかし今、そんなこと、どうでも良かった。
タクシーは多摩地方の郊外を走っていた。大沢は、意外に遠いなと思った。住んでる場所は中野区ではないようだった。外は雨が降っていた。また降ってきた、しつこい雨だな、と独り言をつぶやいた。きっとあかりの心のような雨なんだろうな、と思った。そういえば、最初に怒って帰った日も雨が降っていた。コンサートに遅れたときも泣いてた。関係ないのか、あるのか知らないが、怒るときはいつも雨だな、などと考えていた。やがてタクシーは自然に、ちょっとした良い作りのアパートの前で止まった。大沢は意外に高いタクシー代を払って外に出ると、あら、あかりちゃん、と言いながら、あかりの姉が現れた。大沢にも気がついたようだった。
「あら、大沢さんも? また、あかりと何かあったのね。あらあら、こんなになっちゃって」
姉は、あかりを見て、やれやれと言った顔をした。
あかりは、姉の後ろへ隠れるようにして、大沢の方へ振り向きもせずアパートへ向かっていった。
「何があったか存じませんが、あかりを信じてあげてください。これは、私からのお願いです」
大沢は、あかりがもう研究所に来ないのではないかと思って、姉にある程度、渡欧に関する話をしておく必要があると思った。しかし姉は、言わなくてもいい、と言いながら首を振った。
「大丈夫。信じてあげてください。誤解は必ず解けます。どちらかがあきらめない限り」
そういって、にっこり微笑んで姉はアパートの一階の部屋に入っていった。
わかるものか、大沢は雨に打たれながら思った。どちらもあきらめないってのは、大変なことだぞ。
帰り道は、近くの私鉄の駅までタクシーで送ってもらった。大沢は、ぐったりとシートに背をもたれさせた。ここまでの研究の一連の成果は、あかりの能力に引っ張られている。データの蓄積は、ほとんどあかりの奮闘によるものである。もしあかりが居なかったとして、今の研究が進んだだろうか。解析ソフトもデータ量が豊富であるからゆえ、大胆な手法をとることができている。いまさらながら、その存在の大きさを感じる。自分などは半人前だったのだ。あかりだけでも、その能力を生かせたかどうかは分からないだろう。二人でやるからこそ、なんとか一定の結論を得つつあるのだ。一人では半人前以下であり、何ができるのか、わかったものではない。
「研究では完全に依存してたな」
そしてあかりは、もう研究室に来ないだろうと思った。そう思った瞬間、なんともいえない焦燥感を感じた。大沢はめったに感じたことのないこの感覚をどうすればいいか、分からなかった。
15
帰宅したあかりは、姉に雨でぬれた体を拭いてもらい、お風呂に入った。
あかりは、湯船に体を十分に浸らせた。アルキメデスの法則により湯船からお湯が滴る。ああ、もったいない、とあかりは思った。十分にあるお湯。お湯は湯船の中にありさえすれば、なくならない。でもこうして一旦、湯船から出てしまえば、もうそのお湯はあかりの元へは戻ってこない。
失うことに慣れてしまった人間たち。私はそんな人間になっても、使命を達することができずにいる。海は刻一刻と悪くなっているのに、ここまで、何ができたというのだろう。
人間なんて、大っ嫌い。
あかりは、目の前のお湯を思い切りたたく、お湯が思い切り跳ねる。お湯はあかりの顔だけでなく、髪にまでかかった。一部は湯船の外に飛んだ。私は怒っている。そして貴重な水を無駄にしてしまった。これって人間に似てきたのかな、とあかりは思った。
あかりが湯から上がると、姉はいつも通りに髪を梳かしてくれた。
「今日は、どうしたの」
しばし無言。どう話していいものか、あかりにはわからなかった。
「あら!言いたくないなんて、人間らしくなったね。うんうん」
姉は、うれしそうに頷きながら言った。
「違う。しゃべりたくないだけ」
あかりは、すぐに否定した。
「そう?私に言えないことがあってもいいんですよ。どちらにせよ、解決するのはあなたたちですから」
「ちがう。おかしいのは大沢の方。私は何もおかしくない」
「そうなの?またよく話ができていないのじゃないの?」
「たぶん違う」
「わかったわ。じゃあ、気分転換に私の話を聞いてくれるかしら」
「うん」
「あかりちゃん。あなたと大沢さんがどんな壁に当たってしまったのか、私には良く分からない。そうやってけんかしてもがいていけば、何か大事な答えが見つかると思うから。あきらめないで頑張ってね。でも、もしかすると大沢さんの根気とあなたの情熱をもってしても、海はなかなか元に戻らないかもしれない。そうすると、私たち海に生きる者の終末は避けられないのかもしれない、と私は思うの。そして私は、この結末は、決して人間だけが悪いと思っていない」
「それ、どういうこと?だって、汚したのは人間。いまさら悪くないなんて、おかしい」
「でもね。戻せないような状態になるまで、放っておいたのは私たちなのよ。もっと早く人間たちに溶け込む決意をして人間たちと一緒に海を守ればよかったのかな、って思うの」
「そんな、おかしい。汚されて迷惑掛けられて、私たちも悪かった、なんて」
「あなたは、まだ若いし、生まれたときには汚れつつあったから」
「そんなの、関係ない」
「でも、私たちは反省、というか後悔かな、をしてる。もっと早く行動すればよかったって。そうすれば、もっと早く食い止めて海が汚れるのを止められたかもしれない。総合的に判断して今の状態では、難しい。人間社会の科学技術や、経済の仕組みを考えると、海を元に戻せる可能性は、きわめて低いと考えざるを得ない」
「だって、それは人間たちが責任を持って元に戻すべき。人間のために私たちが絶滅するなんて、絶対、絶対おかしい」
「でも、戻せないのが現実なのよ。人間式に裁判をやったら、汚した責任を取るべきという判決を出せるかもしれない。でも、現実にできなければ、その判決は無意味」
「無意味じゃない。せめて、人間たちにその罪の重さだけでも痛感させるべき、と思う」
「それは、あなたの気がすむだけじゃないのかな」
あかりはぐっと唇をかんだ。
「そうかもしれない、でもくやしい」
「私たちは、人間たちと争うために、人間の姿になったわけじゃないのよ」
「わかってる、海を戻すため」
「そう、それが第一の目的。そして、それがだめなら生き残る方法を見つけること」
「たとえば人間の世界で、人として生きることも選択肢の一つだと思うの」
「そんな、私たちを追い出した人間の中で暮らすなんて嫌だ」
「でも人間の生活の仕組みは賛成できないけど、人間個人がみんな悪いわけではない。私たちに合う行き方をしている人間たちもいるから、そういう人たちと生きていくことは可能だと思うの」
そうだろうか、とあかりは思う。たいていの人たちと同調することは出来ないと、あかりは、感じていた。たとえば、大沢は悪い人間ではない。しかし本当に信頼できるのかは分からない。現に湾の環境を知っていながら、救おうとしない。もっと出来ることや力があるはずなのに、全力を出してくれないように思えた。大沢は学者で人間の中では理性的だろう。新宿駅でむかつくむかつくと思っている人たちとは違うような気がするが、そんな大沢でも海をきれいに出来ない。この先、どんな希望があると言うのだろう。
姉はそんなあかりの意思を汲み取ってこう言った。
「そうではないの。大沢さんは今やれる精一杯のことをやっていると思うわよ。それも、どちらかといえば、無欲」
―うん、確かに、そういえば
大沢は、きれいな海を想うがために研究をはじめたと言っていたことを思い出した。今あるかどうかわからない故郷の海。そのためなら少しずつでも研究を続けると思っている。
―あかりちゃん、大沢さんは、もしかしたら今までの人間の中では、最も信じられる人間かもしれない。でも彼一人では難しいと思う。大沢さんは、あなたを必要としている、研究だけでなく、支え合うことが出来ると思う。
―そんな、大沢はそんなこと思ってない。じゃまだと思ってる。まとわりつくなって。私が研究の進み具合の話をすると、すごく嫌な心をする。最近は少なくなったけど。海の生き物のことなんて考えてない。
―そうね。でも少なくとも、あかりのことは考えてると思うよ。あなたは彼を支えてあげられる。私たちは、考えられる最善のことをやらなければいけない。あなたは、彼を支えていい研究をして戻ってきて。わたしたちは、待ってる。
姉はそのあと、少しいたずらっぽく笑っていった
「でもそのまま、戻ってこなくったっていいんだよ。本当の人間になったっていいんだから」
「な、何いってるの、姉様。そんな伝説のようなこと、ありえない」
「そう?でも私たち一族にも、明るい話題が欲しいな。人間と一緒になることが幸福かどうかはさておき、希望はある。そして海に棲む一族はそれを祝福する」
「ない。それは。大沢さんは、私を子供と思ってるし」
「きっと、見かけがかわいらしすぎるからね」
それから、あかりを見直して言った。
「今は、具体的な道筋は、つけられていない。政治や国民の理解の面で、少しは理解が進んでいるとは思うけど、それにしても実際に海の仕組みを理解して浄化させる方法で一番進んでいるのは大沢さんだと思う。彼を助けてあげることはとても大事。そしてあなたと大沢さんは、理解し会えると思う。支障はあるかもしれないけど、短い間にお互い努力してる。お互いが理解できる資質を持ってると思う。だから、もう少し、がんばってみよう、ね」
16
翌日、ちょっと早い初夏の日差しが照りつける中、大沢は研究所の四階で調査道具の整理をしていた。ザックや胴長を陰干ししたり、試料瓶の数を確認したりする地味だが大事な作業である。ヘドロがこびりついて、なかなか汚れの取れないサンプラーをゴシゴシ洗浄していると、何時もは無心になれた。しかし今日は何時もと様子が違って落ち着かない自分がいた。いままでは、トラブルが起きてもあかりは普通にやってきていた。大沢は、昨夜はもう来ないのではないかと思っていたが、一夜明けると、今回もすぐ立ち直るかもしれないと、淡い期待を持っていた。少なくとも調査や研究については、何よりも優先するというのが今までもあかりのスタンスだった。しかし、この日は、あかりは来なかった。
大沢はとりあえず、実験は後回しにして、現在までの研究過程と理論の取りまとめを行うことにした。海外に行くにしろ、行かないにしろ、やっておかねばならないことだった。
そうして頭を切り替えようとしたが、やはりどうにも落ち着かなかった。今まで何日もこないことだってあったし、自分の学校にちゃんと行けと、口煩く言っていたのだ。今までに良くあったことなのに、どうも落ち着かない。
こちらに来ないということは、本来の大学に行っているだけだ。それはいいことだ。ここでいくらがんばっても単位がもらえるわけではない。結局一応確認しておかないと、という名目の下、あかりの姉に連絡をした。あかりは出かけたと言う話だった。偶然近場まで来ているということで、会うことにした。そこで、昨日の顛末と状況を話した。
「そうですか。今日は研究所へ入っていないのですね。それでは、私にも分かりません。でも大沢さんになら、あかりの行き先が分かるのではないかな。あの子は、傷ついているのかもしれません。それが大沢さんのせいなのか、海を汚す人たちのせいなのか、研究が思うように進まないからなのか。私にも分かりません。でも、あかりを一番近くで見た大沢さんには分かるのではないかしら。心当たりは、きっと大沢さんの中にあるはずです。大沢さんが探してください。私からもお願いいします」
「そうでしょうか。私にはさっぱり思い浮かびません。最初に言った市原の海ですかね。あれは、どうしようもなくさびしい思い出ですが。東京湾岸は大抵行っているけど、そんなに思い出となるような場所は、特に、思い浮かびませんが」
心当たり。ひたすら調査と分析に追われていた気がする。でもそれが彼女の目的だったはずだ。少し仲良くなっただけ。
「全然親しくないから分からない、なんておっしゃりませんよね?」
姉は、大沢が話したわけでないのに、そんな事を言った。あかりにせよこの姉にせよ、感覚的に物を捕らえる能力があるのだろう。しかし今はそのことにこだわっていられなかった。
「彼女には、いろいろ手伝ってもらいましたが、僕は彼女に何もしてあげていませんよ」
「ふふふ。そうですか。でも私たちは、何かしてもらいたいと思って、研究にご協力しているわけではないのですよ。本当に海をきれいに戻してほしいのです。だから何か返してほしいとはあかりも、私も思っていないから大丈夫です」
「そうでしょうか」
「でも、もっと大沢さんの本質を知りたいとは思っていたと思います。いいにくいですけど、私たちは、人付き合いが下手ですから。ね、わかりますよね」
「人付き合いが好きでないというより。彼女には、何か殻があるような気がします」
姉は可も無く、不可もなくといった顔つきをしている。自分でヤレということだろう。
「彼女は人づきあいが苦手ですが、あなたは違いますね。とっても人の扱いがうまい」
「私は、あかりよりは、年上ですからね。それに都会暮らしも慣れましたので。う~ん、そうですね、少しヒントが必要ですか?でも私は本当に知らないのです。大事なのはあかりの存在でどこにいるかはあまり問題ではないのですよ。でもせっかく大沢さんと親しくなる良い機会ですから、頭の体操でもしましょう。私なら、大沢さんは、どうしてこの研究を始めたのか?とか、魚介類なら何が好きかな? 生まれた場所はやはり海沿いかな? 一番好きな夜空を見た場所は? とか聞くかな」
大沢は、はたと思い出した。
「それ、聞かれたことありますね」
姉は、悩める人間のためにもう少し付き合ってあげる。
「なんて答えたのでしょう」
「生まれ故郷は、寂しい町ですが海だけはきれいで、よく悩んだりしては、呆然と海と夜空を見ていたという話をついついしてしまいましたが、まさか」
「あなたたちだけでなく、私たちにも海は母なる海です。でも海はどこでもきれいなわけではありません。そんな風に、人に愛される海や夜空は私も見に行きたいですね」
「でも僕にはその当時、そこしかなかっただけです。どこにでもある海ですよ」
「そうかな。そんな大切な場所が、どこにでもあるとは思えないけど」
あかりの姉は、意外そうな顔をして大沢を見つめた。この姉妹は平気で本質を突く。恥ずかしげもなく。確かに、あんな体験は何度もなかった気がする。美しい景色は、少し探せば必ずあるものだが。大切な場所といわれれば、それは、どこかに行けば必ずあるというわけではない。
「確かに、そうですが」
大沢は、首をかしげた。また上手く丸め込まされそうな気がする。姉の言うことは正論ではあるが、屁理屈ではないかという気もする。それにしても、生まれ故郷のH町へ行ったとはとても思えない。
「大沢さん、その場所、私にも教えてくださいね」
「まさかとは思いますが」
「ありましたか?心あたり」
あかりの姉は顔をほころばせた。確信のある顔だった。大沢は、行き方も分からない、北海道のH町までいくなんてことがあるものかと思ったが、あかりの姉の顔をみていると、ありそうな気もした。
「その、私のふるさとですかね。行きたいと言っていた様な気がします」
そこで、姉はふふふと声を出して笑った。もうすべて解決したような笑い方であった。
「じゃあ、よろしくお願いしますね」
「え!?」
「あかりと大沢さんの仲が取り持てて、私はとっても満足してます。ではでは。失礼しますね」
ニコニコ微笑みながら姉は姿を消した。残された大沢は信じられなかった。あれだけの会話で、わざわざ僻地としか言いようがない、大沢の生まれ故郷を見に行くだろうか。あんな風景は、どこだってある。きれいな海が見たければ、東京の近くにもある。例えば…、例えばどこだろう?いや確かに自分にとって特別ではある、あの海や空は、自分の原点となる場所だから。あの時、あの天気で、あの精神状態だったから忘れられないのだ。観光名所にように、きまった何かがあるわけではない。あかりは、そんな事まで分かっているのだろうか?
よろしくか、家出少女探しまで任されるとはな。
翌々日、大沢は朝早くアパートを出た。その日は快晴で、朝からさんさんと太陽の光が注いでいた。研究所の周辺にはビルが多く、きれいな青空は少ししか見えないのが残念だった。大沢は研究所で休暇を取る旨手続きをすると、空港へ向かった。実家のあるH市は遠い。もっとも近い空港は稚内であるが飛行機は、本数が少なく機体も小さいため、いつも満席だった。その次に近いのは旭川であるが、旭川から後が大変なのである。とにかくそこまで飛ぶことにした。
旭川から車で行くにはまだ遠すぎるため、鉄道に乗ることにした。車窓には、深い森が広がる。それを見ていると。不思議に落ち着いた。
H市の駅にたどり着いたときは、日が暮れようとしていた。朝早く出発したのに、この有様である。この土地に今では親も親戚もいない、この町に何しにやってきたのだったか。昨日はあかりの姉にそそのかされたものの、実際にこの地に立つと、こんなところに来やしないだろうという空しさに捉われた。実際、高校までをこの地で暮らしたのだが、この町から出たいことはよく覚えている。それと雪と寒さと風の強さに翻弄されていたこと。どんよりと厚い雲。新鮮な空気だが、重い空気。町があっても人気のない不思議な感覚。
大沢は、駅の前にある、ベンチに腰を下ろした。
あかりには言わなかったが、この市街地には海はない。車で何十分か走らないと、海は見えてこない。その当時は一時間以上もかけて自転車をこいだ。もやもやした頭をすっきりさせるためによく走った。海が好きだったのは、すぐ近くに海がなかったからなのかもしれない。このH市という町が海沿いだったら、日常の中に海が組み込まれていたら、自分は果たして海が好きになっただろうか。海洋の研究者になっていただろうか?と思った。その答えは、なっていなかっただろうな、と即答できた。
自転車を、こいでこいで体が疲れて、頭も疲れて、一瞬何に悩んでいたのか分からなくなった。自分があるようなないような、周りの風景と自分の差異がゼロになったような気がしたから素直に海や空や、夕焼けや満点の夜空が受け入れられたのではないだろうか。
そういえば登山好きの知り合いの教授が言っていたことを思い出した。登山中雨に降られるのが好きだと。冷たい雨や、風にこっぴどく叩かれて最初は寒くて嫌で嫌で仕方ないのだが、歩いているうちに、どうでも良くなる。どうせ小屋に着くまでは寒いのはなくならないし、風も冷たいままだ。それでも寒い寒いと念じながら歩いていると、それもどうでも良くなる。ふと山小屋の光に気づくと、それまで何も考えておらず、完全に無の状態だったと。
あのとき無の境地にあったという教授は、本当に「無」だったり、自然と一体化していたのだろうか。意識とは何だろう。考えることなのだろうか。人間が人間であるという考える能力。それを放棄できる機会なんてものがあるのだろうか。潜在している意識すらも無感覚になるのだろうか。自分があのまま自転車をこぎ続けたら、教授が道に迷って山小屋を見つけられなかったらどうなるのだろう。そのまま、永遠に無の世界をさまようのだろうか。
それもいいかもしれない。それ以上悩まなくて済んだろう。
そして、駅前にタクシーが入ってきた明かりで、われに返った。
ふふ、人間放棄だな。と大沢はクスリと笑って立ち上がった。
17(独白Ⅲ)
やさしい夢の記憶から、私は目覚める。しかし、しばらく目を閉じたままその音楽に心を寄せる。目をつぶったまま、これ、なんという音楽?と私は聞いた。
「あ、起きたね」
「あら、私も寝てると思ってた。いい音楽だと思わない? 私のお気に入りなのよ」
「あ~、待て待て。君は今の彼女の質問に回答をするかどうか、よく一度考えるチャンスをあげるから。この人の話は長いぞ。薀蓄女王だからね」
「ちょ、ちょっとそれ、どういう意味かしら~?」
後部座席で、私は、二人にわからないようにクスリと笑った。昔、ちょっと昔、私は笑えなかった。そして今笑っている私と、何が違うのだろう。私は何か変わったのだろうか。
人間の世界に、それも都会にいきなり飛び込んだ私にとって、すべては敵だった。コンクリートや偽善に彩られた色彩、塗料のにおい、あるいは何もにおわない草花。そして無表情な人間たち。人の集まるところには、もっと無表情が多い。彼らは何を考え歩いているのか。何を考えて座っているのか。何をしている姿でも何を考えているのか全く分からない。
地上の世界に出るのは良い。しかし人間は敵だ。海を汚し、自然を汚しそれでも平気。さらに汚す先を探している。海から生き物がいなくなったら、他の海へ移動する。食べるために、海に作った籠の中で魚を飼う。憎むべき敵だった。だから大沢と研究や実験を進めていても、人間を信じなかった。大沢や長谷、そのほかの研究所での親切な人たちは、その人たちが特別なのだと思っていた。
今ここにいる見知らぬ二人。とても仲がよさそうである。この人たちはどこから来てどこに言ってしまうのだろう。二人と私のすれ違い。この出会いは誰かが選んだものではない。人間たちのいう神様の思し召し?いや、偶然だ。必然性はあったのかもしれない。でもやはり偶然。彼らにとっての私は彼らの人生のほんのわずかな部分の出会い。すぐに忘れてしまうかもしれない。ずっと覚えているかもしれない。海に棲む私の立場で考えれば、素敵な偶然だ。でも人間なら、きっとただの偶然、おもしろくない。新宿南口のすれ違いと同じだと思うのだ、寂しい人間たち。
でも私はこの人たちに合えたことを感謝して、彼らに伝えたい。つい一日前、雨の中、私を拾ってくれた親切さ、暖かさ、そして地上に住むだいご味の一つである音楽を、それもとてもやさしい素敵な音楽を提供してくれた。彼らは私を不審なヤツと思わなかったのだろうか。雨の中、よく見えないはずなのに。
人間なんか大っ嫌い、だった。今は少しだけ違う自分がいるらしい。人は知りあうと良い人になる。しかし、なぜ?知り合わないと良い人にならないのだろう。そんなわけのわからない人間の世界に私はいる。私は人間じゃない、水の精なのだから彼らの悪いところがわかるのか、それとも人間も自分たちのことがわかっているのだろうか。でも良い人たちが何人いたとしても人間は海を汚したのだ。ふう、よくわからない。ああ、キブンテンカンしなければいけない。
二人はまだ話している。せっかくだから少しだけ会話に参加しようか。でも少しだけ。だって私はこの人たちの会話を聞いていると、幸せな気分になれるから。
18
最北端であるW市へ向かう二人の旅行者からすると、あかりが下ろしてほしいと言った場所は、どう考えてもおかしな場所だった。民家はなく、いや道以外なにものもない場所だった。車だってしょっちゅう通るわけではない。かといって自殺を図るにはあまりにも開放的だった。しかし入水して自殺するとしか考えられなかった。二人連れも、あかり異様な精神状態は感じることができていた。特に、あかりが気に入った音楽を紹介した、女性の旅行者は口を極めてとめた。
「ねえ、あんな音楽を聞かせておいてなんだけど、あの音楽を思わせるような場所には置いていけないよ」
「あの音楽ですか。どうしてです」
「ほら、あたし説明しちゃったじゃない、歌詞とか。音楽の成り立ちとか、入水自殺した詩人だって言ったでしょ。そんなことを言った後に、こんな場所で降ろすんじゃ、気持ち悪いのよ。あなたが自殺しようと思ってるわけじゃないけど」
「自殺?私ですか。自殺って自分で死ぬことですよね。海へ入って。」
「ほらなんとなくさ、あなたって寂しそうなオーラ出してたじゃない。そういう時は、妙に明るい音楽より悲しい曲のほうがいいって思ったの。それで気持ちって少し落ち着いたりすることもあるしね。それで取っておきの曲集を聞かせて歌の意味を説明してあげたのだけど、そのあとに、こんなところに降ろしてくださいなんて、言われたらね」
「先ほどの悲しい詩人の歌ですね。良い音楽です。
こんな感じでしたでしょうか。
アルフォンシーナ 君はたった一人で去ろうとしている
新しい詩を探すために
海と風の優しい声が君の魂を慰めるだろう
君は 夢を抱きながら 去りゆく
海に守られるように アルフォンシーナははるかな遠くへ去りゆく 」
「一度でよく覚えたね」
「はい。話すの、苦手ですけど、言葉に強い思いがこもっているの、わかります」
「ね、お願いだから次の町まで行きましょ。なんなら一緒に稚内まで行ったっていいよ」
「大丈夫です。ここで降ります。私、海に入って死んだりしませんよ」
そしてあかりはその女性旅行者の目を見て静かに微笑んだ。
「私、ここで見なければならないものがあるのです、実は何かは良く分からないのですけど」
あかりはそういって、男性旅行者のほうにも微笑んだ。
「二人とも、私を心配してくれて、ありがとう。私、話すのは苦手だけど、とっても良い気持ち、でした。お二人の心、よく分かりました。うまく言えないけど暖かいです。私、あきらめません。私には生きてやらなければならないことがあります。どれだけ時間がかかっても。だから、お二人の心配、不要。それに私、泳ぎは得意なのです」
まだ半信半疑な顔をしていた女性は、そうなの?でも大丈夫かねえ?などと迷っていたが、あかりに顔を近づけて、念を押すように言った。
「いい?つらいことや悲しいことは誰にでもあるのだから。どんなにつらいときでも、それは必ず終わりが来るはずだし乗り越えることはできると思うの。この人みたいに試験に落ちても落ちても懲りずにいる人だっているのよ」
「おいおい、それは失礼だなあ。親しき仲にも礼儀ありっていうだろう。僕の場合は、まだつらいだけで終わりが来たわけではないよ。だけど確かにやらなければならないことではある。君と同じ重要度かどうかは、分からないけどね。僕にはとっても重要だ。僕だって、あきらめるわけには行かない。ま、そんな話を聞いて少し安心したよ。その顔を見れば大丈夫そうだね。でも約束してくれよ。生きてやらなくてはいけないことが、もしできなくても早まらないでくれよ。そうだな、約束代わりに君の名前を、聞かせてくれたら、ここで降ろしてあげる」
「はい。ありがとう」
「もう、そんなのでいいのかしらね。でもそういえば名前、聞いてなかったね」
名前ですか… 。あかりは、すこし躊躇する。名前を教えるには抵抗があったが、この人たちの心に感謝しなければならない。人として海に棲むものとして私は今どちらなのだろう。しかし今は、人らしく名を名乗りたいと思った。
「あかりです。えっと、大沢あかり」
「うん。ありがとう。君の名前が悲しい話で新聞に載ったりしたら、見損なうよ」
「大丈夫。お二人のことは忘れないです。お二人に会えてとってもうれしい。車に乗せてくれたことだけじゃない。こんな話、できてよかった」
「そう?なんだか照れるね」
「本当。私、お礼したいけどできない。でもあなたたちの旅が幸運なものであるように祈らせてほしい」
そういってあかりは帽子を取った。
突然広がる長い髪に、二人は目を見張った。髪は透き通るような銀色だった。風に舞い上がって輝くように見えた。それに驚くまもなく、あかりは、半ば強引に二人の手をとって、軽く頭を下げた。
「お二人のこの後の旅が幸運に恵まれますよう。聞きなさい、全て大空の下に棲むものたち、ほんの少しだけ、このお二人の力になるように」
その声は水が流れるようにさわやかで、この人気のない北端の寂しい土地にささやかな暖かさが集まるようであった。そこにたたずむ三人の周りから風の音が消えたように思えた。
砂丘の向こうにある海のさざなみも消えたようだ。
すると、遠くで鳴いている鳥のさえずりが聞こえた。そして静かに消えた。
次にはもう少し遠くの森のささやきが聞こえるようになり、やがてそれもまた消えた。
周りの空間が、ひとつになって空に吸い込まれたような感覚
そしてしばらく静寂な時間があった。長いような短いような不思議な時間。
「これで終わりです。おまじないみたいなものなので、あまり気にしないでくださいね。ええっと、そうですね。蜂に刺されなくなったり、晴れ男、と言われる程度かもしれません。それでは、良い旅を続けてくださいね。お元気で」
あかりは二人の顔を交互に見て言った。二人はしばらく話をする気にならなかった。その目には、前日初めてであったときの、濡れたネズミのような弱弱しい目つきではなく、力強さと意思のある目であった。そして唇にはかすかな微笑さえ漂わせているようだった。
あかりは、二人から目を離すと、はまなすと這松がびっしり育った木々の中へ消えていった。その向こうには砂浜と海があるだけだ。
しばらく、呆然としていた二人は風の音でわれに帰った。
「今、風がなかったね」
「あの子、実在してたよな」
「うん、大沢あかりちゃんでしょ。忘れないよ」
「不思議な子だったけど大丈夫だよ。心配要らないと思う」
「そうだね、私もそんな気がしてきた」
そんな話をして、二人は二人の旅を続けるために車に乗り込んだ。
「こんな出会いがあるから、旅はやめられないね。さ、明るい気分は明るい音楽で」
「そうだね。べっぴんさんってわけじゃないが、あの笑顔、強烈だったなあ」
「惚れた? そうね。あの笑顔には惚れてもいいわよ。なんだろう。教会のマリア様かしらね」
窓を開けた車から、張りのある強い音、しかし暖かい響きを合わせた角笛の音が高鳴る。そして少し日が傾いた深い青空の中へ溶け込んでいった。
19
あかりは、はまなすの茂る丘を上った。海が見えるのはもう少し先のようだ。向こうに見える地形は大きく波打って砂の津波のようだ。びっしり茂ったはまなすだが人があるいたようなわずかな草の隙間が、その中を上がり下がりしながら続いている。何が待っているのか何のためにそこを行くのか、よくわからないが、歩いていけばたぶん、そこに何かがある。
あかりの心は、この旅が始まったときに比べるとすっきり晴れあがっていた。それが先ほどの旅行者のせいなのか、きらめく快晴の空の下を歩いているからなのかは、あかりにははっきりわからない。あかりは時々立ち止まって周りを見渡してみた。海が見えてしまうのが、名残惜しいくらい、見渡す限り、緑の大地と青い空が広がっている。海に棲む一族が、どんなに苦しもうが、絶滅しようがこの空は、かわらずにいつまでもここにいるのだろうか?それともこんな変わらなさそうな自然も悩みを抱えて苦しんでいるのだろうか。
あかりは少し立ち止まって想いにふける。
東京湾の海に棲む一族は、海の変化に気づいたが、最初は大きな流れの中の一部に過ぎなかった。異質なものは母なる海の潮流とともに連れていかれ、そして浄化されて戻ってきていた。いつからか異質なものの量が多くなり、潮流が手に余すようになっていた。それでも海は美しかった。けなげにも母なる海は、異質なものを受け入れ、浄化して元に戻そうとしたが、次第に追いつかなくなった。海に棲むものたちは無力であり、海が姿を変えていくことに早く人間たちが気づくように祈るばかりであった。人間たちで海を生業とするものたちが、最も早く海の変化に気づいた。その人たちも、汚染の前には無力であった。時代が経過するにつれ加速度的に海の変化は進行した。しばらくすると砂浜はなくなった。微動すらしないコンクリートの塊が海に沈められた。海底の砂は動かず、生命活動も滞って、腐り水が生まれた。それは海に住む生き物たちに良い影響は全くなかった、ましてやコンクリートが発するカルシウムの臭いは海の生き物を苦しめた。しかし人間たちが海へ目を向けるのは、もっとずっと後のことである。
母なる海が生み出したものは海が浄化することができる。
海に棲むものが生み出したものは海に棲むものが浄化できる。
そして人間が生み出したものは人間が浄化することができるはず。
これだけ知見を増やした人間ならば浄化することができると思う。しかし人間がそのことに真剣になっているのはごくわずかな一握りの人たちである。駅にはあれだけ人があふれかえっているのに、どうして、もっとたくさんの人がそのことに気づいてくれないのだろう。みんなが知り合いになれば少しは変わるのだろうか。
あかりはここで空を見上げた。空の青さはまた一段と濃くなって天空に広がっていた。どこまで続くのか見当もつかない深い青。
あかりは、空が青いのは海がたくさんの色のヒカリの中で、青い色を反射するからだと大沢に前に教えられたことを思い出した。あかりは、その話が好きだった。こんなすばらしい色彩が海から生まれたものなら、やはり海は全ての母なのだ。守りたいとあかりは思った。それは私たちが生き延びるとか死に絶えるとかの問題ではないのかもしれない。父や姉たちが人の姿となり、命を削ってまで力を尽くす理由がそこにあるような気がした。
あかりは海へ向かって再び歩み始めた。
20
大沢は、あまり深く考えずに、自分の記憶の場所をたどるために、ほとんど唯一といっていい知人のTから車を借りて、その場所へ向かっていた。自分でも何のために行くのか分からなかった。しかし駅員に聞いても、近くに数件しかない宿のおかみさんに聞いても、最後に交番の巡査に聞いても、それらしい女の子を見たことがあるとは聞かなかった。手がかりはない。あかりの姉に電話したところで、得るものはないだろう。やはりあの場所へ行ってみるしかないと思った。しかし行ってもあかりがいるはずはないとしか思えない。なぜなら、あかりに具体的な場所を教えてわけではないからだ。あの場所を知らないのだ。
夕暮れが近づいていた。初夏を迎えようとするこの時期はちょっとでも風が出れば、ぐっと寒くなる可能性はある。そもそも夕暮れになってしまっては探しようがない。国道に街灯は少なく、ましてや海岸は真っ暗になるだろう。ここまで来たのだ、その海を見に行くしかない、と駅前で、散々逡巡したあげく大沢は決意して、友人に電話したのである。
海岸までは車で十数分であった。交通量が少ないのでついつい余所見がちになる。大沢は、懐かしい風景だとしみじみ思った。人がいるのかいないのかわからない牧草地が見渡せる。人間の土地であるが、その持ち主はどこにいるのかわからない。広く見わたせても無人である。波打つ草原は幾何学的な模様を示している。
幾何学模様といえば。大沢は少し昔のことを思い出す。
大学時代は航空写真が好きで、よく大学にある様々な航空写真を地球科学系の学生に借りて見ていた。特に好きなのは、北海道の北東地域だった。幾何学的な畑模様、草原のうねり、河川のなまめかしい蛇行。美しい数式が浮かんできそうな海岸線の湾曲。自然が遊んで生み出したとしか思えない長大な砂洲・砂嘴。最後の砂洲・砂嘴については、どうしてもそこに行ってみたくて、徹夜で車を運転したこともあった。目的地に達したころには猛吹雪で、車のエンジンを切ると猛烈に冷え込み、凍死するのではないかと思えた。結局車のエンジンをかけたまま、まんじりともせず朝を迎えた。戯れにエンジンを止めると、急激に気温が下がり、数分で車内は冷凍庫になった。朝方には暴風雪は、暴風となっていた。凍りついたドアを内側から蹴飛ばして開け、大地に立った。誰もいないその砂嘴の先端は全てが凍てついており、人間の土地とは思えなかった。枯れ木、生きているわずかな木、ガードレール、標識、アスファルト、そして大地。全てが凍りに覆われていた。暴風で体がよろめいたが、しっかり立って太陽が昇るのを眺めた。このまま自分はこの世界に取り残されてしまうのではないかと言う錯覚を感じたものだった。
そのとき、ガクンと車が揺れふっと前に浮く感じがあった。その直度、車はおそろしい悲鳴を上げ、大沢のハンドルを握る手を奪った。
「しくじったな」
大沢は大きく前のめりになった車を見ていった。幸い大きな傷はない。しかし自分ひとりでは動かしようもなさそうだった。この道ではめったに車は通らないはずだ。とりあえず、Tに電話しなければ、と思って取り出した携帯電話は無常にも圏外を示していた。
とりあえず、携帯電話の届く範囲へ出るには国道のほうへ歩くしかなかった。戻るよりは海沿いの国道に出たほうが速そうだった。あかりを探すよりも、自分の身を守るだけで精一杯だな、と思った。大沢は自分のザックを背負った。もしものために小さなツェルトを入れたのは正解だったかもしれない。今日は夜通しで星でも見るか。これが日本で見る最後の星空になるかもしれない。それもいい。それに今日はさっき、駅で酒を買ったのだ、一人でも楽しみはある。久々にあのアルコール検知少女から解放されて、ちびちびやれるのだからな。悪くない夜かもしれない。そう思いながらザックを背負った。肩に重さがしみた。
大沢は歩きながら、気持ちのいい孤独をかみしめた。ここには人間くささのかけらもない。もちろん道路は人間の作ったものだが、自分は、ここにただ一人。動物さえもここにはいない。湿り気を持った大気には、海の香りがする。もう少し歩けば、黒っぽい砂浜が迎えてくれるだろう。海の向こうには何もない。後ろを振り返ってもはまなすとはいまつが広がっている。踏跡のような道があるが、その縁は切れている。どこにもつながっていない、一人でいられる。昔もそんな感覚を楽しんだものだ。今は、さらにそれが気持ちいい。感覚の届く範囲に誰も居ないし文明の臭いもない。いつも耳に聞こえる電気的な雑音はない。大沢は子供のころよりこの電気的な雑音に敏感だった。子供のころからテレビがどこかでついているかどうか、すぐ分かったし、隣の家で電子レンジが動いてもすぐ分かった。ここには、近くに電波を発するものはない。携帯の電源も切ってある。
海の見える砂浜で、大沢は腰を下ろす。乾いた砂が気持ちいい。
空は青い中にも少しだけ薄墨が広がっている。しばらくすると夕暮れを迎えるだろう。
幸いに風はなく、寒いとは感じない。
目を閉じる。
波の音がうるさいくらいに良く聞こえるが、すぐになれる。
もう今日は何も考えなくていいだろう。今日くらいはひとりでひっそりしようじゃないか。今日は真っ白になって星を眺めよう。悲しみを抱えるのは慣れている。でもあの姉の言うとおりなら、あかりが天使のように降臨するかもしれない。理論的にはありえない話だが、考えるのは自由である。明日が来たら、きっぱりさっぱりして、いつもの仕事に戻るんだ。思い出を封印するのは、得意だ。それがいままで過ごしてきた俺の流儀じゃないか。心はすぐ何かに執着しようとするが、それが悲しみに変わるのには、たいした時間はかからない。それならば、最初から執着しないようにすればいい。今回は、失敗したが次はうまくやろうじゃないか。
いまごろ俺の天使はどこで何をしているのだろう。
―あの私、天使じゃないですよ
そら、幻覚が聞こえてき。俺もいよいよいけない。しかしこんな戯れは嫌いじゃない。
―幻覚じゃないです。天使はもっと綺麗です。わたしは違いますよ。
―そりゃ天使はきれいかもしれない。でもきれいとか、汚いとかは関係ないだろう。でも君は、十分きれいだよ。コンサートの時とか、ふるさとの話をした後とか、その時々、本当にきれいだと思った。
―そんなこと言っていただいて、うれしいです。でもみかけなんて何とでもなります。精神的に汚れがないのが天使なのです。天の使いですから。人間のいう宗教とかそんなのはでっち上げですよ、そもそも羽が生えている赤ちゃんなんて、おかしくありませんか。天使は、見掛けの美しさを超越した象徴的な存在で人に寄り添うのです。
―僕には、今まさに、君がそういう存在に見えるのだがね。
―私がですか?とんでもない。私は汚れきっています。人間なんか大っ嫌いですし、ほんとに居なくなってほしい、って思っています。
―そう?
―そうです。すみません。でも大沢さんは別です。長谷さんとか、今日知り合った旅行者の方とか、よい人間も居ます。特に大沢さんは大切な人間です。
―なんだい今日は雄弁だね。自作自演にしては、よくできてる。
「言葉で話すの、苦手ですから」
今日の午後、はじめて、耳にする人の声が聞こえて大沢は驚いた。
大沢は目を開いて後ろを見た。銀色の髪をした天使がそこにいた。
21
二人は砂浜に座っていた。
「せっかく心で会話できたのに残念です。私は話すの苦手、話しかけるのはやめたほうがよかった」
「僕には信じられない」
「きれいな海ですね。空も。あの海に浮かぶ山も美しい形をしています」
あかりは遠くに見える姿のいい形の島を見ていった。
「あの山は火山なんだ。でも威圧的ではない。今はもう活動していなくて、みかけより優しいんだ。頂上付近は昔の名残でいかついけど高山植物や草原にあふれている。ひっそりと草原で花が咲いているのを優しく見守っているんだ。冬は極寒だけれど、春になればまた草が育ち、花が咲く」
「良い話です。でも、うん、良いという気持ちを上手く伝えるのは難しい」
あかりはもったいなさそうに言った。気持ちを伝えたいのが上手くできないのがもどかしいらしい。
「ごめん。僕のせいだな。動揺が収まればまたできるかもしれない。しばらく僕が話しているよ」
大沢はそういったが自信はなかった。彼女に意図が伝わるのは二度あったが、どちらも偶然だった。彼女に導かれた不思議な能力としかいいようがなく、自分自身にさえ説明は難しい。とにかく都会の垢のこびりついた心ではまだ難しそうである。それでも天使は降りた。
「このあと、この海と空は刻々と変化する。まるで生き物のように。この変化じゃなくて変容かな。昔のことはあまり覚えていない。あのころは、とにかくほっとするからここに来ていただけだと思う」
「星が見えてきますか」
あかりはささやくような声で聞いた。
「そうだな。今日の月は遅いし、よく見えると思う。きっとすごくたくさんの星たちだよ」
「星たち、という言い方は良いです。言葉もたまに良いものがあります。ほしたち、たくさんのほしたち」
あかりは味わうように、その言葉を口にした、
太陽が傾き始めると空は茜色に映えた。
「もう日が暮れます。大沢さんは、帰っても良いです。私は、ここにいます」
「どうするの」
「どうもしません、ここで座ってみています」
「じゃあ、僕もいよう」
「帰れなくなりますよ。私は、ひとりが良いです」
全く、こんなところに置いていけるものか。僕も夜を過ごそうと思っていた、といいながら立ち上がってザックの中から、小型テントであるツェルトを取り出した。
なんですか、それ?とあかりは、珍しいものを見るように、興味津々な顔つきで覗き込んできた。大沢は、ツェルトの説明をしながら、あかりが一人でいたいのだと言い出してこないな、と思っていた。すこし前なら、こういう場は一人が良い、などと言ってどこかへ行ってしまっただろう。それをしないことは彼女にも変化があったように思われた。
「仕方ないですね、それでは一緒にいましょう」
一通り、説明を聞くとあかりは、大沢の目を見て言った。これまでやや不安げに、焦燥に駆られながらの眼差しとは変わった目つきのように思えた。
そのあと、たわいのない話をした。時間はゆっくりと過ぎていった。大沢は、こんなのんびりした時間を過ごすのは、久しぶりでとても気持ちが良かった。聞こえるのは波の音と、あかりと自分の話し声だけである。時間の流れはあるようでないような。そもそも時間とは、ものの崩壊の時間の目安なだけで、流れているものではないのだ。三次元に時間を加えて四次元という学者も居るが、空間的な次元とエントロピーの増大を混同している。熱力学的に、エントロピーが拡散してしまえば、その系の時間はおしまい。だから時間の流れは自分で決めればいい。時計は、人間として社会の中で生活していくときに必要だけれど、それから開放されるときが、あってもいい。こうして夜空を見ながらねっころがっていると自分の体の熱力学的拡散を感じる。新しく生まれてくるものもあるが、すべての系は崩壊・拡散へと向かっているのだ。
満天の星は、みな少しづつ瞬いている。大気の影響だ。もしかすると変光星かもしれない。ほとんど三百六十度に近い星空はどれだけ見ていても飽きない。この場所はやはり特別なのだろうか。そういえば、星といえば、長谷が言っていたことを思い出していた。彼女とか、結婚とかの話題だったと思う。西田ゼミの△ちゃんや、ミス東大になった○子ちゃんは、どうだという話だった。ずいぶん酒が入ったあと長谷はえらそうにこう言い放った。
―なるほど、彼女らは美人だ。お前らは、美人やかわいこちゃんがどうのこうのというが、そりゃいったいなんだ! 美人なんぞは若かろうが、年寄りだろうが、そう仕立て上げられてるだけの話だ。中身がどうだかはまったく知らん。まあ待て、中身を重視しろっていうわけじゃあない。いいか、夜空を見ろ、みんなシリウスが一番光ってて美しいとか、綺麗だっていうだろ。でもあれは地球に五番目に近い恒星なんだ。恒星の中ではそれほどぱっとしたもんじゃない。でも地球から見たシリウスは銀白色に輝いて美しい。まあ待てって要するにだ、美人にほれるのはかまわんが、ちゃんと距離と中身の性質を見極めたうえで、ほれろってことだ。それをしないやつは痛い目にあう。ちなみに俺の好みは… 。
長谷の趣味はともかく、あかりはどんな星だろうか。
大沢は、あかりの方をこっそり見る。特に美人ではないかもしれない。しかしそんなことは、長谷に言われるまでもなく単なる見栄えの問題だ。本当の輝き具合はどうなのか。人生の達人でもない自分にはわからないと思った。しかし先ほど銀色に見えた、黒くて長い髪はきれいだ。そういえばあかりは、あまり髪を見せたことが無かったように思えた。いつも帽子をかぶっていることが多かったし、海に入っても髪はまとめてキャップの中に入れていた。滅多に長い髪を見せたことは無かったと思う。それで気づかなかったのだろうか。いや、そんなことはないか、海から上がった時、髪を拭いていた。今まで何を見ていたのだか。改めて見ると、流れるような髪は星の光にすら輝くように銀色に透き通って見えるようだ。和紙を光にかざしたように柔らかそうだ。こういうものを、今まで見落としていた点で、やはり自分には、長谷に誇るほどの「見る目」はなさそうである。触ってみたいな、触ったら怒るだろうな云々。
うとうとしていた。
はあ。すごい、という声が聞こえて目が覚めた。
何がすごいのだろうと思いながら大沢は目を開けた。
目の前には、きらめく満天の星空をバックに青白い光のカーテンが広がっていた。空から海に流れ落ちるような光のカーテンは常に変化して形と色を変えている。
大沢は目の前が現実だとは思えなかった。夢でもない。今まさにここにある。そんなどうでもよい思考を停止させてしまう美しさ。大沢は、北海道でもオーロラが観測されたことは知っている。しかし、ここにあるのは、ほのかに光る、なんてものじゃない。光と色彩による波、空が海になってしまったような。とにかく、なんて美しいのだろう。
―素敵です。空にはこんなにきれいなものがあるんですね。海の中でも、地上でも見たことがない。初めて。地球の中に取り込まれそうな感覚です。自然との一体感は知っていますけど。こんな大きさでの一体感は、初めて。
あかりの言葉は、ため息のようだった。
―そうだね。この大きさに比べたら、人間や生き物の命って小さいよね。その重さがどうとかじゃなくて、ただスケールが小さいんだ。でもあの大きい何かは、僕らを構成しているものと変わりない。形が違うだけなんだから。一体感があったっておかしくないな。
―でも人間たちはそれを忘れていますよ。動物たちのほうがまだそれを知っているようです
―そうかもしれない。僕たちはそれを忘れてしまって、思い出せないのだろうか。とはいえ、思い出せば道筋が見えてくるのかは確信できないなあ。そして迷っている。いつも迷っている。糸の切れた凧のようになってしまって、戻る場所が分からない。でも実は見えない糸で自然と結ばれているのかもしれない。それに気づかずに見える糸を求めている。
ふと大沢は、上手く丸め込まれたと思った。声に出さなくても不思議と会話が成立するのは、実に不自然だ。しかし、この世のものとも思えないオーロラの美しさの下では、何でもありのような気がした。まあいい。今は何も考えずに、この瞬間にひたりたい。
オーロラが消えた後はまもなく夜が明ける時間だった。
―寒くないか
―ん。少し
―そうだよね。でもこれ以上、どうしようもないけどね
―少し明るくなってきた。もうすぐ夜が明けるよ。
―頭の上側から明るくなって来る。きれいだよ。少しずつ海も青色を取り戻す。地球が半周したんだ。自然と一体化した僕たちもすこしずつ人間に戻っていくんだ。冷たい鉱物の世界から、生き物へ。
無言の時間が続いた。
大沢は、自分が自分でないような気がした。己の存在を明らかにするには、どうすればいいのだったろうか。そうだ、声を出してみれば、存在が分かる。
「あ、あー、声は出るな」
「何をしているのですか」
「今、会話してたよね」
「はい、とっても上手でしたよ」
「話してないけどね」
「声に出さなくてもできる会話もあります」
「それはそうだが、一般的には、短いものでしょ。お茶! とかさ、」
「長い話や複雑な話は、できませんか」
「まあそう思いたいところだが。正直に言うと、科学的に納得したいだけだね。もう実証しちゃったし。きっと脳波の特殊な電気的信号を発信・受信するんだろうなあ。ある意味デジタル通話だな」
あかりは、困りましたね、という顔をした。
「都会人は好奇心が旺盛すぎて、よくないです。言葉では上手く言えないですけど、私たちは都会の人ほど好奇心強くないです。好奇心が強いのが、美徳のように思っていますが、そうでないこともあると思います」
「いいんだ、分かったよ。それは一理ある。それにしても自然現象、人間の精神、全てを理解したとき、人間はどうするんだろうね。宇宙のどこかには、ほどほどの好奇心で、ことによっては、生活でラクしたくないって、生命もあるのかなあ」
「うふふ!あはは!」
珍しく、あかりは声を出して笑った。そんな笑い方に大沢は少し驚いた。
「だって宇宙のどこかなんて、おかしいですよ。こんなに近くにいるのに大学の先生でも、目の前の事実が見えてないのですね」
あかりは、そういって立ち上がり波打ち際に向かって歩いていった。すでに夜は明けて、暗く青い部分は少なくなりつつあった。
事実が見えていない、か。そうかもしれない、と大沢は思った。
人間は、思ったより周囲が見えていない。普通コミュニケーションは言葉や態度で取る。しかしツーカーの仲という、熟練した経験則で判断できるものもあるし第六感というのもある。女性が男の浮気を見つけるのが鋭いのは、やはり別な女性のわずかな匂いや、夫のごく些細な非日常性などを感じることにあるらしい。美しい音を奏でるオーケストラの不思議な調和は、やはり周囲の音を聞き、他の演奏者と結ぶアンテナが優れているかも重要な要素だと聞いたこともある。観望天気の名人は、五感と経験、見えない変化を捉えることが出来るという。
でも、それだけだろうか。
もしかすると、何百年も培われた遺伝子に、今は使っていない隠された能力が、残されているのかもしれない。人間には尻尾の跡だってあるのだし。隠された遺伝子を励起することが出来たものは、特殊な何かの能力を得ることが、出来るのだろうか。心で会話しようというのも、そういうものかもしれない。言葉の話せない人、目の見えない人たちは、別な感覚器官で最大限情報収集する。惜しむらくは切羽詰らないとその能力は使えそうも無い。そしていつでも使えるようにするためには、絶え間ない努力が必要だ。
そうだ、まだまだ未熟者だな。東京でも、イギリスでもどちらにしても修行だな、と大沢は波打ち際で遊ぶ少女を見ながら思った。こちらの意識を感じたのか、あかりはこちらを振り向いた。そして、こう叫んだ。
「その件なのですけど、私も、イギリス行きます!」
大沢は、やれやれと思った。どうして考えている事が分かるのか。大沢にはやはり理解できないが、できて無駄なことはない。そして彼女といることは、自分にとって、とても幸せなことだと思った。
大沢は立ち上がった。夜更かしをした割には頭がさっぱりしていた。太陽は少し高くなっていて、西の空もすっかり明るくなっていた。