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翌日、朝九時になると、あかりが出てきた。いつもと同じ様子だった。昨日怒っていた様子は微塵も感じられない。黙々と分析室で試料の処理を行っていた。
大沢は分析室に入って、ちょっと、もし、と話しかけたが、何やら集中している様子で、聞こえていないようだった。
「もしもし海野さん」
あかりは、びっくりして肩を震わせた。
「ごめん、驚かすつもりはなかったんだ、昨日は申し訳なかった」
「いえ、気にしてない。大沢さん、仕事忙しいの知ってる。仕方ない」
「まあ約束破ったのはこっちのほうだし、ごめん。いい話もあるんだ。研究にお金がつきそうなんだ。まあそんな話は後で話すけど。とりあえず、今日の夜、用事あるかな」
「特にありません。分析?」
あかりは、ぱあっ明るい顔をした。
「あ、いや違うんだ。その。これ行こうよ」
そういって、大沢はチケットを見せた。その途端、あかりの顔は一気に曇った。そして試料の方に向き直ってそっけなく言った。
「これ、昨日のチケットです。あまり見たくない」
素っ気はなかったが、何かしらいつもにない、決定論的でない言葉遣いが大沢には気になった。もしかすると、と大沢は漠然とした期待感を持った。
「よく日付を見てよ、今日のなんだ」
「今日?」といいながらも、あかりは相変わらず試料の方を見ていた。
「昨日のお詫びとしか、言いようがないけど。定期演奏会は二日連続らしい。今日は二日目、聞きに行こうよ。海の交響曲」
「でも私、今日は」
「今日は、用事はないんでしょ」
「そう」
「何か問題が、あるのかな」
「私、今日はそんな格好してないし。仕事の手伝いだけのつもりだった」
格好?そのときハタと思い出した。昨日、ホールの前で僕を張り倒した少女に違和感を覚えたのは、いつも知っている格好ではなかったからだ。あかりには、申し訳なかったが、大沢は正直言って何を着ていたか忘れていた。いつものシャツにズボンじゃなかったような気もする。頭にはいつもの帽子を被っていたような気がした。いや、それすらどうだったか。
あの時、ホール前にいないと思ったのは、いつものあかりの姿ではないから気づかなかったからかもしれない。今は、それは口に出さない方がよさそうであった。
「今日は、実験しなくていいから一度帰っていいよ」
「でも、分析試料、溜まってる」
「そのとおりではある。でも土日で取り返すよ」
「土日はサンプリング」
「そういうと思っていた。ところが土日は雨なんだ。ほら」
大沢は、天気予報を見せた。あかりは仕方なく、大沢の出す紙面を見た。
「土日の降水確率はかなり高くなっている。約束したよね。雨の日や天候不順な日は調査しないって」
あかりは困った顔をしているようだった。あまりしつこくするのはよくないのはわかっていたが、見込みがあるような気がしたため説得している口調になってしまっていた。大沢なりに外堀は埋めたつもりだった。
「わかった。じゃあ、やめておこうか。せっかく手に入れたけど。もともと悪いのは僕のほうだし、いろいろ都合もあるよね」
しばらく間があったが、しびれを切らした大沢があきらめようと思ったとき、あかりが口を開いた。
「わかった。でも実験はやるだけやっていく」
「よし。でも先に帰って準備したほうがいいよ。何があるか分からないし」
「大丈夫、私は大沢さんとは違う。約束は守る」
確かに、何があるのか分からないのは、こちらのほうだった。昨日も午後三時くらいまでは万全の予定だったが、そのあと学生の質問を受けた後が大変だった。実験の指示が勘違いしたまま、進んでいたのだ。慌てて 説明をイチからし直すと、夜半になっていたのだ。
結局、あかりは四時くらいまで実験の手伝いをして、帰っていった。
あかりが帰った後、疲労困憊した様子の長谷が、よぉ、元気?と言いながら現れた。
「疲れ果ててるな。大丈夫か?」
「何、大したことないよ。それより、ツンデレ少女はどうした」
「一度うちへ帰るそうだ」
「ほほう、いいね、楽しそうだなあ。くそう」
「お前はどうするんだ」
「俺は今日もがんばるよ。ちょっと仮眠するんで二時間後くらいに起こしてくれんか?」
「二時間後というと、六時か」
「時間は、どうでもいいんだ。お前が出かけるときでいい。頼むよ」
「目覚まし掛けろよ」
「もちろんそうするさ。でも目覚ましではだめだ。あれは意思がないから全く役にたたん。前、ツンデレ少女に頼んだときは、ものすごく冷酷だったぞ。濡れタオルで、おい起きろ。だからなあ。心臓に悪いよ」
「お前、そんなこと頼んでいたのか。おれよりよっぽど親しいな」
「お前が早くものにしないからだよ」
「ものにするとはなんだ」
「まあ、怒るな。とにかく出かける前、五時でも六時でもいいから起してくれ、たのむぞ」
そういって長谷は出て行った。
「しかたないな」
その後は、特に昨日のような波乱もなく時間が過ぎて、五時半になった。そろそろ出かけておいたほうがよさそうだった。長谷を起こすのをやめてやろうかとも思ったが、気の毒なので仮眠室となっている試料倉庫へ向かう。
「おい。起きろ」
長谷は、仮眠用、ではない打ち合わせ用のソファにうつぶせになって、正体なく寝ていた。
「おい! 」
「うるさいな、ボケ!ねさせろ。ううむ」
大沢は、こいつ起きそうもないなと思った。そこで、あかりの起し方をまねることにした。濡れタオル。十分にぬらしたほうが効果ありそうだ。これをどこに置いたのだろう、やはり顔かな。大沢は、そう考えながら、ぬれたタオルを鼻から上に掛けて落とした。
「ふが。ふわあああわああああああ。ひい、なんだ、た、助けてくれ~。息が!」
長谷が体をよじってバタバタした。
その姿はあまりにこっけいで爆笑物だった。これで十分だろう。
大沢が研究棟を出ると、空にはまだ夕方の明るさが残っていた。ちょうど夕方から夜への移行時期に相当する時間帯だ。大沢は、日課のように立ち止まって建物の間から見える空を見上げた。もうすこし視界が広ければいいのだが、といつも思う。晴れていても曇っていても雨でも雪でも降っていてもいい、少しの空が見えさえすれば。今日は、ビルのわずかな隙間に茜色から濃い青色のグラデーションを見ることが出来た。綺麗だと思った。大気の色は、とても人間には再生不可能な色彩美を無料で見せてくれるのだ。
時間は十分にある。が、今日は先に待っていたほうがいいだろうと思い足早に溜池山王からの地下道を歩く。
そしてホール前に来る。エスカレータも走ってあがる。十分に早く来たつもりであったが、すでにかなりの人数がホールの前でたむろしていた。見回してみたが、あかりは来ていない様子だった。しかし昨日のこともあるし、いつものあかりのイメージで探してはいけないのだ、と思いもう一度念入りに周囲を見渡す。大丈夫 やはり来ていない。その後、大沢は、三十分程待ったが、あかりの姿は現れなかった。
そろそろ飽きてきた。むかいのカフェに入って座って待とうかと思ったころであった。
「こんばんは。おまたせしたようです」
はっ!また突然現れた、大沢は、またしても気づかなかった。
振り返ると、ツンデレ少女が立っていた。
「え、あれ。やあ、あっちから来ると思っていたよ」
「私、地下鉄苦手だから、歩いてきたのです」
大沢は、あかりが前にそんなこと言っていたことを思い出した。確か人ごみが苦手なので、慣れるためにもっとも人の多いところを教えてほしいと言われた記憶がある。妙な依頼だったので覚えていた。
「そうか間に合ってよかった。まだ会場も開いてないよ。ちょっと早かったね」
「良いと思う。ここ入る前、ちょっと楽しい」
大沢は、漠然とした違和感があった。細かい表情は見えなかったが、そんな気がした。会場が開くという六時半まではまだ十分近くあった。おそらくそのせいで、そわそわしているのだろうと思った。もしかしたらイライラしているのかもしれない。
そのうち、あかりはこっちを見て、もうすぐ始まる楽しみ、といってにっこり笑った。
大沢は衝撃を受けた。いつも、にこりともしないのが笑うとなると、微笑まれたほうが気恥ずかしかった。その顔を良く見ると意外にあどけない顔つきだった。大学一年じゃ、普通なら二十歳前だろう。これも不思議な感覚だ。これはいったい誰だ。
大沢は軽い不安感に襲われた。今、自分のいる空間。ここにいるこの女の子。これは現実なのだろうか?周りの世界と切り離されてはいないだろうか。そんな不安に襲われる。
ふとホールの入り口がざわつくと、開場の入り口の上のほうから、人形が出てきて、音楽を奏で始めた。老人と子供がオルガンのようなオルゴールを鳴らしている様子だ。これはなかなか楽しい雰囲気を出している。大沢は、現実に引き戻された。うん。大丈夫、現実だ、と思った。
あかりは、すっかり見とれている。その一心不乱に見つめている姿はとてもほほえましかった。いつも、実験や研究に大活躍してくれているときに、このような顔をしたことはもちろんない。そんな姿を見ていると大沢は、胸をくすぐられるような、ほんわかと良い気分であった。
オルゴールは数分で終わった。ささやかな催しが終わるとホールの入り口が開いて、みなそそくさと中へと入ってゆく。
「大沢さん、どうしたの、です」
思わず、あかりに見とれていたのだが、あかりが怪訝そうな顔でこっちを見た。
「はやく入りましょう、です」
「です」の使い方が間違っている気がするが。そういえばいままで、こんな口調はなかったはずだが。今日は何かと妙な感じだ、と大沢は思った。
「そうだな。入ろう」
もちろん、こんなホールに来るのは初めてなのだが、あかりの目の輝きは尋常ではなかった。特にホールに入ったときは、相当あたりをきょろきょろ見回しては、ため息をついている。どうも感嘆しているらしい。
われわれの席は二階の右側であった。長谷はこの場所を悪くないぞ、といっていたが、舞台に対して横から眺めるのは不思議な感覚であった。そんなことをあかりに話すと、しばらく首をひねって考えた後で、でも全体が見られて楽しいです、と違和感なく捕らえているようだった。むしろ、そんなことはどうでもよいらしく本当に楽しそうだった。
やがて楽団員が入ってきて、コンサートが始まるようだった。大きく見えた舞台だったが、オーケストラ、それに合唱者、二人の独唱者が入ると結構狭い印象を受けた。最後に指揮者が入り、いよいよ演奏が始まる。
大沢は、始まるまで、どんな音楽が始まるのか全く知らないでいた。とりあえず、あかりをここに連れてくるのが目的であったし、長谷は、良い音楽であることを力説していたが、その手の音楽をしっかりと聞いたことがなければ、比較のしようもない。そんなことを考えていると客席、舞台から音が消えた。
その瞬間、鳥肌が立った。意識下における最高の静寂ではないだろうか。音を響かせるためのホールで、この静寂は何だろう。
次の瞬間、その静寂を打ち破って管楽器のファンファーレが強い音で鳴り響く。そして大合唱がエネルギッシュに叫ぶ、「海を見よ!」と。その音楽に一気に引き込まれた。続くメロディも切なくも強く心に訴えかけるもので、自然と引き込まれた。少し落ち着いたところで、大沢はふと思った。「海を見よ!」か、あかりたちが、大沢に対して、訴えるのに格好の音楽だ。これは上手くはめられたか、と大沢は思った。しかし良い音楽だと思う。こういう罠ならば、悪くないかもしれない。
強く訴える音楽はやがてひと段落し、大沢も落ち着いて周囲を見渡すことができた。オーケストラが前面に出ているが、音楽は合唱を中心に進んでいった。多数で歌われる歌詞の内容を把握することは、大沢には難しく、しばしプログラムなどを眺めたりしていた。曲が進むうちに、そして歌詞を読み解くうちに、大沢は釈然としないものを思った。当初あかりが誘うのだけあって、内容は海に関する自然賛歌だと思っていた。しかし全曲ホイットマンによる歌詞は、むしろ海に出て行く人間への賛歌なのである。「渚にて」、「波に向かう者たち」、「冒険者たち」、どれをとっても、人間賛美的な詩であった。正確には人間の勇気を称える歌、だろうか。この音楽をあかりが選んだのでなく、あかりの姉が選んだにせよ、大沢にとっては、少し意外な内容であった。
大沢は思う。人間たちの開拓精神、冒険精神は、海を汚す原因になってはいないだろうか?海の男たちはそんなことはしないかもしれない。しかし人間が海へ出ることは、汚染を撒き散らすことにつながっていると言えないこともないだろう。あかりにとっては、憎むべき事ではないのだろうか?
しかしながら音楽は、素人である大沢にとっても魅力的であった。大沢は、この手の音楽を好んで聴く習慣はなかった。しかし高貴な感覚は、よくわかった。
そんなことを考えているうち、「海の交響曲」は、静寂や荒れる海、もまれる人間たちのさまざまな冒険模様を描写していった。終末へ向かうことを暗示するように音楽は静まっていく。劇的な描写の主役である人間たちを労り、そして海の素晴らしさを懐かしむように、いや、それだけではない、と大沢は思う。この音楽は見せかけに静かに収まるのではない。大きなうねりがある。しかし複雑ではない。ある時は、眠りに入るように音楽は静まっていく。またある時は、音楽は不安を誘う。日は沈み、夜が来て、夜が明ける。人は変化を求める。もちろん自然も姿を変えるのだ、大局的な変化のうねりは感じさせないだけ。大きく小さくうねりながら自然は母なる海へ戻っていく。大きな円弧がはるかさまざまな世界を旅して、太くなり、細くなり、やがて閉じるように。
演奏が終わっても、しばらく静寂が続き、ぽつぽつとした拍手が始まると、やがて、大きな拍手とブラヴォーの声がかかった。重い音楽だったせいだろうか、アンコールはなく、楽団員が引きあげていった。
あかりはいったいどんな顔をして聞いているのか、非常に気になっていたが、顔を見られないでいた。いったいどんな顔をしているのだろう。怒りに満ちているたらどうする。緊張して右を振り向くと、あかりは寝ていた。
「あ、私は寝ていました」
「うん、もうぐっすり、でも大丈夫。僕も気づかなかったよ」と大沢は小さく答えた。寝たことに関して、あまり大きな声で言ってはまずいかと思ったのだった。しかしそれはあまりにも俗すぎた。大沢はすぐに後悔した。
「終わりの方、だんだん海の深いところに誘われるようでした。懐かしい感じです。いつの間にか、寝てしまいました。とても良い音楽です」
あかりは、非常に満足そうな顔をしていった。つまらなくて寝たわけではない。あかりは、彼女なりに楽しんでいたのだ。そんな気持ちよくなれる時間なんて、今、自分にはどれくらいあるだろうかと、思った。
「そうだね。いい音楽でいい気持ちで寝られるなんて、いいことだよ。僕はついつい聞き入ってしまったけど。この音楽、知っていたのかい」
「いえ? もちろん知らないです」
「初めて聞いたの?」
「はい」
「姉さんのお勧めかい?」
「そう、です」
大沢は、あかりが穏やかに話すのを見て、先ほど疑問に思ったことを聞いてみた。
「海の交響曲と聞いたときは、もっと自然賛歌のような曲をイメージしていたけどな。君に誘われた、と言うのもあるしね。そういう点で予想と違ったな」
「私は、よく歌詞はわかってないです。良い気持ちでしたし、元気が出たり、悲しかったり、がんばろうと思ったりしました。それに人間さんの勇気ある姿、ええっと開拓者?伝えたいことは分かった気がします」
あかりは、できるだけ丁寧な口調で伝えようとしていた。今日はいつもと違う話し方だ。
「プログラムに載っていた歌詞は見てなかったのかい?」
「歌詞とは、言葉の意味、ですか?」
「そう。それぞれの楽章のタイトルとか、内容とか、書いてあるよ」
「見てない。みてもよく分からないです」
「それなのに、感激できたのか。ふうん、すごいな」
大沢は、実は、ちょっとあきれた。内容も知らずに聞いていたのか。歌を聴くのに歌詞を知らないで、意味があるのだろうか。大沢も英語に多少の知識はあったが、合唱で歌われると、もう何を言っているのか、ほとんど分からなかった。それでプログラムの対訳を見ながら音楽を聴いていたのだ。それに対するあかりの回答は明確だった。
「大沢さん、頭で分かろうとする、よくないです。私は、直接心で感じる」
やられた、と大沢は思った。正論がもっとも論破するのは難しい。確かに音楽を聴きに来たのだ。耳と心で感じるべきだろう。その通りだ。しかし一応反論しておこう、と口を開いた。
「確かにそういうところはあるが。しかし作曲家だって、歌詞をつけながら作曲するわけだし、その言葉を理解するのは、聞く側にとっても、重要なんじゃないかな。そもそも… 」
あかりはこちらを見ていた。大沢の言葉が無意味で、たわごとだと分かった上で、あえて聞いてやっている顔つきだ。いやみな顔でもなく、いつものような冷たさは、なかった。母親が子供の話を聞くような。こんな顔をしたあかりを今まで見たことはない。
「そもそも?」
あかりは先を促すように言葉尻を繰り返した。聞いてやろうということらしい。何かおかしい、いったいこれは誰だ。言葉に詰まった。
「いや、もういいよ。君は、なかなか凄いな」
あかりは、もういいの?という顔をした。
「なんでもない。意外に早く終わったけど、ご飯でも食べていくかい」
あかりは、明らかに困った顔をした。
「それは、ええと、家で姉が待っています。帰るです。それにお酒飲むの、私、嫌い」
あかりは、姉がお食事くらいはしてらっしゃいと言っていたことを思い出した。しかし、あかりにとって、今日の体験は、とても刺激的だった。きらきら輝くコンサートホール、海や人間をたたえる音楽は圧倒的であった。あかりにとって、これまで人間は憎むべきものだったし、復讐すらしたいものだった。その思いは、変わらないものの人間の文化は、刺激的で、魅力的さえ感じた。そしてそう感じてしまう自分に混乱を感じ始めてもいた。この後、まともに話が出来るとは思えない。すこし一人にならなければいけないと思った。
「そう?やっぱり歩いてかな」
「はい。歩くことは、好きです」
大沢は、あかりが歩くのが好きなのは知っている。夜中でも平然と歩いて帰っているようであり、これまた不思議である。
大沢は、当初から食事は断ると思っていた。しかし今日に限って、この不思議な少女と別れるのは、名残惜しいと思った。
「よし。僕も付き合って歩くか」
「それはやめてください。家までは、と、遠いです」
「そんな、迷惑そうな顔しないでよ」
「め、迷惑では、ないです。でも困ります」
そういったが、大沢には、あかりはとても迷惑そうにしていると感じた。しかし今日は一緒に歩いてみたかった。
「悪いね。僕も歩きたくなった」
大沢は、そういって迷惑そうなあかりと一緒に、途中まで帰った。大沢はあかりと別れてひとりになると、今日のことを考えてみた。感覚で物事を捉えるには、すでに感性が麻痺しているのではないだろうか。もうそんな感覚で物事を捉えなくなって、どれくらいの年月がたっているのだろう。いや、もともとそんな感性などなかったかもしれない。この少女と一緒にいれば、その感性を少し取り戻してくれるのではないだろうか?大沢はそんな気がした。
12
大沢とあかりが出会ってから一年経過した頃、試料採取調査は二十五回目に達していた。例年は年に八回程度、季節ごとの試料採取を行うのであったが、例年の倍以上の密度で実施できていた。さらに、採取する深度についても、採取する地点についても箇所数が増えていた。あかりは、もっとできると言い張っていたが、試料の分析や取りまとめのほうが追いつかない状況にあった。
あかりの働きぶりは献身的で精力的であった。大沢は、未成年を預かる身として事故がないか常に心配していたが、あかりは、いちいち安全に関して指示をする大沢に対して煩わしそうにするものの無謀なことをするわけではなかった。GPSで指示された正確な箇所、指示された深度の海水をきっちりとサンプリングしてきている。間違っても、余計に深くから持ってきたりはしない。大沢は、これは使えると思った。情熱的な学生は結構いる、しかし空回りすることも多い。好奇心と若さは、自分の能力外のことにチャレンジさせる勇気を与えるとともに、自分のできないことをして、バランスを崩すこともある。そこは、ある程度助言してやらなければいけないのだが、あかりについてその配慮は不要だった。
「先生、すごいですね、彼女」
一緒に来ていた研究所の手伝いをしている大学院生が、驚嘆の声を上げた。
「僕は、とてももぐろうとは思わないな」
「なんだ。僕にもやらせてくれと言うのかと思っていたよ」
大沢は、大学院生にそう答えたが、彼は滅相もない、という顔をした。
「そうだよね、僕だってそうだ。彼女の成果を無駄にしないように、こちらはこちらでがんばろう」
その日も精力的に調査は進んだ。夕方になってもっとも東京よりは慣れた箇所での採取が終わった。このあたりになると、海の汚れは少ないため、あかりの機嫌も良いようだった。
「今日は疲れただろう。湾内から離れると、波も高いし」
「少し大変です。でも海は湾内より、きれい。気持ちが良い」
大沢には、最近あかりの口調が穏健になったと感じていた。しかし自分から仕事以外のことを話すことは、全くなかったし仕事中の態度も、極めて生真面目な姿勢は、ほとんど代わることがなかった。大沢と大学院生も、あえて無駄口をたたくことはなく、たんたんと調査は進んでいった。最も東京から離れた地点での試料採取が終わると、さすがにみな疲れていた。
「これで終わりだな。時間は早いけど、今日のノルマは果たしたね。ここまでにしておこう」
大沢は、最後の試料の梱包を終えて言った。手伝いの大学院生もほっとしていた。
「よかったです、とにかく試料が多いので、整理するのも大変ですよ、もっとも一番がんばったのは海野さんですけどねえ」
あかりは、梱包作業している横に座って湿った髪をいたわっていたが顔をあげて、もっとがんばれます、とつぶやいた。
「今日のノルマは十分こなしたんだし、これ以上やる必要はないよ。これでも、多めに試料採取してるんだ。湾内調査の科学的に効率のいい方法を見つけることが大事なんだ。がむしゃらやればいいものじゃないよ。君は、はやく着替えて来い」
あかりは、それを聞いても平然としていたが、ややうれしそうだった。
「うれしそうだな」
「海、きれいでした。湾内もこんな風になればいいです」
「ま、今は、早く着替えて体を冷やさないことが大事だな」
しつこく言ってやっとあかりが、車の中へ入っていった。大沢はやれやれと思いながら、試料の整理を再開した。手伝いの院生が話しかけてくる。
「これは、すごく貴重なデータになりますね。ここまで詳細だと今まで、ごまかしてた部分が分かりそうですね」
「ごまかしていたわけじゃない。解らないんだ。言葉を正しく使えよ。どういう結果になるか分からないけど、湾内の細かい地形に合わせた結果だから、いままでの解析方法では、うまく予測結果と合わないかもしれないよ」
「そうですね、部分的に切り離して、重複させるとか」
「そういう解析システムはないから、作らないといけない。マクロな目で見つつ、ミクロも評価できる」
「う~ん。難しいなあ。でも面白そうですね」
「もう少し考えてみないと。しかし、いつまでもこの方法で続けるわけにもいかないからなあ」
「どういう意味です」
「わからないかな。彼女がいなくなったら調査はストップだぞ。君がやるか」
院生は、そうか、と苦笑しながら言った。
「力任せの調査では、限りがありますね」
「お金があれば、誰でもできるさ。効率的で安価で汎用性がある手法でないと」
心配事は他にもあった。データの信頼性は抜群だが、試料がまともすぎて、作られたものでないかという疑いがあるかもしれない。どのようにトレーサビリティの証明をするかも、考えた方が良さそうであった。そんな思案をしている間に、あかりが着替えて出てきた。
「お疲れさま。温かいお茶でも飲むかい。それともお腹すいたかな」
あかりはそれには答えず、試料びんの整理をしている大沢を見ながら、腰を下ろした。
いつもは淡々と試料整理を手伝うのだが、この日はそれをせず、向かいの日の当たるところに座ったので、大沢は意外に思った。さすがに体が冷えてきたのだろうかと思ったが、どうもそうではないらしい。何か言いたいことがあるようだ。理由はなかったが、あえて言えば、そんな雰囲気を感じたまでのことだ。どうしたと聞くと、あかりは、わが意を得たりというように、今までになくすっきりとした顔で口を開いた。
「大沢さん、なぜ海の研究、はじめたのか? 海が汚くても人は死なない。海を汚しながらでも人間は生きていける」
そうか、それが聞きたかったのか。大沢は納得した。彼女にすれば、大沢は海をきれいにするだけの手段であり、自分の素性を知っておきたいのだろう。
「そう、金儲けのためかな? ここで特別な技術を開発すれば高く売れる、国にも民間にも。それでひと財産をえれば、楽に暮らせるぞ」
傍らにいた院生が、えっ、といった顔をした
あかりの顔も一瞬で曇り、不穏な雰囲気が包む感じだった。
「ごめんごめん、というのは、うそ。だって全然儲からないぞ。負の遺産をどれだけ解消しても。それを考えるとむなしい仕事だよな。まずゼロに戻さなければならないが、道筋もない。」
あかりはまだ怪しげにこちらを見ている。これはまずかったと思い、大沢は再度弁解の言葉を繰り返した。
「そうだなあ、なぜこの研究を始めたかというと、むかし僕が見たふるさとの、透き通った海にまで、どこまで戻せるかを試したかったのかなあ。東京湾がそこまできれいになるとは思えないけど、その方法や道筋がわかればいいかなと思ってね。しかし方法を考える前にどれくらい汚れているかを把握しなければならない。しかしいまだ持ってその正確な汚染はわからないし、簡単にはいかないことに気づいたんだ。僕の卒論は、放射性元素の核種移行だからね。ずいぶん遠いところまできたものだよ。もちろん、浄化の方法が確立すれば、教授になれたり、特許が取れてお金になったりするかもしれない。でも僕のやっている分野では、それはなさそうだ」
あかりの不穏な雰囲気はなくなり、好奇心が芽生えたようだった。
「その場所は、どこですか」
そこに興味を持ったか。
「僕の生まれは北海道の北のはずれの町なんだ。海沿いには島が二つみえるんだ。原野から見る海は、きれいだった。田舎だから、人もあまりいない。そこが良かったんだけどね。よく海岸にいったよ。つらいとき、悲しいとき、好きな女の子に振られたとき。夕暮れから夜がいいんだ。日の沈む時期から、夕暮れ夜と。海と空は、いろんな顔を見せる。口で言ってもわからないよね」
大沢は聞かれていないことまでついつい話してしまっている自分に気がついた。こんなことは特に人に聞かせることでもないし、意識して思ったこともなかったが、ついつい口が軽くなったようだった。その理由は、よくわからなかった。しいて考えると、あかりの口調が話を誘うような雰囲気を持っていたためのような気がした。
あかりは、大沢の話が一息つくと、満足そうな顔をした。
「とても、良い話です。大沢さん、海を好きな気持ち、とても伝わります。私も見たい」
「見たいって、今話した海のことかい」
「はい」
「そうだなあ。でもただの砂浜と海だよ。遠いしそこまで力んで見る価値は無いような」
「いつか、見てみたいです」
あかりは、にっこり笑って立ち上がった。そして梱包した箱を院生とともに車に運ぶ手伝いをはじめた。
大沢は、まただ、と思った。あかりの笑顔を見るのは二回目だろうか。出会った当時は、にこりともしない子だったのに、この子も何か変わりつつあるのだろうか、と大沢は思った。ボランティアとしての、有能な研究協力者としての存在であることには変わりなかったが、それを改めさせるような魅力がその笑顔にあった。それに彼女は、うそをつかない、というか裏表がない。その彼女のあの笑顔は、本物だと思っていい。大沢は、初めてあの子はいったい何者なのだろうと思った。
その年の十二月が暮れる頃になっても精力的に調査を進めていた。あかりは、最初こそ調査方法に戸惑っていたが、このころになるとすっかり板についた感じで現場に連れて来ればGPSによる位置の管理からサンプリングと簡単な計測まで任せることができた。年内最後の現場は東京湾の最南部を実施した。冬ではあったがその日は、現場での調査に行く回数が増える。このときは大沢も久々に海の中に潜っていることにした。
「やめた方がいい、と思います」めずらしくあかりは深刻な顔をしていった。「大沢さん、泳ぎ上手いとは思えません。溺れたりしたら困ります」
大沢は、そういわれては引き下がれないと思った。
「失礼だな。君が来る前は一人でサンプリングしていたんだぞ。それにダイビングの免許も持っている。甘く見ないでもらいたいね。まあこんな冷たい海で潜ったことはないが、それは君も同じだろう」
「私は、大沢さんとは違う。海は慣れています。特に東京湾は庭です。ここは外海に近いし流れも速い」
ふむ、と大沢は考えた。一応常識的な判断ではある。世間離れした子だとばかり思っていたが海に関してはちゃんと理解しているようだ。無理して冷たい海に入ることもないか。あかりをちらと見ると、大沢が納得していないと思い、次に何を言おうか考えていたようだが、覚悟を決めたように言った。
「多分、足手まといです」
その一言で決まった。
その後、あかりは何度も止めたが、大沢は新型の高圧携帯ボンベを装着して潜った。この辺りは東京都湾の中でも透明度が高いので久々に潜る海に期待もあった。遊びに来たんじゃないぞ、と言いながら潜ったものの、水中でのあかりの動きには目を剥いた。尋常でない泳力だと大沢は感嘆した。
結局、大沢自身は、流されそうになったり、泥濘の海底サンプリングで苦しんだりして、あかりの手助けどころか間違いなく足を引っ張った。大沢は、散々な目に合ったが、それよりあかりに迷惑をかけたことが恥ずかしかった。無様な姿を見せたことよりも、足を引っ張ったことだ。あかりの真剣さは理解している。これでは合わす顔がない。しかし不思議なことに作業後のあかりの顔は晴れ晴れとして笑みさえ浮かべていた。鼻歌さえ口ずさんで、これまでの最高の笑顔でこう言った。
「今日は楽しかったですね」
大沢は、疲労困憊していたが、そんなあかりの前で疲れは見せられなかった。正直意地だけで意識があったようなものだった。この日は冬休みでいつもの院生もいなかったので、帰り道では一人で運転するのはしんどかったが、休み休みしながら運転を続けた。研究所に戻ったころは十時を過ぎていた。へとへとだったが、その日の仕事を無事終わらせることができ、満足して年を越すことができそうだと思った。採取した試料は移動中に、広いディフェンダーの後部座席であかりが器用に処理していた。このルールは、試料を早く処理したい、という大沢のつぶやきを聞いたあかりが工夫したのである。
この日の大沢の疲労ぶりは、あかりに伝わっているようで、なにかと気遣うようなことを言ってきたが、すべて断りさっさと家に帰した。そしてやれやれと、休憩室のソファにどっかりと腰を下ろしていると、長谷が現れた。
「よお。そんなに邪険にしてやるな。冷めてえ奴だ。最近かわいくなったじゃないか。ええ?それを、あり得ない話だな。全く、噴飯ものだよ」
「何を言うんだ。噴飯はこっちだよ。あの小娘、ものすごい泳力だぞ。ありゃ魚だよ。それでも陸の上ではこっちにも意地がある。そういう意地をわからんような所が小娘なんだ。あんなの相手にするか」
「ほう、言ったな。しかし意地を張らずあの小娘の世話になれよ。明日はちゃんと優しくしてもらえ。ああ、くそぅ。俺のところにもあんな優しい小娘が流れてこないものか」
「残念だな明日は来ないよ。今年は店じまいだからな。あとは家族と過ごせと言っておいた」
「どうかね。まあ確かに、もうそんな時期だな、じゃあ、お前のところも終わりか」
大沢はちらりと長谷と目を合わせた。
「これな、秋のどぶろく祭りで手に入れたんだ。今年中に飲まないと不味くなっちまうんだ」
「よし、飲んでやる。最近未成年者と一緒だったからな。うん。これは旨いな、どこの酒だ」
「旨いだろう。このコクとアルコールの刺激がたまらないよな。まあお前の仕事は縁のない、岐阜県の山の中だよ。白川郷は平瀬ってとこだ。ちなみにこっちは発泡酒だ」
「発泡酒だって。そんなもの子供の飲む酒だな」
「そうじゃないよ。これをよく振ると、ほら真っ白だろう。これが落ち着くのを待ってだな。飲む」
「なるほど。甘酒を発砲させたような感じだ。しかし酔ったかな。アルコールを感じないぞ」
「さすが大沢先生。九パーセントだ」
「何! けしからんな、おいおい。ジュースなら小娘を連れて来いってとこだ」
「よし、電話だな」
長谷は恐るべき速さで電話を取り出した。
「まてまてまて。止めてくれ」
「やっぱり惚れているじゃあないか」
「ばか。惚れなんてするか。子供だぞ。あの子にはちょっと手ごわい姉がいるんだ。あっちのが怖いぞ」
「ああ、あの妙な雰囲気のある人か、あの人はいいな。大人の魅力だな。何歳だ、あの人」
「さあ、そんなこと知るか。しかし意外だな。何で知っているんだ。お前見てたのか」
「あの人、挨拶に来てただろう」
「まあそうだが、挨拶は俺のところに来たんだ。お前の所じゃないだろう」
「あれれ、お前知らないのか。あの人、職員全員に挨拶していったんだぞ」
なんだと。
「それもだ、ええっとなんだったか。二人をよろしくお願いしますとかなんとか。そんな感じだった」
「ウソだろ。おいおい」
「西田教授も感心してたよ。教授が部屋の外まで見送りに出ていたからな。久々に真の日本女性を見た!とか」
「うわぁ。知らなかったぞ。そんなこと。くそっ、そうか。それであかりがウロチョロしても誰も文句言ってこなかったのか、おかしいと思ってた」
「ははは。みんな遠慮するよ。格好のネタだしな。あの堅物だった大沢が、軟化してきたと最近女子の中でも評価が変わってきた。まあお前にとっては幸運の天使だよ」
「信じられん。皆に挨拶だって?あり得ない。普通じゃない!」
酒盛りは夜明けまで続き、ふらふらになりながら自宅へ帰ったものの数時間後には猛烈な頭痛に襲われた。その日の昼になっても頭痛は収まらず、むしろ立ち上がるのも困難なほど、体調が悪くなっていた。最初は前の日に飲みすぎた酒が残っているだけだと思っていたが、風邪だろうか。そういえば昨日はあかりと一緒に海に入って体力を消耗したことも影響しているようだ、単なる疲労だろう。まあいい。今年の研究も終わりだ。片付けが残っているが年明けでもいいだろう。大沢はこう思って布団を頭からかぶった。その後ウトウトしかけたが二日酔いの頭痛がひどく、どうも寝付けないので、仕方なく部屋中を這って薬を探したがどこをどう探しても頭痛薬も出てこなかった。おかしいな全く何てことだ。自然治癒には時間がかかりそうだ。とにかく何とかしたいのはこの頭痛だ。どうする頭痛薬を買いに行くか、このままじっとして嵐が過ぎるのを待つかだ。しばし考えた後気合を入れて立ち上がろうとしたが、ダメだ。風邪で腰が立たん。ふらふらじゃあないか。冷蔵庫には水しかない、冬だから氷も作っていない。いや夏も作っていないから、同じだな。そのまま冷蔵庫の前でバッタリ倒れたが、また頭痛で目が覚めた。
これはダメかもしれんな。
大沢にはかなり高年齢の母親がいたが、住まいは八王子であり、都内まで来いとは言える状態ではない。むしろこちらが出向いて年末年始のお世話でもすべきなのだ。こうなったら奥の手か。携帯で長谷を呼び出すしかない。やつも二日酔いだろうが風邪までは引いていないだろう、弱みを作るが仕方ない。大沢は意を決して電話をかけることにした。が携帯はなかった。研究所においてきた。タブレット端末もだ。まずいぞ。救急車か。あ、電話なかった。
こんこん。
いかん、誰か来たぞ。いや、これはラッキーか?
「もしもし。大沢さんですか。海野ですが」
大沢は、一番よくないものが来た、と思い、インターホンを握りしめた。
「くそう。なんだ君か。年末年始は来るなと言っただろう。ウプ。それも自宅へ押しかけるとは、いかんな」
かろうじてここまで言った。
「長谷さんからこちらへ行くように言われました」
「俺は言ってない、げほ」
「長谷さんです。大丈夫ですか」
「何がだ」
「おかしいですね。大丈夫ですか。困りましたです。多分困っているので手伝うように言われたのですが。
「そんなものいるか。帰っていいから。ゆっくり家で休め。おぇ」
そこで力尽きた。もうだめだ。もったいないが、吐くしかない。酔っぱらっていたせいか、わざわざインターホンをオンにしたまま吐いた。
あかりは、インターホンから聞こえる恐るべき音で青ざめた。ずっと昔、忌まわしい沿岸の工場から流れる排水口で聞いたことがある。
「大沢さん、大丈夫ですか。大沢さん!」
返事がないのであかりは、ううん困りました、とウロウロしたあとドアノブを引いて見ると、動くではないか。
「あれ、開いています。入りますよ。大沢さん」
と扉を大きく開く。一歩室内に入るとあかりの顔はゆがんだ。
うっ。ひどい。悪臭だった。お酒だ。すごく臭う。あかりは大沢の身に何かあったのではないかと思った。最近あかりは、図書館の情報共有ネットワーク端末から酒の摂取が命を縮めるという記事を読んでいた。これはいけない。きっと誰かに無理矢理飲まされたのだ。年末は、酒が巷にあふれて駅や電車などは酒の悪臭で充満しているそうだ。このままでは大変なことになるかもしれない。大沢の体に万一のことがあれば、どうすればいいのか。あかりは靴のまま室内に突進した。ひどい酒のにおいに目がくらむ。奥の部屋でひどい液体個体ゲル状ゾル状物質にまみれた大沢を発見した。これは絶対最悪の事態だ。それ以外あり得ない。絶対ない。姉さま!と叫んだものの、あかりは目の前が真っ暗になった。
大沢は意識を取り戻した。消毒薬の匂いがするからだ。これはずっと昔、嗅いだことがある。この先は思い出してはいけない、何か。大沢は不安をかき消すように目を覚ました。うっすらと目を開けて見回すと、妙に整理された自分の部屋に、大沢はきちんと寝ていた。吐いたところまでは覚えている。その後は、記憶がない。何故か知らないが、片付いていた。何故部屋がきれいかは、そこにいる二人を見れば大方予想がついた。てきぱきと部屋を掃除してくれたようで、今はすっかり片付いている。このきれいさは入居当時のようじゃあないか、と大沢は思った。
目を覚ましたのに気が付いたのは、あかりだった。
「全く、いい加減にしてください。全く」
あかりは震えるほど怒った。大沢は、コンサートをすっぽかした時を思い出して危険を感じた。
「あ~。すまん。お姉さんまで」
とりあえず謝るしかないだろう。
「さすがに驚きましたよ。大沢さんお酒はほどほどにしてくださいね」
「こんなことになるとは。僕は酒には強いんですが。いや、まいったな」
「どんなに強くても、今後お酒は、ほどほどに慎んでくださいよ」
「いや、それは困るなあ。はは」
ドン、炬燵が揺れた。あかりが大沢を睨みつけた。
「やめてください。一切です。絶対許しません」
「は」
「ま、お二人でしっかり話し合ってくださいね。私は帰ります。まだお仕事の途中ですし。それから、大沢さん、あなた風邪を引いているようですね。薬を飲ませてあげたいのですが、お酒が抜けるまではダメです。勝手に飲まれると困りますのであかりは、大沢さんの監視をお願いします。多分迎え酒で治す、とかいうはずです。大丈夫、僕は酔ってない、と言ったら間違いなくまだ酔っています。このアルコールチェッカーで確認してから薬は飲ませてください」
「わかりました。姉さま」
くそう。
姉は、ではね、と言って出て行った。姉が帰ると沈黙が待っていた。どうも居心地悪い。大沢はなぜ飲むことになったかを話そうとしたが、二言三言、話したところで、あかりが冷たい目でこちらを見た。その威圧は間違いなく、しゃべるな、と言っていた。あかりは、部屋中のアルコール臭にあたって倒れたらしいが、今は普通に座っている。
「まあ病人だからな。静かにしていた方がいいか。しかしすることもなくて困るだろう」
あかりは目線を外して本を開いた。することはある、と言いたいらしい。何を読んでいるのかと思ったら、実験計画法の教科書だった。そんなもの読むのか。
「邪魔だと思われるのなら、早く治してください。寝てください」
そして、フン、と言って(確かに言った)本に目を落とした。
取りつく島はなさそうだ、とはいえ、こちらも確かに体調がよくない。頭痛は二日酔いのせいだろうが、体のだるさは格別だ。先ほど姉が帰るときに体を起こそうとしたが、頭痛と関節痛で全然腰が立たなかったのだ。いかん、少し寝たほうがよさそうだ。頭痛薬が飲みたいが、ダメだといわれそうだな…。
いつのまにか寝ていたが、ふっと目が覚めた。おでこが冷たいからだ。薄目を開けるとあかりが額に新しい吸熱シートを置いてくれていた。その顔を見て大沢はいけない物を見た気になった。自分が寝ているからだろう。あの憤怒の表情はみじんもない。心配してくれている。その一心に尽きる顔だった。そして炬燵に戻ると、ふうとため息をついた。見ると炬燵に入らずに正座していた。膝までのスカートからすらっとした足が出ている。何故かはわからないが。これはいけない。いろいろな意味で。困る…。
今度は朝方で目が覚めた。どうやら熱は引いていないらしいが、頭痛は少しとれたようだ。あかりは座っていなかったが、こちらが身動きするとすぐにやってきた。どうですか体調は、などと聞いてくれたが、その声は冷たいままだ。まだ怒っているのだろう。昨日の夜の顔は幻だったかもしれない。姉が持ってきたアルコールチェッカーでほとんど酒が抜けたことを証明すると、薬を飲ませてくれた。しばらくじっとしていると、眠くなった。やけに効く薬だな、などと思っているうちに深い眠りに誘われる。
目が覚めた。また、おでこの吸熱シートの交換だった。寝返りをうつと調子は良くなっているのを感じる。そっと目を開けてみると外は暗い。ちらとあかりを見ると炬燵にはやはり入っていない。こちらに迷惑がかからないように、という意図だろうか卓上ライトで本を読んでいる。大沢は体を起こした。あかりが気づいてこちらを見る。何か言いたそうなのを制していった。
「少し体を起こしたいんだ。寝てばっかりだったからな」
あかりは無言だった、そうですか、と言っているようだ。まだ機嫌は悪いとみた。
「まだ実験計画法を読んでいるのかい?いい年の子が読む本じゃあないな。まあそんな女の子向けの本はないけれどね」
「実験計画法と統計の分析の本は読みました。難しくてよくわかりません」
「そうだろうな。あの本は専門向きだし、我々の野外調査やでかいフィールド向けのものではないからね。室内の試験向きの本だ」
「なぜ適切な本がないのですか」
「そうだね。そういう調査をやった人があまりいない。それに複雑な海の地形、海流、塩分濃度、水温、濁度、微生物の分布、関係する要素が多すぎる。それに僕らしか買わないのでは、本を書いても儲からないよ」
あかりは、そうですね、と言って少しだけ笑った
「おっ、笑ったじゃないか」珍しいものを見たと思って、ついそう言ってしまった。それを聞いたあかりは、はっと顔色を変え、笑ってなんていません、見間違えです。まだ酔っているのですね、と言った。それに、お酒なんかであんなことになったなんて恥ずかしいです、とも言った。
「酒の件は、さすがに骨身にしみたよ、悪かった」あかりはそれを聞くと、当然です。全く、ひどいことでした、などと言った。大沢は、あかりが前から酒に否定的なことを言っていたことをふと思いだした。
「なんでそんなに酒が嫌いなんだ」あかりの顔色はさらに変わった、言わなければよかったと大沢が後悔するほどに。
「人はお酒を飲むことで、その前は問題だったことが全てなかったことになります。それに頭をマヒさせて、不幸だというのに、幸福を感じてしまうようです。お酒を飲むと、現実を見ることができなくなります。それに冷静な判断を下せなくなります。それに人によっては飲酒することにより体調を崩します。そうなってしまうと、普通では頼りがいのある人でも、別な人のように人格が壊されてしまい怖いです。もとには戻れるようですが、人はなぜそのような人格破壊を自ら進んで行おうというのか、わかりません」
「ううむ。それを聞くとお酒を飲む魅力は全くなくなるのだが。気持ちが楽になって普段言えないことが言えたりして、潤滑剤のようなものにもなるんだ」
「それもおかしな話です。正常に活動している状態で話をできないことの方が問題です。お酒を飲んで正常な判断が下せない状態で、さらに普段離せないことを話す。言った方は覚えていても相手は覚えていないかもしれない。そんな不安定な状態なのに大事なことを話すことはおかしい。大沢さんは、長谷との会話を覚えていますか」
「いや、ほとんど」
やはり、記憶力の低下ですね…、とあかりは目をそらしてフムフムと頷いている。
「大沢さんのような方が記憶欠乏などはありえません、絶対ありえません。ますますお酒は恐ろしいものです」
「記憶がないのはさ、ほら、くだらない話だからな」
あかりは、それを聞かず、絶対にやめていただかなくては…、などと言っている。
「飲んでると、嫌なことを忘れられるんだよ、そんな息抜きの瞬間もほしいんだ。いつも飲もうというわけじゃない」
大沢さん…。あかりは絶句した顔でこちらを見た。それは驚愕の顔から、憐みの顔に変っていった。なんだ、どうしたんだ、と大沢は慌てた。
「本に書いてありました。重度の麻薬患者も同じことを言うようです。同じ効果が得られるのなら、お酒も全くもって危険な毒物です。精神的にも、肉体的にも。すぐやめましょう。大沢さんは頭がいいからわかるはずです。そこまで依存しているとなると、きっと苦しみますね」
私が何とかしなければ…、とあかりは独り言を言っている。
「いや、ちょっとまって。ストレスがたまって吐き出すところがなくなってしまう」
「それはお酒の問題ではありません。ストレスがたまることを無くすことが大事です。それが解決方法で、お酒は必要ないと思います。そうですよね」
「あ~。まあそうなんだがね」
「私は確信しました。大沢さんにお酒はいりません。一切今後飲む必要がありません。大丈夫です。私がお手伝いします」
あかりはそう言い切った。おかしなことになったものだ、大沢は思う。そのおかげだろうか、酔いは覚めてきた。酒をやめるのはいいことかもしれない。長谷さえいなければあんなに飲むことはないのだが、特に飲んで良いことがないのはわかっている。しかしやめられないだろうなあ、と思う。他にうまいストレス解消法もないしね。
大沢は、布団から抜け出して立ち上がろうとした。ふらふらする。
ダメです、大沢さん、とあかりが制止しようとして立ち上がるが、大丈夫だよ、と手で制する。ちょっとした立ちくらみだ、ずっと寝ていたからな。しかし実際立つのは辛く、四つん這いになって炬燵へ移動した。ふとあかりの足に目がいく。すらっとしたきれいな足だ。足がきれいなのはいいが、いかんな。実にいかん。大沢はゴホンと軽く咳払いをする。
「酒は、いけないな。まあ、僕も懲りたよ」
「そうですよ! でも大丈夫、私がお酒から守りますから」
「まあ、それはともかくだ。炬燵には足を入れないといかん」
あかりはきょとんとした。
「え。炬燵とは、このテーブルですか。この中に足を入れるんですか」
そうだよ、温まるための道具だからね、こう入るんだ、と言いながら大沢は足を入れて見せた。それを見ると、え、それはちょっと、と言う顔であかりは困った顔をした。
「はあ。私は、いいのです」
「なぜ」
「いや、その。何となくですが、足を入れるとよくないことが起こりそうです」
その先は言わなかったが、ここに足を入れるのはちょっと勘弁してほしいという顔だ。汚いと思ったのだろうか。そんなことはないだろう。酒でもこぼしたかな、それとも吐いたのかもしれない。大沢は炬燵の布団の匂いを嗅いでみた。臭くはないと思う。ただ自分の匂いはわからないというからな。
何か臭いがしますか、あかりはその姿を見ていった。
「いやね、臭いのから入らないのかと思って」
「そうではありません。ただ暑いのです、ええと正確に言うと暑苦しいでしょうか」
そういえば、あかりは寒さを気にしないことは感じていた。海にはごく薄いスウェットスーツを着て入るが、これとて裸で入ろうとするのを、何度も説得した結果だった。彼女にとって水の冷たさや汚れは気にならないようだ。移動中の車の中では、エアコンの風には喜んであたっていたので暑がりだとは感じていた。しかし最近の灼熱の夏なら誰だってそうだ。
「そうか、残念だなあ。しかしだ。炬燵を前にして正座はいただけないな。最近の子は炬燵を知らないのは周知の事実だが、こういうものを知っておいてもいい」
そういって、大沢は、炬燵の布団を開けた。中からは想定外の化学臭がして一瞬目の前がゆがんで大沢は動揺した。が、あかりには気づかれていないようだ。言葉を発して落ち着こう。
「消毒薬の匂いがする」
「あ、気になりますか。すみません。余りに酷い臭いでした、私と姉さまで浄化しておきました。軽い汚染ならば、戻せますから」
「汚染、ね。でもうちには、消毒薬なんてなかっただろう。買わせたのか、悪かったな」
「いえいえ、そう、手持ちのものがありましたので」そのあかりの手際よい発言は、違和感があった。そうだ、あかりの姉をほうふつとさせる言い方なのだが、堂に言っていない分、胡散臭さを感じたのだろう。おそらく姉にそういえと言われたのだろう。大沢は気を取り直した。でもこの消毒薬は、市販されているものではなさそうだ。妙な香りはついていない。そう、北海道時代にニセコで強酸の湯に入った時のような刺激だ。
「まあいいや。清潔になったことはよくわかるよ。それでだ。ほら電気さえ入れなければ暑くないだろう。人の熱量が保たれるだけでもぬくぬくするものだよ。暑くはしないからさ、ほら」
あかりは、なおもじもじしていたが、わかりました、といって炬燵に足を入れた。大沢は、これであのきれいな足を見ず済むと思ってほっとした。
「確かに適度な温かさです」などと、あかりにも余裕が出てきたようだ、さすが炬燵効果だと大沢は思った。
「それにしても、お酒をやめさせるには、どうしたらいいものでしょうか」
「その件は、のちのちゆっくり考えるよ。もうすぐ正月だし、飲まないわけにいかない季節だからね」
それがだめです、といきり立ったとき、動いたあかりの足が、大沢に触れた。すると、わっ、といってあかりが飛び上がった。大沢も驚いたが、いつも澄ましたあかりが、わっと言うのは笑えた。
中に何かいます! と言って、あかりは炬燵を指差した。
「いないよ、いるわけないだろう」
そうでしょうか、というのをなだめてもう一回炬燵に入れさせる。大沢はいたずらしたい気持ちをこらえられなかった。
「おかしいですね。気のせいでしょうか。そう、それでお酒の話ですが、お正月だろうが、飲んで駄目なものはダメなので、わっ、やはり何かいますよ、もう! 」
「ああ、それは猫だ」
「ねこ、ですか」そして一瞬考えて、みるみる顔を赤くした。からかわれたのに気付いたらしい。
「ひどいです。せっかく私は一生懸命考えているのに、ひどいです。せっかく大沢さんのことを考えたのに。もう知りませんっ」
そういってあかりは、大沢を睨みつけながら、玄関の方へ踵を返した。
「あ、ちょっと待て、ごめんごめん」
大沢は慌てた。このまま返すと、いろいろ困ったことになるかもしれない。あかりの姉や長谷の顔が思い浮かばれる。
「知りません。もう絶対来ませんから、こんなところ。さようなら」
あかりはたったっと玄関へ向かっていく。大沢は追いかけようとしたが、まだ立ちくらみがした。あかりは 靴を履いている所になんとか間に合った。
悪かった、と言いかけたところであかりが立ち上がって振り向いた。怒っているが、かわいい。この場面、どこかで、と思った瞬間、あかりは右手を大きく円弧状に振る。パシッと頬がなった。
「ばかっ」
あかりは、あっという間に走り去った。
大沢は、体を廊下の壁にもたれかからせた。悪いことをしたなとは思うが、コンサートの時とは少し違う。 自分は彼女を追い払いたかったのかもしれない。自分は彼女のことがきっと好きだ。無論、恋愛的な意味だけではない。傍にいて欲しいが、彼女を正視できない自分がいる。それは彼女の何もかもが眩しいからだ、多分。海に対する純粋さだけではない。彼女のスカートから延びる足は、余りに美しい。そして真剣に酒を抜こうと考える姿は、世間知らずすぎてアルカイックですらある。それに比べて自分はどうなのだ。欲情とまではいかなくても、見かけの美しさに眼を離しづらくなったりしている。彼女と正対することに耐えられなかった。今は、ほっとしている。がっくりなんかしていない。彼女はここには来ない方がいい。大体あの姉だっておかしい。大事な妹を置いていくなんて。
大沢は久しぶりに底のない悲しみを感じ、頬をぬぐった。