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大沢とあかりは、精力的に試料採取を行った。あかりの採取方法を採用してから格段に試料の数が多くなった。これはいいことであったが、思わぬ問題も発生した。データの数が多すぎて、整理に時間が不足したのである。これはある程度予想がついていたので、対応できた。それよりも平面的な採取だけでなく、深度方向にも多数のデータが蓄積したため、データを解析するときに、無駄なものが目立ってきた。そこで大沢は、地球統計学と実験計画法を用いて効率よく試料を採取する計画を立案していた。地球統計学は、石油などの資源開発を効率化することが目的で、機知のデータから新たな分布域を予測する手法である。そして実験計画法は、やはり統計の分野であるが、主に品質管理の分野で適用されてきたのだが、このようなフィールドでうまくいくかは、未知であった。これも、多量のデータを保有できるようになったから、考え付いたのであり、意外な副産物かもしれなかった。
秋も深まったある日、分析室から出てきた大沢をあかりが呼びとめた。
「あの、大沢サン、これ」
あかりは一枚の紙切れを差し出してきた。とっさに大沢は、良くない分析結果を突きつけてくるのだろうと思った。先日もデータの取り扱いの遅さで言い争いをしていた。あかりは、矛盾するデータを発見するのが早かった。もしかすると、速く発表しろと言うのかもしれない。
しかしよく見るとコンサートのチケットだった。コンビニによる印刷らしく、解析結果に見えたのはその殺伐としたプリントアウトによるものだった。
「へえ、こういうのに興味あるのかい。意外だな、研究一途だと思っていたのに」
あかりは、何も答えなかった
「で何。場所が分からないのかい、駅は溜池山王らしいよ」
「これに、行きたい」
あかりは、まっすぐにこちらを見て言うのだが、何を言っているのか良く分からなかった大沢はチケットの詳細を見た。ロジャー・ノリントン指揮、管弦楽:東京国立管弦楽団。よくは知らないが、有名なオーケストラだと思う。曲は一曲しか書いていない。
―レイフ・ヴォーン・ウィリアムス作曲、交響曲第一番「海の交響曲」―
「海の交響曲か、いい名前だね。クラシック音楽か。僕はあまりその手の知識はないが、よさそうじゃないか」
「私は、よく知らない。姉が行くのがよい、と言った」
「そうだね。いつも調査ばかりで最近は分析まで手伝ってもらっているのだし気分転換いいだろう。いって来ていいよ。今日はもう帰っていいよ」
「それ良い言葉。キブンテンカン」
それより、あかりはちょっと眉をひそめて
「二枚ある」と言った。
大沢は、僕にも行けってことか、と聞くとあかりは、仕方なさそうな顔をしてコクリと頷いた。
「今日か。少し前に言ってくれないかな」
「今日はセミナーもないはず。実験の予定はない」
あかりは、事務的に言った。一応わかっている、ということを言いたいらしい。
「そうだけどなあ、スケジュールが空いてれいば、暇ってわけでもないんだが」
スケジュールが空いているときは研究に没頭できる貴重な時間だった。そういう時間は、たくさん無いものだ。
「大沢サン、たまには、キブンテンカンも必要」
言葉にすると思いやりのある言葉だが、事務的な言い方だ。どうもついていかざるを得ない状況だ。この事件には、あの姉の気配がした。いくしかなさそうだ。あかりには、くどくど言うより一発回答がいい。その旨伝えると、あかりはほっとした顔をした。おそらく否定された場合に説得するのに手間がかかると思っていたのだろう。何かとこの姉妹には振り回される。
「場所とか知らないのなら一緒に行くか。夕方まで学校にいるのだろう」大沢は気まずさ逃れに一応言ってみたものの、場所は大丈夫、覚えた、などと言いながらあかりは、それ以上聴くなというオーラを出しており、それ以上の話題にはならなかった。
大沢は、気が進まなかった。目的も良く分からない。ただ、彼女が気分転換したいと言うなら、それは良いかもしれない。それにしても今日のゼミは定時に終わってもらう必要がありそうだった。ゼミでは極力冷酷になることにしていて、学生の評判が悪いのだが、今日はだんまりしていようと思った。懸案だった海上ブイGISによる表面潮流のデータ解析は、明日でいいだろう。午前中の学生相手の講義は無難に終わらせた。これがテストなどであれば、よく分からない回答と数日にらめっこすることになるが。ゼミも荒れることなく済ませることができた。万事順調で、ほっと一息ついた。休憩時間にコーヒーなどを自分で入れて飲んでいるところを同じコーヒー好きの、西田教授に声を掛けられた。
「解析手法の方はすすんでいるのかな?」
「難しいですが、ほどほどには。データの解析にはなかなか手間がかかります。特に、不確定要素の抽出の点で精度が十分ではありませんね。データの質に原因があるのかな、それとも解析手法のほうに原因があるのか」
「そうだろうなあ。まあもう少ししたら、僕にも見せてよ」
「ぜひぜひ、本腰入れてください」
モノになりそうだったらね~、と言って、西田教授が腰を上げた。
「あ、忘れるところだった。今日、海洋関係のゼネコンの人が尋ねてくるんだ。よかったら、出てくれないか。汚染物質の微量計測モニタリングに関する研究委託の件で、金になるかもしれない。このご時勢にしては、羽振りがいい人たちだ」
汚染物質のモニタリング、大沢にとっては、ぜひとも関係したい分野であった。そのような方法でお金を獲得して研究できれば、いろいろ役に立つだろう。
「それはいいですね。何時でしょうか?」
五時、と西田教授は言った。五時ですか、思わず、大沢は繰り返した。
「何か先約ありかな?」
大沢は、わかりました、と答えた。五時なら大丈夫だ。話し込んでも一時間半。それから出かければ、七時の開演には十分間に合うだろう。話は聞いて見ないと分からない。おいしい話であれば、西田教授が放っておかないだろう。しかし、これははずせない話だ。
研究所には夕暮れの日差しが照らされつつあった。
そもそも、ゼネコンの訪問者は、十五分遅刻してきた。さらに雑談で二十分費やした。西田教授の話で四十五分。そのあとじっくり話し込み、話が終わることには、すでに六時半近くになっていた。
立場上席をはずせなかったし、内容は密に及んでいた。十分手ごたえのある打合せであった。そういう点では大収穫であったのだが、気持ちにはあせりも生じていた。
このままでは間に合わない、と思った。しかし連絡を取ろうにも、彼女の携帯番号を聞いていない。そもそも携帯電話を持っているかどうか、怪しいのだ。
やきもきしながら、なんとか打ち合わせが終わったのは、七時半だった。研究委託は寄付金込みで引き受けられそうだった。それはいい、将来につながるいい話であった。打ち合わせが済み、ゼネコンの人を見送ると、大沢はあわてて、会場へ向かおうとして外へ出て、思わず天を仰いだ。決して厚くない無い雲だが、雨粒が落ちていた。夕方には晴れていたのにおかしな天気だ、などと思いながら溜池山王の出口から延々と地下道を歩くと、八時半になっていた。ホール入り口の前には、ぱらぱらとおしゃれに着飾った人がいるが、あかりらしき人物はいない。当然だろう。雨が降っているし、コンサート始まっているはずだ。大沢は、あかりの性格で、まさか待っていないだろうと思っていたが、入っているならよかった、と思った。 ホールの入り口で躊躇する。入ったほうがいいか。出てくるのを待つか。この時間になっては、今頃入れてもらえるとは思えない。出てくるのを待って謝罪したほうが良いかと思い、向かいの喫茶店で待とうと、きびすを返した。
「どこへ行く気。帰るのカ?」
大沢は、思わずビクッとするほど驚いた。ここまで驚いた記憶はあまりない。正面にあかりがいたのだ。いつの間に、と思ったが、不意を食らって動揺した。
「ごめん。遅れてしまった」
「わかってる」
当然ながらあかりの声は怒りに満ちていた。
「あの、雨にぬれてるけど、大丈夫?」
傘をあかりのほうに向けようとすると、あかりは手で払いのけた。
「ヤメロ!」
深くかぶった、いつもの帽子の下の目が合った。次の瞬間、あかりは右手を大きく円弧状に振る。
パシッと頬がなった。
「ばかっ」
あかりは、あっという間に走り去った。
大沢には、自分のおかれている状況を主観的に捉えかねた。まるで青春ドラマかアニメのようだ、と思った。怒っているとは思っていた。それは、予想通りではあったが、張り飛ばされるとは思っていなかった。
目を上げると、こっちを見ていたチケット売り場の女性に目が合った。その女性は、非常に申し訳なさそうな笑みを浮かべた後、右を指差した。あっち行った、という意味なのだろう。その方向を見た。もう、あかりの姿は見えない。その方向は、地下鉄の方向ではない。よく考えず走り出したのだろう。追いかけたほうがいいのだろうか、と迷った。しかし追いついたとして何を言えばいいかわからない。あの子は繊細すぎる。その理由がわからない。重い荷を抱えているらしいのは感じていたが、それにしても緊張感がありすぎる。彼女にとって期待を裏切るというのは、もっとも許せない行為だ。いつもの仕事ぶりにも、怖いくらいの真剣さがある。自分に厳しいのだろうか。しかし、それだけではない何かがあるような気がした。しかし大沢には、わからない。
大沢が、研究室に帰ったのは、それから一時間後だった。雨は降ったままだった。あかりの後は、結局追わなかった。やはり追って言うべき言葉が考え付かなかったからだ。
研究棟にはたくさんの部屋に電気がついていた。とぼとぼと階段を上がっていると、長谷と出くわした。あまりこういう場では会いたくないやつに出会ってしまった、と思った。
「おお、こんな時間にどうした。帰ったと思っていたが、忘れものか。いやそんなのじゃなさそうだな。まあいい。外は雨みたいだな。ずぶぬれじゃあないか。まあ熱いコーヒーでも飲もうや」
特に返す言葉も無く、一緒に部屋に入り、しばらく無言でコーヒーをすすった。特に話すつもりは無かったが、長谷も無言であった。
大沢は、左手にチケットを握っているのを思い出して、机の上に置いた。
「む、なんだこれは、お前にこんな趣味があったのか」
長谷は、無造作に置かれた机の上のチケットを見て言った。
「いや、行きそびれてね。聞いてないんだ」
そこで大沢は、このような文化的な催しに意外な奴が食いついたな、と思った。
「これ、知ってるのか?」
「おう、意外にもマニア好みのプログラムじゃあないか。RVWか、悪くない。いい演奏になったことは間違いないだろう。俺も時間があれば行きたいな」
「なに、そのRVWって」
「この作曲家の略称。レイフ・ヴォーン・ウィリアムスの頭文字。名前が長いから、たいていそう略されるんだ。イギリス近代の作曲家で味わい深い、いい作品を書いてる。大器晩成の立派な人だぞ。ま、俺のイチ押しは、交響曲第五番だな。泣けるぞ」
長谷は、もう一度その作曲家の名前を味わうようにゆっくり言った。まるで知り合いのように話すところも、長谷らしい言い回しだった。
詳しいね、と笑いをこらえながら大沢はコーヒーを置いていった。
「おお、少し目に光が戻ってきたな。ふふ何を隠そう実はクラシックヲタクなんだ、研究がなければ、ただのヲタだな。わはは。いいか、ヲタクのヲの字は、アイウエオのオじゃあなくて、ワ・ヲ・ンのヲだからな。間違えてはいかん。まあ今まで隠してたが、ばれてしまってはしょうがない。クラシック音楽の話なら何でも聞いてくれ、分からないことは答えられないが、相談には乗れる」
「ふうん。特にはないが、あ、この曲の音源って持っているかい」
「うん、あるよ。なんだ、聞いたこともない曲をコンサートで聞こうとしたのか」
「まあ、たまには、ね」
「ふむ、怪しいな。俺の知っている限りそんな趣味はないと思っていたが。まあ音源は、貸してやらんでもない。友人をヲタの道に連れ込むのは、なかなか快感なんだ。しかし、そんなに聞きたいなら、やっぱり仕込まれたスタジオ録音よりライブで聞いたほうがいいと思うぞ」
「そりゃ、できればそうしたいが、そんなに頻繁にやるものじゃないだろう」
「これ定期公演だろ、明日もやると思うよ。今日は火曜日。普通なら、火曜、水曜日で同じプログラムで二日公演なんだ」
「そうなのか。一回だけだと思っていたけど、二回もやるのか」
「うむ。東京の国立オケは、実力も申し分ないし、人気があるからね」
「じゃあ、ほいほい取れるわけではないか、チケットは」
しばらく考え込んで長谷は言った
「まあ、無理だな」
「なんだ、お前、ライブを聞けといったじゃないか。矛盾してるぞ。お前はそれでもヲタなのか」
大沢は少しあおってみた。
「まあまあ、ものは相談だ。普通のヲタには出来ないことでも、スーパーヲタなら出来ることもある。で何枚必要なのかと、そのわけを話せ」
長谷はニヤリと笑って言った。
大沢は、長谷の挑発には乗らずに気を取り直して、自分でそのオーケストラの予約を試みた。確かに演奏会は、今日・あすの二回公演で、前日でも予約できることもあるらしい。
パソコンをいじっていると、長谷が現れ、よお、どうだった、と聞いてきた。
「だめだ、ネットでは全席売り切れだった。ただ売り切れってわけではなく、前日は販売していないというだけだと思うんだ。窓口なら大丈夫だと思うんだが。しかし時間も、もう遅いし無理かな」
長谷は首をひねって、困ったなあ、と対して困っていないような口ぶりでパソコンを操作していたが、やがてあきらめたようだった。
「しょうがないな、スーパークラヲタである俺が、なんとかしてやらんわけでもない。その前に、今度こそ、わけを話してもらおう」
大沢は、苦笑しながら、かいつまんで、事情を話した。
大沢の予想以上に長谷は驚いた。
「なに!あのツンデレ少女と行く予定だったのか。それはいかんな」
大沢は思わず苦笑した。
「ツンデレね。笑えるが、違うな」
ばかばかしい。少なくとも出会って現在に至るまで、デレを見たことはない。
「まあ女がらみであれば、なおさら捨て置けんな。ちょっと待っててくれ。知り合いに国立オケの関係者がいるんだ。チェロをトップで弾いてる藤林さんというんだが。いい人だぞ。」
そう言って、長谷は携帯を取り出して、電話しはじめた。
「うんありがとう」
しばらくして長谷は礼を言って電話を切った。
「何とかなるそうだ、高い席しかないが、かまわんな」
「ああ、助かるよ」
受け取りの打ち合わせをして、長谷には例を言った。
「礼はいいよ、ヲタとしては、捨て置けないからな。まあこれは貸しにしておこう。あと、ツンデレ少女によろしく。それからだ! 当然、結果報告してくれ」
そういって長谷は満足そうに去って言った。結果ってなんだろう、何か勘違いしていやあがる、大沢は長谷風の言い回しを心の中でして、クスリと笑った。
時間は夜十時を過ぎていた。
あかりはどうしたのだろう。無事うちに帰ったのだろうが、多少心配だった。
大沢は、あかりの自宅がどこにあるか良く知らないことに気づいた。おそらくあの父親からの手紙に書いてあったはずだ。携帯も知らない。そもそも携帯を持っているのを見たこともない。明日の連絡をどうすればいいのか。
大沢は、父親からの手紙を探し出した。海野茂、これだ。しかしウラを見ると、住所がかいてあったが、電話はない。ちくしょう。
場所は東京都中野区弥生町、住所は分かった。しかし夜の十時過ぎに訪問するのは、常識外だ。通常であれば携帯電話だろうが、少なくとも番号を知らない。しかし、電話番号をもらったような気がすると思い、手帳を見た。怪我をしたときの連絡先ということで、初めていった調査のときに聞き出したのだ。耐水の野帖には、今にも消えそうな付箋紙に携帯のメモがあった。
耐水の野帖にどうして普通紙の付箋紙をつけたのかを良く覚えていなかった。少なくともボールペンで書くべきだった、大沢は思った。
いざ電話をすることになると、何を言うべきか決めかねた。しかし仕事上、とりあえず、明日研究所に出てくるかどうかだけでも確認すべきであろう。あかりは基本的に他大学の学生であり、毎日のようにこちらの研究所に顔を出すのは不審であるのだが、明日は出てきてもらわないと困るのだ。とりあえず、こちらの不手際は、きちんと謝罪し、明日の件を伝えるべきであろうと考えた。
電話には、姉が出た。あかりは不在だったので、明日学校に来る意思があるかどうか聞いて見た。
「明日ですか?いつも通りにお手伝いに行くと思いますが」
「今日ちょっと、すれ違いがあったものでして」
「すれ違いですか?すれ違いは、いつもだと思ってましたが」
「いや、それは」
「ふふふ、図星だったかしら」
どうも、やりにくい姉妹だ。
「そうですね」
「明日はちゃんとお手伝いに行かせますね。ですから、安心してください」
「来るでしょうか。前、怒らせたときは数日きませんでしたがね」
「ちゃんと話しておきます」
大沢は、意外に話がすんなり進んだおかげで、少し心に余裕ができた。いつも気になっていたことを話そうと思った。
「わかりました。ところで最近、ずっとうちの研究所に来ていますが、自分の学業がおろそかになるのは、私も困るのですけど、その点は大丈夫なのでしょうか」
これはウソだった。実は、毎日来てもらわないと困るほど、実験などを任せていたのだ。
「それは、明日直接聞いていただいたほうがよろしいですね」
「…」
「ではあした。おやすみなさいませ」
さらりとかわされた感じであった。明日来ることは、大丈夫そうだが、それ以上は何も分からなかった。
大沢は受話器を置いて、ふぅとため息をついた。
しかし、今日は荒れた一日だった。俺は何をやっているのだろう。どうも最近は落ち着かない日が多い。特に今日などは、相当あわただしい日だったが、何も成果がない。しかし落ち着いて考えてみると調査は確実に進んでいる。持ち帰った試料の化学分析は、遅れているが試料採取が充実しているため、追いついていないだけだ。いざとなれば徹夜でも分析することもできる。しかし調査結果をまとめた解析と考察、これはいまいち進んでいない。研究委託になれば、協力体制もできる。手法はもう少し練らなければならない。落としたい結論に持っていけるかは、未知数だ。
まあ解析については落ち着いて後で考えることにしよう。問題は別なところだ。あのツンデレ少女に関わると、なにかと疲れるんだな。いや、やはりデレっとしたところはやっぱり見たことない。ツンツン少女だ。一方的に押し付けられた予定で、殴られるのも納得いかない話である。そもそも、あの姉の対応はなんだ。人を食ったような態度は、実に怪しからん。疲れた。
研究室には人がいなかったが、研究のことを考えるような気分では無かったが、ちょっと気持ちを切り替えておきたく、机に座りノートを開いた。
切り替えるには、大沢は、自分の方法があった。他に誰もいないのを確認して部屋の電気を消す、自分の机だけ点いていたライトも消した。窓辺によって窓のブラインドを開けてみた。
向こう側の手物にも電気がついている。あれは、地盤研究の実験棟だ、がんばってるじゃあないか。そしてブラインドを閉めていすに座った。
切り替える
切り替える
イチから物を考えてみる。海洋の汚染。これからを予測したい。しかし予測できない。なぜか。現状の把握が十分でないから、そして調査結果は穴だらけ。これでは不確定な要素が多すぎる
不確定要素をイチから考えてみよう。何が分かれば不確定さは減るのだろうか。河川の流入、降雨量との相関、ゲリラ豪雨時の流入量家庭からの排水。
ふと思いつくことがあると、ライトをつけて、気になることを極力記す。そしてすぐライトを消す。
あかりの調査方法は、確実だし、量的にも十分な成果を挙げている。しかし、ただ喜んでいるわけにはいかない。気になることは、このような力任せの調査方法は、いずれ破綻するし調査方法として定着はしない。今回の調査結果で問題提起をするにはいいかもしれないが、他で全く使えないのでは、それは技術ではない。もっと汎用性のある調査方法や技術でなければ、本当に環境のためになったとはいえないのだ。これは難しい。これをどう解決するか。有人の調査が出来ないのであれば、無人でやるしかない。無人の調査。
コンコン
大沢は、まさかあかりではないだろうな、と思いながらドアのほうを見た。
「よう、がんばるね」
声を掛けてきたのは長谷だった。そういう長谷も白衣のままであり、まだ帰りそうもない。
「もう帰るところだよ、それより、お前こそまだいるのか」
「ああ今日は電顕の日でね。徹夜する」
研究所には電子顕微鏡は一台しかなく、有名学会などの投稿締切日などの時期は、相当混雑し、徹夜することも少なくない。もっともこれは、電子顕微鏡だけでなく、他の分析装置でも同じである。
「明日はうまく、繰り出せそうかい」
「さあ。どうかな。何もなければ行けるさ。今日だってお客さんがなければ出られたから」
「へ、何もない日はつまらないよ。人間やってる意味がない。よし、じゃあ、明日に備えてもう帰れ」
そういって、そそくさと資料を持って去っていった。
そう言われなくても、もう帰るつもりだったのだ、と大沢は思いながら荷物を片付け始めた。時計を見ると午前一時を過ぎていた。
今日は妙な一日だった。
「あれ!」
雨が止んでいた。
空には星が出ていた。澄んだ空気が眠気と、だるさの混じった体にひんやり気持ちよかった。空を見上げると、建物のわずかな隙間に夜空に星が瞬いていた。雨が降ったせいで大気がきれいになったのだろう。大気ににじまない、すっきりした月が何時もよりきれいに見えた。
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翌日、朝九時になると、あかりが出てきた。いつもと同じ様子だった。昨日怒っていた様子は微塵も感じられない。黙々と分析室で試料の処理を行っていた。
大沢は分析室に入って、ちょっと、もし、と話しかけたが、何やら集中している様子で、聞こえていないようだった。
「もしもし海野さん」
あかりは、びっくりして肩を震わせた。
「ごめん、驚かすつもりはなかったんだ、昨日は申し訳なかった」
「いえ、気にしてない。大沢サン、仕事忙しいの知ってる。シカタない」
「まあ約束破ったのはこっちのほうだし、ごめん。いい話もあるんだ。研究にお金がつきそうなんだ。まあそんな話は後で話すけど。とりあえず、今日の夜、用事あるかな」
「特にない。分析?」
あかりは、ぱあっ明るい顔をした。
「あ、いや違うんだ。その。これ行こうよ」
そういって、大沢はチケットを見せた。その途端、あかりの顔は一気に曇った。そして試料の方に向き直ってそっけなく言った。
「これ、昨日のチケット。あまりみたくない」
素っ気はなかったが、何かいつもにない、決定論的でない言葉遣いが大沢には気になった。もしかすると、と大沢は漠然とした期待感を持った。
「よく日付を見てよ、今日のなんだ」
「キョウ?」
といいながらも、あかりは相変わらず試料の方を見ていた。
「昨日のお詫びとしか、言いようがないけど。定期演奏会は二日連続らしい。今日は二日目、聞きに行こうよ。海の交響曲」
「でもワタシ、キョウは」
「今日は、用事はないんでしょ」
「そう」
「何か問題が、あるのかな」
「私、きょうは、そんな格好してないし。仕事の手伝いだけのつもりだった」
格好?そのときハタと思い出した。昨日、ホールの前で僕を張り倒した少女に違和感を覚えたのは、いつも知っている格好ではなかったからだ。あかりには、申し訳なかったが、大沢は正直言って何を着ていたか忘れていた。いつものシャツにズボンじゃなかったような気もする。頭にはいつもの帽子を被っていたような気がした。いや、それすらどうだったか。全然覚えていないが、これ以上無駄なことは言わない方がよさそうだ。
あの時、ホール前にいないと思ったのは、いつものあかりの姿ではないから気づかなかったからかもしれない。これも、それは口に出さない方がよさそうだ。
「今日は、実験しなくていいから一度帰っていいよ」
「でも、分析試料、タまってる」
「そのとおりではある。でも土日で取り返すよ」
「土日はサンプリング」
「そういうと思っていた。ところが土日は雨なんだ。ほら」
大沢は、天気予報を見せた。あかりは仕方なく、大沢の出す紙面を見た。
「土日の降水確率はかなり高くなっている。約束したよね。雨の日や天候不順な日は調査しないって」
あかりは困った顔をしているようだった。あまりしつこくするのはよくないのはわかっていたが、見込みがあるような気がしたため説得している口調になってしまっていた。大沢なりに外堀は埋めたつもりだった。
「わかった。じゃあ、やめておこうか。せっかく手に入れたけど。もともと悪いのは僕のほうだし、いろいろ都合もあるよね」
しばらく間があったが、しびれを切らした大沢があきらめようと思ったとき、あかりが口を開いた。
「わかった。でも実験はできるだけやっていく」
「よし。でも先に帰って準備したほうがいいよ。何があるか分からないし」
「ダイジョウブ、私は大沢サンとは違う。約束は守る」
確かに、何があるのか分からないのは、こちらのほうだった。昨日も午後三時くらいまでは万全の予定だったが、そのあと学生の質問を受けた後が大変だった。実験の指示が勘違いしたまま、進んでいたのだ。慌てて説明をイチからし直すと、夜半になっていたのだ。
結局、あかりは四時くらいまで実験の手伝いをして、帰っていった。
あかりが帰った後、疲労困憊した様子の長谷が、よぉ、元気?と言いながら現れた。
「疲れ果ててるな。大丈夫か?」
「何、大したことないよ。それより、ツンデレ少女はどうした」
「一度うちへ帰るそうだ」
「ほほう、いいね、楽しそうだなあ。くそう」
「お前はどうするんだ」
「俺は今日もがんばるよ。ちょっと仮眠するんで二時間後くらいに起こしてくれんか?」
「二時間後というと、六時か」
「時間は、どうでもいいんだ。お前が出かけるときでいい。頼むよ」
「目覚まし掛けろよ」
「もちろんそうするさ。でも目覚ましではだめだ。あれは意思がないから全く役にたたん。前、ツンデレ少女に頼んだときは、ものすごく冷酷だったぞ。濡れタオルで、おい起きろ。だからなあ。心臓に悪いよ」
「お前、そんなこと頼んでいたのか。おれよりよっぽど親しいな」
「お前が早くものにしないからだよ」
「ものにするとはなんだ」
「まあ、怒るな。とにかく出かける前、五時でも六時でもいいから起してくれ、たのむぞ」
そういって長谷は出て行った。
「しかたないな」
その後は、特に昨日のような波乱もなく時間が過ぎて、五時半になった。そろそろ出かけておいたほうがよさそうだった。長谷を起こすのをやめてやろうかとも思ったが、気の毒なので仮眠室となっている試料倉庫へ向かう。
「おい。起きろ」
長谷は、仮眠用、ではない打ち合わせ用のソファにうつぶせになって、正体なく寝ていた。
「おい! 」
「うるさいな、ボケ!ねさせろ。ううむ」
大沢は、こいつ起きそうもないなと思った。そこで、あかりの起し方をまねることにした。濡れタオル。十分にぬらしたほうが効果ありそうだ。これをどこに置いたのだろう、やはり顔かな。大沢は、そう考えながら、ぬれたタオルを鼻から上に掛けて落とした。
「ふが。ふわあああわああああああ。ひい、なんだ、た、助けてくれ~。息が!」
長谷が体をよじってバタバタした。
その姿はあまりにこっけいで爆笑物だった。これで十分だろう。
大沢が研究棟を出ると、空にはまだ夕方の明るさが残っていた。ちょうど夕方から夜への移行時期に相当する時間帯だ。大沢は、日課のように立ち止まって建物の間から見える空を見上げた。もうすこし視界が広ければいいのだが、といつも思う。晴れていても曇っていても雨でも雪でも降っていてもいい、少しの空が見えさえすれば。今日は、ビルのわずかな隙間に茜色から濃い青色のグラデーションを見ることが出来た。綺麗だと思った。大気の色は、とても人間には再生不可能な色彩美を無料で見せてくれるのだ。
時間は十分にある。が、今日は先に待っていたほうがいいだろうと思い足早に溜池山王からの地下道を歩く。そしてホール前に来る。エスカレータも走ってあがる。十分に早く来たつもりであったが、すでにかなりの人数がホールの前でたむろしていた。見回してみたが、あかりは来ていない様子だった。しかし昨日のこともあるし、いつものあかりのイメージで探してはいけないのだ、と思いもう一度念入りに周囲を見渡す。大丈夫やはり来ていない。その後、大沢は、三十分程待ったが、あかりの姿は現れなかった。
そろそろ飽きてきた。むかいのカフェに入って座って待とうかと思ったころであった。
「コ、コンバンワ。オマタセしたよう、です」
はっ!また突然現れた、大沢は、またしても気づかなかった。
振り返ると、ツンデレ少女が立っていた。
「え、あれ。やあ、あっちから来ると思っていたよ」
「ワタシ、地下鉄ニガテだから、歩いてきたの、です」
大沢は、あかりが前にそんなこと言っていたことを思い出した。確か人ごみが苦手なので、慣れるためにもっとも人の多いところを教えてほしいと言われた記憶がある。妙な依頼だったので覚えていた。
「そうか間に合ってよかった。まだ会場も開いてないよ。ちょっと早かったね」
「良いとおもう。ここはいるマエ、ちょっと楽しい」
大沢は、漠然とした違和感があった。細かい表情は見えなかったが、そんな気がした。会場が開くという六時半まではまだ十分近くあった。おそらくそのせいで、そわそわしているのだろうと思った。もしかしたらイライラしているのかもしれない。
そのうち、あかりはこっちを見て、もうすぐ始まる楽しみ、といってにっこり笑った。
大沢は衝撃を受けた。いつも、にこりともしないのが笑うとなると、微笑まれたほうが気恥ずかしかった。その顔を良く見ると意外にあどけない顔つきだった。大学一年じゃ、普通なら二十歳前だろう。これも不思議な感覚だ。これはいったい誰だ。
大沢は軽い不安感に襲われた。今、自分のいる空間。ここにいるこの女の子。これは現実なのだろうか?周りの世界と切り離されてはいないだろうか。そんな不安に襲われる。
ふとホールの入り口がざわつくと、開場の入り口の上のほうから、人形が出てきて、音楽を奏で始めた。老人と子供がオルガンのようなオルゴールを鳴らしている様子だ。これはなかなか楽しい雰囲気を出している。大沢は、現実に引き戻された。うん。大丈夫、現実だ、と思った。
あかりは、すっかり見とれている。その一心不乱に見つめている姿はとてもほほえましかった。いつも、実験や研究に大活躍してくれているときに、このような顔をしたことはもちろんない。そんな姿を見ていると大沢は、胸をくすぐられるような、ほんわかと良い気分であった。
オルゴールは数分で終わった。ささやかな催しが終わるとホールの入り口が開いて、みなそそくさと中へと入ってゆく。
「大沢サン、どうしたの、です?」
思わず、あかりに見とれていたのだが、あかりが怪訝そうな顔でこっちを見た。
「はやく入りましょう、です」
「です」の使い方が間違っている気がするが。そういえばいままで、こんな口調はなかったはずだが。今日は何かと妙な感じだ、と大沢は思った。
「そうだね。入ろう」
もちろん、こんなホールに来るのは初めてなのだが、あかりの目の輝きは尋常ではなかった。特にホールに入ったときは、相当あたりをきょろきょろ見回しては、ため息をついている。どうも感嘆しているらしい。
二人の席は二階の右側であった。長谷はこの場所を悪くないぞ、といっていたが、舞台に対して横から眺めるのは不思議な感覚であった。そんなことをあかりに話すと、しばらく首をひねって考えた後で、でも全体が見られて楽しいです、と違和感なく捕らえているようだった。むしろ、そんなことはどうでもよいらしく本当に楽しそうだった。
やがて楽団員が入ってきて、コンサートが始まるようだった。大きく見えた舞台だったが、オーケストラ、それに合唱者、二人の独唱者が入ると結構狭い印象を受けた。最後に指揮者が入ってきた、いよいよ演奏が始まるのだろう。
大沢は、始まるまで、どんな音楽が始まるのか全く知らないでいた。とりあえず、あかりをここに連れてくるのが目的であったし、長谷は、良い音楽であることを力説していたが、その手の音楽をしっかりと聞いたことがなければ、比較のしようがなかった。なんとなく浮ついた気持でいたのだが。急に静けさがやってきた。客席、舞台から音が消えたのだ、その静寂に鳥肌が立った。意識できる最高の静寂だ。音を響かせるためのホールで、この静寂は何だろう。
次の瞬間、その静寂を打ち破って管楽器のファンファーレが強い音で鳴り響く。そして大合唱がエネルギッシュに叫ぶ、「海を見よ!」と。その音楽に一気に引き込まれた。
続くメロディも切なくも強く心に訴えかけるもので、自然と引き込まれた。少し落ち着いたところで、大沢はふと思った。「海を見よ!」か、あかりたちが、大沢に対して、訴えるのに格好の音楽だ。これは上手くはめられたか、と大沢は思った。しかし良い音楽だと思う。こういう罠ならば、悪くないかもしれない。
強く訴える音楽はやがてひと段落し、大沢も落ち着いて周囲を見渡すことができた。オーケストラが前面に出ているが、音楽は合唱を中心に進んでいった。多数で歌われる歌詞の内容を把握することは、大沢には難しく、しばしプログラムなどを眺めたりしていた。曲が進むうちに、そして歌詞を読み解くうちに、大沢は釈然としないものを思った。当初あかりが誘うのだけあって、内容は海に関する自然賛歌だと思っていた。しかし全曲ホイットマンによる歌詞は、むしろ海に出て行く人間への賛歌なのである。「渚にて」、「波に向かう者たち」、「冒険者たち」、どれをとっても、人間賛美的な詩であった。正確には人間の勇気を称える歌、だろうか。この音楽をあかりが選んだのでなく、あかりの姉が選んだにせよ、大沢にとっては、少し意外な内容であった。
大沢は思う。人間たちの開拓精神、冒険精神は、海を汚す原因になってはいないだろうか?海の男たちはそんなことはしないかもしれない。しかし人間が海へ出ることは、汚染を撒き散らすことにつながっていると言えないこともないだろう。あかりにとっては、憎むべき事ではないのだろうか?
しかしながら音楽は、素人である大沢にとっても魅力的であった。大沢は、この手の音楽を好んで聴く習慣はなかった。しかし高貴な感覚は、よくわかった。
そんなことを考えているうち、「海の交響曲」は、静寂や荒れる海、もまれる人間たちのさまざまな冒険模様を描写していった。終末へ向かうことを暗示するように音楽は静まっていく。劇的な描写の主役である人間たちを労り、そして海の素晴らしさを懐かしむように、いや、それだけではない、と大沢は思う。この音楽は見せかけに静かに収まるのではない。大きなうねりがある。しかし複雑ではない。ある時は、眠りに入るように音楽は静まっていく。またある時は、音楽は不安を誘う。日は沈み、夜が来て、夜が明ける。人は変化を求める。もちろん自然も姿を変えるのだ、大局的な変化のうねりは感じさせないだけ。大きく小さくうねりながら自然は母なる海へ戻っていく。大きな円弧がはるかさまざまな世界を旅して、太くなり、細くなり、やがて閉じるように。
演奏が終わっても、しばらく静寂が続き、ぽつぽつとした拍手が始まると、やがて、大きな拍手とブラヴォーの声がかかった。重い音楽だったせいだろうか、アンコールはなく、楽団員が引きあげていった。
あかりは、いったいどんな顔をして聞いているのか、非常に気になっていたが、顔を見られないでいた。いったいどんな顔をしているのだろう。怒りに満ちているたらどうする。緊張して右を振り向くと、あかりは寝ていた。
「あ、私は寝ていました」
「うん、もうぐっすり、でも大丈夫。僕も気づかなかったよ」と大沢は小さく答えた。寝たことに関して、あまり大きな声で言ってはまずいかと思ったのだった。しかしそれはあまりにも俗すぎた。大沢はすぐに後悔した。
「終わりの方、だんだん海の深いところに誘われるようでした。懐かしい感じです。いつの間にか、寝てしまいました。とても良い音楽です」
あかりは、非常に満足そうな顔をしていった。つまらなくて寝たわけではない。あかりは、彼女なりに楽しんでいたのだ。そんな気持ちよくなれる時間なんて、今、自分にはどれくらいあるだろうかと、思った。
「そうだね。いい音楽でいい気持ちで寝られるなんて、いいことだよ。僕はついつい聞き入ってしまったけど。この音楽、知っていたのかい」
「いえ? もちろん知らないです」
「初めて聞いたの?」
「はい」
「姉さんのお勧めかい?」
「そう、です」
大沢は、あかりが穏やかに話すのを見て、先ほど疑問に思ったことを聞いてみた。
「海の交響曲と聞いたときは、もっと自然賛歌のような曲をイメージしていたけどな。君に誘われた、と言うのもあるしね。そういう点で予想と違ったな」
「私は、よく歌詞はわかってないです。良い気持ちでしたし、元気が出たり、悲しかったり、がんばろうと思ったりしました。それに人間さんの勇気ある姿、ええっと開拓者?伝えたいことは分かった気がします」
あかりは、できるだけ丁寧な口調で伝えようとしていた。今日はいつもと違う話し方だ。
「プログラムに載っていた歌詞は見てなかったのかい?」
「歌詞とは、言葉の意味、ですか?」
「そう。それぞれの楽章のタイトルとか、内容とか、書いてあるよ」
「見てない。みてもよく分からないです」
「それなのに、感激できたのか。ふうん、すごいな」
大沢は、実は、ちょっとあきれた。内容も知らずに聞いていたのか。歌を聴くのに歌詞を知らないで、意味があるのだろうか。大沢も英語に多少の知識はあったが、合唱で歌われると、もう何を言っているのか、ほとんど分からなかった。それでプログラムの対訳を見ながら音楽を聴いていたのだ。それに対するあかりの回答は明確だった。
「大沢さん、頭で分かろうとする、よくないです。私は、直接心で感じる」
やられた、と大沢は思った。正論がもっとも論破するのは難しい。確かに音楽を聴きに来たのだ。耳と心で感じるべきだろう。その通りだ。しかし一応反論しておこう、と口を開いた。
「確かにそういうところはあるが。しかし作曲家だって、歌詞をつけながら作曲するわけだし、その言葉を理解するのは、聞く側にとっても、重要なんじゃないかな。そもそも… 」
あかりは、こちらを見ていた。大沢の言葉が無意味で、たわごとだと分かった上で、あえて聞いてやっている顔つきだ。いやみな顔でもなく、いつものような冷たさは、なかった。母親が子供の話を聞くような。こんな顔をしたあかりを今まで見たことはない。そういえば、話もすらすらできるな。いつもと調子が違う。
「そもそも?」
あかりは先を促すように言葉尻を繰り返した。聞いてやろうということらしい。何かおかしい、いったいこれは誰だ。言葉に詰まった。
「いや、もういいよ。君は、なかなか凄いな」
あかりは、もういいの?という顔をした。
「なんでもない。意外に早く終わったけど、ご飯でも食べていくかい」
あかりは、明らかに困った顔をした。
「それは、ええと、家で姉が待っています。帰るです。それにお酒飲むの、私、嫌い」
姉は、お食事くらいはしてらっしゃいと言っていたが、あかりにとっても、今日の体験は、とても刺激的だった。きらきら輝くコンサートホール、海や人間をたたえる音楽は圧倒的であった。あかりにとって、これまで人間は憎むべきものだったし、復讐すらしたいものだった。その思いは、変わらないものの人間の文化は、刺激的で、魅力的さえ感じた。そしてそう感じてしまう自分に混乱を感じ始めてもいた。この後、まともに話が出来るとは思えない。すこし一人にならなければいけないと思った。
「そう?やっぱり歩いてかな」
「はい。歩くことは、好きです」
大沢は、あかりが歩くのが好きなのは知っている。夜中でも平然と歩いて帰っているようであり、これまた不思議である。
大沢は、当初から食事は断ると思っていた。しかし今日に限って、この不思議な少女と別れるのは、名残惜しいと思った。
「よし。僕も付き合って歩くか」
「それはやめてください。家までは、と、遠いです」
「そんな、迷惑そうな顔しないでよ」
「め、迷惑では、ないです。でも困ります」
そういったが、大沢には、あかりはとても迷惑そうにしていると感じた。しかし今日は一緒に歩いてみたかった。
「悪いね。僕も歩きたくなった」
大沢は、そういって迷惑そうなあかりと一緒に、途中まで帰った。大沢はあかりと別れてひとりになると、今日のことを考えてみた。感覚で物事を捉えるには、すでに感性が麻痺しているのではないだろうか。もうそんな感覚で物事を捉えなくなって、どれくらいの年月がたっているのだろう。いや、もともとそんな感性などなかったかもしれない。この少女と一緒にいれば、その感性を少し取り戻してくれるのではないだろうか?大沢はそんな気がした。