表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あかつきの海  作者: 羊野棲家
1/6

1-8

 1


 雲ひとつ無い快晴の空に現れた太陽は、容赦なく光を降り注ぎ、朝六時には日本各地にある気象台や測候所の温度計をのきなみ三十度まで押し上げた。その後も強烈な日差しが、じりじりとコンクリートを焼き焦がし、その日の夕方どころか夜になっても暑さは引くことがなかった。小さな路地にある家々では打ち水などをしていたが、さほど効果は無く、むしろ湿気となって不快感を増しているようだった。


 東京都大学海洋研究所の主任研究員、大沢久登はすぐに干上がってしまいそうな、はかない水溜りを避けながら、都内の住宅地の中にある八階建ての近代的なビルの中に入っていった。建物の中には幾つかの会議室があった。待ち合わせのロビーには多数人がいたが、大沢が向かう会議室が目的ではなく一階のホールで大きな催しのためにたむろしているようだった。

 大沢は、足早に人ごみを抜け、エレベーターに乗り込んだ。エレベーターの扉が開くと、はるか向こうに若い男女の二人づれがいるのが見えた。大沢が講師を勤める予定の会議室の中に入ろうとしているようだ。珍しいな、しかし、と大沢は思ってエレベーターを出たところで、足を止めた。その若い二人は何事かふざけあいながら、バタバタと大沢の横をすり抜けてエレベーターのほうへ向かっていった。

 大沢は、それを見てもがっかりとは思わなかった。予想通りだ、あんな若いやつらが聞きに来るなんてありえない。これが現実だ。慣れている。いまさら腹立たせることもない。

 実際、大沢たち有志数名で開催されている地球環境セミナーは、参加者が少なかった。中規模の会議室に八名。そのうち六名は知った顔だったし残りの二名は、研究所に出入りの業者が気を利かして連れてきた若者だった。あまり盛り上がらず、当初の内容を済ませると、早々に散会した。


「大沢さん、講演ごくろうさま。今日も閑古鳥ですなあ」

 猫背気味の大きな男が大沢に声をかけてきた。これは岡本という男で、水環境学会の委員をしている。水質環境に関する計測会社の課長である。二人は、挨拶を済ませると今日の講演内容についていくつか議論したが、岡本はやや赤い顔を横に振りながら、さも困った顔をして言った。


「それにしても、もう少し一般の聴講者が増えてほしいもんですな。学会誌だけでなく、エコロジー関係の雑誌等とか、インターネットでもかなり宣伝しているのですがね。やはり専門の広告会社に宣伝を頼まないとダメですかな」

「そうかもしれません。我々だけの宣伝では反応よくないですね。それともあまり興味がないのかな」

「エコって言葉だけは、流行りましたけど中身を伴うことなく廃れましたからなあ。流行だけにした国の責任は重いですよ。そのうち江戸前寿司なんて、死語になるってのになあ」


 岡本は仕事で出張が多く、各地のすしの旨さを堪能するのが趣味だった。

「岡本さん、江戸前寿司は、すでに死語ですよ。江戸で取れた魚なんて食べられないでしょう。そこから教育し直しとは、僕も荷が重いな。それよりセミナーの人が増えなければ、学会の委員会も続けさせてくれないから、今年で打ち切りってこともありえますね、もっとゼネコンや建設コンサルタント関係の動員は無理かな」

「現況では、難しいですなあ。ゼネコンは金にならないところには踏み込みませんよ。法律で必要にならなければ、無理に取り組む必要はないわけだし。エコバッグを大量に作って、大量に捨てるような、ただの流行に貶めた国とマスコミの罪は重いですな。テレビ局なんて節電なんて言いながらものすごく明るい照明でTV放送してエネルギーを使っている。自己否定につながる事は、取り上げない、そもそもスポンサーが電力会社だ。もちろん国も動かない。さあ困った」

「しかし、被害の大きさがはっきりした時には何もすめない海になっているかもしれない」

「そういう話をどうやって、一般市民に興味を持たせるかですなあ」


 大沢と岡本は、同じように首をひねった。この話題は彼らの数ヶ月同じだった。とりあえず次回いい方法を持ち寄りましょうという結論になった。大沢は、気落ちしているとは認めたくなかったが、ビルから外に出るが面倒くさいと思えるくらい、気持ちは落ち込んでいた。ただ意味もなくチラシの入ったスタンドを眺めて数分立っていた。


「すみません」

 その声で大沢は、現実に戻された。

 振り返ると大沢とは一回り背が小さい女の子が立っていた。帽子の下から意志の強そうな目がのぞいていた。強い目の違和感に不穏な印象を感じたが、返事をしないわけにもいかなさそうだった。


「はい?なんでしょう」

 呼び止めたくせに、その子は無言で、こちらをじっと見ている。

「なにか用?」

 大沢はもう一度言った。この子に呼び止められる用事は特に思い当たらない。もちろん先ほどのセミナーに関係があるわけでもなさそうだ。この手の視線に、ろくな要件ではないだろう。


「オオサワ、ウミ、ケンキュしてる」

「まあ、そうですが」

 道でも聞かれるのかと思っていたので意外な質問だった。少なくとも先ほどのセミナーにこんな子はいなかった。続く言葉には少し驚くことになった。

「ワタシ、オオサワのケンキュ、キョウリョクする」

 女の子は、妙に冷静な口調で言った。単語を並べる感じだ。大沢にはそれよりも、女の子の言う内容が不可解で気に入らなかった。


「研究を協力だって?なんのことかな」

「チョウサ、キョウリョクする。ウミ、キタナい。すべてイキモノ、イきていけない」

 女の子は、単語を並べた。大沢が驚くのは、海について語ったことだ。生きていけないというのはやや大げさかもしれない。しかし、海の生き物からすれば、間違っていないだろう。そのことが、こんな得体の知れない女の子の口から発していることであった。女の子は、大沢から答えが返ってこないことをやや訝しげに、念を押すように口を開いた。


「オオサワ、シる」

「何を?」

「トウキョウのウミ、キタナい。イキモノ、イきていけない」

「それは間違いではないが、それと君の協力とどう関係があるんだ」

「ケンキュ、テツだう。かなりシンコク。ワタシ、キョウリョクする」

 大沢は、いつの間にかこの女の子のペースで話が進んでいるのに気がつき、女の子に向かって両手を振った。


「困ったな。ちょっと待ってよ。君は何者?さっきのセミナーにいたのかな」

 女の子は、口ごもりながらうなずく。

「いた」

こんな子いたか?いや、いるわけがない。セミナーには八人しかいなかった。三回は数えた。そもそも女の子はいなかったと思う。

「君みたいな子はいなかったよ。うそはいけない。いなかったろう」

「キいた。スミで」


 女の子は、まっすぐ大沢の目を見て言った。その視線はうそではないと思えた。しかし大沢もこの子を見ていないという確信がある。しかし隅で見ていたと言われればそれもありうるかもしれないと思った。今日はセミナーに向ける気持ち的な盛り上がりが低調で、集中力がなかったかもしれない。だめだ、どうもペースを乱されるな。

「隅っこ? 無断でこっそり入ったって事かな」

「そう」

「誰にも気づかれずに?」

「そう」


 女の子は強くうなずいた。大沢には、嘘に違いないとはいえ、こうやって目を見据えて話されると、どうも自信が揺らぐ。正直言って得体の知れない子だという印象は、より深まった。

少しの沈黙を破って、女の子が口を開く。

「ケンキュ、キョウリョクする」

「けんきゅう、だろう。協力?」

「そう。協力、研究」

 大沢は、ここで少し落ち着こうと思って、意識して大きなため息をついた。


「協力ねえ。君は見たところ高校生くらいだね。間違っていたら言ってください。まずは、学校の先生とよく相談することだね。高校にも自然環境を研究する先生とか、うまくいけば課外クラブがあるはずだよ。そういうところから、あわてずに勉強しておいで。先生に紹介状を書いてあげてもいい」

 女の子は、わかっていないねというような顔をした。

「ちがう。オオサワ、研究すすめる、ジュウヨウ」

「よくわからないな。大体さ、協力って、なにを協力してくれるの」

「チョウサ、テツダう」

「調査ね。ボランティアがしたいということかな。手伝いは悪くない話だが、夏休み研究に付き合わされてはたまらないよ。君はいったいどこの学生だい?高校生だろう?」

「ワタシ、高校生、チガう」

「じゃあなんだ、言ってみろ」

「言えない」

 ふん。怪しい。見たところは確かに高校生程度の背丈である。帽子のせいで顔立ちは良く見えないが、それは、幼さを隠すようにしているようにも見えた。これは質問を変えたほうが良さそうだ。


「ふむ。そうだな。私をどうして知っている。環境の研究をしている先生はもっとたくさんいる」

「ホカのダイガク、イった。ハナシ、キいてくれない。大村先生、川野先生、新井先生、松本先生、田沢先生」

「そんなに行ったのか」

 大沢は、その数の多さに感心した。

「田沢女史なんかは、気に入ってもらえそうだが」

「タザワ、キライ、イチバン。カエレ言われた」

「そうかもしれないね。お気に入りは溺愛するけど、気に入られなかったか。まあその態度では無理だろう。それで全部断られて、最後が僕のところか」

 大沢は一番最後が自分ということに少し腹も立てたふりをして嫌味っぽく言った。


「そう、でもオオサワ、ウミの研究、ユウメイ。ワルくない」

 女の子の声はこの時だけ穏やかだった。

「まてまて、あまり有名ではないよ。誰に聞いたのかは知らないが。しかしそれだけ断られてきたとなると、ちょっと同情を誘うね。それだけの先生に面会してきたと言うガッツは買いたいところだ」

 実際、大沢は同情した。もしこの子の言うとおり、東京周辺で環境の研究をしたいのであれば、出てきた名前は大御所から実力者の教授、准教授陣である。狙いは妥当だ。しかし有名な教授や准教授はそれなりに忙しくプライドもある。学生ならまだしも、こんな小娘の話を聞いてやることすら、あるとは思えない。それも突然現れては、誰だって疑うだろう。

 女の子は、様子を伺うように、大沢の顔をじっと見ていた。大沢は、どうもその視線が気になる。


「特に一般向けの雑誌に載ったこともないけどな」

 女の子は、やれやれ、みんな知ってるのよ、とでも言いたげな顔でこういった。

「オオサワ、湾岸にいる。クウコウからチバ。調査みられてる」

「ふむ。年何回か調査には行ってるね」

「そう。ヨくミる」

 大沢は、女の子の言う有名というのは、よく見るということだと思った。それにしても環境保護関係の団体がらみだろうか。大沢は、マスコミやテレビに取り上げられたことは無い。研究分野では環境関連の論文、それの自然環境関連の講演を行っているに過ぎない。有名じゃないどころか、無名といって差し支えない存在だ。

 一方、環境団体が国や地方自治体に対抗するには、科学的根拠は必要である。干潟などを監視している団体から、味方になりそうな研究者として、目をつけられたのかもしれない。調査地の地域の人と積極的に接した覚えは無かったが可能性はある。展開が見えない協力はしたくない。そのあたりは、はっきり聞いておきたかった。


「察するに、自然擁護団体の所属か?高校の中の環境保護活動部か何かかな。今は怪しい団体もあるからね。そのあたりを聞かせてもらおうか」

「ワタシ、アヤしくない。ウミ、きれいにすることアヤしいのか」

「そうではないよ。怪しいのは君の所属だ」

 大沢は、自分がこの子を怪しんでいるのだが、この子はそういうことは考えないらしい。どちらにしても、やんわり断るのが基本だろう。

「要するに、何故僕のところへ来たかだ」

「それ さっき言った」

 まあ、確かにそうだが、どうも伝わらないな、と思う。

「他の先生に断られたって話? その話はもういいんだ」

「オオサワ、キタイされてる」

「気体の間違いだろう。期待だって?誰が言ったんだ? 君の先生? 団体の人?」

 女の子は、はっとした顔をしたが、表情を戻すと真っ直ぐに大沢を見直した。そして改めていった。


「ウミ、スクいたい。調査、協力」

 大沢は大きなため息をついた。

「よし仕方ないな。話を聞いてあげてもいい。今度秋にオープンスクールがある。広く高校生さんや、地域の方に海洋研の仕事を知ってもらう催しだ。特に僕が案内してあげる。そのときお父さんか学校の先生をつれておいで」

 女の子が、まだそこにこだわるのかと言う不満を顔に出して、口を開こうとする。しかし大沢はそれを制止した。


「待ってくれよ。いくら僕でも素性も分からない君に、今すぐ手伝ってくれとはいえないよ。研究を手伝ってくれるのはありがたいが、誰か分からない人を使って怪我でもしたらどうする」

 大沢は、もう十分面倒くさかった。これで引き下がればよし、親なり先生が出るなら、まともな話ができるというものである。しかし怪我という言葉を挟んだことに、大沢は、少しだけ後悔した。調査中に怪我をするとは、どんなにひどいことなのか、自分は知っているからだ。でも思い出したくなかった。こんなことは考えたくもないのだ。


「ワタシ、シンヨウない?」

 女の子は不振な顔をしながら言った。

 大沢は冷静に振舞ってきたつもりだがこの子の傍若無人な態度には、辟易しつつあったた。もともと今日は、セミナーが不盛況ということで、面白くないし、初対面の小娘に難癖をつけられたのだ。十分自分の正当性を確認して、一気にまくし立てた。


「そうじゃないが、もう少し具体的な話をしてほしいな。君の話は分かった。熱意はあるようだ。だけどそれだけの理由では、僕は、ホイホイ手伝ってはもらうつもりはない。君だって、これだけの理由で人と手に組むような人間では、問題あると思わないか?」

 女の子は、仕方ない、というしぐさをした。確かにした、と大沢は思った。

「わかった。コンド 協力できる ショウコ、モってくる」

女の子は、気おされた感じもなく、淡々とそう言うとくるりと向きを変え、大沢から離れていった。


「怒ってるのがわからんのか、鈍感で失礼なやつだ」

 そう言うと大沢はとりあえず、不思議なものから開放された気持ちでほっとした。それにしても、高校生くらいの小娘から協力したいと言う話は、初めてだ。一体どういうことだろう。本人の意思なのか、それとも何かの組織に属していて、派遣されたのだろうか。例えば、行政側であれば国、地方自治体、電力などインフラ系の会社、民間側なら、漁協、NPO、環境保護団体だろうか。汚染の実情を解明するなら、原因の究明だけでなく着地点までセットで行わないと、誰も話を聞いてくれない。もし、本気で調査の手伝いをするつもりだとしても、自然を対象にした調査には、十分な準備と注意が必要だ。このご時世、安全面についても配慮しなければならない。


 そんなことを考えていると、大沢は気が滅入った。しかし純粋にもし科学や環境に興味のある高校生であるのなら、それは大歓迎である。ただ受験のために勉強している高校生より、ずっと見込みがある。問題点と研究のやりがいを教えてあげてもいい。スポンジのように吸収できる高校生なら、たとえ、そのような専門を職にしないとしても、かれらの人生の糧になるはずである。そうはいっても、ひどいのに絡まれたものだ、と思った。とりあえず、研究所へ帰る必要があり、今度こそビルを出た。あたりはすっかり暗くなっていたが、日中にコンクリートに蓄えられた熱がゆっくりと放射を始めていた。気温も下がらない。真昼とは感じの違う不快さが大沢を囲んだ。大沢は、湿気のたっぷりこもった空気を吸い込んだ。これも地球温暖化の影響などというヤツがいて困る、ただのヒートアイランドだ、悪いのは人間、全て人間、と思いながら地下鉄の駅へ向かった。


 2


 東京都大学の海洋研究所は都心に近い、住宅地の密集する中にあった。研究所ではあったが、大学の研究機関であり、大学院生の受け入れも行っていた。大沢は、地圏環境研究センターの主任研究員として、三年目を迎えていた。研究所の組織は海洋に関する六つの研究部門、大沢も属する四つの研究センターとして、物理学・化学的アプローチによる基礎的な研究から生物学や資源といった応用的研究まで、実に多岐に渡っており、結構な大所帯である。

 大沢の日常は、忙しい。次期調査計画の作成に、研究結果の取りまとめ、院生への指導など。その間を縫ってフィールドへ調査に出かけるのだが、なかなかその暇が無かった。事務的なもろもろアンドごたごたが一段落したある日、別な研究部門に属している友人の長谷から声をかけられた。彼は海洋生命科学部門の研究者であり、数億年前の古生物学と現生の生物の関連性に関する研究で博士号を取得している少し異色な研究者である。長谷との出会いは、研究所が所有する学術研究船・白鳳丸での研修中であった。大沢は、院生や学生が船酔いで苦しんでいる中、飲み友達として大いに気があった。二人とも東大出身ではなく、地方の国立大出身者ということで、息もあったのだった。大沢は人付き合いがうまくなく、少し付き合いにくいと思われやすい男であったが、長谷はとにかく言いたいことを言うタイプであった。お互い馬の合わない奴だと思いながら飲んでいるうちに、何でもいえる友人という関係を形成していた。二人の共通の言葉は、あの荒海の中、あと一人でもまともに飲める奴いたら、あいつとは友人にもならなかった、ということであった。


「よお、忙しいねえ。どうだい、たまには一杯」

「無理だ。明日はフィールド行くんだ。早く帰りたいんだよ」

「呑んでから行けよ。明日調査だから飲む暇がないなんていったら、毎日呑めないようなもんじゃあないか。けち臭いこというな」

「準備があるんだよ」

「ははあ。この前、途中で打ち切った千葉の市原の干潟だな」

「あれは途中でやめたわけじゃない。嫌な言い方をするなよ。突然呼び出されたんだ」長谷は、フフンと鼻を鳴らした。まるでフィールドを突然投げ出すようなヤツはダメだ、とでも言いたげだった。


「だれか学生連れて行くのか」

「いや、いかない」

「また一人か?誰か連れて行けよ。まじめなのを紹介してやる」

「一人で行くからいい。その気が無いのをその気になるまで待っている時間は無いから」

「だめだ。とにかく、現場に学生を連れて行けって。海の調査といったって危ないわけでもないんだろう? むしろお前のためだ、連れて行ってやれ」

「一人のほうが効率的だからな」

「どうしてそこまで、嫌がるか分からん。ううむ。まあしかたないな。呑むのは勘弁してやるか」

 長谷は、去っていったが、大沢は一度自宅に帰るか、このまま朝まで仕事をしながらこのままですごすか、迷っていた。しかし、最近自宅に戻ってないのでやはり帰るかと思い、ばたばたと片づけして研究室を出た。


 帰りながら、大沢の頭の中には長谷との会話の記憶をたどっていた。

 大学は教育機関であって、付属の研究施設も然りである。研究所だからといって研究のみしていれば良いわけはなく、学生の指導も必要とされる。それは大義名分だけではなく、将来有望な研究者を見つける目的もある。しかし大沢や長谷のような助教・講師レベルにおいては、直接学生を指導することはできない。教授や准教授が開く講座、いわゆるゼミに所属し、その中から見込んだ、あるいは見込まれた学生と研究を進めるのである。うまくいけば、研究が劇的に展開して日の目を見ることもある。そうすれば学生は就職や学位取得に有利となる。講師側も准教授への昇格や、もっと条件の良い別な大学へ移籍の道も開けてくるのである。大沢はこの研究所に着てから二年、学生と室内試験はともかく、調査に出かけたことはなかった。


 別に臆病になっているわけじゃない。いい学生がいないだけだ。


 大沢は過去、大学での助手時代に山岳地での調査中に遭難経験があった。不測の事態であったとはいえ、現場は極めて混乱していたし、事後処理は、金と人間関係でそれこそ師弟関係や友人関係は悲惨であった。この調査に大沢は、主催ではなく、異なる講座の立場で参加したのであるが、それがむしろ複雑な立場となった。裁判の論点は、事故が予測可能であったかどうかと、事前の準備段階での責任が問われることになった。山好きで大沢と親しかった直接の上司ではない引率の教授は責任を一身に背負って表舞台から姿を消した。裁判は、田舎の国立大学では払えない額が求められた。誰もがやりきれない裁判がやっと終わっても、前途有望な学生の命は戻らず、学部内には、むなしさと奇妙なしこりが残った。


 大沢はたまたま空いていた北方の地圏環境研究の機関に転職し、忸怩たる思いで五年をすごしたあと、この研究所に誘われたのだった。誘ってくれた西田教授は学生の指導を押し付けないように配慮してくれていたが、それも二年たっており、そろそろ准教授への誠意も見せなければならない。地圏環境研究所時代は、回りの研究員は気を使ってくれたが、こちらに来てから、遭難自体を知っている人も少ない。もう七年もたっている。壁を作っているのは、大沢自身なのかもしれなかった。

 別に十字架を背負っているわけじゃない。きっかけさえあれば学生指導だって、調査にだって行くさ。ちょっとだけ何かが変わればいい。何かが。しかしその何かは、大沢にはまだ掴みかねていた。


 3


 大沢は、いろいろな雑務を終えて明日の試料採取用の資材を積もうと、倉庫で準備をしていた。倉庫は地上にもあるが、手狭なため、屋上にも倉庫があり、まださほど地位があるわけでない大沢は屋上の倉庫をあてがわれていた。普通なら愚痴も出るところであるが、大沢はこの屋上は好きであった。屋上の倉庫へ行くことは、翌日に調査へ行くためであったし、この屋上からは新都心を眺めるには良い場所だった。東京の空は決して好きではなかったが、ここから見える空は広く、なかなかマシであった。その資材を持って地上に降りたところで後ろから声を掛けられた。


「オオサワ先生」

 ぎょっとして振り返ると、あの女の子がいた。

「君はあのときの、子じゃないか。誰だ、こんな子供を通したのは」

 入り口には、警備員がいるはずだった。しかし前回のセミナーの件もあるし、この子ならこっそり入るのも可能かもしれない。

「今から、調査の準備をするんだ。あまり相手はしていられない」

「オオサワさん、これヨんでほしい」

 女の子は手紙らしき封筒を差し出した。

「なんだい、推薦状かい?今忙しいんで、明日にでも読んでおくよ」

「イマ」

 思わず大沢はむっとした。正直、今この子と関わりたくなかった。しかし、言いたいことを遠慮もせず言われては、仕方なかった。せっかく環境に熱心な学生なんだ。大事にしたほうが良いかもしれない。怒るな怒るなと思いながら、大沢は手紙を広げた。しかし一言、付け加えることも忘れなかった。


「いいかい、僕は明日調査に行くための準備中なんだよ。君に係っている時間は無いんだ、わかるかな」

 そういいながら、大沢は手紙に目を通した。手紙には、最近の海洋汚染の酷さに辟易しており、なんとか仲間を集めてこの汚染を止めたいと考えている、といったことが書いてあった。続けて私の娘は、まだ学生ではあるが海洋が好きで特殊な技術もある。貴方のお役に立つと思われるので、ぜひ使ってやって欲しい。特に報酬は必要なく、もしアルバイト代をいただければそれは娘と相談してほしい。とはいえ役に立つかどうか判明するまではボランティアでかまわない。

といった内容で閉じられていた。

 最後にNPO海の青さを守る会代表 海野茂 と書いてあった。

 字は結構達筆であったので、きっと父親が書いたのに違いなさそうだった。


「ふん。NPO法人か。シーシェパードだったら、どうしようかと思ったが。君を見ている限りは暴力的な団体ではないようだが聞かない団体だな。君は、この手紙は読んでいるのだね」

 女の子は小さくうなずいた。

「ところで、ここに書いてある特殊な技術って何のことなのかな?君は、一体何ができるんだい?」

「ワタシ、海もぐるトクイ。どこでも水と土、取れる」

 女の子の目が輝いて見えたような気がした。

「もぐるのってダイビングのことかい。違う? 素もぐりだと。もぐるのはプールじゃないんだぞ。汚いヘドロが溜まった、ドロドロに汚染された海なんだよ」大沢は、少しだけ尾ひれをつけて話した。


「しっている」

 その子は、なんてことはないといった口ぶりでそういった。

 大沢は、この子は分かっていないと思った。どういう気か知らないが東京湾の汚染のことを瀕死だといっていた。その汚れのことを考えたら、素もぐりしようとは、普通言い出さないはずだと思った。それに、環境調査のサンプル採取は、単純なようだがなかなか厳しい。生物調査であれば、貝類や魚類のサンプル数が必要だし土質調査であれば、カラム状の試料がいる。それを採取するにはお金がかかる。

 さらに東京湾であると言うことが問題を抱えていた。小型であれ、船を出して調査するとなれば、往来の多い湾内では様々な許可が必要であり、さらに調査する場合もそれなりの設備が必要である。これらをクリアして縦横無尽にサンプリングすることは、不可能だった。もっともそれができれば画期的な調査結果となるだろう。この辺の状況をこの子はしているとは思えなかった。しかしそれを話しても、この女の子は分かってくれるだろうか。つまらない支障にがっかりするのかもしれない。


「何か道具を使うのかい」

「ナニもツカわない」

 女の子が、至極あたりまえだというように答えるのを見て、大沢はがっかりした。

「なんだ。本当に素潜りなのか。泳ぎが得意といってもね。東京湾で泳いでる人はいないよ。それでも巣潜りで、もぐるというの」

それに対する女の子の答えは明瞭だった。

「ダイジョウブ、ワタシ、もぐる得意」

「危険だぞ。肉体的にも」

「サカナやカイ、いきている。キタナくても、いきている海。研究手伝う。これ使命」大沢は、大げさな物言いを信じることはできなかったが、熱意のある学生に地道な努力を見てもらうのは悪いことではないと思った。試料採取というのは地味な仕事だった。研究者を目指す学生でも、環境調査のフィールドはあまり喜ばない。参加するのは、単位のためだ。まれに専門に学ぼうという者でも、学部だけであれば、二年間、大学院でも合わせて四年間。そのあと次に学生が入らなければ、研究は宙に浮く。定期的に良い試料採取ができないという点は、研究者としては、いつも悩ましい所であった。仕方ない負けだ、と思い、ちょうどいい明日、試料採取するつもりだったんだが、見に来てもらってもいい旨を伝えた。大沢が腹を立て事は、女の子がろくに礼を言うこともなく、当たり前の顔をして去ったことだった。


 翌日の早朝、研究所の裏庭に調査道具を乗せているとき、女の子がやってきた。

「これ、ダイジョウブか。」

 女の子は、あちこち錆びてボロそうな車を見ていった。

「ボロだといいたのか、贅沢だな」

 大沢は荷物を積みながら言った。

「チガうけど、こわい」

「この車を知らないだろう。ランドローバー社のディフェンダーって言うんだ。これは俺が北海道の研究所にいたとき、イギリスから来た研究員に譲ってもらったのをもってきたんだ。古臭くてぼろそうに見えるかもしれないが、大抵の悪路はこなせるし、故障にも強い。贅沢をいってはいかん」

 女の子は、そんな話はどうでもいいといった顔をしていた。


「まあいい。手伝うなら向こうにあるダンボールを持ってきてくれ。ああ、待って待って、ダンボールの中のポリビンの数と蓋の数を確認しておいてくれ。絶対袋は破らないように」

「わかった」

 女の子は数を数え終わると、ダンボールを持ってきた。

「何個合った?」

「75」

「ふむ。ちょっと多いかな」

 いつもは、30試料が出来ればいいところであった。

「ダイジョウブ。たくさんとる」

「君は大丈夫かもしれんが、そうでもないんだ。場所がハッキリして、一定の間隔で出来るならたくさんあってもいいが、ただたくさんとると、整理がつかないし、偏る場合もある」

 女の子は、面白くないオーラと、不満な雰囲気を充満させた。

「今日は君の意欲を見せてもらおう」

 女の子はそれを聞くと、さらにポリビンをたくさんつめようとする。

「それなら、たくさんもつ」

「まあまあ。慌てなくていいよ」

 そういったとき、ハタと女の子の動きが止まった。そして大沢の方を向いて、静かに言った。


「あわてなくていい? ちがう。あわてるヒツヨウある」

 大沢は、背中でその言葉を聞いたのだが、一瞬女の子が怒っているかと思って思わず振り返った。しかし女の子は、淡々と作業をしており、気のせいだと思い直した。もし怒ったとしても、青春の熱意、正義感の暑さが、カラカラと空回りしているのだと思った。それは自分にも思い当たることがある。大沢はなだめるように、彼女に向かって言った。

「試料だけ採取しても全てを分析できないのだよ。金も時間も限りがある」

女の子は無言でポリビンをケースに詰めていた。


 大沢は女の子と千葉県の工業地帯と湿地帯の混在した海岸線へ向かった。大沢は、学生時代からフィールドに出るのは好きだった。しかしこの研究所に来てから人の多さ、というより東京に来てからはそうでもなくなった。その理由としては、大都市ならではの人の多さや、混雑になじめないからであった。フィールドに出るためには、混雑した道を通らなければならない。うまく高速道路に乗っても渋滞しているし、高速を降りても、国道はやはり見えない信号によって渋滞していた。そして走りやすくなったと思えば巨大トラックがスピードを出している。眺める景色も海沿いであれば工業地帯が延々と続いており面白くもなんともない。空にはたなびく灰色の煙。なんとなく薄雲に覆われた空気。見ているだけで倦怠感が漂ってくる。目的地である試料採取する場所についても、緑がかった海に爽快感は感じなかった。


そのとき、隣に座っていた女の子は察したかのように口を開いた。

「オオサワ、海がキタなくて、カナしい」

 大沢は、はっとした、顔色の変わりやすいタイプといわれたことは、今までない。そういうタイプであることを、大沢自身は、ちょっとつらい経験をしているから、ということにしていた。そのちょっとつらいこと、に関しては、今の研究所に呼んでくれた西田教授以外は、知らない。そんな自分が、顔色を変えるわけがない。

「まあね。君のいうように、もう手遅れなのかもしれないなあ。さ、気を取り直して、作業を始めよう」

 大沢と女の子は荷物をトラックの様な車から降ろして、準備を始めた。

 女の子は、早く仕事がしたいと思うのだろう、早速試料ビンの入った袋を開けようとした。

「おいおい、まてまて。開けるな」

女の子はまた悠長なことをいうか、とでも言いたそうな顔をして大沢を見た。


「君は偉そうなことを言うわりに、試料採取と化学の基礎が無いな。こういう調査は、いかに丁寧かつスピーディに作業できるかが、重要だよ。ここで手を抜いて、よく分からないデータが出てくると、試料の質から疑わなければならない。そうなるとデータの信頼性が落ちる。将来研究者になりたいなら、特に気をつけなければないとね。精神論に近いところもあるけどね。さて、ここで大事なのは、極力コンタミ要するに、調査したい箇所以外の物質の混入を防ぐことだ。知りたい地点の海水以外のものが、入らないようにしなければならない。水中で蓋を空けて、水中で閉める。そして地上に出してから、きゅっと、もうひとひねりする。そうすることで、中は完全に満たされて酸化もしない。そしてクーラーボックスにすばやく入れる。どう、覚えられる?」

「うん、覚えた」

「よし。まず見本を見せよう」

 大沢はそういうと、波消しブロックの上を伝って海際に向かった。

 淀んだ水だが、近くでは少しは透明感がある。匂いは良くない。

 そして、紐のついた透明で筒状の試料採取器をそろそろと下ろした。引きあげると自動にふたが閉まる仕組みとなっている。採水器を引き上げると、試料びんのふたを開けて中の水を入れる。あふれるように入れる。ふたもその水で洗う。空気が入らないように十分注意しながら、速く蓋をする。そして試料をひっくり返して女の子に見せた。


「空気が入っていないだろう。酸化を防ぐのと、炭酸ガスが抜けるのを極力防ぐ。それに空気中には雑菌もいる。できるだけその場所の状態が変化しないようにするんだ。それと残りの試料でORPとPH、ECを測定する。この順番はなぜか分かるかな。ORPは酸化還元電位、ECは電気伝導度だってのは知ってるよね」

「ん。覚えた」

 女の子はそういったが、反応がよくなかった。


「どうした。地味だけど長期的に試料採取していると、様々な周期性を発見したりノイズを除去できるようになり、見えて来るものがあるんだ。もっとすごいものを期待してたいかもしれないけど、調査の初歩だよ」

 女の子は、しばらく黙っていたが、不満な様子であった。大沢はそれでも作業を続けた。試料の採取場所は間隔が短いほうがいいのだが、近いほど手間と時間がかかる。無理なく必要な情報を得るためには、適切な間隔が必要である。場所の特定はGPSを使って管理し、毎回ほぼ同じ場所である。将来的に海上で調査ができるようになれば、新しい知見も得られるだろう。

 そうして、大沢たちは十数箇所の試料採取を行った。しばらく歩くところもあれば、車で移動することもあった。一回の試料採取は十数分で終わるものの、移動が大変であった。太陽は真上に傾き最も暑い時間帯になっていた。ちょっと休もうと言って、大沢は日陰に腰を下ろした。女の子は、立ったまま不満そうに言った。


「ココよくない。ヨゴれている場所、もっとヒロい」

「調査は、今のところ海岸線を中心にやっている。海上は、事情があって出てない。このあたりは工場も近いから海岸線を綿密に調査すれば、かなり傾向がわかってくると思っているんだ」

 女の子は失望した顔つきで、口を開いた。お前もか、と言った顔つきに見えた。

「オセン、カイガンだけじゃない。ヒロがり、わからない」

 気持ちは痛いほどわかるつもりだった。冷静に説得しなければと思った。

「気持ちはわかる。初歩の調査、つまり概要調査は、広く浅くにやりたい。一番汚れているのは、海の縁だろう。そこをまず捉えたい。理想的には、碁盤の目のように調査できればいいのだが、それでは非効率なんだ。特に東京湾には多くの排水や河川水が流れ込むからね。概略が分かったら、悪い場所を集中してやる。でもそれは、もう少し先の話だ」

 女の子はやや怒りのこもった目をしながら聞いていた。


「オオサワ、ナゼそれをすぐしない?」

「いろいろできない要素がある。法律や、申請、当然設備にかかる莫大な費用、それに日数。今の僕にはクリアできない問題が多くてね」

「海よりおカネ、テマ、ダイジなのか」

 女の子の言葉には怒りがこもっていた。いや怒りというより敵意を大沢は感じた。大沢も思わぬ抵抗に言葉に力がこもる。


「君の言うことは分かる。でも今現実的にできることをやるしかないだろう。背伸びをしても周囲を納得させられる成果を得られない」

彼女の言うことも分からないわけではない。だが現状できることには限りがあるのだ。夢と理想だけでは研究はできない。今できることで効果的な作業を進めることで次にステップすれば良いのだ。もっとも夢も希望も必要不可欠だ。その点で女の子の言うことは正論だ。正論は最も耳に痛い。

 女の子は、しばらく大沢を強い視線で見ていたが、やがて目をそらした。大沢は納得してくれたかとほっとした。社会との矛盾は誰もが一度は経験しなければならない。そこで全ていやになるか、少し前進しようとするかは、個人差がある。この子はどうするだろうか。


「どうした。僕を手伝いに来たんだろう」

「がっかりした。ワタシ、カエる」

 それだけ言うと女の子は背中を向けて立ち去った。大沢は、女の子の背中は怒りに満ちているのがかったが、追うことはできなかった。

 大沢は、一人残された。大沢も怒りを感じてもよかったが、残念な気持ちの方が強かった。もう何もしたくない気持ちだったが、まだ今日の予定はたっぷり残っている。来た以上、途中でやめるわけにはいかない。一人でもやらなければ前に進まない。たった一回でもやれば、前には進む。

 大沢は、女の子が帰った方向から目を離して、濃い緑色で汚れた海を見ながら腰を下ろした。学生に期待してはいけないことは分かっている。相手が、どんなわからずやであったとしても意見が合わず分かれると言うのは、気持ちのいいものではない。

 一方で大沢は、もったいないとは思わなかった。あの子はまだ若い。環境保護に対して情熱的なのは良い。しかし調査と実際に環境をよくするのは、別な話だ。海をきれいにしたければ、お金が山ほどあればできる、簡単に。しかしお金がないのなら、起きている事象の規模と程度を正確に見極めなくてはならない。調査にもお金が必要である。そのお金も限られているのなら、多少時間がかかっても、効率よく必要なところにだけ調査の網を張っていく。出来るだけ無駄打ちしないように。長い道のりだ。映画のように突然奇跡は起こらない。奇跡が起こるとすれば、そこまでにとてつもない年月と努力があったからだ。そして無料で奇跡は起こらないのだ。ここでぽっきり折れるのも良いだろう。しかしよく考えて、再チャレンジするときが来れば、戻ってくれればいい。


 はしかのような熱意では、研究者でとしては、とても耐えられなくなってしまうだろう。アカデミズムに染まれというわけではない。彼女が研究者となって敵となるのは、お金や法律だけではない。むしろ社会情勢や社会・国民意識とも戦わなければならない。社会は、海洋汚染に関して、現状把握すらできない状態にある。気づいたときにはすでに手遅れなのである。水俣や足尾で人間はいったい何を学んだのだろうか。

 それに、今のところ汚染がはっきりしたとしても、すぐに改善は出来ない。たとえば東京湾が汚染されているのが流れ込む河川への工業用水だとして、誰がその罪を認めるのか。誰が出したのかの証拠などつかめないのだ。立場上、国や自治体は対応に追われるだろう。大企業はその罪を押し付けあう。それでも金のある企業なら、自分たちの身だけは守る。法律ができれば汚染に歯止めはかかるが、法整備の数年間は汚染をとめることはできない。企業は汚染しない新しい技術にお金を掛けなければならないし、中小企業は倒産するものもあるだろう。そもそも数百年以上かけて文明が汚してきたものである。簡単に戻すことは難しい。


 大沢は深くため息をついて、資材を車に運んだ。暑い日ざしが照り付けて、鈍く青く光るアルミの車を熱くしていた。

 この車も見てくれが悪く居住性も最悪だ。でも質は良い。そんな仕事をしなければならない。環境学者の卵をつぶしたかもしれないが、少なくとも現状、今の研究に取り組むのであれば根気の無いやつはこの仕事には向かない。もう一度ため息をついて、熱帯化しつつある車に乗り込んで、もうひとつ小さなため息をつく。

「やっぱり単位の足りない学生を連れてくればよかったか」

 大沢は、窓の下の空気取り入れ口を空けておけばよかったと思いながらエンジンを掛けた。

 いままでも一人で研究を続けてきた。これまで通り、前進するしかない。


 4


 日が暮れる前の東京の郊外。静かな町並みの中を女の子が歩いていた。その姿に存在感はなく、誰かが目をその子に移すことはなかった。やがてその子は、小さなアパートの階段を上った。階段の上には黒い斑のついた白猫がいたが、突然現れたその子に驚いて去っていった。アパートは二階建てで、高級感はないが清潔な感じであった。


 部屋の中には誰もいなかった。女の子は洗面台から風呂場へ向かった。風呂場は閉められて中には湯気が曇っていた。

 女の子は風呂場へ向かって「姉さま、帰った」と言った。

「あら!もう調査終わったの?随分早いのね。今出るから」

 そういって、風呂の中で水のはねる音がした。

「いい、姉さま、ツカれてる。ゆっくりはいって」

 女の子はそういって、疲れた体を椅子に座らせた。

 しばらくして、風呂場から姉さまと呼ばれた女性が出てきた。頭と体にタオルを巻きつけている。

 女の子は、それを見て、あわてなくて良いのに、とつぶやいた。


「いいのよ、かわいい妹の初めてのお仕事じゃ気にもなってるもの」

 そんなことを言っても、女の子の顔は晴れなかった。

「どうしたの。その顔だと、うまくいかなかったみたいね」

「姉さま、言葉、ハナす、やめたい」

「だめですよ。あなたは、訓練が足らないのだから慣れないと」

「ハナす、ニガテ」

「みな最初はそうよ。承知の上でしょ。もう泣き言かしら。それよりどうだった、調査は」

「うん、ひどい調査」

 そのあとは言葉が思いつかず無言になった。姉は次の言葉を待っていたが、出てこないのを見て取った。

「そうなの。お父さんの話では、大沢さんは、しっかりした調査をするねばり強い研究者だと言っていたのに」

 しばらく無言のあと、できれば言わないほうが、いいかしらと思いながらも、姉はさらに続けた。


「あなたのコミュニケーション不足が問題だったのじゃないかしらね。あなたが地上で暮らすのはまだ早いと言っていたでしょう。人間は言葉を発してコミュニケーションするのだから、うまく話せないと、あなたの意思は伝わらないし、相手の意思もわからないのよ。あなたの言葉はまだまだ下手だから、大沢さんに不快な思いをさせたのではないかな?」

「そうかも。でも大事なトコロ。ちゃんとツタえた。でもあの調査、海、スめないこと、セツメイできるとおもえない。陸チカく、水を取るだけ。ナニもわからない。あの研究、ムダ」


 たどたどしい言葉で一生懸命話す女の子を見て、姉様と呼ばれた女性は、すこしほっとした顔をした。この姉や、父親が一番恐れていたのは、都会の混雑した生活ではなかった。この子らと人々の住む環境の違いは大きいが、いずれ慣れることはできる。しかし彼女たちの属する、人とは少々異なる一族にとって、言葉をうまく操ることは少々厄介であった、心配なのは、コミュニケーションを取れないまま疎外感や挫折を感じて壁を作ってしまうことであった。こうなってしまえば、その壁を取ることは難しく故郷に帰るしかなくなってしまう。故郷の期待を背負ってそれに答えられない自責の念から迷い子となって、不明になる場合も多くある。それに比べれば、調査方法の悩みは難しいものではないといえた。人とけんかするのも悪くない。みんなそうやって、人間との確執を超えていかなければならない。簡単な問題ではないが。姉は努めて当然のように明るく振舞わなければならなかった。

 姉は女子の使い方を丁寧に教えながら、その先の件に意見を述べる。


「そういうことか。う~ん、それは仕方ないのよ。人間が水にもぐるのは大変だし。いろいろ道具もつけて、それだけでお金もかかるしね。大沢さんは、研究者としてはまだまだ無名だし、大学の予算もそれほど無いのよ。お金をかけずに、今たくさんのデータを回収するには、彼の方法が一番良いのではないかしら。もしあなたが、もっとよい方法があると思うなら、大沢さんに分かるように、しっかりと言葉で話さないと。ここは、私達の世界とは違う。あなたはそれをもっと認識しなければならないわ。この陸で異端なのは私たちなのだから、私達の目的を彼にわかってもらうには、彼の考え方を理解して、彼の言葉で話してあげなければならない。そうしていくうちに、彼があなたの意思も理解してくれるようになると思うよ」


 じっと姉の顔を見ていた女の子は、それは受け入れられない顔をして、姉から目をそらした。

「それ、は、わかる。けど。でも。私たち、は、時間ない」

「そう。確かに時間がない。でも、あせっては、できることもできなくなるかもしれないでしょ。あわてずに、私達の意志とやりたいことを彼の言葉で理解させてあげるのが、まずしなければならないことでしょ」

 姉は繰り返していった。まだこの子には、理解できないかもしれない。姉自身、人間生活に十分になじむことができるのは数年を必要とした。環境、生活、言葉、もっとも大変なのは、自分の意思を相手に伝えることであった。


「伝えられるか、わからない。私たちは、海、ムカシのようにモドしたい。でもモドらないかもしれない、オオサワは、言った。あのひと、信頼できないかもしれない。ふあん。」

 女の子はそういって、悲しい顔をした。姉と呼ばれた女性は、女の子の頭を抱えて、慰めるように頭をなでた。


「ううん。そんなことは無いと思うよ。元に戻すのは、時間がかかるのよ。父さんや私たちはそれでも、微力でも昔に近づくようにがんばろうと決めたのよ。私の世代では駄目かもしれない、あなたの世代でも駄目かもしれない、でもあなたの子供や、そのまた子供なら、海が元に戻る日も来るかもしれない。そう、みなで決めたのよ。今私たちにできることは、小さなことでもやるしかない」

 女の子は、姉に体を預けたきり、小さくうなずいた。

「わかってるつもり」

「あきらめてしまうわけにはいかないでしょ?」

「わかった」

「もう一度、いけるよね」

「うん」

 妹は、姉の体に身を寄せた。


 5


「よお、大沢。昨日の調査はどうだったんだ?なんか、ずいぶん早い時間に帰ってきてたようだが、どうしたんだ。新しい学生と出かけたと聞いたが、さては逃げられたか」

 翌日、同僚の長谷が話しかけてきた。

 いや、実はね、と大沢は大体の顛末を長谷に話した。


「なんてえお粗末な話だ。そりゃあ、その子が怒るのは無理ないぞ。よく考えてみろ。そもそもろくに説明もせず、現場に連れて行ったくせに、つまらんやり方だけを教えて押し付けようとしたら、そりゃあ怒るよ。大体、学生って高校生なんだろ、いやよくわからんと言ったってだめだ。俺は先日ちらっとしか見なかったが確かに高校生くらいだろう。おれは教養の学生だと思ってたが。まあどちらでも、そう歳はかわらん。高校生にしろ教養の学生にせよ、興味があるからやってくるんだ。まずは、その興味を伸ばしてやることが大事だろ。いきなり現実を見せても面白くないのは当たり前だ。大学の先生って理屈ばかりでつまらないと思われたら、ついてくるわけがないだろ。お前、いやいやクジで専攻を選ばされた学生の質の悪さは知ってるだろ。お前はフィールドを見に連れて行ったんだろ?まあ、お前のことだ。現実を見せて興味がなければ、そこまでのものだと思っているかもしれん。研究は甘くない、それで嫌ならそれまでだってな。図星だろう。しかしそれでいいのか、本当に。人間にミスは許されないのか?確かに今は「逃げ」が効く世の中なんだが、「逃げ」じゃないミスや再試があったっていいじゃあないか。よく考えてみろって。みんなお前じゃあないんだ、お前は間違っていないかもしれないが、全部正しいってこともないだろう。ま、それだけだ、俺が言いたかったのは」


 大沢は、長谷が同調するとはもともと思っていなかったが、意外にしつこい抵抗を受けて驚いた。長谷は苦労して大学に入ったと聞いていた。現役学生には、親切な指導だと評判がよかった。一方で大沢の方は、学生と一定の距離を置くことにしていた。学生と馴れ合いになるのはごめんだった。授業以外では、特に親しくしようと思っていなかったし、教授主催の講座のゼミでは、特に厳しく間違いや判断ミスを指摘した。特に初歩的なミスについては、辛らつな言葉で責めることが多く、女子学生の中では泣き出す子もいた。大沢にとってこの様な態度や発言は、彼らをいじめようと思っているわけではない。研究者としてやっていくのであれば、つまらないミスは、根拠の致命的な弱点となる場合が多い。それにある程度、辛らつな状態でも議論の場に持ち込めないようでは、研究者として腰が弱く頭角を表せないのだ。それなら毎年学生は要らない、数年に一人腰の座ったのが入ればいいと思っていた。


 しかし大沢はこの場で、長谷と一戦交えようとは思わなかった。実際、質の良い院生は他の講座を選んだし、大沢の所属する西田教授の講座を選んだものでも、上位の教授、准教授の研究を選ぶことが多かった。ここ数年の希望者はなく、西田教授の紹介で、何人か仕事を手伝ってもらったり、彼らの手伝いをしてあげることはあっても、それ以上の関係にはならなかった。自分のやり方はやや手厳しすぎるかも知れないと思っていたころではあった。


「わかった。今日はそのとおりかもしれないと言っておこう。学生は大事にする、それでいいだろ」

「うむ。その子に根性があれば、そのうちまた来るよ。お前が見込んだんじゃない。お前が見込まれたんだろ?もう一度くらい来るだろう。そのときはちゃんと説明してやれ。たとえその道を選ばなくても、お互いに損にならん」

「それはそうだ。たまにはいいことを言うじゃないか。まあ今日は分かっておこう。しかしあの子はこないと思うよ」

 大沢は、そういって長谷との会話をきった。


 その日の午後、大沢が学生指導を終えて、教室から研究棟に移動していたとき向こうに、例の女の子を見つけたときは、長谷の話もあっただけに驚いた。とりあえず、根性だけは合格と言うところか。

「ありゃ、君、また来たのかい?今日はなんの用」

「キノウは、すみません。もういちど、やらせて、ほしい」

 そうきたか、と大沢は思った。長谷の話の後ではあったし優しく話してやってもいいかと思ったが、口の利き方がけしからんと思い、その考えは吹き飛んだ。それに大沢にもプライドがあった。それは権威的なものでなく、単なるねじれた“気持ち”の問題であった。

「だめだ。君も、現実が分かっただろう。僕は、まだたいした業績があるわけでなく偉ぶるわけではないが、試料採取は大事なんだ。ほいほい投げ出されては困る。大体、きみみたいな未成年を連れて行って何かあったらどうする」

 すみません、といったものの女の子に悪びれるところはない。

「どうやって帰ったんだ?あれから、バスもないだろう」

「それは、言えない」

「なんだと!そんな言い方があるか。大体、僕のほうは君の熱意を汲んで連れて行ってやったのに、何も手伝わないわ、途中で怒っていなくなるわ、何がなんだか分からん。親切で聞いてあげたのに、どうやって帰ったのかも言えないのか」

「カエりミチ、研究とカンケイない。それに私は、怒ってない」

「なるほど、怒ってなかったかもしれん。しかし途中でぶん投げて帰っただろう。あの態度は何だ。そもそも手伝う、いや、協力するといったのはそっちだろう。こっちは多少なりとも信じてやろうと思ったのに」

 女の子は、少しだけ、目をそらした。

「それは、私が、悪いおもう」

「そうだろう。大体説明も聞かずに、怒ってぶん投げるような態度ではとても、研究の協力なんぞできん」

「私は、あのとき、怒ってない。でも協力は、できるとおもう」

「まず、態度や姿勢を改めないようではだめだな」

「アラタめる? 研究、改めるのか?」

「なんだと、いいたいこといいやがって」

 大沢は興奮しかけたが、女の子は一歩も引かず、その続きを話した。


――話さないと人間とはコミュニケーションできないのだ。かわいそうなニンゲン、だから。


「オオサワさん、研究は、良い。だけど、あの試料は、海のことわからない。海は広い。オオサワ、海に潜れない。オオサワにできないこと、わたしは、できる。私が協力すれば、広く深く、試料アツメめられる。そのために私手伝う。コンドは帰らない。もうイチド協力する」

 そして、女の子はぺこりと頭を下げた。

「おねがいします」


 大沢は、怒気を抜かれた。

「ううむ、まあ、ちゃんと話を聞くといのであれば、もう一度チャンスをやらないわけではない。仕方ないな。くそう。とりあえず、仕切りなおそう」

 大沢は長谷に言われたように、とりあえず試料採取の意味とその方針を話した。地道な方法ではあるが、確実かつお金がかからないことを話した。その女の子の反応は極めて悪く、会話が続かないことも多かった。大沢はそういった場合でも興味が向くように、分かりやすく根気よく話してみることにしたのだった。やるだけやっても失うものはないからな。


「試料採取の意味と僕が今やってることに意義はわかったのだな」

「わかりました」

「ほんとかな。ちょっと怪しいが」

「ダイジョウブ。調査いく」

 女の子は、はやく行きたがったが、すぐといっても今日行くわけにはいかない。大沢にも大学本校での講義が少しあったし、ゼミだの、委員会だの参加しなければならない用事が山積みだった。そこで、週末の日曜日に来てもらうことにした。

「日曜日なのに、大丈夫か? 年頃の女の子らしい用事があるだろう。」

 その答えは、高校生らしいものではなかった。大沢を見つめずに言う、女の子の目は悲痛に見えた。

「私は海をマモるのがヨウジ、ほかにヨウジない」

 大沢には、なぜこの子が悲痛な目で海を守ろうとするのか、わからなかった。


 二度目の調査は、できるだけ東京から離れた場所にすることにした。この女の子は巣潜りで試料を取ってくるということで、できればやめて欲しかったが、どうにも言うことを聞いてくれそうにない。いきなりドブ川に連れて行くわけに行かなかったし、安全面でも不安があった。できるだけきれいな海で、大沢の目が届く範囲で、何かあったときに対応できる場所にしなければならなかった。


 無言で車に揺られた後、試料採取に取りかかる。準備をしながら、大沢は大事なことを聞くのを思い出した。

「そうそう、名前を聞いてないな。苗字は海野だっけ。名前は何?事故とかあったらまずいし、住所はこの間の手紙で分かるとして知らないのは、名前か」

「ナマエ?、ない」

 いかにも言いたくなさそうに女の子は繰り返して言った。

「それはないだろう。これから一緒に仕事しようと言うのに、名前くらい聞かせてくれないと」

「海野。それより、シゴトする」

 女の子は、てきぱきと資材を運びながら、やはり嫌そうに返事をした。大沢はどうにもコミュニケーションの取りづらさを感じる。この世代の女の子と話す習慣はもともとないところに、話をするのがとても嫌そうに思われるのだ。そんなことをしているうちに、毎回彼女の思うとおりにことが運んでいるのは、少々癪に障るところもあった。


 資材を全て下ろした後、大沢は、試料採取後の分析方法について話しをした。昨日は大まかな背景を話しておいたが、今日はより詳しく話す必要があった。女の子はその話を聞くのを相当嫌がっていた。しかし大沢は相手が高校生だからこそ嫌がっても念入りにしておく必要があると思った。何のためにこの試料を取り、どのような分析を行うために、このような資材を使用するのかを知ってほしかった。ここで嫌がるなら、そこまでである。今度こそ失格でいいだろう。しかし女の子でも、前回とは異なり不満な顔をしながらも、大沢の話を聞く姿勢があった。前のように投げ出そうと言う感じはなかった。それでも不満や不明な点は片言で指摘や質問をする。

「それ、昨日、きいた。おなじこと」

「ふむ。そうだったっけね」

 大沢は、親切心のつもりだったが、同じことを何度か繰り返す癖があった。大抵は見過ごされたが、長谷には、しつこいと指摘されていたが、学生に言われたことはない。


「試料びん、クウキはスコしはいる。スコシは、いいのか?」

 最後に彼女のできることと、やってほしいことのすり合わせを行った。

とりあえず港の地形沿いのサンプリングであるが、女の子にもぐってもらい深度別に複数の試料採取を行うことにした。まずは少しずつでも分かり合っていくしかない。その気になるのを待っていてもいいが、自分で少し進んでみてもいいかもしれない。これぐらい手ごわい相手ならやりがいがある、と大沢は思った。

 

 大沢と女の子は、その後、何回か試料採取に出かけた。他に手伝ってくれる学生があまりいないことから、大体は二人で試料採取に出かけることになった。しかし大沢としては、あまり望ましいことではなく、女の子について、もてあまし気味であった。もっとも困るのは、試料採取をすると、すぐに汚染されている結果が分かると女の子が思っていることで、そのあとの処理、分析、結果の解析と取りまとめ、結果についてはいろいろな検証を行わなければならないということについて、何一つ理解がなかった。大沢は、それまでの彼にしては根気良く、それを教えていた。それをさせているのは、女の子の熱意のある姿であったが、研究の目的やその後の作業については、あまり興味がないようで、説明する側と、受ける側での忍耐は少しずつ限界に達しつつあった。さらには、女の子は毎日のように研究所にやってきた。この点でも、困惑した。


 大沢は、当然ながらこの研究だけをやっているわけでなく、複数の研究テーマがあった。さらに本学との連携で、講義や実習も多く抱えていた。女の子は研究室でじっと待っていることも会ったが、それ以外は広大な研究所の敷地で待っているようだった。大沢は、そんなことが一週間も続くと、ついに忍耐の限界に達した。

「海野君、君はうちの研究所員でも、大学生でもないんだから、あまりウロウロされては困る。試料採取は毎日ないんだ。やる前の日には呼び出してあげるから、それまでは、自分の勉強とか、やることあるだろう」

 女の子は、くだらないことを言っている、というような顔つきで言った。

「海の調査いがいに、することなんて、ない。こうしてるアイダにも海は汚れる」

「すぐに、どうこうなるわけじゃない。君にはなくても僕には他にやることがある」

 女の子は、意味が分からない、という顔をした。

「海の汚れは、死にカカわる。何より大事。わたしなら、マイニチ調査する。大学なんて、関係ない、調査は今やらなければダメ」

「毎日調査なんてやれるわけないだろう」

「なぜ?海ではたくさんのイキモノが死んでいるのに、なぜやれない」

「む」

「研究所なんてやめて、調査する、わたしならそうする」

「ばかな、研究所を辞めたら、調査なんか出来ないぞ。分析はどうする。解析も出来ない。そもそもそれだけやっていれば良いわけじゃない。他にやることがたくさんある。何を言ってるんだ」

 女の子は、それを聞くと、

「イチバンだいじなことをサキにやる、何ワルい?」

「この仕事は、研究だけやっていればいいというわけではないことくらい分かるだろう。他のやるべき事もやらないと、この仕事に手をつけられないし、他にも認められない。そんな状況で研究が進められると思うのかい、一人で出来るわけじゃない。他の人の理解や協力があればこそ、研究も出来るし進むんだ。なんでも一人で出来ると思うな。じゃあ君は一人で出来るのか、できるのなら俺にたよらず、一人でやればいいだろう、君のほうが矛盾している」

「私だけ、できない」

「だろう。僕だけだって出来ない」

「でも、それではどんどんおそくなってしまう。みんな死ぬ」

 女の子は目に悲壮感をためていった。訴えるような目が大沢の心に痛い。この焦燥感が、大沢には理解できない。なにが彼女を焦らせるのだろうか。

「なあ一度聞きたかったのだが、なぜ君はそんなに焦っているんだ? 君は何のためにこの研究をやろうとしてるんだ」

「海をきれいにしたい」

 そうじゃないと、大沢は思ったが、落ち着こうと一呼吸した。

「それは、分かった。しかし何故きれいにしないといけないのかな?誰かの影響かい?君の話を聞いていると、今すぐにきれいにしなければいけないようだ、でもそれは無理だよ。君が僕に何を期待してるのか。少なくとも僕にはすぐきれいにすることは出来ないし、他の先生にお願いしたって、そいつは無理だよ。どうして今すぐじゃないといけない? むかし熱帯魚を飼っていたのが死んでしまったとか、これは無いかもしれないが、肉親や友人に汚染で苦しんでいる方がいるとか」

 女の子は、唇をかみ締めてしばらく考えていたようだが、重い口を開いた。


「イキモノが死ぬ」

「その理由は、どうも納得できないな。今すぐ全てが死ぬわけじゃないだろう。今だって生きてる魚はいるんだし、海苔の養殖だってやってる、貝だってまだいるだろう。君の生き物が死ぬというのは、どういう意味なのかな。そしてその根拠となっているものは、何なのだい?」

 女の子は、本気でそれを言っているのか、という顔をした。大沢も、ここで目をそらすわけには行かなかった。ここで中途半端にごまかすわけには行かない。もし情熱的な研究への意欲が、少女的な感傷が原因で言っているのなら、目を覚まさせる必要があったし、大沢自身としても今後もかき回されるわけにはいけない。

「さあ、君はどう考えているんだ。聞かせてもらおう」

「私は、センセイじゃない、そんなにウマく説明できない。でもオオサワサン、分かってない。本当のじょうきょうを」

「僕は、君の意欲をそごうと言っているわけではないんだよ。湾の環境はいずれ誰かが調査しなければいけない」

「オオサワサンは、わかっていると思った。人、どうしてシンケンに海のことを考えようとしない」

 その後、女の子は、自ら口を聞こうとしなかった。大沢は何か重大な理由があると思ったが、それ以上のことは引き出せなかった。


 6 (独白Ⅰ)


 私は、大学での仕事から帰ると、よく姉様のアパートの屋根に上る。今日もそうだ。ここなら誰にも見られずに、一人で考えることができる。日々はつらく、言葉が上手くできない中での、大沢との交流は、身の切れる思い。しかし私には、あの作業が海をきれいにするのに進歩しているとは思えない。私は、焦っている、多分。姉様は、焦らなくてもいい、といってくれるけど、姉様は優しいから。


 集めた試料は、何日もたってもやっと結果が出る。それを表にまとめてグラフを作る。そのうち、分析方法も教えてもらえれば、そうすれば私が夜も、ずうっと、やってあげるのに。大沢は、文章やコンピュータをいじっていればいい。しかし、それが進んで、進んで、その後、どうなるのだろう。現状は、もう最悪なのに。今、今すぐにでも海をきれいにしないと、明日また汚れは川からやってくる。船が汚染物を垂れ流す。今すぐとめないといけないのに、何もできていない。やっぱり、焦る。

 

 そんな時、冷たい夜風は、私の疲れ果てた心を少しだけ覚ましてくれる。

 人間は自分のことのみに意識しすぎる。人間同士、同じ種族同士の結びつきがどうしてこんなに薄いのだろう。私たち、海に棲む一族には、理解できない。


 何か生き物が生きていれば、えさや縄張り、利権が絡んで争いが起こる。それは仕方ない。間違えて殺しあうこともあるかもしれない。しかし人間の争いは、他のものに影響を与えすぎる。自らの首を絞めることも多いのに、どうして止めることができないのだろう。


 そして人間たちは怒っている。少なくとも怒っている人が多い。電車に乗っていれば、ぶつかったとか、正面衝突しそうになったり、ゆっくり歩いている人にぶつかりそうになると、怒られたり、怒ったり、舌を鳴らしたり、にらみつけたりする人がいる。そんな人が多い。かなりの人が怒っている。怒っている人はみんな急いでいるわけではなさそうだ。それでも怒っている。そして、人間の意識が見えるのは「むかつく」というのが多い。言葉でも「むかつく」と言っているのを聴いたことがあるが、潜在意識で感じることのできるものの多くは、「むかつく」だ。いつもではないにしても、にこやかな笑顔の人が突然なることがある。そうでなくとも、電車の中、駅の中は多い。そんな時、私は、人間が怖い。テレビで見た恐怖の映像でも同じ意識が発せられているように思う。犯罪や戦争が起こるのは、単なる利権争いだけではなく「いらつき」や「むかつき」の意識が、心の底にあると感じる。


 人間たち特に都会で住むものは、自然や自然界の調和についての意識が欠如している。人間は靴下をはき、靴を履き、アスファルトの上を歩く。視界にはコンクリートの建物や看板や宣伝ばかりが目に入ってくる。その視界の一部にある空や、樹木たちは、彼らにとって何の意味もない存在と思われている。美しい夕焼けがビルのほんの一部の隙間に見えていたとしても、それを意識する感覚がなくなっているのだろう。意識できる人であれば、その小さな隙間からしか空や星が見えないことを嘆き、土や木のにおいを感じられないことを寂しく感じるだろう。自らを含めた生命が、自然の調和の中で存在しているという意識・感覚が、もう残っていないのだろう。自分の存在位置を確認できない、浮遊というより迷っている不安定さが、都会の人々にはあると思う。だから不安を抑えるかごとく金や名誉を欲しがるのだろう。しかし本当の土台がない状態では、どんな物欲を満たしたところで、底なし沼のように、砂浜の砂のように吸収されてしまい、本当に満たされることはないのだろう。


 ほとんどの人間は満たされない様子に見える。様々な著名な研究者を訪ねても、そんな感じを持っている人は一人もいなかった。みな閉鎖的で、心を見せてくれる人はいなかった。大沢も同じ。でも大沢とはとりあえず、調査の手伝いをしているうち、すこし彼の考えを意識することができるようになったと思う。まだ何を考えているのかはよく分からない。しかし人間にしてはまともな人なのかもしれない。そうあってほしい。一人ぐらいそんな人間もいても良いではないだろうか。


 私は空を見上げる。光や電灯が多すぎて、星は見えない。しかし月は見える。私は心の中で思う。美しいお月様。あなただけ輝いて見えるけど他に素敵な星が無数にある。私はそれを知ってる。私はどうすれば人間たちに。見えない素敵な星の存在を教えてあげられるだろう?


 7


 大沢は、内房地区での幾つかの調査の後、よく考えた末に東京湾内へ調査を進めることを考えた。彼女に対する身体能力の高さは十分に認識した。しかし実際に湾内に入って作業するとなると、いくらかの手続きが必要だった。今日も良くがんばってくれたね。ありがとう。大沢はこころから感謝を込めて言った。


「ところで前も聞いたと思うのだけど、君の名前を教えてくれないか」

「私のなまえは、オオサワさんの研究と関係ない」

 また、同じ手でごまかすつもりだ、と大沢は思った。今度はそうはいかない。作戦は考えてある。

「大ありだ。ここまでの私の研究成果は君の試料採取がなければありえない。私と君の共同研究としかいいようがない。君の立場もはっきりさせなければならない」

「ない。私、なまえはない」

 女の子は目をそらして言った。そして話を終わらせようとした。この子がやるいつもの手段だ。しかし今回は大沢も引き下がるつもりはない。実際に問題があるのだ。


「今日はだめだよ。共同研究者の名前を知らないわけはない。成果も発表したい。君の所属も知りたいんだ」

 大沢は考えた。この子には研究に必要であること以外話そうとしない。だから全て研究に結びつければ、聞き出せるかもしれない。

「私一人でやったと思われては困る。データが偽りと思われてしまう可能性がある。実際、私ではああいう試料採取は出来ないからな。私は研究報告で聞かれてしまうし、論文で出せない。つまり世に出せない調査になってしまうんだ。それでは困るだろう」

「困る」

 女の子は、珍しくうろたえるように言った。大沢からすれば、今日こそ何とか名前を聞き出したかった。大沢は、なぜ彼女がこれほど名前を聞かれるのが嫌なのかさっぱりわからなかった。研究に名前が出るのが困るのは、立場もあるのだろうし、理解できる。実際現役高校生の名前を論文に出すかどうかは非常に問題がある。実はそこまでやろうとは思っていなかった。


 女の子は、大沢から個人的な質問については、ことごとく拒絶してきたがこの日は、理論的に責められて混迷せざるを得なかった。家に帰ると、姉に相談した。

「名前くらい教えてあげてもいいよ。これ以上拒むと不審に思われるでしょ。そもそも私は特に名前を教えてはいけないといっていないけど」

「父様に相談してみる?」

「このことで、あまり困らせたくはないのだけど。それより人間の世界で生きているのだから、名前は教えてあげなさい」

「でも、私達のしきたりでは、名前を教えるのは、もっとも親しい関係なのだし」

「そうね、でもここは人間の世界だし、みんな苗字と名前で識別しているから。あなたにはまだ精神的につらいことかもしれないけど。こればかりは慣れないと、どうしようもないよ。それに彼の研究の成果を考えれば、やむをえないことでしょう。あなたの立場をどうするかは、大事な問題でしょうね。ただ私たちとしては、名前が出て、万一のことがあると困るから、どうしても名前は表に出さないように。そこははっきりお断りしておいてね」

そこまでいったあと、そうね、と姉は考えるしぐさをしてこういった。


「いえ、私が一度あっておこうかな。うん。人間の世界では、名前は重要なのよ。私たちのように重要な意味は持っていないわ。ただの個体識別のためのものなのだから。私たちの名のように自身すべてを表すものではないのですよ。だから難しく考えない方がいいと思う。それから人間たちが、お互いを名前で呼ぶのは、ある程度親しい証拠だから。人間たちはそうしないと、お互いの信頼度を認識できないの」姉はやや寂しそうにため息混じりに話した。


「それにしても、名前はどうしよう」

「そうねえ。本当の名前でも良いけど、日本人らしいほうが良いんじゃないかな」

 それから姉は少し考えるように目をつぶった。

「あなたは、私たちの希望の灯だから、あかりと名乗りなさい」

「あかり、おかしくは無いですか」

「うん大丈夫。かわいい名前だよ。とうさまが、人間の子供につける名前を頼まれたときの候補ですって。ところで大沢さんは、私達の見込みに応えてくれそうね。あなたが頑張れば彼の研究も進むでしょう。研究が進んで世に出てくれば国も動き出すでしょう。それなら、あなたの立場ももう少し考えたほうがいいわね。本当に、希望が灯ったようだわ」


「でも人間の世界は、まだ怖い」

 女の子は、つぶやいた。

 その後、姉の手配であかりは、姉の勤める某大学の一年生ということになり、あらためてそのあたりの事情を説明するために、あかりの姉が大沢と会うということで話がまとまっていった。


 あかりから突然、姉がご挨拶したいといわれたときは面食らったが、あかりについて、確認しなければならない事務的事情も抱えていたので、好都合だった。研究所のカフェテリアで会うことになった。姉は、隣県の国立海洋大学に勤めているということであった。驚いたことに、あかりはその大学の一年生だった。

「大学生とは驚きましたね。まだ中学生か高校生に成り立てだと思ってましたよ」

「そうでしたか。年齢は見かけによりませんから」

 大沢は、あなたも相当年齢不詳と言ってやりたいと思った。物腰は穏やかで落ち着いたように見えるが、あかりの姉としては、歳が離れすぎているようにも見える。


「研究所のほうでは、他学のものが出入りしてもよろしいのですか」

「まあ、ほどほどであればいいでしょう。本格的にやってもらうならアルバイトでやってもらおうと思っているのですが、そちらの学問がおろそかになってはいけませんからね」

「それは素晴らしいですね。ウチの大学のことは気にされずとも大丈夫です。そちらで鍛えていただいたほうが、よっぽどためになるかと。」

 大沢は、以前から気になっていることを、聞いてみることにした。

「彼女は語ってくれないのですが、どうして海洋汚染にこだわっているのでしょうか。確かに今まで熱心な学生に会ったこともありますが、それはあくまで好奇心です。彼女の場合は、切迫感があるというか。ちょっと普通じゃない。本当に何を求めているのか掴みかねているので、少し混迷しています。彼女の求めるものと僕の研究が違うのであれば早めにわかってもらっておかないと」

「さあ、海の汚染について思いつめたこともあるようです。昔から生き物は好きでしたし。できれば先生からあの子に聞いてあげてください」

「それが、なかなか難しいのですよ」

「大丈夫ですよ。信頼関係構築のためにたくさん話しかけてあげてください」

それじゃ、犬や猫じゃないか、と大沢は思ったが、それは口に出さずにおいた。


「自信ないですね。お姉さんの前でなんですが、なかなか語ってくれなくて。それに、これこそ言いづらいですが彼女は帰国子女なのですかね。話すのが苦手なのかな、それとも日本語だけが苦手なのかな」

「そうなのです。でもいま真剣に言葉は勉強していますから、もう少し待ってあげてください。デリケートな問題も含んでいますから。でもすぐ上達しますから大丈夫です」

 大沢は、この姉も曲者だと思った。本人には散々聞いているが答えてもらっていないから聞いているのだ。その事情は知らんぷりで、自分でヤレということらしい。こちらが信用していないのと同様に、あちらも信用して居ないのだろう。ただよくわからないが期待されているというのを感じる。それは真の意図が分からないだけに、漠然とした不安を感じないわけにはいかなかった。


 8 (独白Ⅱ)


 とある雨が降っている金曜日。梅雨らしいじっとりした雨。粒は小さいがたくさんの粒。霧と雨の間のような、どんな物質の隙間も心の隙間も逃さないような雨。

 新宿の南口で庇のないところにあかりは立った。夕方、仕事や学業を終えた人達が帰宅の途についている。あかりは、これだけの人を見るのは初めてだった。今日は特に人の多い場所を大沢に教えてもらってここにきた。


――そんなところに行ってどうするの?

 大沢は聞いてきたが、上手く説明できないので、ありがとうございます、とだけ言って出てきた。言葉は難しい、とあかりは思う。難しいだけではない、あかりは人間世界に来る前から覚悟していたが、これほど言葉を必要とするとは思っていなかった。あかりが生まれ育った海で暮らす一族は、言葉を必要としないことから、言葉の文化が発生しなかった。海のような音が伝わりにくい世界では言葉はなくても感情や意思は思うことで伝えることができ、それは人間で言う言葉の文化のように遺伝子に組み込まれて確立して言ったのである。


 ふと、あかりは、とある方向から嫌な気持ちを察して、その意思を無視することもできず、そちらを向いた。


 あかりが目を向けた、南口の混雑は改札口から小田急方面に向かう方向で相当の混雑になっていた。人の中には思うような方向へ進めなくなるものもいるようだった。あかりは、不穏な「むかつく」気配を察したのだったが、誰がその気持ちを発したのかは分からなかった。分からないのは人が多すぎただけではなく、複数から発しているからでもあるようだった。


 そのうち、―おい、ぶつかるなよ、といった声が上がった。不穏な気配は一気に高まった。いけない、とあかりは思ったが、その心の声は、この新宿駅南口にいる誰にも届かない。

 そうだ、とあかりは思った。ここは人間の土地。私の居場所じゃないのだ。言葉で言わなければいけない。彼らの前に立ちふさがって、いけない、やめなさい。譲り合って、と訴えれば解決するのだろうか。


 しかし、それは無意味なことだ。人間たちは、同じ種族ながら個々の結びつきが少ないと思う。この考えは、人間からすれば私たちは結びつきすぎていて自由がないと思えるのだ、ということに気がついていた。

 あかりは、不安・不穏な気配の固まる方向から気をそらして、大きな柱に改めて背中を預けながら、父様の言葉を思い出していた。


――人間の前提は我々とは違うのだ。まずこれを意識しておかなければいけない。私たちと人間が理解しあえると思い込まないことだ。そして人間を理解できると思ってはいけないのだ。お互い理解できないと思っていればこそ、相手の思いを慮ることができる。そうは思わないかい?


 人間はこれだけの人がいるのに結びつきは皆無に近い。これだけの人々が無言のまますれ違っている。今、人間たちが直面している問題を、今ここにいる人たちの十分の一で、今ここで解決しようとすれば出来るのではないか、とあかりは思う。そうすればどれだけ快適に過ごすことができるだろう。あのお酒というもの。あれは人間たちをすぐに苦悩から解き放ってしまう。どんな問題を抱えていても、あれを飲むと忘れ去ることができるようだ。休息は確かに必要。でも直面する課題を忘れるまで飲むことに、何の意味があるのだろう。今日は金曜日。金曜日は休みの前日で、お酒を飲む人が増える。海が、川が、山が少しづつ抱えきれない荷物を増やす中で、その報いが自分たちに帰ってくると気づいているのに。お酒を飲んで忘れてしまうのだろうか。私にはできない。安らぎは、何かを達成したときに、そう私なら平穏な美しい海にいれば、お酒を飲まなくても安らぎを得られる。私が人間なら、澄み切った青い空を眺めたり、新緑の木々のさざめきに耳を傾けたり、波にきらめく海と戯れれば、心は安らぎを得られるのに。


 しまった、とあかりは思った。また自分の考えを人間にはめようとしてしまった。そうではないのだ。人間の考えで、良い答えを導き出せるようにしなければならない。私たちは、この群れを成しながら全く結びつくところのない、集団であり孤立している人間たちとうまくやっていかないといけない。それは人間のためでなく、私たちのため。


 あかりは、激しく混雑を増している改札口を眺めていた。雨が降っているせいで、傘を開こうとする人たちと、外からやってきて傘を閉じようとする人たちの間で苛立ちが集まっているようだ。あいつ、俺の足に雨水を掛けやがった、そんな心の声が聞こえる。雨水を掛けた人間にはその声は聞こえない。もし、その声が聞こえれば、ケンカになるのだ。でも早い段階でケンカになっておけば、次は雨水がかからないように間を空ければいい。ケンカをするより、間を空けるほうが気持ちもらくだろう。そして二度目は、…そう、あるかもしれない。三度目も何かの間違いで、あるかもしれない。しかしその後は、もうないだろう。そうして成長していければいい。人間は本音で言葉を交えようとしない。それは、多くの場合怖いからだ。その気持ちは、あかりにもよくわかる。あかりたちも、最初は心の会話でケンカをする。しかし相手に全て伝わってしまうのが前提になるので自然とお互いに本当に思いやらないと、先へと進むことが出来ないのだ。人間はその過程を踏まずにすませようとする。自然と相手の顔色を伺わなければいけない。本当は何を考えているのか。ましてや発言は真なのか、表面だけの発言なのか、裏があるのかないのか。この人はお酒によっているから発言は信頼できないのか、分岐は多い。自然と心は複雑になる。

 父様は、こうも言っていた。


――心の結びつかないことは最初は、ほんの少しのズレを生じるだけかもしれない。しかし末期では恐るべき性質の違いになってしまう。ましてや人間は東京だけで一千万の数がある。心の通わない一千万が何を考えるか想像できるかい。答えはまとまらず、まとめられず、結論が出せず、呆然と時間が過ぎるのを待つ。方向性はますます拡散するんだ。君はその中に入って何をしようと思っているんだ?


 電車が到着したようだ。


 あかりは、洪水のような人間の流れを見てぞっとした。でも私は、人間に再考を促したい、と思う。だって今ならきっとまだ間に合う。今、そこですれ違った人たちと、二度と会わないかもしれない人たちと、意味のある絆で結ばれてほしい。人間の能力をもってすれば、すぐにでも環境は良くなるのに。それに気づいてほしい、と強く祈った。


 雨はやむ気配もなく、しとしとと天から落ちていた。あかりの姿は目には映るが、人間には全く存在価値がないように、何千人もが素通りした。雨は時折吹く風にカーテンのように揺れ、あかりの体をぬらした。何人かが珍しいものを見る目であかりを見たようだがが、すぐに目をそらした。目に見たもの以上の何かを得ることは決してない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ