3話 朝のぬくもり
かの基督教においては、朝は神との交感において、最も適した時間とされているらしい。一日の些事に心を汚されておらず、心身が鋭敏だからだそうだ。
その鋭敏な感覚で以て。
僕は今、柔肌の温もりを感じていた。
「え、えっと、エルヴァ? 起きてくれないかな?」
晴れて我が同居人となったエルヴァは、僕を抱き枕か何かだと思っているのか、がっちりホールドして離してくれない。力は決して強くないが、振りほどくのも女の子に乱暴するようで憚られた。
僕の体温で彼女の繊細な肌が溶けてしまわないかと、少々不安に感じてしまう。
「むにゅ……もう食べられませんよぅ」
「……ベタな寝言だなぁ」
可愛いな、こいつ。
僕の胸元に寄せられた小さな頭。感覚だけだと、僕の握りこぶし程しかないのではないかと思ってしまうくらいに小顔だ。その流麗な髪を撫でようとしたけれど、面映ゆくなってやめた。
据え膳食わぬは男の恥と言うが、据えられてもいないものをつまみ食いするのは、もっと恥ずべきことである。飯には食い時というものがあり、それを弁えねば如何なる食材も味気を失い、ただ己を肥え太らすのみなのだ。
端的に言えば、僕は性欲に抗って己を律した。
「うにゅぅ」
わけのわからぬ声を漏らした後に、エルヴァはふと言った。
「お父様……」
冷や水を浴びせられたような感覚があった。
たった一秒にも満たぬ短い言葉の中に、どれだけのものが詰まっていただろうと考えると、不意に切なさが襲ってきた。
ジル婆様の言ったことの意味。彼女の側にいることの意義。否応なしに感じてしまう。
……ずるいなぁ、あの婆さん。同情しろと脅迫されているようなものじゃないか。
僕は、ため息をついた。
そして、今度は一切の情欲を抜きにして、そっと頭を撫でてやる。
「な」
その瞬間を狙い澄ましたかのように、幕家の入り口が開いた。
朝の光が元気よく飛び込んでくる――しかし、小さな人影がその突入を遮っていた。
な? とそちらを見て、そこにいた少女の表情にぎょっとする。
「な、な、何してるんですかっ! そこのあなたっ!」
「え、いや……」
「ふぇ?」
少女の怒声に僕は狼狽し、エルヴァは目を覚ます。
いきなり入ってきた少女は、頭に乗せていた大きな皿を手近な絨毯の上に置くと、ずかずかとこちらにやってくる。
「エルヴァ! 大丈夫?」
「え? え? な、なにっ?」
「そこの男、離れなさい!」
「そんなこと言われても、足を怪我していて……いでででっ!」
少女に無理やり押しのけられ、寝台から転がり落ちる。絨毯があるとはいえ、痛い。
困惑しきりなエルヴァを守るように、少女は立ちはだかった。
「え、エルヴァに狼藉をはたらいて! い、いい、いったい何者っ!」
「ちょ、ちょっと落ち着いてください、サマラさん!」
サマラという名らしき少女の脳天に、ぽふっと枕が振り下ろされる。
顔を真っ赤にして今にも爆発せんとしていた彼女の導火線。エルヴァが消化を試みたのだ。
「マサトさんは怪しい方ではありません。私たちの新しい家族です」
「え……?」
毒気を抜かれたように、これまでサッカーのゴールキーパー状態であった両腕を下ろすサマラさん。
そして――とてもとても小柄で、不器用なくせに料理と歌だけは得意な彼女は、困ったように僕を見下ろした。
◆
「ご、ごめんなさい」
赤と黒を基調とした衣装を纏ったサマラ・ドナは、顔も同じく赤に染めて、俯き気味に僕から視線を反らしていた。
彼女は、とても美しい声をしている。深みがあるのに澄み切っていて、飾り気のない声質がヴィオラの音色を思わせた。彼女のダウナー系な性格もあってか、やや低い声ではあるが、練乳のように甘い響きを孕んでいる。
「あ、あはは……まぁ、友達の隣に男が寝てたら、そりゃあびっくりするよね」
「……怒らないんだ」
「うん」
教会のシスターさんは、修道服の一部として、ウィンプルという頭巾をかぶっている。頭をすっぽりと覆ってしまうあれである。それによく似た、背中まで垂れる頭巾を彼女はかぶっていた。
修道服では髪の毛をすべてウィンプルの内部に収めるものだが、この頭巾はそういうルールがないただの民俗衣装らしく、栗色のふんわりした毛が、むすっとした表情の両側に垂れ下がっていた。
目つきが悪いというよりは、眼瞼下垂のような、どこか眠たげな感じ。ただ、ぷっくりとした頬が、いかつい印象を消し去っており、反抗期の子供みたいなあどけなさを振りまいていた。
「ところで、さ。これ、サマラが焼いたんだよね?」
僕の目の前のテーブルには、いくつものパンが並んでいる。彼女は、これを届けるためにやってきたのだ。エルヴァと共に朝食をとるために。
「そうだけど。何、口に合わない?」
彼女自身も、己の力作を頬張りながら、僕をねめつける。
そんなにつっかかるような言い方をする必要もないと思うのだが。
「ううん。すっごく美味しい」
「……ほんと?」
「嘘なら四個も食べてない」
僕が言うと、サマラはぱぁっと表情を輝かせかけて、それを恥ずかしいと感じたのか、すぐに仏頂面に戻った。あ、さてはこの子、けっこう可愛らしい性格してやがるな。
「サマラは、私の知る中では、ジル婆様の次にお料理が得意なんです」
僕が内心でニヤついていると、火を焚いてスープを温め直していたエルヴァが戻ってきた。
彼女は、三人分のスープを机に並べると、椅子を引き寄せて腰かける。
日本の常識と違って、この世界では全員が揃うのを待ってから食べ始めるという無言の圧力は存在しないのだった。それで、腹ペコの僕とサマラがお先にいただいていたわけである。
「そういや、あなた、今日は部族の皆に挨拶して回るの?」
「うん。サマラも来る?」
「行かない。どうせエルヴァがついて行くんでしょ」
「はい」
「だったら、あたしはエルヴァの分の仕事をやっとく」
淡々とそう言って、サマラはスープを口に運ぶ。
注意を喚起しようと僕が口を開いた時には、手遅れだった。
「あつぅぅぅぅううううっ!?」