2話 異界初夜
「異世界、ですか」
「そう。エルヴァの世界……つまりこの世界は、僕の世界とは別物だとしか考えられないんだ」
エルヴァ・ケル・ジアンと名乗った彼女は、不思議そうに首を傾げた。
エルヴァが名で、残りが家名らしい。
パチパチと火がはぜる。どうやら外は夜で、気温は冷え込んでいるらしい。柱の下の炉には、火がくべられていた。
「しかし、エウラ大陸がないとはおっしゃいますが、呼び方が違うという可能性はないのでしょうか」
「んっとね……さっき、地図を見せてもらったけどさ。あれ、僕の世界のどんな大陸とも違ってたんだ」
「ううーん。異世界というのも、奇妙すぎていまいち実感が湧きませんね」
僕だって、納得はできない。
異世界だなんて、ほとんど冗談みたいな単語だ。飛行機の墜落事故という状況がなければ、なんとか同一世界として説明をつけようと試みたことだろう。
だが、少ない事実がそうではないことを明白に告げている。数は少ないが、ひとつひとつのもつ質量は決して看過できるものではなかった。
「それにしても、どうして僕は異世界に来ることになったんだろう」
「きっと、風に誘われたのですよ」
随分と詩的な言い回しであったが、気取ったような色はなかった。ここらへんは、文化の違いなのかもしれない。
文化の差異といえば、言語が通じるのは奇妙なものだが。
そういえば、僕の服装は、現代日本のものではない。すでに鬼籍に入られているのだというエルヴァのお父様が、生前着用なさっていた服なのだそうだ。どうやら、僕の服はボロボロだったらしく、今は洗って乾かしている最中らしい。
なんだか、東南アジアに旅行し、現地の民俗衣装を着せてもらえる観光施設にでも来た気分だ。
和服と同じように、左右から重ねるように襟を合わせ、それを帯で締めるタイプの衣装である。そのためか、妙に心地が良かった。和服は七五三でしか着ていないが、日本人の魂に根付いているものなのかもしれない。
「ところで、マサトさん」
ふと、何かを思いだしたような表情になるエルヴァ。
マサトというのは僕のことだ。フルネームを、本条聖人という。
「何かな」
「もし、お体の具合さえ大丈夫でしたら、これからいっしょに来ていただけませんか? 部族長のところに」
「偉い人には、ちゃんと挨拶しておいた方がいいってことかな」
「有り体に言えば。まぁ、怖い方でもないので、楽にしてくださっていいですよ」
「そっか……いてて」
「ああ、もう。だから足はお怪我なさってるんですってば。もうちょっと慎重にお立ちくださいな」
とてて、と駆けてきたエルヴァが、立ち上がるのを手伝ってくれる。
彼女の肩を借りるかたちで、僕はなんとか立ち上がった。エルヴァの肩は僕よりやや低い位置にあり、腕をまわしやすい。彼女の背が低いというよりは、僕の背が高いのだが。
彼女の行動は、善意ではなく、ごく当然のものとして為されているように感じた。清純な心の持ち主なのだろう、と根拠もなく確信する。
「歩けますか?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
「それじゃ、行きましょうか」
右足には添え木と包帯が装備されており、痛みよりはむしろ左右の重量バランスに悩まされる。
エルヴァの暖かな体温と、春風のような香りが、僕を刺激してやまなかった。情欲に飲み込まれなかったのは、ひとえに足の怪我のおかげである。
僕らは、幕家の外に出た。
肌寒い夜風に、身を震わせる。
「寒いね」
「上着を持ってきましょうか?」
「や、これくらいなら大丈夫」
足元は背の低い草ばかり。周囲にはたくさんの幕家が立ち並んでいるが、住人達は皆その中に引きこもっているようだった。夜ということしかわからないが、もう遅い時間なのかもしれない。
エルヴァに案内されるままに、僕は歩いた。
木の柵の向かいには、家畜らしき動物たちがいたり。各々の幕家の入り口に提げられたランタンも、独特な風情を醸し出している。和風でも洋風でもない、アジアの空気感だ。
空を見上げると、プラネタリウムでしか見たことのない星空が広がっていた。僕が今まで街中で見ていたものが、偽物だとしか思えない。抜けるような快晴という表現があるが、この夜空もまた、抜けるようであった。手をのばしてそっと触れてみれば、星屑がぽろぽろと零れ落ちてきそうだ。
月を彩るかのような小さな光。自己主張の激しい一等星の光。ドップラー効果により赤方偏移した光。その輝きを見るだけで、心の底に沈殿していたどろどろした感覚が、あっという間に霧散していった。
部族長の幕家というのは、見てすぐにそれとわかった。
理由は単純で、他のものより大きいのだ。
「ジル婆様。エルヴァです」
ジルというのが、部族長の名前らしい。婆様というからには女性なのだろう。
エルヴァが呼びかけると、ほどなく幕家の中から返答があった。
「……あの男の子を連れてきたのかい?」
「ええ」
「入りなさい」
厳格な声音ではあったが、不思議と緊張はしなかった。
いや、厳格という表現は少し違うのかもしれない。威厳がある、とでも言えばいいのだろうか。とにかく、声質の割には優しげな響きなのだ。
招かれるままに幕家に入った。
構造はエルヴァのものと似ている。中心の炉では火が焚かれており、ほのかに全身が温められた。
「よく目覚められた。大した歓迎もできぬが、こちらに来なされ」
「は、はい。はじめまして、僕、本条聖人っていいます」
その老人は、僕がこれまでに見たどんな老人よりも年配であった。背を丸め、よぼよぼと歩く姿は、一陣の風にも消し飛ばされそうである。
皮膚は皺だらけで、古木の幹のようだ。木の杖をついているが、その材質にそっくりである。
帽子のようなものを目深にかぶっており、その視線はわからない。服も、ミノムシのようで、なんだか全身を隠しているようにも思えた。
今にも太古の恐ろしい伝承を語り出しそうな老婆である。
「儂はジルと言う。具合はいかがかな」
「おかげさまで、助かりました。彼女が美味しいスープをくれたので、ずいぶん楽になりました」
「ふむ……そこの阿呆が、迷惑をかけてなければよいのじゃが」
「迷惑だなんて、そんな。むしろ、迷惑をかけているのは僕の方です」
僕らは、小さなテーブルを取り囲むように座った。
エルヴァは阿呆などと呼ばれて、不満げにぷくっと頬を膨らませている。僕にしてみれば、これ以上ないくらいに気立てのよい女の子で、非常に好感度が高いのだが。まぁ、よく親が娘を卑下するのに似た感覚なのだろう。
「えっと、ジル婆様。実はですね、マサトさんがあそこで倒れていた理由をお伺いしたところ、少し事情が込み入っているようでして。挨拶だけでなく、そちらの件もお伝えしたいのです……マサトさん、話してもいいですよね?」
「うん。僕のことだから、僕から話すよ」
ジル婆様は、目が隠れているというのにやたら表情豊かな人だった。ブルドッグのように垂れた頬と、柿の種のような唇がその感情を教えてくれる。
いったい如何なる事情か、と推し量っているようであった。
「少し、説明するのが難しいんですけど……」
僕は、異世界から来たことを話した。
もとの世界で死んだのに合わせて、こちらの世界に来てしまったのは、ほぼ間違いない。ただ、その死の過程を話すと、飛行機のような高度な科学技術にも触れる必要があり、僕の説明スキルでは、うまくまとめることは至難の技であった。
そこを、エルヴァがうまくフォローしてくれた。
異世界というのは、パラダイムシフトに足る概念であったに違いない。
しかし、すべてを聴き終ったジル婆様は、何度か頷いた後、こう言った。
「お前さんは、風に導かれたのじゃろうな」
「……エルヴァにも似たようなことを言われました。面白い表現だなぁと思ったんですけど、この部族では何か意味のある表現なんですか?」
「うむ。と言うよりは、我らそのものを示す考え方じゃからな」
ジル婆様は、よっこらせと立ち上がった。
老いてなお壮健といった調子で、滑るように歩くジル婆様は、何やら豪奢な宝箱の側に歩み寄る。
「この大草原には、大小合わせて数十もの部族がある。その多くは、家族も同然の絆で結ばれており、外部の人間に入り込む余地はない」
パチン、と音がした。宝箱の蓋が外されたのだ。
「しかし、我ら『風の部族』だけは、他と大きく違う。我が部族は、様々な人間を取り込むことで成長してきた」
エルヴァに視線を向けると、彼女はうんうんと頷いていた。
どうやら、それが彼女たちの誇りであるらしい。
「故郷を追われた者。記憶をなくした者。居場所を求める者たちは、風の神に導かれて、我らのもとへやってくる。我らはそれを拒まぬ。生まれや育ちに関係なく、ここに身を置く者は皆我が部族の一員なのじゃ。風の往くまま、――ここへ居座るもよし、離れるもよしと言ったところかのぅ」
ジル婆様は、手に何かを握って、こちらへ戻ってくる。毛糸の織物であるように見えた。
彼女がそれを机に広げると、全容が露わになる。
この織物は、絵巻物のように、何らかの光景が描かれているのだ。
大きな女性のような存在が、口から風を吹いている。風は道のようになり、その上をたくさんの人が歩いている――そんな図案であった。
「きっと、マサトさんは、ここにいるべき人なんですよ。だからこそ、風の神がここへ運んでくださったんです」
「……そう、なのかな。まぁ、死神よりは、風の神とやらの方がいいのかもね」
畢竟するに。
貰い受けた命であるということなのだろう。
本当ならば終わっていた人生だ。風の神だか何だかしらないが、くれたものは有難くもらっておくべきなのかもしれない。
「と、とにかく。怪我が治ってからどう振る舞うにせよ、ここに居る間は、私たちを家族と思ってください……ってことですよね、ジル婆様?」
「うむ。もとの世界に帰る道を探したいというなら、それもまた良いのかもしれぬがな」
部族の宝物なのだろうか、ジル婆様は織物をくるくると纏め、再び宝箱に入れた。
拒絶されていないんだ、と。そう思うだけで、全身の力が抜けた。
少し話を聞いた程度では、まだまだわけのわからない部分の方が多い。二人は「風の神に導かれた」で納得しているようだが、科学文明を中軸とする社会から来た僕にとっては、満足な説明とは到底言えないしね。
けど、そういう些事は、とりあえず考えないことにしよう。
「ありがとうございます。ここに居てもいいと言ってもらえるだけで、すごく有難いです。えっと……それじゃあ、僕はどこで寝泊まりすればいいですか。エルヴァのところは、寝台がひとつしかないようでしたし」
「どこで、って……私の寝台なら、二人くらいは同時に寝られますよ?」
「うぇぇえっ!? で、でも、僕は男だよ?」
「それが何かまずいんですか? いっしょに寝ましょうよ」
きょとんと首を傾げるエルヴァ。
抵抗がないのか……?
これは文化の差異で片づけられない気もするが。
「すまんのぅ、マサト殿。節操のない阿呆で」
「??」
「年頃の男女が一つどころで寝るというのは、大変なものなのじゃよ」
「?????」
エルヴァは、不思議そうに僕とジル婆様を見るばかりであった。
「う、うーん。ど、どうしましょう」
僕に決定権があるとは思えない。
狼狽の極みである。
エルヴァよりは、ジル婆様の方が頼れる気がするが――と考えたところで、そのジル婆様が僕に小声で耳打ちした。
「マサト殿。寝床は探せばいくらでもあるんじゃが……ここはあの子といっしょに寝泊まりしてやってくれんかのう」
「え?」
「もう聞いておるかもしれんが、エルヴァは父と母を失っておる。もう長い間ひとりきりでな。気丈な子じゃが、やはり寂しいのじゃろう」
「……えっと。わ、わかりました」
「悪いのう、同情を誘うような言い方をして」
「い、いえ」
寂しい、か。
そういう風には見えないが、そうなのだろうか。エルヴァのあどけない表情からは、わからなかった。
しかし。ものは考えようである。同情云々というよりは、もっと男性的な理由で、僕は首肯したのだ。
出会いというのはいつだって当然で偶然だ。
日本人でないという点に困惑は残るが、超美少女といっしょに寝られるのだ。これで喜ばない男はどうかしている。
そう、彼女の方から希望しているのだから、僕は彼女との同衾に遠慮する必要はないのだ。
「というわけじゃ。エルヴァよ、マサトどのはお主といっしょに寝てくれるらしい」
「ほんとですかっ。嬉しいです」
「あ、あはは……」
なんだか、僕、流されるままだなぁ。
流れに逆らう必要性も見つからないんだけどさ。
そういうわけで、僕はエルヴァの幕家でお世話になることにした。
明日は『風の部族』の人々に挨拶をして回ろう、と計画を立て、僕らはエルヴァの幕家へと戻っていったのだった。