1話 遊牧民の少女
夢を見ていた気がした。
その世界で、僕は花弁だった。
微風に巻き上げられて空を舞う。だだっ広い草原を横切って、湖を掠めてもう一度舞い上がり。
そこで、包み込むような香りが、僕を眠りから掬い上げた。
「う……ん?」
瞼が開く。
それから、確かめるように瞬きを繰り返した。
僕の知らない天井。いや、違う。天井というよりは、テントのような布地だ。放射状に渡された梁と、その上にかぶせられたやわらかな布は、ともに赤い。社会科の授業で習った、ゲルという遊牧民の移動式住居をふと思い出した。
それから、記憶が雪崩のように押し寄せた。
精神がそれに押しつぶされそうになり、全身が微睡から引きはがされる。僕は狼狽しながら起き上がろうとした。しかし、それを制止する声がひとつ。
「まだ起き上がっちゃだめですよ」
風鈴のような可愛らしい声だった。
視界がぐらぐらと歪む。続いて、右足を猛烈な痛みが襲った。
「っ!」
「ほら、足を怪我してらっしゃるんですから。じっとしていてくださいな」
PCを再起動するように、理性が湧き上がってくる。
荒い呼吸の中、周囲を見渡した。先ほど移動式住居を想像したのはそう間違っていないようで、どことなくオリエンタル、あるいはエスニックな光景が広がっている。この空間の中心には二本の柱。外周の骨格は木組みになっている。直系六メートルほどの円形の空間であり、やはり想起されるのはテントという言葉であった。あるいは、幕家という表現が適切なのかもしれない。
室内――室という表現が適切なのかは不明だが、便宜的にこれを生活空間と扱うことにする――には、雑多な品が置かれていた。工芸品のようなものから、ハープのような楽器まで。ただ、ほとんどの品は宝箱らしきものに収められている。
中央には炉があるが、パチパチと火の暴れる音は、そこからではなかった。樽のような大鍋があり、何かを煮ているらしいのだ。
そして……一人の少女が、大鍋をかき混ぜていた木の棒を手放し、こちらに駆けてくるところであった。
「ここは……いったい」
僕がいるのは、薄い寝台の上。
四人くらいは並んで寝られそうな大きさだ。
「エウラ大陸東の大草原……と言って、伝われば良いのですが。私たちはそこを旅する遊牧民です。貴方が倒れているのを見つけ、こうして介抱しておりました」
「エウラ……? と、とにかく、助けていただけたことは感謝します。ありがとうございました」
完全に意味不明もいいところだが、ひとつだけ理解可能なのは、彼女に礼を言うべきということであった。
しかし、エウラ大陸などというものは聞いたこともない。
ろくに少女に意識を向ける余裕もなく、僕は俯いてしまった。
「足の怪我は、それほど重いものではありません。先ほどのように急な動きをされなければ、歩くこともできるでしょう」
「そう、ですか」
「まるで、木の上から落ちたような倒れ方でしたよ。草原のど真ん中でしたのに。いったい、何があったのでしょう」
「それは……うっ」
思いだそうとした瞬間、頭が痛んだ。ぐわんぐわんと、その痛みが反響する。
――そうだ。
俺は、あの飛行機の墜落事故で、太平洋に落ちたはずなのだ。草原のど真ん中に落ちるはずがない。万が一そんな場所に落下したとして、足を怪我する程度で済むとは思えないし、僕だけがそうであったというのも不自然だ。
「あ、すみません。いきなりお尋ねするのも失礼でしたね。そうです、そういえば、スープが良い具合に出来上がったのです。よろしければ、お飲みになってください。それから、落ち着いてお話いたしましょう」
「スープ……?」
「今、お持ちいたしますね」
彼女は、大鍋のところにとてとてと駆けていった。僕を眠りから引き起こしたのは、あの大鍋の中から漂う匂いらしい。
と――何気なく、皿を取り出す彼女を眺めて。
思わず僕は、呼吸を忘れてしまった。
「よい、しょ……」
とんでもない美人だった。
東南アジア系の顔立ちで、オリエンタルな衣装を身に纏っているのだが、それがまた良く似合う。きりりとした眉とぱっちりした瞳が意思の強さを物語るが、そこに威圧的な色はない。また、芸術品のような美貌でありながら、幻想的な超然とした印象とは無縁で、むしろ人懐っこい柔和な表情の持ち主だ。
艶やかな黒髪は腰に届くほどに長く、毛先が空気に消え入りそうなほど繊細。裾の長いワンピースのような衣装であるが、それが程よくふくよかな肢体を浮き彫りにし、瑞々しくも色っぽい。
桜花を丸めたかのような唇には、優しげな慈愛が浮かんでいた。
年の頃は、僕と同程度か少し上くらいだろうか。人の心を解きほぐす、不思議な親しみを振りまく少女だ。
「あつつ」
火にくべているものをそのまま掬ったのだから、熱いのは当然である。可愛らしく眉をひそめながら、彼女はスープの入った皿をこちらに運んできた。
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ。あまり上等な品でもありません。お気になさらず」
「いい香りですね」
社交辞令ではなく、自然と口から出た言葉だった。意識とは無関係に。
僕の寝ていた寝台の側には、小さなテーブルがあった。そこに皿を乗せると、手近な椅子を引き寄せて、彼女もそこに座る。スープは、なんだかクリーミーな色合いだった。美味しそうだ、と思った瞬間、空腹が鎌首をもたげる。
「ふふ。お口にも合えば良いのですが……っとと、やっぱり熱いですね」
僕は自分でそれを口に運ぶつもりであったのだが、彼女はひょいと匙を手に取ると、スープを掬ってしまう。さらには、小さな口からふぅふぅと息を吹きかけた。
「はい。どうぞ」
満面の笑みで、少女はそれを差し出してきた。
俗に言う、「あーん」という奴である。こんな恥ずかしいことをしてたまるか、という気持ちはあったのだが、太陽のような笑顔に一瞬で負けてしまった。なんと脆い砦か。しかし、あまりにも敵が強大であったのだから、攻め落とされるのも仕方がない。
唯々諾々と口を開け、スープをいただいた。
熱い。けれど、耐えられないほどではない。
正体不明の具を咀嚼するうちに、全身に温もりが広がっていった。
「美味しい」
ぽつり、と声が漏れる。
「これ、すごく美味しいです」
僕が言うと、彼女は目をぱちくりさせた後、とろけるように微笑んだ。
「ありがとうございます。ぜひ、残さずお食べくださいな」
それから、僕はこの状況もすっかり忘れて、星空でも煮込んだかのような素晴らしいスープを、胃に流し込み続けたのであった。