美しすぎるほど綺麗に咲いている桜。
私達は、桜が道端に綺麗に並んでいるのを見て「素晴らしい」という。
しかし、どうだろうか? ただ、彼ら・彼女らは精一杯生きているだけ。
小さな公園に生えている一本の桜だって、私は十分美しいと思うのだ。
それに比べ、私達人間はどうだろうか? 一生懸命生きているだろうか?
この世に誕生してから死す、、、
その間ずっと、ずっと、 死ぬまで一生葉桜で終わっていないだろうか?
私には、人間が懸命に生きているとなんて、到底思えないのだけれど。
苦しい? 辛い? 舐めるのも大概にしといた方がいいんじゃないかな?
もっと過酷な環境で生きている人間だって、 いや、生き物だっているんだ。
楽しい? 嬉しい? それは、一人で得たモノじゃないんだよ。
小さな命を踏みにじり、さも自分だけの努力で、得たモノだと勘違いをする。
いつまで、そうやって愚かな部分を人は見せ続ければ良いのだろうか?
少しは考えてみて欲しい。
いつも歩いているアスファルトだって、
植物の生きていける場所を無にして、作られているのだと。
それなのに、アスファルトを割って新たな命が空を見上げれば、
「この雑草が!」と言って、すぐさま人間様のエゴで引っこ抜く。
少しは考えてみて欲しい。
人間が、雑草を引っこ抜いて、ゴミ箱に入れて、燃やしてしまうのは、
当たり前のことなのだろうか? 果たして、それで良いのだろうか??
私には、皆目わからない。
だからと言って、 私は別に、「雑草を引っこ抜くな」と言いたいわけじゃない。
人間が生きていくうえで、しなければならないことならば仕方のないことだと思う。
それに、実際、私だって今までそうしてきたわけだし・・・。
雑草を引っこ抜いて、植物を薙ぎ払い、小さな虫を殺し、、、
私だって、誰だって、そうやって生きてきたと思うし、生きていくと思う。
けれど、今一度考え直して欲しい。 それで良いのか?と。
私は一つの結論を出した。
「日々に感謝し、他の生き物に感謝し、 生きるべきなのだ」と。
でも、今までの生活を極端に変えるつもりはない。
ただ、踏まなくてもいい草は、アリは、避けて歩けばいい。
潰さなくてもいい虫は、潰さずに逃がしてあげればいい。
ただ、今までの生活に、少し思いやりの気持ちを加えればいいだけだと思う。
それは、人間にも言えることで、やってもらえて当たり前じゃないと自覚すべきだろう。
日々の生活の中で、何かしてもらえれば「ありがとう」を。
日々の生活の中で、何か過ちを犯したのならば「ごめんなさい」を。
ただ、そうやって、思いやりの気持ちを持って生きて行けばいいと思う。
だから、私は近くの公園に咲く一本桜に言うんだ。
「今年も綺麗に咲いてくれてありがとう」「また来年ね!」と。