脱兎
辺りはすっかり暗くなっており、丘から見える景色も、日の光も闇によってすっかりと覆われてしまった。ほんの数分前に目を覚ましたマックスは、体育座りになって見えもしない闇の彼方を見つめながら、ぽりぽりと瘡蓋が出来始めている部位を掻いていた。起きたばかりなのかぼーっとした顔で一点ばかりを見つめている。
何か見るために見つめているわけではなく、何かが聞こえたからでもなく、ただなんとなしに第六感のようなものが、ざわざわとした殺気を含んだ空気を感じ取れたのだ。
「あの方角から…何か来ているのか?」
と言葉を発したときに一陣の冷たい風が吹く。マックスはぶるっと体を震わせる。遠くに集中させていた意識が、寒さのために体に戻る。
「…もうすっかり遅くなっちまった。さすがにここでサボり続けるのはだめだよな」
そろそろ陣営に戻らなければまずいと思ったらしく、マックスはゆっくりと立ち上がり、そして欠伸なのか大きく伸びをし、まだ眠気が残っているのか目を覚ますために屈伸運動をはじめた。
「いーっちに…さんし…ごーろく…しちはち、にーに…さんし…」
――――
寝床にしてた草を軽く踏みつけ世話になったと一言告げてやる。
「すっきり…。やっぱりここで寝るのは気持ちいいものだな」
就寝前にはまだ残っていた痛みはさっぱり消え失せたらしく、白衣の名も知らぬ医者に感心とちょっぴりの感謝をしながら、俺は陣営のある方角を見る。
何やら慌ただしい雰囲気が漂っており、来る人いく人が忙しそうにばたばたと準備を始めている。
「騒々しい雰囲気を漂わせているな。まるでこれからくる嵐に備えるような…」
……まあ、深く考えても意味がない。詳しくは陣営に帰ってみればわかることだ。
俺が所属する第7大隊軽装槍兵部隊の23輸送班の連中も忙しく仕事をしているのだろうか。あの陣営の雰囲気からしてそうだろうな。
ここでのんびり昼寝をしていた事についてほんのちょっぴりだが申し訳ない気がしないでもない。
医療室から直接、班の就寝所に行けばよかったのだろうか。
23輸送班の班長であるビースト軍曹は今頃、俺がサボっているとでも思っているかもしれない。
鬼もとい軍の剣術指南臨時教官、戦術特別顧問、前線のカウンセラーといった様々な肩書を持ち、さらにはあの人間離れした美貌というオプションがついた女が剣術指導という名義の虐げをあれだけ派手に見世物のようにしたんだ。
きっと陣営中で情報は広まり、軍曹にも伝わったのだと思う。
「まぁ…あんだけ派手にお姫さんにやられたんだ…俺に労りの言葉の一つや二つ……ふっ…ないか」
苦笑を交えながら否定する。
下っ端中の下っ端の二等兵である俺の上官、そして俺が所属する23輸送班の班長という組織的な上司である…とはいっても、入隊まもない俺とはまだ半月ほどの交流しかなく、実はというと他の人間よりは親密であるという程度で、それほど親しくなっていない。もちろんこれから親しくしていく予定ではあるが…。
それでも俺なりの軍曹の紹介も兼ねて、彼に対しての簡単な感想を述べようと思う。
階級は軍曹、ボサボサとした赤い髪が特徴のごつごつとした男。
軍曹は大雑把で優しく、気前のいいまさに剛毅が似合う男だということ。
怒ると名前の通り野獣のように怖い男だということ。
男と三回も強調したのは、軍曹という人間を形容するのにぴったりな言葉が正に男なのである。
「そして…」
ビースト軍曹の機嫌を損なうとそれはそれは怖い思いをすること。
それだけは分かった、分らされた。
今は省略するが、とにかく23輸送班に配属されたばかりの時に恐ろしい目にあった。
新兵ほやほやで、軍の上下関係を正しく理解してなかった、理解しようともしなかった俺の根性を叩き直すべく、手段を問わない様々のことを…あーんなことや、こーんなことを…とにかく恐ろしい目にあった。
恐ろしい目にあったのだ!
しつこい?
強調しすぎだと?
「馬鹿いっちゃいけねぇ…むしろ足りないくらいだ。俺の名誉のためにも何があったかは伏せておくがな!」
というわけだ。何がというわけだ? と突っ込みを入れないで欲しい。話を進めるためにもここはスムーズにいこうではないか。
体の痛みはすっかりなくなったことだし、駆け足で23班のやつらがいるテントに向かうとしよう。
「よっ! ほっ! そっ! よし、走っても大丈夫みたいだ!」
一歩、二歩、三歩、四歩と徐々に加速していく。
力強く地面を蹴っているため、俺に踏まれたところにある草は、潰されていく。
「草は踏まれれば踏まれるほど強く成長するのさ。それっ! 進めっ!」
と走りながら訳の分からないことを言ってみたりする。
とにかく今のを決め台詞にそろそろ俺の物語の開幕をしようではないか。
これで、プロローグからエピソード1へと移行するのさ。
「ここから俺の物語が始まる」
「待て」
「ぬおっ!?」
肩を掴まれた。正確には強く叩かれたように掴まれた。
それで不思議なことに力が下に行くのではなく、なぜか右に行く。
「うおっ!」
ベクトルを無理やり捻じ曲げられ、ぐるっと走っていた方向とは逆方向に右半回転する。
あまりに唐突であったため、俺は反応することもできずに、手の裏とお尻が地面に着く、ようするに尻餅を着く。
格好いい出だしでいこうと思ったのに、出鼻から挫かれた。
「えっ…」
反応することもできず、俺は第三者からみたらそれはそれは情けない姿を晒しながら、茫然とすることしかできなかった。
目の前には誰もいない…けど、誰もいない訳がない。
待てという女性らしき声が聞こえたような気がするんだが…人里外れたもとい陣営から少し外れたここは、国境という辺鄙なこともあってか、滅多に人なんて見られないはずなんだが…ましてや夜であるこんな時にこんなところにいるはずがない。
人ではない…何か…まさか…れ、霊…
とオカルトの類のことを連想してしまい、サーと血の気の引き、ブルーになる。
こういう怖い連想をしてしまうと止まらなくなるから怖い。
「だ、誰なんだ?」
肩に手を置かれた感触を思い出す。あれは確か人の手の感触なのだが。
右、左、そして右と視線を彷徨わす、誰もいない、見えない。
「毎日、ズズ…毎…ズズ…日よくも…飽き…ズズ…ずに来ら…ズズ…れるも…ズズ…のだな、お前」
何も見えない闇からぼそぼそとした女の人の声が聞こえた。
その声は壊れかけのラジオのように、ノイズが入ったか細い声だ。
このか細い声が、俺のブルーな気持ちにさらに絵具で黒を足したような気持ちにさせていく。
これは連想から生み出された想像である。
と自分に勘違いしていると言い聞かせていて、なんとか平静をたもっていられたが、今はそれすらできない程怖くなっていた。
「な、な、な、な、何モノォ…だぁ…」
「何…あんた、気導が使えないの? 兵士なんだからそれぐらい使えるようになってよ。それにおしっこをもらしそうな顔をしないでよ」
今度ははっきりとした声が聞こえた。
何の前触れもなく透明の空間だった場所から人間が現れた。現れたように見えた。
「…………」
幸薄そうな唇、どんよりと濁った眼、色白い肌をした髪の長い、目鼻立ちが整った美女…暗いからなのかその色白さが不気味に存在感を放っている。これって…入隊記念とかいってビースト軍曹が貸してくれたホラー小説の…あの。
「話は突然だけど、捕まえていい?」
「へ? ……うむ、そうか、そういうことか」
俺の視神経からもたらされた情報と海馬に眠っていた記憶と知識が結合し、すぐさまに脳に危機信号を伝えてくる。
少年よ、逃げろ、何があっても逃げるのだ…と。
俺は何もなかったかのようにゆっくりと立ち上がり、すぐさま明りのある陣営方向に体の向きを変える。
「で、出たぁーーー!」
脱兎のごとく逃げるとはまさにこのことである。
狩られる側の兎の気分と、いつもこういう気持ちで逃げているかなといううさぎへの同情心を胸に走る、ひたすら走る。
「あっ…ちょっと! 逃げるな!」
何秒か走った後に後ろから動揺したような慌てたような声がする。
「にぃぃげぇぇるぅぅぅなぁぁぁ!」
「うあぁぁぁぁ!」
逃げるなと言われて逃げないやつがいるのなら、様々な場所の治安の安定を守るための警察は、もう少し楽に仕事ができることであろう。
いや、むしろ警察に捕まることによって、この危機的状況の打開ができるのなら、喜んでこの身を差し出したい気分だ。
狩って食われるより、鉄格子の檻の中にいる方が数倍ましだからだ。
ササササと後ろから草を弄るような音が聞こえる。
音源はどんどんと近づいてくる。
物凄い速さだということはその音から容易に判断ができる。
「うぉぉぉ! こぇぇぇ!」
「にぃげぇぇるぅぅなぁぁ!」
お父さん、お母さん、とついでにお姉ちゃん…不肖、マックスはここで永遠のお別れを告げなければなりません。
いままで…こんな出来の悪い俺を……育ててくれてありが――
がしりっ! と肩を掴まれた。
毎度、こんな出来の悪い文章を読んでいただいて、恐縮であります。
誤字や、おかしいと思ったところがありましたら、ご指摘のほどをお願いします。