ベッカライウグイス⑱ 初詣に行きませんか
ベッカライウグイス、第一部最終回です。
なにより、この物語を見つけてくださった皆様、読んでくださった皆様
本当にありがとうございました!
次回は、初詣の様子から……再開の予定です。
シューさんが帰国し、ベッカライウグイスはクリスマスを迎える準備に入った。
午後5時、お店を閉店して出た外は、夜のように暗い。ベッカライウグイスは、闇の只中に、シェードに透ける灯りを残し、ぽつんと取り残されたように見えた。
店舗から、工場の脇を通り、リスさんの家へ急ぐ。
とうとう、初冬の沈黙した空気は、息を凍らせる手筈を整えたようだ。
リスさんと私は、互いの白い息が辺りに広がっては消える様子に、身が縮まった。息の白さが分かるのは、暗闇が無明ではないということだ。私は、ふと立ち止まり、工場の壁に灯るポーチ灯から、夜空へ星の行方を見上げた。冷たい空は、まだらに濃紺を攪拌して、無数の星を流していた。冬の星は、玲瓏に目映い。
リスさんが家の鍵を開け、私たちは薄暗い玄関に滑り込んだ。
玄関のタイルも凍てついているようだったが、リビングからは、もう点火されたストーブの音が低く聞こえていた。
リスさんが玄関の灯りを点け、ホールに上がる。
玄関のホールは、夕べのうちに、リスさんと私によって積み重ねられた、クリスマスの飾りが詰まった箱でいっぱいだった。
「来春さん、コートを着ましょう」
リスさんが言うので、私は部屋から短い丈のコートを持ってきた。
リスさんの家と店舗兼工場は、10歩も離れていないので、朝早く家を出る私たちはコートを着ることもなかった。だが、これらの箱を運ぶために、何度か往復しなければならない。リスさんは、玄関のクローゼットに掛っていたコートを既に着込み、私にも今後このクローゼットを利用して欲しいと言った。
それから、リスさんと私は、ガスストーブを運んだときと同じように、協力してリスさんの家からお店まで、飾りやツリーを運び込んだ。
ツリーの箱は大きく、私たちはそれを無理矢理小脇に抱えて移動した。暗がりの中、二人がかりで一心に運んでいる、そんな自分たちの姿を思うとおかしくて、笑いを堪えられず、お店に入るなり爆笑してしまった。明るく温かいお店の中に、私たちの笑い声は響き渡った。
私たちは、次々と箱を開け、クリスマスを迎える準備を進めていった。
ワイヤーの入ったクリスマス模様のリボンを形作り、稗田さんから戴いたポインセチアの鉢に差す。他にある鉢にも同じようにリボンを飾る。
入り口入って左側にある、いつも焼き菓子が置かれてるテーブルは、載せていたものをすべてを撤去し、濃い赤やグリーンのクロスを掛けた。その上に、スノードームを一つ一つ飾っていく。大きなものから小さなものまで並べてみると、コレクションは、圧巻だった。電池で雪が降り積もるものもあれば、雪ではなく、灯りが灯ってきらきらと輝く金色の粉が舞い散るものもある。閉じ込められたジオラマの世界が、幾つもの美しい物語を語り出す。
「リスさん、これ、全部で幾つあるんですか?」
「……うーん。毎年一つずつ増えていることしか分からないわね」
それは、多分リスさんのお母さんの時代から、一つずつ増えているのだろう。
「ここのところは、姉妹都市のクリスマス市があるから、そこで気に入ったのを一つだけ買うことにしてるの。今年は、来春さんも一緒に行って欲しいな」
リスさんがそう言うので、私は笑って頷いた。
「楽しみです」
テーブルは、シュトーレンが置かれると完成する。
カウンターには、小さなツリーと雪の載った家が飾られ、椅子には特別に、樫の木の葉やどんぐりの描かれたカバーが全体に掛けられた。それは素敵な趣向だった。
私たちは、最後に大物の段ボールを開けた。
ツリーは、ちょうどリスさんの身長と同じくらいの高さで、リスさんはそのてっぺんに難なく星を付けた。
カウンターに置いた古い箱からオーナメントを出して、ツリーを飾り付けていく。
とりわけ綺麗なのは、丸いガラスのオーナメントだった。手のひらに収まるくらいの大きさのガラスの球に、様々なミニチュアの世界が入れられている。雪の積もった犬小屋とその横に佇む耳の垂れた犬や、スケートをするペンギン、苔の上のシロクマに、肩を組んでいる三人のサンタクロースなどなど。スノードームよりも素朴な表情なのだが、それが郷愁を誘うのか目が離せなかった。
一つ一つに見蕩れている私に、リスさんが言った。
「本当は、2ダースあったのだけど、私が子どもの頃から合わせて3つ割ってしまったの。だから、これは究極な注意物件なのよ、私にとっては。それから、ワイヤーでしっかり付けることにしたの」
なるほど、それでこのオーナメントだけリボンではなくワイヤーが付いているわけなのだ。
「昔、函館で買ったんですって。両親が」
リスさんは、懐かしそうに微笑んだ。
私たちは、次々にオーナメントを吊り下げると、店内を暗くしてツリーに灯りを灯してみた。ガラスの中の世界は、星を持っているように輝き、思い出を閉じ込めていた。
カランコロン
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
すっかり模様替えされたベッカライウグイスに、みっちゃんがやってきた。ぐるりと店内を見渡す。
「クリスマスだね」
リスさんと私が手を止めて微笑むと、みっちゃんはぼそっと呟いた。
「シューさんは、マーケットに行けたかな……」
入り口近くにある、たくさんのスノードームに足止めされ、みっちゃんは、それがお気に入りなようで、しばらくそこに立って、眺めたり、揺すって雪を降らせたりして遊んでいた。
クリスマスのベッカライウグイス名物は、サンタクロースパンとシュトーレンである。
サンタクロースパンは、こんもりと丸い髭が、メロンパンのクッキー生地で出来ている。髭の焼き色はごく浅く、ほとんど白い。帽子は、天然着色料で赤く色を付けた生地にする。さらに、リスさんがアイシングで白い眉毛や、髭の上に口髭を、帽子のポンポンも絞っていく。このアイシングの固さを、ちょうど良く調節するのがリスさんはお手のものだった。私には一生無理だと思う。が、リスさんは今回、私にそれを挑戦させようとした。
「サンタさんパンにしたいんです」
「でも、リスさん、このアイシングの微妙な加減が難しすぎます。水分一滴とお店の乾燥度の両方をちょうどに見極めるなんて、私には無理です!……飾りを載せるだけじゃだめですか?」
「うーん」
どうやら、サンタが作ったサンタさんパンにしたいリスさんであったが、なんとか飾り付け係で妥協してもらった。リスさんのお母さんの時代から変わらないという、レーズンとドレンチェリーを使って、三多がサンタさんに目鼻を付けた。
よい天気が続いていたが、気温は上がらず、木枯らしが笛のように鳴く。枯れ草は、霜にしなだれ、濡れそぼる。そうして、冬は少しずつ辺りを染めていった。
朝の掃除で外へ出ると、氷に触れられたように、額はすぐに冷たくなった。私は、手袋を嵌め、力を込めて、駐車場に吹き溜まる仕舞いの落ち葉を掃き集めた。
店内に戻ると、大きな掃き出し窓は、冷気に耐えられなくなり、四隅から凍えている。
リスさんは、いよいよガスストーブを点けた。
お客さんは、店内の重い扉をくぐると、その暖かさに吐息を漏らし、冬の到来を実感するのであった。
カランコロン
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
午前中のまだ早い時間に、古賀さんがやってきた。
古賀さんは、入り口のところで、厚いコートを脱いで片手に掛けると、ショーケースに近寄った。
「あ、やっと巡り会えた」
ショーケースに向けてそう呟くと、古賀さんは
「サンタさんのパンを、お願いします」
と注文し、カウンターへ向かった。もう、コーヒーもお願いします、と言わなくても、私たちは古賀さんの元へコーヒーを運んだ。少し、みっちゃんたちへの待遇と似てきたな、と思う。
「お店の中は、暖かいですね。パンの匂いと一緒に、ふんわり暖かいな」
リスさんが、古賀さんの元へトレーを運びながら言った。
「昨日から、ストーブを点けたんです」
古賀さんは、ストーブの炎を見つめた。
「やっぱり、炎が見えるストーブは、違いますね」
リスさんは微笑み、運ばれたコーヒーの湯気は、冷えた窓辺を曇らせた。
「あ」
古賀さんが、小さな声を上げ、リスさんはショーケースの中へ帰ろうとしたのを止めて立ち止まった。
「雪だ」
リスさんは、カウンター越しの窓辺へ近寄った。
「うわぁ、とうとう」
「来るときは、降ってなかったのに」
小雪は、みるみる密度を増していった。風が強まり、窓の近くでは降りかかる程度なのに、遠くでは渦巻くように舞って見えた。
古賀さんは、低く音を立てるストーブの近くで、ゆっくりと外を支配していく雪の行方を見ていた。
この日は仕事が入っていたのか、古賀さんはのんびりと居座ってはいなかった。
古賀さんは、サンタさんパンを食べ、コーヒーを一杯だけ飲み終えると、慌ただしく立ち上がった。
「お会計をお願いします」
「はい。ずいぶん降ってきたみたいですから、お気をつけて」
リスさんは、古賀さんにレシートを渡した。
カランコロン
「降ってきたね!」
みっちゃんが、頭や軽装の肩に、細かな白雪を載せてお店へやってきた。
「おや、古賀さん、帰るところ?」
「はい」
「外、すごいけど、傘、持ってきた?」
「いえ、近所の姉のところへ寄ってから、借りて出掛けます」
古賀さんは、この夏、急に参加できなくなったお姉さんの代わりにと、姪御さんにお願いされ、PTA主催のリスさんのパン教室に参加したのだと、この前教えてくれた。そのときの古賀さんの挙動や、姪御さんから借りた三角巾の様子や、その他諸々は、まだ笑い話にならないが、いつかそうなるのだろうか……。私は、みっちゃんのコーヒーを準備しながら思った。
「そう?じゃ、気を付けてね」
みっちゃんは、カウンターへ向かい、私は熱いコーヒーを淹れてみっちゃんの元に運んだ。
「あ、あの、リスさん」
古賀さんは、帰り際に、扉の前でリスさんを振り返った。
「はい」
リスさんは、パンの予約かな?ほどにしか思っていない表情を、ショーケースの中から覗かせている。みっちゃんと私は、カウンターからそっと二人を見守った。
ちょうどそのときだった。表の駐車場に一台の営業車が止まるのが見えた。時計を見ると、そんな時刻である。
「水琴庵」の智翠さんが、いつもの餡子を届けにきてくれたのだ。
私は、駐車場に面している窓に移動した。リスさんは、ただいまお取り込み中なのである。智翠さんは、後部座席から、立派な木製の番重を両手で抱えて出すと、体でドアを閉めた。
智翠さんは、私に気づき、「工場へ持って行きます」と口を動かしたので、私は大きく頷いてみせ、ショーケースの奥の工場へ向かった。
「あ、あの……」
「何ですか?」
リスさんは、私と入れ替わりに、レジ横のカウンターから古賀さんの近くへ移動するようだった。
「こんにちはー」
智翠さんは、工場に入ることを許されている、ただ一人の業者さんである。それは、常日頃、智翠さん自身が食品を扱う仕事をしていて、置かれている物や材料に注意深いからであった。入り口近くの水道で手を洗い、智翠さん用に用意されているスリッパに履き替えると、ずっしりと重い番重を調理台の上に置いた。
「あれ?リスは、お店にいた?」
私は、頷いた。
「……今、古賀さんが来ていて……」
あっ、これは言わない方が良かったのかなと私は気づき、最後まで言わずに口を閉じた。
「それは、見に行かないと」
智翠さんは、まるで共犯を誘うかのように私に目配せすると、あたふたと工場から出て、わざと外からお店へ回った。
カランコロン
「こんにちはー」
何食わぬ顔をして、智翠さんがお店へやってきたのを、私はショーケースの奥からややあきれ気味に迎えた。
「いらっしゃいませ」
「あ、こんにちは!」
リスさんが、古賀さんの背からひょこっと顔を出す。リスさんの一つに結ばれた尻尾のような髪も、一緒に飛び出した。
「あれ?今日は、餡子は………?」
智翠さんがベッカライウグイスを訪れるときに必ず手にしているものが見当たらず、リスさんは不思議そうな顔をした。
「もう、来春さんに渡した。工場から」
「そう」
リスさんが、ご機嫌そうに頷く。
古賀さんが、なんともいえない表情で、智翠さんを振り返っている。顔を覗かせているリスさん、それをじっと見るみっちゃんと、興味深そうな智翠さん、私はその全体を確認できる位置にいた。
古賀さんが、おもむろにリスさんへ向き直り、うわずった声で言った。
「あ、今、リスさんを初詣に誘おうとしていたんです」
それは、まるでリスさんの方を向いて、智翠さんに話しているようだった。
なんとなく、古賀さんの背中に緊迫感が漂いはじめた。
「え、そうなんですか?」
リスさんは、初めて聞く話に、古賀さんを見上げる。
「え、えっと、初詣に行きませんか?」
ここで、誘うんだ……。
「ガッツあるな~」
智翠さんの呟きが、私の耳にまで届いた。そこには、微妙な含みがあるように聞こえた。
先日、私は、演奏会のチケットを渡そうとして、リスさんに断られている古賀さんを目撃したばかりであった。その出来事を知ってから、ベッカライウグイスの面々は、古賀さんを密かに応援しはじめたといっていいだろう。結局、古賀さんは、色々な面で不器用だとしても、真面目で仕事熱心でリスさんのことが好きな好人物である。
だが、その現場に、智翠さんがいたことを忘れてはいけない。
智翠さんは、リスさんを、多分子どもの頃からずっと見守ってきた。週に一度は顔を合わせ、リスさんの様子を窺い、冗談を言い合ったりしながらリスさんとの関係を大切に保持してきた。それが、智翠さん自らが餡子を届けに来る理由でもあろう。
智翠さんが、つかつかと古賀さんを横切り、リスさんの方へ進んだ。その横顔に、決意が滲んでみえるのは、気のせいだろうか。あぁ、この場合、どちらを応援したらいい?智翠さんだって、真面目で仕事熱心で、リスさんのことが好きな好人物である。
私は肝心の当事者、リスさんを思った。古賀さんか智翠さん、あるいは第三の人物……がいるのかどうかは分からないが、我々が願っているのはリスさんの幸せなのだから、真に応援する対象を間違えてはいけない。
私は、思わずみっちゃんと目が合った。みっちゃんは、無言で私だけに分かるように頷いた。私も無言で頷き返した。
頑張れ、リスさん!
「……えっと……そうね……どうしようかな」
リスさんが、困ったように逡巡する。
古賀さんがリスさんとの距離を詰めようとした。
「あの、この前は、突然関係者席なんかにお招きして、チケットもプレゼントしようとしたから……」
だから、リスさんはお断りした。丁寧に理由を添えて。リスさんは、お客さんから特別な贈り物を戴かない主義なのだ。ちょっとしたお土産などは別として。
だが、今回は違う。何のプレゼントも絡んでいないし何の思惑も……思惑はありそうだが、それは関係者席とはまた違うことは確かである。もっと意味が軽い感じがする。
「初詣は、新年のお参りだけです!」
古賀さんが言い切った。
智翠さんは、その中に割っては入れず、ただじっとリスさんを見ていた。
「……そうね、お参りは毎年上がっているから……行ってみようかな?」
リスさんは、目に見えない誰かに尋ねるように答えた。
古賀さん!よかったね!!
みっちゃんと私の目は、沈黙の歓喜にむせぶ、古賀さんの真っ赤な顔に注がれた。
だが、そこで窮地に立たされたのは、智翠さんである。
智翠さんの握りしめた拳が、心なしか震えている。
あぁ、みっちゃん、どうしたらいいの?私は、みっちゃんに視線を送った。
みっちゃんは、ただ困った顔をしている。
ここで、智翠さんが、俄然やる気を出して、一歩前へ出た。リスさんとの距離が縮まった。
そして、突然、智翠さんはぐるん、とこちらを振り返った。
え?
智翠さんは、泣きそうに顔を歪めながら、言ったのだ。
「……来春さんっ、初詣に行きませんか……?」
えーーっ?!
みっちゃんは、心底当惑する私をじっと見ている。何か言って欲しい。
リスさんと古賀さんは……それぞれ違う表情で私を注視する。
なぜ、そうなるんですか、智翠さん!
リスさんと古賀さんがこの場にいなかったら、私はそう言って、智翠さんとリスさんのこれからについて作戦会議を開いていたかも知れない。私は、リスさんや智翠さんよりも、年上である。智翠さんを鼓舞する立場である。
作戦会議…………。
智翠さんは、顔色も悪く、ほとんど真っ青である。古賀さんとは対照的すぎた。可哀想に。
リスさんを誘いたかったのに、古賀さんに掠われた格好で憔悴しきっている智翠さんは、もはや泣き出しそうだった。私には、智翠さんが、可哀想な弟のように思えてきた。
作戦……。
智翠さんに残された作戦は、リスさんと古賀さんについて行って、一緒に初詣に上がることなのでは……。まさか、一人でついて行くわけにはいかないだろう。それでは、ストーカーである。だが、そこに、私が同行したならば……。私だって、お邪魔虫確定である。そんなことはしたくないのに…………私は覚悟を決めた。
「いいですよ!みんなで一緒に行きましょう!」
私は、笑顔でそう答えていた。
「うんうん!」
リスさんも楽しそうににこにこして頷いている。
古賀さん、ごめんなさい。
古賀さんは、先ほどの歓喜から一転、一人、放心した様子で立ち尽くしていた。上気していた古賀さんの顔は、一息に冷め、瞬きを繰り返すだけだった。
その後も、古賀さんと智翠さんの静かな戦いは、二人が出会うとさざ波が立つように、水面下で膠着しながら駆け引きを繰り広げていた。
たとえば、あれから古賀さんは、智翠さんが餡子を届ける頃に、必ずではないがベッカライウグイスにやって来るようになった。
誰かが、古賀さんに、智翠さんのやってくる時間を教えたわけではないのだが、時間が出来ると通い詰めていたのである、餡子が届く曜日や時間を把握できてそこは当然といえよう。
古賀さんは、智翠さんがやってくる時間の前にやってくると、カウンターのいつもの場所に座る。もちろん、以前みっちゃんに指摘されたように、楽譜類は、床ではなくカウンターに置く。
蝶のように楽しげにショーケースを巡りあぐね、その日の気分で好きなパンを選ぶ。リスさんが淹れてくれた熱いコーヒーを啜りながら、冬の庭を眺め、
それは美味しそうに、焼きたてのパンをいただく。降りしきる雪を背景にして座る後ろ姿は、芸術のようである。ガスストーブは暖かく、冷たい窓を端から曇らせた。
カランコロン
「こんにちは!」
頭に雪を被り、頬を赤くした智翠さんが、軽々と番重を持ち上げ、やってくる。
「こんにちは!智翠、ありがとう!とうとう本格的に降ってきたわね」
リスさんが、智翠さんの名前を呼ぶと、古賀さんの背筋がぴくりと動く。
その神経は、完全に二人の様子に支配されているのだが、振り向かないのが大人の矜持とばかりに、黙って庭に降り積もる雪を見ている。
だが、古賀さんも優雅に、ベッカライウグイスに入り浸っているわけにはいかない。仕事があるのだ。この頃は、時計を見ながら、自分の心と格闘するように、お店を去って行く日が多い。
「はぁ」
古賀さんは、小さな溜息を吐くと椅子から立ち上がった。
「リスさん、ごちそうさまです」
「あ、はい。来春さん、お願いします」
こんなときに限って、古賀さんのお会計係は私になってしまう。
「……630円です」
古賀さんは、レジの横に置かれたアプリコット色のユニコーンを優しい目で見ると、
「ごちそうさまでした」
と、健気に微笑む。
智翠さんから餡子を受け取ったリスさんが、小さな袋を持ってやってきた。
「古賀さん、今年のシュトーレンなんですけど、この前いただいたお土産のお礼に、どうぞ」
リスさんが、明日からお店に並べる予定のシュトーレンを、古賀さんに渡した。古賀さんの目尻に、たくさんの皺が寄った。
「ありがとうございます。ゆっくりいただきますね」
智翠さんが、同じ紙袋を手にやってきた。
それに、古賀さんは気づく。
智翠さんは、袋を覗いて言った。
「まだ、お店に並ぶ前だよね?いつもぼくは1番……あれっ、2番?」
2番って、何だろう?古賀さんも、思わず袋の中を覗き込んで呟いた。
「3番……?」
ベッカライウグイスのシュトーレンには、ナンバリングがされた札が付けられていた。それは、きっちり100個、限定のお品であることの証だった。
「あれ、じゃあ、1は?」
変なところに拘るのね、という表情でリスさんは智翠さんを見た。
「シューさんにお持たせしたのよ?……もしかして、ずっと毎年1番にお持たせしてたから、千春さんが気にするかしら?」
「大丈夫、そう言っておくよ。シュトーレン、ありがとう」
智翠さんは、まるで2番という札を鼻の頭に掛けているかに、古賀さんに対して優越感を漂わせながら、お店を後にした。
「じゃあ、ぼくも失礼します」
と、頭を下げてお店を後にした古賀さんは、なんとなくしょんぼりして見えた。
そんな、子どもじみた争いもある、色々と難儀な二人なのであった。
新年の予定も早々に決まり、リスさんと私は、通常業務の他に、クリスマスと初売り、年の瀬とお正月の準備と、時間が出来ると買い物に出掛けたり、お菓子を作ったり、掃除をしたり、最小単位のことを少しずつ積み重ねていった。パン屋さんの年末は、お菓子屋さんの年末と比べるとたぶん時間の流れがゆったりしているだろう。
雪は降りしきる。
あっという間に、お菓子のテーブルに並べられたシュトーレンも、すべて売れてしまった。お菓子屋さんよりも価格の抑えられた、だがひと月以上前からじっくりと手間の掛けられたシュトーレンを、毎年楽しみにしてくれているお客さんたちがいることが、とても嬉しい。
みっちゃん、さくらさん、弘子さん、樹森さんも、やってくると暖かいカウンター越しから、ささやかな話題に笑ったり、熱いコーヒーを啜ったりしながら、ベッカライウグイスの年の瀬を見守り続けてくれる。時々、リスさんと私を呼び、一緒に腰を下ろしてコーヒーを飲むことを勧め、お正月準備の進捗状況を尋ねる。私が、はじめてベッカライウグイスに来たときのことや、不審者まがいだった古賀さんに恐れおののいていたことや、私の名前を三多さんと呼んでいたときのことやサンタと分かってびっくりしたときのことを、時に古賀さんも交えて、微笑ましい出来事として語る。
クリスマスの夜には、リスさんがケーキを作ってくれた。美味しい生クリームとベルギーチョコを使ったガナッシュケーキは、とろけそうに美味しく、私たちは、緊急にみっちゃんのところへお裾分けを届けたり、逆にみずほさんからかぼちゃのサラダをいただいたりして、プレゼント交換みたいだね、と笑い合った。
だが、そんな穏やかで平和な年末は、25日に終わりを告げた。
クリスマスが終わってからは、怒濤の片付けとお正月準備が待っていたのだった。ベッカライウグイス宿舎となっているリスさんの家の大掃除もあったので、30日の就業までにはお店の大掃除はすべて終えたい。かつ通常通りに営業し、初売りでお年賀にお渡しするお菓子の準備もあった。
さらに、ここで、リスさんと私は、予想外の壁に当たってしまった。
お正月に毎年売り出している、干支のパンなのであるが、来年は午年である。ところが、この、馬というのがどうにもこうにもパンにするには可愛らしくないモチーフなのだ、ということが瀬戸際になって判明した。たとえば、赤ちゃんの顔が可愛らしい黄金比を持っているとしたならば、馬はその真逆をいくと言っていい比率だった。しかも、パンは丸く膨らむものである。どうにも馬に馴染まない。
何度作っても、リスさんは、可愛い馬パンを作ることができなかった。私からしてみると、それは結構可愛いのでは?という試作も、リスさんは首を振るばかりだった。
「どうしよう……来春さん……」
リスさんが、根を上げるのを私は初めて見た。
「馬が……可愛く出来ない……」
馬は、可愛いけれど、パンにすると微妙なだけだと、私はリスさんを慰めた。慰めつつ、ふと、方向転換を考えた。
「リスさん、パンじゃなくて、お菓子とかにしては?」
「お菓子……」
リスさんには、得意技がある。
「アイシングクッキーは?馬と、ほら、幸運の馬蹄形とか」
「それがね、来春さん……初売りのときにお年賀でお渡しするのを、クッキーにしようと思っていたの。だから、材料は準備してあるんだけど……」
どうしよう……。私は頭をひねった。
「そうだ!干支に拘るから、馬しか思いつかなかったけど、お正月の縁起物って色々あるじゃないですか?たとえば……鏡餅とか獅子頭とか羽子板とか……」
「鏡餅……」
リスさんは、しばし考えていた。
「うん、いいわね。でも、鏡餅の上に載せる蜜柑が……金柑の砂糖漬けにでもしたいけれど、もう今から発注できないし……スーパーで買い占めるのも……」
さらにリスさんは困り切った顔をした。
「あと、中に入れる餡子ね……。やっぱり鏡餅ときたら、中は餡子じゃない?日本的に」
私は、頷いた。
「水琴庵も、年末のお菓子で忙しい上、あそこは初釜もあるから。和菓子屋さんって、年末年始がかき入れ時って聞くし、どうしても餡子のお願いはできないわ……」
「私たちで作るのは?」
「私たちで、作る……」
他に、紅白の梅パンなどの案も出たが、やはり餡子の必要性は避けて通れないものだった。
「そうね……鏡餅パンに決めましょう!私が、馬パンを上手に作れないばっかりに、来春さんには迷惑を掛けてしまうのだけれど……」
リスさんは、「ごめんなさい」と頭を下げた。
「ぜんぜん、構いませんよ!他にすることもありませんから」
「来春さんには、休日出勤もたくさんお願いして……すみません」
私は、あの大変だった栗の達成感を思い出した。
「やりましょう!リスさん!」
翌日、店番を交代にして、私たちは近くのスーパーを何軒か回って、買い占めにならないように金柑とグラニュー糖を手に入れることにしていた。
「じゃ、来春さん、行ってきますね!」
意気込んで、リスさんがお店から出ようとしたときだった。
駐車場に止まった車から、人が降りてきた。
「水琴庵」の営業車、智翠さんである。
智翠さんは、戸口にいるリスさんに気づかず、お店の重い扉をぐっと押した。リスさんが倒れそうになるのを堪えて避けた。
「あれ?リス、どこか行くとこ?」
リスさんが、声を落として言う。
「そう。買い出し……」
「何の?」
「金柑」
「そうなの?……そういえばさ、お正月のパン、何にするの?」
リスさんは、消えそうな声で言った。
「馬が……可愛く出来なかったから、鏡餅と紅白の梅にしようと思って……」
あ、それで金柑なんだ、と智翠さんは頷いた。
「そりゃ、ちょうどいいところに来たかも。ちょっと待ってて」
智翠さんは、車に戻ると、後部座席から番重を出して運んできた。リスさんが扉を引いて智翠さんを中へ入れた。
あれはいつもの番重なのでは……と私はショーケースの中から智翠さんを見た。もう、年内の餡子は終わったはずである。
「リス、餡子使わない?」
「え?」
リスさんは驚き、私を振り返った。そして、智翠さんの抱えた番重に目を移す。
「餡子…………いいの?!」
「うん。入っていた早めの初釜が一つ変更になって、それで冷凍しておくのもと思って」
リスさんは、両手で頬を覆った。
「えーーっ」
「工場へ持って行くよ?」
智翠さんは、重たい番重を抱えたままやすやすと扉を引き、もう一度外へ出て工場へ回った。
リスさんと私も、工場へ入る。
智翠さんは、手洗いなど一連の行為をささっと済ませ、番重を調理台に置いた。その上には、使い込まれた塗りの箱が二つ載っている。
リスさんが、箱の蓋を開けてみると、そこには、紅白、二種類の餡子がたっぷり詰められていた。リスさんも私も、思わず声を上げた。
「智翠ーー!」
「うわぁ!」
智翠さん!なんてこと!私まで、感極まってしまった。
ベッカライウグイスのあんパンは、いつも水琴庵の比類ない餡子を使って作られている。それが大好きなお客さんが大勢いらっしゃるのに、新年早々、リスさんのお手製とはいえ、いつもと違う餡子を口にされる違和感は、拭い去ることが出来ないのではないか、と私たちは話していたのだった。
それほどまでに、水琴庵の餡子は、上等なお品だった。
リスさんと私は、目の前の餡子の艶やかな美しさに心を奪われた。
薄紅の餡子には、梅の汁と細かく刻まれた紫蘇が入っていて、ほのかに、梅しその香りが漂う。手亡豆の梅餡と白餡なのだ。
智翠さんは、誰しもが忙しい年の瀬にやってきてリスさんを助ける、スーパーマンに見えた。
リスさんは、本当にいいのか、おずおずと尋ねた。
「いいの、いただいても?」
「うん。あ、代金はいただくよ?」
リスさんは笑いながら頷いた。
「ありがとう、智翠!ほんとうに助かったわ!千春さんにも、お礼を言ってね!」
智翠さんは、満足そうに笑った。
「ね、初詣だけど、リス着物着る?」
「え?着ないけど……」
智翠さんは、こちらを振り返って私にも聞いた。
「来春さんは?着物着る?」
「いいえ」
私は、スパイク付きの草履があればいいのに、とふと思った。
「そうなんだ。いや、着なくてもいいんだけど、迎えに来ようかなと思って。車で」
リスさんと私は顔を見合わせた。智翠さんは、リスさんの足下を心配してか、あるいは古賀さんに先んじてか、そのどちらとも図りかねたが、いずれにしても意味はひとつなのだろう。
リスさんは、そこは幼なじみの気安さで、
「ほんと?いいの?」
と喜んだ。
可哀想なのは、古賀さんだった。
翌日、やってきた古賀さんは、「元旦には迎えに来ますね」と優しく申し出たのだが、リスさんから「ありがとうございます。でも大丈夫です。昨日、智翠が来て、車で迎えに来てくれるっていうから、お願いしちゃいました」という悪意のないダメージを与えられたのだった。古賀さんは、年内これが最後のベッカライ訪問で、その後、S響の演奏会本番へと向かわなければいけない。第九の指揮は、どうなったのであろうか。いずれ、赤間さんに聞いてみようと私は思った。
リスさんと私は、夜なべで、金柑の砂糖漬けと、お年賀のクッキー作りに勤しんだ。紅白の餡子は、すっかり栗の影もなくなった冷凍庫に、大事に保管されている。
12月30日は、年内最後の営業日だった。
大掃除などで忙しい人々が、手軽に軽食を取るための美味しいパンを求めて、ベッカライウグイスの店内は混み合う。リスさんと私はそれを見越して、サンドイッチや具材のたくさん入ったパン、甘いペストリーをいつもよりもかなり多めに作っていた。もし余ったとしても、最後に訪れたみっちゃんたちにお持たせすればいいだけである。だが、その年は飛ぶように売れ、残ったパンは僅かであった。
みっちゃんが、午後からお店にやってきて、カウンターでコーヒーを飲み、いつの間にかさくらさんと弘子さんもやってきていた。
「みっちゃん、みずほさんは?」
「おせち料理の準備」
「みっちゃんも、手伝いなさいよ」
「え?」
「そうよ。みっちゃん、いつもここでのんびりしてるけど、みずほさんはみっちゃんのために忙しく準備してるのよ?」
「もう少ししたら、休憩に来るって言ってたから、一緒に帰るよ」
カランコロン
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
今年最後のお客さんだ。何度もお見かけする、ご近所の方である。リスさんが応対する。
「すみません、あまり残っていなくて……」
「いいのよ。今年もお世話になりました。栗のペストリー、来年も作ってね。とっても美味しかったから、待ち遠しいくらいよ」
「こちらこそ、お世話になりました。いつも来てくださって、ありがとうございます」
「今年は、来春さんが来て、パンの種類も量も増えたわよね」
「はい、そうなんです」
リスさんが、微笑む。みっちゃんたちも、こちらを見て微笑んでいるのが分かる。
「シュトーレンも、美味しかったわよ」
「ありがとうございます!来年もまた、よろしくお願いします」
「ええ。こちらこそ。良いお年を」
「良いお年をお迎えください」
リスさんと私は、最後のお客さんをお店の外まで見送って、深く頭を下げた。
それから、リスさんは、踏み台の上に乗り、ベッカライウグイスの小さな看板を下ろした。
リスさんと私は、空っぽになったショーケースを磨き始める。ガラスケースの中から、パンが置かれていたトレイを出し、念入りに消毒する。私は、リスさんから受け取ったトレイを、工場の洗い場でよく洗い、水気を拭き取ると調理台の上に互い違いに重ねる。さらに、二人で、パン置き場の拭き掃除や、洗い物や消毒を行う。
リスさんは、レジのカウンターを掃除にかかり、私は、いつもコーヒーを淹れたりパンのカットを行うカウンターを掃除する。
そんなときだった。
「ね、ところでリスちゃん、お付き合いしてるの?」
唐突にさくらさんが言うので、その場にいたリスさん以外、全員が瞠目してしまった。
「え?お付き合いって……」
顔を上げたリスさんは、一人、目をキラキラ輝かせている。その表情から、私たちは期待して次の言葉を待った。次に、リスさんは、喜びがこみ上げてくるのに耐えきれないといった様子で、言い放ったのだ。
「来春さんと智翠?!」
リスさんと古賀さんでしょう?!
絶句の後、全員が、叫びそうになった。
いつの間にか、雪が降り出した。大きな牡丹雪が舞い落ちる。まるで重さがないそれは、すぐに重なって白い庭をまた埋めていく。
駐車場に面した窓から、みずほさんが、扉の外でぱたぱたと雪を払うのが見えた。
リスさんは、みずほさんのために熱いコーヒーを淹れ直した。
「みずほさん、お疲れ様」
「ありがとう、リスちゃん。明日、お裾分けを持って行くわね」
「やったー!ありがとうございます」
それから、しばらく、暗くなっていく雪模様を見ながら歓談が続いたのは、残された今年という時間から、私たちがまだ離れたくなかったからだろう。
私は、コーヒーを手に、椅子の背もたれに体を預け、思い出す。
ベッカライウグイスの扉をはじめてくぐったこと、リスさんたちと出会ったこと、羽鳥さんが引っ越し、シューさんがやってきて、リスさんがパン教室を開き、古賀さんと出会ったこと、すべてが忘れがたい。
暖かくぬくもった空気の中で、私は自分がここにいる幸せを思いながら、その一方でこの時間が恒久的なものではないことにふととらわれる。
「じゃあ、また新年にね」
さくらさんと弘子さんが言った小さな約束の言葉に、私が救われていることを誰も知らない。
「はい。今年も、色々ありがとうございました。良いお年をお迎えください」
「リスさんと来春さんも、良いお年を」
さくらさんと弘子さんが帰り、みっちゃんたちも帰って行った。すっかり暗くなった空は、綿のような雪で埋め尽くされていた。
リスさんと私は、お店として今年の役割を終えた店内に、ぽつんと二人残された。
それから私たちは、綺麗に磨かれ、静まった工場の鍵を、内側から掛けた。次に鍵を開けるのは、年も改まった3日の午後の予定である。それまで、工場は薄暗い静けさに包まれる。
お店に戻り、ショーケースに不備はないか、パン置き場は綺麗か、そのほかを目視する。私は、磨かれた床が、ぼんやりと照り返す灯りを見る。
入り口左側のテーブルは紅白のクロスに掛け替えられ、鏡餅が置かれている。ベッカライウグイスの鏡餅には、色々なものが添えて飾られている。リスさんのお父さんの故郷の風習だと聞いた。
お正月を迎える準備は万端だった。
私は、窓のシェードを下ろし、小さな音を立てて燃え続けるガスストーブの炎を、リスさんは消した。
大晦日、みずほさんは、小さなお重にお手製のおせち料理を詰めて届けてくれた。私たちは、受け取った玄関で蓋を開け、その中身に歓喜した。みずほさんは本当に料理上手で、みっちゃんは幸せ者である。
その後、リスさんと私は気づいた場所の掃除をするほかは、一緒に温かいお茶を飲み、蜜柑を食べ、本を読んで過ごした。
リスさんは、音楽を聴いたりテレビを見たりするよりも、黙って本を読むことを好み、私も自由に行き来していたリスさんのお父さんの書架から、興味のある本を借りてきて読んでいると、あっという間に部屋は薄暗くなってきた。
「来春さん、おそばを作りましょう」
リスさんが張り切って言うので、私はまさかおそばを打つところから始めるのだろうかと思ってしまったが、それは違った。
明日のお雑煮にも使うため、出汁をたっぷりと取り、ネギや三つ葉や柚も刻んで置いた。
時は、しんしんと過ぎゆく。
聞こえるのは、時々ぼっと点火されるストーブの音だけだった。
「なんだかしんみりした年の瀬ですね」
「大晦日ですからね」
「ちょっとだけ、シューさんが帰ってしまったことが悔やまれるわね」
私たちは、シューさんとのあれこれを思い出して笑った。
「あ」
と言って、リスさんは黙った。
「聞こえますか?」
私は、耳を澄ませた。
除夜の鐘の音だ。
「出てみますか」
私たちは、コートを着込み、玄関のポーチに佇んだ。
遠くから伝わってくる鐘の音は、雪の静寂の間に、じわりと響き渡る。しばらく間を置いて、また同じ波が広がっていく。
私の頭の中に、病室で、おばあちゃんと過ごした時間が、おばあちゃんと話したことが繰り返し思い出される。
暗い空気の中を、白い雪は漂うようにして落ちていく。私たちの息が、その中を白く流れる。
一年が、終わる。
おばあちゃんが亡くなった冬から、この街へやってきた春、賑やかだった夏から今までの時間を、私は反芻する。
思い出は、どこにあるのだろう。宝物の時間は、どこへ過ぎていってしまったのだろうか、雪の随に、見えないけれど確かにそこにあるもののように、なければ生きられないもののように、私はその確実な存在を思う。ふと、リスさんに呟いた。
「…………時間って不思議だなって思うんです。自分が生まれてからこの先もどこかまで、ずっと同じ速さで続いているはずなのに、それがどこかで膨らんだり、縮んだりする気がするんです。時々、大きく撓んで、その撓みが深いポケットみたいになって、そこに色々なものが溜め込まれるの。色んな思い出や、気持ちや、大事なものが。そのポケットが、人生にたくさんあったらいいな、って思う……」
時間は、すべからくどこかへ流れ、続いていくものだとずっと思っていた。生まれてから人生を終えるまでの間、たゆまなく、一定の速度で進み続ける。眠る夜でさえも、進むのを止めはしない。
けれど、それは堰き止められ、つのり、歪み、張り詰め、撓み、その撓んだ窪みに溢れて零れ落ちるほどの悲しみを溜めても、やがてまた行く手が紡がれる。どこへ行くのかも分からないままに。
リスさんが、隣で温かなマフラーに首を埋めながら言った。
「来春さんが、今年、ベッカライウグイスにやってきてくれて本当によかった」
新しい年の足音が、雪の降り積もるかすかな影に寄り添う。
私は、自分の口元に微笑みが浮かぶのを感じながら、リスさんに伝えた。
「リスさんや、みっちゃんや、みんなに会えて、よかった」
リスさんが、子どものように、無邪気に言った。
「私も、ポケットたくさん持ちたいな。大きいポケット」
過ぎていく、何気ない毎日が愛おしい。
ポーチの外から迷い込んだ雪が、リスさんの髪に掛った。その雪が、やがて溶けてしまうように、ここでの日々も永遠ではないだろう。だから、一層、愛おしい。
与えられた時間や何もかもは平等ではないことを知りながら、しめやかに、満ち足りた今の時間にいてさえ、また巡り会う希望を願う。
この時が、いつか忘れてしまうものであっても、霧のように消えてしまう気持ちであっても、時間の中で摩滅していくものであっても。
希望が、ゆるやかに心を温める、人と人との間に満ちるものでありますように。
リスさんのポケットが、あたたかな希望でいっぱいになりますように。
私は、願った。
どちらからともなく、私たちは、家に入り、玄関のドアに鍵を掛けた。
「リスさん、おやすみなさい」
「おやすみなさい、来春さん」
私たちは、それぞれ眠りについた。
温かな寝具に身を寄せ、私は、春の日に訪れた小さな奇跡を思いながら。
人はどのように生きても、結局、孤独というものからから逃れることはできないのではないでしょうか。
そのときに、心を慰め、温めることができるのは、楽しかった思い出や、懐かしい温かな思いだったり、頑張った充実感など、人それぞれ、様々なものがあると思います。
ベッカライウグイスの面々も、毎日バタバタしながら、でも着実に、温かく笑顔になれる時間を積み重ねています。
いつも誰かとともに。優しい時間ともに。
一緒にベッカライウグイスでコーヒーを飲んでくださった方々に、心からの感謝を込めて。
ありがとうございました!
ベッカライウグイスのリスさんはじめ、彼らの人生は、まだ続く予定です。
初めての連載のため、色々分からないことだらけで、読みにくく申し訳ありませんでした。
私は、毎日、どんな方々が読んでくださっているのか、ユニークアクセスを見る度に
感謝しながら、皆さまの存在を勝手に想像していました。
お昼の休憩に読んでくださっているのかな、とか、夜お休み前のひとときに読んでくださっているのかな、眠れなかった朝方に読んでくださっているのかな、お勤めされている方かな、ママかな、介護中の方かな、学生さんかな、みっちゃんみたいな方かな、などなど。
どうか、リスさんたちの続きの物語を、また、見つけて愉しく読んでいただけたら、とても嬉しいです。
皆さんが幸せでありますように、笑顔でいられますように、心から願っています。




