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ベッカライウグイス⑰ 帰国と招待

先日、読者さまから、「作品の表示がバラバラになることがあるようです」と、

いくつか、小説家になろうの仕様などを丁寧に教えていただきまして、

いつものシリーズ形式の投稿から、こちらの形式に変更させていただきました。

優しく教えてくださった読者さまには、重ねましてお礼申し上げます!

読んでくださる皆さまには、色々ご迷惑をお掛けいたしまして、申し訳ありませんでした。

第1話と第4話がくっついているのも、仕様が分からないくせに、このボタンなんだろう……

と押してしまった結果、そこだけそのようになってしまい、お恥ずかしい限りです。

こんな私にあきれてしまわれることも多々あるかと思いますが、これからも読んでいただけますと

本当にありがたいです!

第17話。

とうとうシューさんがベッカライウグイスを離れる日が……。

寂しい(T_T)です。

古賀さんが、いよいよ行動を起こします!

 冬が忍び寄る朝、石油ストーブに予約タイマーのスイッチが入り、突如点火する音で目が覚める。

 私は、真っ暗な中で、身動きをして寝具にくるまる。少しの時間、部屋が暖まるまで、とろとろと半睡しながら、ストーブの小さな炎を見るのが好きだった。これからの、夜明けはなお遅い。


 秋に掛け替えられたカーテンは、深みのある黄色いオーガンジーと、ベージュ地にたまご色の模様が織り込まれた厚地のものだった。ジャガード織のそれは、外の僅かな光も通さず、かわりに室内の暖かさをよく保ってくれる。夏よりもずっとぬくもりのある空間に部屋を変えてくれた。

 薄く目蓋を開きながら、まだぼんやりと冴えない頭の中で、私はおばあちゃんとこたつで食べた蜜柑の、まろやかな匂いを思い出していた。


 身支度を済ませ、冷えた玄関へ向かう。

リスさんの靴は、もうない。本格的な冬は、まだ先だ。これからもっと寒くなるだろう。私は、リスさんを追って工場へ向かった。

 


 カランコロン

 扉の上につかえそうな頭を屈めて、お客さんが入ってきた。

 まだ開店前である。

 「おはようございます」

 「すみません。開店は……」

 私が事情を話そうとしたときだった。顔を上げ、姿勢を正した姿を見て、その人が誰なのか気がついた。私を、遥か頭上から見下ろしている。

 稗田ひえださんである。

 稗田さんは、ベッカライウグイスの庭を造ってくれている庭師さんで、少し前に、リスさんから、彼が来たときは開店前でもお店に入れてあげてくださいね、と私は言われていた。

 リスさんはそのとき、「稗田さんと雪虫、今年はどちらが早いかしら」と笑っていたが、雪虫の方が早かったようである。

 

 「おはようございます、稗田さん」

 「来春こはるさん、かな?」


 稗田さんは、高くも低くもない、だが快活そうな声音で私の名前を口にした。誰かが、私の名を教えてくれていたのだと思う。私が、稗田さんの名前を教えられていたように。

 「リスさんから、聞いています。どうぞ。コーヒーを淹れますね。パンは、何になさいますか?」

 まだ、出そろっていないのですが、と言おうとしたときに、工場からリスさんがやってきた。

 「おはようございます、稗田さん」

 「おはよう、リスさん」

 「なんとなく、今日来るんじゃないかな、って思っていたんです」

 稗田さんは、そっと笑った。

 「もう、植えないとね」

 リスさんは、頷きながらいった。

 「よろしくお願いします。パンは、お勧めがありますよ。ちょうど今焼けたばかりです!」

 「いい匂いがしてる」

 稗田さんは天井に近い場所の空気を嗅ぐようにしながら、カウンターへ向かった。

 

 まだお客さんのいない店内で、大きな嵌め殺しの窓から庭を静かに眺めるのは、稗田さんの仕事の一部だった。稗田さんは、とても背が高いので、お店の椅子とカウンターが小さく見える。たぶん、そこに身を寄せるのはとても窮屈なのだろうと思うが、広い背中が気持ちよく伸びているので、周囲にはくつろいだ雰囲気を波及させていた。私は、その姿を見るのはまだ二度目だが、不思議なものでもう何度も目にした光景に思えた。

 リスさんは、湯気の出るコーヒーとパンの載ったトレイを、稗田さんの元へ運んだ。

 「ベゴニア、綺麗に植えたね」

 「……でも、もう終わりそうですね」

 「路地の冬越しは難しいから、また来年植えるといい」

 「そうします」


 稗田さんは、ゆったりと庭を眺め、気温が上がるのを待っているようだった。

 「どうぞ、かぼちゃ載せハムロールと、リンゴのペストリーです」

 「この季節か……ぼく、この焼き目の付いたかぼちゃが大好きなんだよね」

 リスさんは小柄なので、椅子に座った稗田さんとそう目線の高さが変わらず、お互いそのことに笑っているように見えた。


 

 カランコロン

 「こんにちは」

 「いらっしゃいませ!」

 みっちゃんである。


 みっちゃんは、自分より早くカウンターに陣取っていた稗田さんに気がついた。

 「おや、今日はベッカライウグイスなの?」

 「そうです、こんにちは、三山……いえ、みっちゃん」

 みっちゃんは、訳あり顔でくすくすと笑いながら稗田さんを見た。


 

 稗田さんは、庭仕事にかかり、手早くベコニアを抜いてしまった。どのみち来年まで残らないので、よい芝生を保てるようにとの配慮だった。

 夏を越した宿根草の具合を見たり、プランターに植えられたすっかり茶色味を増したマリーゴールドを抜いて土を綺麗にした。シンパクに冬囲いをし、背の高いイチイを軽く剪定した。そして、リスさんと私には秘密の場所に、桃色の百合を植えたらしい。ムスカリもたくさん植えたと聞いた。

 帰る前に、稗田さんは車から大きな鉢植えを抱えてきた。

 「リスさん、今年のプレゼント」

 「うわぁ」

 差し出された鉢植えは余りに重量があったので、リスさんは手ずから受け取ることはできなかったが、それは、鮮やかなポインセチアだった。

 「ありがとうございます!クリスマス、って感じですね!」

 稗田さんは笑いながら、リスさんに言われた場所へ鉢植えを運んだ。

それは、店内に入ったお客さんからすぐに見え、かつ足下の妨げにならない位置に置かれた。緑から色を組み換えた赤は、冴え冴えした色とは反対に、熾火のようなぬくもりをその手触りになずませていた。

 「来年、植えたいものはある?」

 稗田さんは、店内に飾られた真っ赤な葉を満足げに見ながら聞いた。

 リスさんは、頬に指をやって考え、それから私に言った。

 「ね、来春さんは、何か庭に植えたいものない?」

 私は首を傾げた。植えたいもの……庭に……。

 「私は……石竹せきちくが見たいです」

 稗田さんは、驚いたように目蓋を上げた。

 「石竹か……それは風流だね……」

 そして、振り返って庭を見た。

 「……いいね。ナデシコとはまたちょっと違うと思うよ。ここの庭に合うと思う。うん、薄い色と濃い色と両方用意しよう」

 「いいんですか?」

 私が聞くと、稗田さんリスさんはほぼ同時にいった。

 「もちろん!」

 来年の春に、石竹が植えられる……。私は、大きな窓の向こうに、冬支度の終わった庭を見た。

 リスさんは、焼きたてのパンをたくさん袋に詰め、稗田さんに渡した。

 「ありがとうございます」

 「こちらこそ、いつもありがとう。ぼくは仕事があってなかなか来られないけど、家内は時々来てるんだよ」

 「知ってます。遠いのに、ありがとうございます」

 「なんだ、そうか、知ってたのか……」

 「ちょうどみずほさんがいるときにいらしてくださったときがあって、教えてくれたんです」

 「はっはっはっ!」

 稗田さんの笑いは、今までの静かな風情とはかけ離れて豪快だった。

 「奥様会には、かなわないよね!みっちゃん!また」

 笑いながら、稗田さんは帰っていった。

 リスさんと私が外へ出て、稗田さんの車が消えるのを見送った。

 まだ、息は白くまでならないが、上着のない私たちは身を縮めて店内に駆け込んだ。


 

 人は一度気がついてしまうと、そのことばかりに目が行ってしまうときがある。

 リスさんと私が、今まさにそうだった。

 「あるわね……」

 「ほんとに、あちこち……」


 ベッカライウグイスの定休日、帰国が決まったシューさんへのお土産を買いに、私たちは二人、街へ出掛けた。

 外はまだ、うっすらと雪が積もると、日中には溶けてしまうという気温だったが、もう街はクリスマス一色だ。

 そんな中、どこへ行っても目に付くのが、古賀さんのポスターなのだっだ。

 S響演奏会、第九

 指揮、古賀竜季、京都国際指揮者コンクール第一位、聴衆賞受賞、市民芸術賞受賞…………古賀さんって……すごい人なのかな?

 名前の横に冠された賞の数々に、私は洗脳されるような、全くされないような、奇妙な感覚を覚えながら通り過ぎた。それは、古賀さん個人が持っている人間的存在の確かさである気がした。


 ん?ちょっと、今、大事なことを見落としたような……。

 私は、もう一度、古賀さんのポスターを読む。

 S響演奏会、第九

 指揮、古賀竜季(たつき)……古賀竜季。


 私は弾かれたようにリスさんを見た。

 リスさんも、完全に瞠目して私を見ていた。


 これは、さくらさんのアルバムの、例の古賀竜季くんなのである!

 リスさんと私は、思い切り溜息を吐いた。



 それからもリスさんと私は、デパートのエスカレーターで、昼食に入ったカフェで、立ち寄った本屋さんで…………古賀さんのポスターと、どこででもお目にかかってしまう。そして、わたしはとうとう、思っていることを口にした。

 「でも、リスさん、見てください……」

 リスさんは、ポスターの中の、セピア色がかった古賀さんをじっと見る。そして、頷く。

 「……古賀さんじゃあ、ないわね」

 同意である。

 どう見ても、別人だ。

 ポスターの中の古賀さんは、机に両肘を乗せ、手首を楽にした右手に指揮棒をさり気なく持っている。もし、写真が本人に酷似していたならば、それは今にも、ビビデバビデブー!と振り出しそうに見えたはずだ。だが、顔が全く違う。本人のかけらもなかった。

 そのへんは、古賀さん自身にも責任があるのではないか。ポスターにする写真を撮影したならば、それを確認するであろう。できるだけ現実の自分と乖離しすぎている写真の使用は、避けた方がいい。それとも、実際に会った人を驚かそうという仕掛けなのだろうか。


 「もしかして、何年も前のとか?」

 私の言葉に、リスさんが推測した。

 「10年くらい前とか……?」

 「でもねぇ、さもありなんじゃないですか?」

 「子どもの頃からなのね……」

 「子どもの頃は本人のせいではないとして、でも今は……」

 「うーん……」

 そんなことを話しながら、エスカレーターを上り詰めてしまうと、私たちは、いつの間にかプレイガイドの前にいた。

 ここにも、古賀さんの大型ポスターが貼られ、チラシまで置かれている。

 「……どうする、来春さん?」

 「……どうする?リスさん」

 

 私たちは、カウンターのお姉さんに、一応、チケットの購入を考えていると伝え、コンピューター画面から、座席表を見せてもらった。もう空席はほとんど残っていないといってよかった。そのことがリスさんと私をほっとさせた。古賀さんの演奏会は人気だし、私たちが行かなくても大丈夫である。

 いや、でもリスさんは行った方がいいのではないだろうか?私はそのことが心に引っかかったが、言い出すことはできなかった。


 それから、リスさんと私は、シューさん、というより月子さんとミアちゃんのお土産を探しに、クリスマスのデパートを本格的に物色しはじめた。


 私は、歩きながら月子さんのことをリスさんに尋ねた。

 「月子さんはね、もともと、ドイツの製薬会社で作られたお薬を日本の病院へ卸す仕事をしていたの。ドイツ研修が結構多くて、何度もドイツに行っているうちに、駐在になっちゃった、っていう感じかしら。私とは、現地の語学学校で知り合ったのよ。ちょうど、月子さんが、ドイツへ本格的に移住をはじめたばかりで、より高度なドイツ語を勉強しに語学学校へ通っていたの。私は、基本的なドイツ語日常会話のコースだったんだけどね」

 「じゃあ、お仕事があったからシューさんと一緒にはこられなかったんだ」

 「ほんとは、シューさんの仕事に合わせて、ミアちゃんと日本に帰省したいって言ってたんだけど、結局、小さいミアちゃんと行ったり来たりがたいへんだから、今回はお留守番しているって言ってたわ。ミアちゃんと愉しくバカンスを過ごしたって言ってたわよ」

 「でも、半年も一人でお仕事しながら子育てはたいへんよね」

 「ほんとに。そうだ!月子さんには、癒やしグッズがいいんじゃない?」

 「ミアちゃんには、どうする?」

 「無難なところで、少し大きめサイズのお洋服とかは?」

 「いいわね、そうしましょ!」



 ベッカライウグイスでは、無事に仕事をやり遂げ帰国する、シューさんの送別会が開かれることになった。送別会は、羽鳥さんに続いて、二人目である。

 リスさんは、

 「来たときに歓迎会をしなかったから、なんだか送別会だけはするっていうのはちょっと……」

 と、まるでシューさんが帰国するのを喜んでいる印象を与えかねないことを主張した。そこで、送別会とは言わずに、おでんの会と称して、シューさんを囲む小さなパーティーを開くことにしたのだった。


 送別会の前日、リスさんは、家のどこかから、大きなおでん鍋を出してきた。私は、そんな本格的なおでん鍋を見たのは初めてだった。

 「うわぁ。すごい」

 リスさんは、笑った。

 「これでね、昔、みっちゃんたちが集まって、ここでおでんをやってたの」

 そうなんだ。思い出のおでん鍋である。


 材料は買いそろえてあったので、私たちはおでん鍋を洗い、早速下ごしらえに取りかかった。総勢7名分のおでんである。ここに古賀さんをお誘いする、という頭はまだ私たちになかった。身内だけのおでんの会だった。


 

 おでんの会の夜、ベッカライウグイスには、深緑のクロスを掛けた簡易テーブルが据えられ、そこに、おでん鍋が運ばれた。もちろん、シューさんもお手伝いであれこれと運んでくる。

 いくつかのお鍋に分けて煮込まれたおでんの具が、大きな鍋に投入される。コンセントをつなぐと、並々と注がれた煮汁が、温まっていく。静かに、コトコトと。


 カウンターには、みずほさん、さくらさん、弘子さんが持ち寄った料理が既に並べられていた。

 リスさんと私は、飲み物やグラス、お皿やお箸を並べる。

 

 ポンッ!

 と発泡ワインの開く音がした。

 みっちゃんが、グラスに次々とそれを注ぎ、シューさんがもう一本、ポンッ!と開けて、みっちゃんのお手伝いをした。

 全員に、グラスが行き渡り、みっちゃんのかけ声で乾杯である。

 「シューさんが、明日、ドイツへ帰ってしまわれます。突然、ここに現われたときは驚きましたが、実は、とても紳士然とした、ユーモアのある、素敵な人物でした。我々は、今ではすっかり、シューさんの魅力を理解しています。だから、帰ってしまうのは、とても寂しい。けれど、お国に奥さんと可愛いお子さんが待っていらっしゃるというので、泣く泣くですが、送り出してあげようと思います。シューさん、また、ベッカライウグイスへ来てください!かんぱーい」

 「かんぱーい!!」

 私たちは、グラスを合わせ、微笑んだ。

 みんな、お皿を持って、それぞれ料理を取り始める。

 リスさんと私は、まずおでん鍋に付いて、それぞれの希望の具を深皿で振る舞う。

 シューさんが、ワイン片手にやってきて、立ち止まった。

 「…………これはっ!」

 「シューさん、おでん何がいいですか?」

 「中華?」

 「これは、おでんですよ?日本の料理」

 「知ってます」

 言下に仰る。

 「これです」

 「ん?」

 シューさんが、とりわけ用の菜箸を手にして、器用にそれを持ち上げて言う。

 「玉子の子ども?」

 青い目をぱちくりさせて、首を傾げてみせる。

 リスさんと私は、目蓋も半開きに同時に言う。

 「いいえ!」

 シューさんは、急に真顔になった。

 「知ってます。ウズラの玉子です」

 「知ってるんじゃないですか」

 「前によく食べたのは、中華料理だったから。日本料理にも入れるんですね?」

 「そうね、入れるし、生で食べることもあるわよ?」

 シューさんの後ろから、さくらさんが言った。

 シューさんは、ウズラの玉子を摘まんだまま、さくらさんを振り返った。さくらさんは、シューさんの、お尻がぽこっと出たそのポーズを見て吹き出しながら言った。

 「納豆に載せるとか、山芋のすりおろしたのに載せたり。美味しいわよね?」

 シューさんは、眉間に皺を寄せて首を振った。

 「ドイツでは、玉子は生で食べません」

 リスさんが申し訳なさそうに言う。

 「シューさん、玉子かけご飯を食べさせてあげたら良かったわね。すっかり忘れてたわ」

 「大丈夫です」

 日本でのお断りの仕方がよく身についている。

 「まぁ、おでんのウズラ、食べてごらんなさいな」

 弘子さんに言われ、シューさんは、深皿に入れて貰ったウズラの玉子を、そろりと口に入れた。

 「んっ!」

 「え?!大丈夫?詰まった?」

 弘子さんが驚いて、シューさんの背中をとんとん叩いた。

 一度見たことのある、何かに本気の目をしてシューさんは声を上げた。

 「おいしい!」

 弘子さんは、笑った。

 

 「ウズラ、ください」

 ご要望に従い、私は、シューさんの深皿にウズラを入れた。練り物の中に、ウズラが入っている具も、ついでによそってあげた。

 「ウズラ、お願いします」

 シューさんが、またやってくる。

 「ください、ウズラ」

 ここまでくると、シューさんのウズラへの執着が、完璧に分かった。

 「シューさん、そんなにウズラの玉子が好きだったの?」

 「はい。すごく美味しい。こんな美味しい玉子があるんですね?」

 みずほさんがシューさんに尋ねた。

 「ドイツに売ってる?」

 少ししょんぼり気味で、シューさんが口ごもる。

 「売ってますが……いつも売ってない。予約すると、買える」

 そんなに難関だったとは、ウズラの玉子の購入が!

 「買ってきてあげるわよ!今!まだスーパーやってるから」

 さくらさんがお財布を持って飛び出そうとするのを、弘子さんが止めた。

 「待って、さくらさん。入国のときに持ち込めるものって、それぞれ国によって決まってるから。お肉とか卵とか、ダメなところが多いのよ」

 弘子さんがスマートフォンを取り出して調べようとした。するとシューさんがそっと、弘子さんのスマートフォンの画面に大きな指先を置き、力なく首を振った。

 「ダメ……分かってる。卵は、缶詰も、レトルトもなにもかもダメです」

 あぁ……。

 明日シューさんが帰国してしまう寂しさだけでなく、ウズラの玉子すらお土産に持たせてあげられない悲しさのダメージは、我々を痛めつけた。


 「予約すれば買えるんでしょ?」

 みっちゃんが言った。

 「大丈夫、買えるよ、シューさん」

 事もなげである。

 みっちゃんは、全くいつもと変わらない飄々とした調子で言うと、湯気の出るたっぷりと汁を吸った大根を口に運んだ。

 シューさんは、ふさふさした眉毛の下からみっちゃんを見下ろし、悲しげに頷いた。

 さくらさんは、シューさんを励ました。

 「元気出して!月子さんとミアちゃんが待ってるんでしょ?半年ぶりじゃない!」

 「元気出します。月子さんとミアに会えるのはとっても嬉しいけれど、ベッカライウグイスを離れるのはとっても寂しいです……」

 シューさんが、うっすらと涙を浮かべた青い目が、船底のような灯りの下で、小さな輝きを揺らして見えた。

 最後にと、先日床屋さんの安井さんに整えて貰った髪や髭が、あまりに規律正しく巻いていたので、月子さんは驚くだろう、と私は思った。


 「飲むしかないわね」

 弘子さんが、シューさんに、新しいワインを注いだグラスを持たせた。

 「……おぉ」

 シューさんは、それを味わって飲む。

 「シューさん、こっちにも」

 リスさんが、シューさんを、チーズのお皿の前に立たせる。

 「……おぉ!」

 シューさんは、チーズとワインが大好きである。唯一整えられていない眉毛が、縦横無尽に持ち上げられたり、寄せられたりして、何よりもシューさんの感情を物語った。

 そうして、たくさん飲み、たくさん食べ、たくさん話し、シューさんの帰国前夜の夜は更けていった。



 とうとう、シューさんが帰国する朝がやってきた。

 みんなは、なんとなく夕べのお酒が残ったような、少し気怠げな様子で再び集まった。気温は、日に日に下がってきていた。みんな、上着の襟をかき合わせポケットに手を入れる。だが、誰もお店の中には入らない。お店に入ってしまうと、昨夜の名残を感じるだろう。昨夜の時間から今への時間の推移をもう一度噛みしめるのは、少し辛かった。

 寂しい気持ちは、かすかに残ったアルコールと、この朝の新しい、もの侘しさがない交ぜになって、シューさんに掛ける言葉も思い浮かばない。

 黄色い松葉が、夕べのうちに飛ばされてきて、駐車場のあちこちに積もっていた。それを私たちは、黙って靴の裏でもてあそび、時間が来るのを待った。


 みっちゃんは、お店の駐車場に車を回してきた。シューさんを空港まで送迎するのだ。みっちゃんは、何日か前にも、シューさんの荷物の発送を快く引き受け、事前に、二人で二つの段ボールを郵便局へ持ち込んでもいた。2週間もあればドイツへ着くという。日本で暮らす間に、シューさんの荷物は段ボール二つ分、増えたのであった。その大半が、家族へのお土産なのかも知れないけれど。


 シューさんが、駐車場に現われた。昨夜みんなから貰ったお土産でぱんぱんになったリュックを肩に掛け、スーツケースを引き摺っている。

 ここへやってきたときと同じチェックのシャツに、季節が変わったことを感じさせる温かそうな上着を着ていた。


 「おはようございます!」

 「おはよう、シューさん!」


 シューさんは、多分わざと、ベッカライウグイスの営業日を帰国の日に選んだ。

 だから、リスさんと私は、空港にお見送りにも行けない。

 羽鳥さんのときにそっくりだと思った。

 私たちの代わりに、みっちゃんたちがお見送りに行く。みずほさんはパートの仕事があるそうで、ちょうど四人がみっちゃんの車で空港へ向かう形となった。


 よく晴れた高い空の下、ベッカライウグイスの駐車場の真ん中に、シューさんは立って、お店を外からよく眺めた。

 「写真、撮ってあげますよ」

 弘子さんが、シューさんのスマートフォンを預かって、入り口と看板を背に、みんなの写真を撮ってくれた。


 そこへ、一台の車がやってきて止まった。

 「水琴みなこと庵」と書かれている、営業車である。中から、智翠ともあきさんが出てきた。

 「おはようございます!よかった!間に合って」

 智翠さんが、シューさんに駆け寄った。

 「これ、お土産です。気を付けて!また来てくださいね」

 シューさんに、小さな箱を手渡す。

 どこか警戒している様子のシューさんに、智翠さんは笑って言った。

 「大丈夫です。抹茶じゃなくて、お干菓子の吹き寄せです」

 リスさんが尋ねた。

 「普段、お店に出してないんじゃない?」

 「もちろん、特別に作ったよ」

 「おぉぉ……」

 シューさんが感動の余り、泣きそうになった。

 「ありがとうございます……日本のお干菓子、とっても綺麗なので、嬉しいです。ミアに見せてあげます」

 智翠さんは、リスさんに近づいて小声で尋ねた。

 「ミアさんって、奥さん?」

 「娘さん」

 

 そこへ、古賀さんまでがやってきた。

 息を切らせている。途中まで走ってきたようだった。

 「シュバムボルンさんが、今日帰国されるって聞いていたので。……少しですが、お土産を」

 「おぉぉ……古賀さん、ありがとうございます」

 「あんまりお話しできる機会はありませんでしたが……ぼく、ベルリンの大学に行っていたんです。だから、ドイツは大切な国なんです」

 シューさんの慧眼には、恐れ入った。やはり、あのユニコーンには意味があったし、シューさんの言うように、リスさんと古賀さんは、もしかしたらドイツで会ったことがあるのかも知れない……。

 「ありがとうございます」

 古賀さんから受け取った小さな包みを、シューさんが振ってみると、コトコトと音がした。

 「これは、なんですか?」

 「あ、抹茶と茶筅ちゃせんです。ドイツにお土産に買って行くととっても喜ばれるので」

 あ……。

 シューさんを見ると、一瞬、ぐっと体を固くするのが分かった。だが、シューさんは、笑顔で言った。

 「抹茶、ありがとうございます。月子さんもとっても喜ぶと思います」

 智翠さんが、再びリスさんに小さな声で耳打ちをした。

 「月子さんって?奥さん?」

 「奥さん」

 そんな二人に、古賀さんが気づいたようだった。



 シューさんが辺りの空気を思い切り吸い込んで、大きな声で言った。

 「ありがとうございます!日本、ものすごく楽しかった!皆さんも、ドイツに来るときは、必ずぼくに連絡くださいね!ぼくも、日本に来るとき、連絡します」

 本当にね、と私たちは深く頷いた。

 「あ、来春」

 車に乗るかと思ったシューさんに、呼び止められた。

 「これ」

 シューさんが、折りたたんだ青い付箋のようなものを私の手のひらに載せた。

 「ホットライン」

 ホットライン?私が首を傾げていると、シューさんがウインクした。

 「アクシデントが、どうなったか、連絡してね。忘れないで!」

 私は、付箋を握りしめながら、いたずらっぽく光るシューさんの綺麗な目を見ていった。

 「分かりました。気を付けてね、月子さんとミアちゃんにどうぞよろしく!」

 シューさんは頷くと、一人一人と握手を交わした。それから、大きな体を丸めて、みっちゃんの車に乗り込んだ。窓が開く。

 「リス!来春!またね!」

 「シューさんも、またね!」

 私たちは、少し泣き出しそうになりながら、手を振ってシューさんを見送った。みっちゃんは、ぐるりと車を回すと、シューさん、さくらさん、弘子さんを乗せて、空港へと向かっていった。



 残された私たちは、身を震わせながら店内へ入ろうとしたが、そのとき、

 「あの、リスさん」

 古賀さんが、リスさんを呼び止めた。思わず私と智翠さんも振り返って古賀さんを見た。

 古賀さんは、寒さか緊張からか、顔をこわばらせ、何かをポケットから摘まみ出す手も震えていた。私たちはそんな古賀さんを見守った。

 「あの……あの……演奏会のチケットなんですけど……」

 リスさんは、驚いた表情で、古賀さんの差し出した封筒を見た。

 「演奏会、ですか?」

 そして、私を見た。

 「この前、あまりに古賀さんのポスターが貼られていたので、来春さんと一緒にプレイガイドに行ってみたんですけど、もう、ほんとに僅かしか席は残っていませんでしたよ?」

 古賀さんは、顔色を失ってきている。

 「あ、あの……ぼくの持っている、か、関係者席なんです。リスさんを招待したいと思って……」

 リスさんは、ふと怪訝な表情をした。

 「……私たち、関係者じゃありませんし……本当の関係者の方が必要なんじゃ?」

 リスさん、それは正論ではあるが、そこは汲み取ってあげて欲しい。

 私はそんな願いを込めて、さらに二人を見守ろうとしたが、智翠さんが、さっさとお店へ入って行ってしまった。ここで、私が居座ることはできない。私も、リスさんと古賀さんを残し、お店へと引き上げた。

 だから、その後どんなことになったのかは知らなかったが、午後にリスさんがそのことを空港から戻ったみっちゃんに話しているのが聞こえてきて、全貌を把握した。

 古賀さんは、リスさんの招待を諦め、そっとチケットをポケットに戻したそうである。リスさんは、なかなか手強い。  

頑張れ!古賀さん!

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