ベッカライウグイス⑯ 町探検のベッカライ
⑯に続き、⑰のエピソードを追加しました。分かりにくく、本当に申し訳ありません!
深まる秋の中、古賀さんはベッカライウグイスを訪れる。
それを見守るみっちゃんと、私。
リスさんは、小学校の町探検での、お店訪問を引き受けます。
ベッカライにやってきた、元気な2年生の子どもたち。
なんと、そこには、古賀さんの娘さんが混じっていて……!
驚きの第16話を、どうぞよろしくお願いします(^^)/
秋も深まり、夕暮れが早くなった。
秋の入り口では、夜へと渡る時間の波は、ゆっくりと辺りに夕闇を忍ばせていったはずが、今や、時が刻む楔は、多く欠落してしまった。夕暮れは、残された鉤にすがるように滑り落ち、あっという間に消えてしまう。残滓も見えない。
それでも、季節は美しい。
歩道には小さな紅葉が、水に流された布地よりも鮮やかに張り付き、常磐木には銀杏が吹きすさんでいた。あらゆる場所に、鮮やかな落ち葉がふかふかと柔らかく積もっている。
胡桃を咥えたリスが、黄色い落ち葉を掘り返し、冬の糧を埋めるとあっというまに去ってしまった。
ベッカライウグイスの、嵌め殺しの窓から見える庭は、リスさんと私によって、秋のために丹精されていた。
私たちは、円形の白いプランターに植えていたペチュニアを、マリーゴールドと葉ボタンに換え、冬を待っていた。もはや温かな黄やオレンジの花は、最後の盛りに向けてこんもりと咲きそろい、次から次へと花びらを零していた。
勢いをなくしてしなやかに地面に反った芝生には、小道からベンチへ向かってベゴニアを植えた。小さな赤い花は、暮れ方に灯る誘導灯のように見えた。
「もうすぐ、稗田さんが来るわね」
リスさんが、言った。
「……稗田さん、ですか?」
「ふふふ。来春さんも会ったことがあると思いますよ」
私は、記憶の底を浚った。
「あのね、とっても背が高い人」
「ああ!」
私は、春に、静かに庭を眺めていた人を思い出した。
「……そういえば、百合を植えるって……」
「そうそう。雪が降る前に来て、植えてくれると思うわ」
リスさんは、遠い時間を思い出すように言った。
「私じゃ、どこに大事な根や球根があるのか、正確な位置が分からなくて……傷つけちゃったら困るから」
リスさんと私は、まるで初冬を連れてくるかのような、背の高い庭師の稗田さんを待った。
古賀さんが「また来ます」と言って、旋風のように去った後、私たちはやっと安心して笑い、リスさんは、古賀さんの残したお土産の白い袋を開けてみた。
リスさんが、中から小さな箱と、大きなクッキーの缶を出すのを、私たちは微笑ましく見ていた。
「これは、何かな……」
リスさんは、小さな箱をカウンターの上に据える。それから、giftと書かれたシールの貼ってある蓋を開けてみる。
「……かわいい!」
中から出てきたのは、アプリコット色の体に、濃いブルーのたてがみをふさふさと垂らしたユニコーンの人形だった。
リスさんは、ユニコーンを手のひらに載せて嬉しそうに眺めた。
私は、もう、古賀さんがたとえふざけたユニコーンのTシャツを着てきても、咎めたりしないだろう。リスさんの手のひらの上のユニコーンは、あの本棚の上にそっと隠れているユニコーンとまるで対になるように美しかった。
リスさんは、それを本棚の奥ではなく、ベッカライウグイスのレジの横に飾った。小さく温かい世界が、息づきはじめた。
私たちは、コーヒーを飲みながら、クリスマスツリーが描かれた大きな缶に入ったブレッツェル型のクッキーをいただいた。
それから、ベッカライウグイスでは、ストーブの取り付け準備が始まった。
リスさんのお母さんの時代から、ずっとガスストーブを使っているという。ガスオーブンを使う関係で、そういう施工になったそうだ。
お店のドアが何度も開け閉めされるため、換気の心配もいらない。使われるガスストーブは、時代とともに変わっていって、外への排気筒も壁に開けられている。
リスさんと私は、リスさん宅に置かれている業務用の大きなガスストーブを、二人がかりで運んできた。
「いつ、点けるんですか?」
「来春さん、楽しそう」
リスさんが笑いながら言う。
「11月半ばかな。それまでは、エアコンで。あ、でも寒かったら言ってくださいね」
業者さんがやってきて、いつでも使えるように配管を通し、ガス栓にホースを付け、一度点火した。
ベッカライウグイスのガスストーブは、小さな窓から炎が見えるようになっている。
「結構な年代物なんです」
リスさんがそういうと、業者さんは心強く応えた。
「でも仕組みは簡単なので、埃さえ溜まらなければまだまいけると思いますよ」
「家の母が使っていたものだから、ずっと頑張って欲しいわね」
ベッカライウグイスで使われている器具や機械は、ほとんどすべて、リスさんのお母さんの時代から受け継がれてきたものである。従って、とても古い。オーブンなどは、窓が煙で燻され、庫内がよく見えない。それでも、リスさんは定期的にそれを磨き、大事に使っていた。
「小猿さんが見たらびっくりするわね」
オーブンを清掃しているときに、確かに、リスさんがそう呟くのを私は聞いたが、小猿さんの正体をまだ私は知らない。
秋深い夕刻の闇は、足早に辺りを飲み込んだ。
まだ5時になってもいないのに、辺りはすっかり夜のようである。
リスさんは
「もう、パンもほとんど残ってないし、今日は少し早めに閉店しますか」
そういって、レジの下から折りたたみ式の踏み台を取り出すと、外の看板を下ろしに行った。
そんな時に、突然電話が鳴った。
まだベッカライウグイスで電話を取ったことのない私は、あわあわしながら受話器を手にした。
「はい、ベッカライウグイスでございます」
「こんにちは。リスさんですか?私○○小学校の副校長で、吉野と申します」
ああ、あの時の!
私の頭の中に、パン教室での風景が蘇った。
「その節は、お世話になりまして、ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ、リスさんたちに来ていただいて、本当にいいお教室を開催できました。ありがとうございます」
「とんでもありません」
私が言う言葉ではなかったかな、と思ったとき、リスさんが両手で踏み台と看板を抱え、外から戻ってきた。
「あ、ただいま、店主が参りましたのでお電話代わりますね」
リスさんは、どなた?と言う顔で私を見る。私は、小声で
「○○小学校の副校長先生です」
と伝え、リスさんは受話器を受け取った。
「もしもし、お電話変わりました、鶯谷です。パン教室では、大変お世話になりました…………いいえ、こちらこそ、ありがとうございます」
事実、パン教室以来、ごひいきにしてくださるお客さんが何人か増えた。
私は、古賀さんを思い出す。ピンクのユニコーントレーナー、おかしな蝋燭のように立った三角巾……。
「……はい…………はい、あら。…………日程をお伺いしても…………」
そうして、リスさんは、壁のカレンダーを見る。
「…………そうですね…………どのくらいのお時間になるんでしょうか?…………ええ、ふふふ。…………ええ、大丈夫です、もちろんお引き受けいたします。はい。はい、分かりました。……はい。……こちらこそ、よろしくお願いいたします。はい。失礼いたします」
リスさんは、受話器を置くと、両手を腰に当てて私を振り返った。リスの大きな尻尾のような髪が、ふわんと広がってまた纏まる。これからの季節、襟巻きにできそうである。
そしてリスさんは、私にいたずらっぽくいった。
「来春さん…………引き受けちゃった」
「……何をですか?」
「大丈夫、パン教室じゃないから」
リスさんは、あらかじめそういって、私に安心を促す。私は、頷いた。
それから、楽しそうに早口でいった。
「町探検の、お店訪問よ!」
ベッカライウグイスと○○小学校の関係は、深まっていくようである。
11月を迎え、リスさんと私は、シュトーレンの準備に入り、シューさんはなんとか帰国すべく、必死にシステム構築の山場を乗り切ろうとしていた。
リスさん曰く、クリスマスマーケットに、シューさんは行かなければいけない、という。
そして、気の早いシューさんは、もう帰国のための航空券を予約してしまった。その日目指して、シューさん曰く、まだ込み入ってる部分を滑らかに稼働させて終わらせるのだ、という。
なんとも忙しい私たちであるが、この頃、一番落ち着いているのは意外にも古賀さんであった。のんびりみっちゃんよりも落ち着いているといってもよかった。
再びの宣言通り、古賀さんは、ベッカライウグイスの訪問を順調に重ねていた。その姿は、私の目には、なんだか用意周到なようにも映った。
相変わらず、紙の山が詰まった袋を持っていたが、それはスコアであることが古賀さんの口から明らかになった。
「古賀さん、いつもたくさん紙の束を持ってますよね」
リスさんは、コーヒーを注ぎながら、古賀さんの足下にどさっと置かれた袋を見下ろした。あまりの紙の量に、どこかに立てかけておく必要もなく、そのまま安定して袋自体が立っている。
「楽譜なんです」
みっちゃんが話に参加した。
「オーケストラの?」
「はい。あの、なんていうんですか、コロコロ?スーツケースの小さいのに入れて運ぶ人も多いんですけれど、ぼくはなんだかこれで……」
「大事な物なんじゃない?」
「大事です」
「じゃ、床に置くもんじゃないね」
「そうですね。分かりました」
古賀さんは、みっちゃんにじろりと見られながら、カウンターの隅に、その袋を持ち上げて置いた。
それから
「いただきます」
と小さな声でいうと、美味しそうにリスさんのパンを頬張った。これほど美味しそうにリスさんのパンを食べる人は、やはりそうはいないだろう。
さて、リスさんと私が、シュトーレン作りとともにもうひとつ抱えている懸案事項は、「町探検、ベッカライウグイス」である。
「そういえば、私も、二年生の時、この辺りの町探検に行ったわね。懐かしいー。床屋さんの安井さんのところへも行ったのよ。そのときの特別散髪モデルがね、校長先生だったの!」
リスさんと私は、小学生時代の思い出話に花を咲かせながら、子どもたちへのお土産作りに精を出していた。なぜなら、自分たちも過去にいただいたあれこれを思い出したからである。
「私は、近所に甘味屋さんがあって、ちょうどそこを回るグループで、串団子をいただきましたよ。神社のグループも、お菓子を貰ってきてたなぁ」
「私は、床屋さんと、ほら、この路地にある小さな商店、今は閉まっているけど金物屋さんだったのよ。そこへ行ったんだけれど、う~ん、やっぱり何か貰った気がする……しかも、なんかお菓子だったような……」
「金物屋さんで?」
「金物屋さんで」
私たちは、吹き出したが、今になって地域の大人が子どもたちのためにあれこれと準備してくれていたのがよく分かる。次は、私たちの番だった。こうして、受け継がれていくものもある。
という訳で、リスさんと私は、小さなお菓子のお土産を、学年全員の分、作ることにした。学年全員といっても、今は子どもの数が少ないので、70名ほどだと聞いている。
「アレルギーも多いからたいへんよね」
「米粉にしますか?小麦よりもアレルギーが少ないから」
「そうね。あとは、卵……うーん、卵は使わないようにしましょう」
「リスさん、学校に聞いたら、アレルギー情報を開示してくれるかも知れませんよ?その方が安心ですし」
「そうね、じゃあ、聞いてみるわね」
翌日、学校に電話をすると、打ち合わせに担任がお店へ伺いたいこと、そしてそのときに二学年児童のアレルギー情報を持って行くことを約束してくれた。学校の対応は速やかだった。
「クルミ、一人いましたね」
「そうね。アーモンドはいなかったけど、でもやっぱりやめた方がいいかなと思って」
「安全第一ですね」
リスさんと私は頷いた。
「米粉ときな粉のポルポローネにしようかと思うんですが、来春さん」
「私は、もちろん、教わる身ですので、よろしくお願いします、先生!」
「……やめてくださいよ。うち、先生がうじゃうじゃいるから」
私たちは笑った。
町探検の当日、リスさんと私は、朝から慌ただしく過ごした。
いつものように朝の仕込みと焼きを終えると、朝食もそこそこに各自の仕事を前倒しで行った。
私は、床を、力を込めて磨き上げると、すぐに外へ出た。
前夜の強風で、落ち葉と松ぼっくりまでもが山のような吹き溜まりになっているのを、高速で掃きまとめて片付ける。箒を持ったまま、ぼんやりなどしていられない。
児童は、午前中のうちに訪れ、30分ほどパン作りの説明を聞いたり、質問したりして過ごす予定だった。それが2グループ、時間差で続く。1グループ10人ほどの子どもたちと、引率の先生、保護者の方と聞いていた。
リスさんは、いつもならば午前中に準備する予定のパンを、朝の業務に組み入れたため、工場の機械はひっきりなしに材料を捏ねていた。発酵機も、前夜から満室である。
さらに、子どもたちに分かりやすいように、私たちは発酵の過程を実物で確かめてもらうつもりでもあった。
お店の真ん中、少しカウンター寄りの場所には、簡易テーブルを出した。「発酵の過程」ブースである。
そこに、パン作りで使われる材料を並べ、一次発酵、分割、二次発酵という順番で、パン生地を準備する予定である。それぞれの前に、状態を書いたメモを貼り付ける。
「来春さん、イギリスブレッド焼けました!」
「はい」
「リスさん、クルミのハードロール、焼けました!」
「はい!」
「チーズブレッド、焼けました!」
粗熱をとるためのパン置き場は、次々に焼き上がるパンでもういっぱいだった。
カランコロン
「おはよう!」
開店時間が訪れると、なぜかみっちゃんが一番にやってきた。
「いらっしゃいませ!」
みっちゃんは、いつもよりもとても楽しそうである。元先生の性であろう。みっちゃんは現役の頃、学校行事が大好きだったに違いない。
「発酵の過程」ブースに、準備されたものが次々と置かれていく。
お客さんが時折来店くださる。
目の回る忙しさである。
みっちゃんだけが、カウンターでのんびりとコーヒーの湯気をくゆらせ、焼きたてのパンの香ばしい匂いを満喫していた。
カランコロン
「こんにちは……」
「いらっしゃいませ!」
そこへ古賀さんまでが現われた。
古賀さんは、ほぼ3日に一度はやってくるが、それ以外はオーケストラの練習やピアノのレッスンで忙しいらしい。その合間を縫って、足繁く訪れるのだった。
古賀さんは、いつもと違う店内の様子に気づくと、私に声を掛けた。
「……あの、今日は何か忙しい日でしたら……」
古賀さんはみっちゃんと違って、細やかに人に合わせようとするタイプである。リスさんと私は、それを婉曲に、本来の古賀さんでいられるように、軌道にある障害物をささっと掃き出すことにしている。つまり、古賀さんが言いたいことを言えるように、くつろぎたいようにくつろげるように、気の置けないお店にしているということだ。それは、どんなお客さんに対してもそうだといえばそうであるが、知り合う度合いが増すほど、より深みが広がるのは自然である。
「あ、古賀さん、大丈夫ですよ!今日は、町探検で小学校の子どもたちがやってくるんですけど、いつものお店の様子を見学したいって聞いているので、そのままいらしてくださいね」
「はい、ありがとうございます。……小学生か……」
古賀さんは、にこにこしてパンを注文すると、カウンターへ向かった。
「おはようございます」
みっちゃんへ向かって、覗き込むようにして頭を下げる。
「おはよう」
みっちゃんが古賀さんに対して、まったく威圧感が籠もっていないのに、尊大に見せようとするところがまた、二人の微妙な関係を表していた。
リスさんと私は、忙しく働き、時計が、10時30分を過ぎた。
カランコロン
「こーんにーちはー!!」
元気な挨拶である。
リスさんと私も大きな声で、小学校2年生の子どもたちを迎えた。
「いらっしゃいませ!」
子どもたちは、先生を先導にして、わらわらとしながら入ってきた。
両手で口元を押さえている子、物珍しそうにキョロキョロする子、笑いが堪えられない子、隣の子のちょっかいを警戒している子、さまざまである。
全員が店内に収まると、先生が、もう一度挨拶をした。
「今日は、皆さんが通っている小学校の学区で、パン屋さんを開いていらっしゃる、ベッカライウグイスのリス先生のところへ来ました」
そうして、ショーケースの中のリスさんを見る。
「リス先生、よろしくお願いします!」
子どもたちも、一斉に唱和して頭を下げた。
「よろしく、お願いします!!」
「こちらこそ、よろしくお願いします!今日は、パン屋さんがどんなお仕事をしているのか、じっくり見ていってくださいね!」
リスさんが答えた。リスさんには、先生の才能があると思う。みっちゃんと古賀さんが、にこにこしながら、そんなリスさんを見ているのが私には分かった。
「では、まず、ショーケースを見せていただきましょうか」
先生が言うと、子どもたちは、肩に斜めがけしたバインダーを開き、メモやスケッチをとりだした。実に一生懸命である。リスさんと私が、ショーケースの中から出て、子どもたちの手元を覗き込むと、パンの種類を一つ残らずメモしようとしていた。
終わった子どもは、店内をうろうろしながら、色々なものを見つけている。
「先生!お菓子もある!」
「えーっ」
「美味しそうー」
リスさんの焼き菓子に、子どもたちは集まった。
「うずらの玉子みたいなのある!」
先生は、リスさんに聞いた。
「リス先生、お菓子の説明をお願いしてもいいでしょうか?」
「はい」
リスさんは、めぼしいお菓子の説明をしていった。
「お菓子屋さんみたい!」
子どもたちは、また店内を巡りはじめ、「発酵の課程ブース」に私たちが用意した、様々な器具、材料や発酵中の生地が入ったボウルを見つけて、周りに集まる。
「うわ、なにこれ?!」
「おもち?」
「おもちだー!」
リスさんは、簡易テーブルの前で、置いてあるものの説明をした。
「これは、パンの材料です。みなさんが食べる、ふかふかしたパンは、小麦粉とお湯、イースト、塩、お砂糖、バター、などからできています。これを、混ぜて、一生懸命捏ねて、叩いて、一時間くらい暖かいところに置いておくと、このボウルの中のようになります」
「えーっ」
「すごいー」
「なんで膨らむのー?」
「どうしてパンがこんな風に膨らむのか、不思議ですよね?それは、このイースト菌っていう、これは、実は生きているんですが」
「えーっ!!」
子どもたちがざわめいた。
「生きてるんだって」
「生きてるのー?」
「まっさかー」
「粘土だよ」
「動きますかー?」
リスさんは、答えた。
「このままでは生きてるように見えないし、動いているようにも見えませんよね」
子どもたちは、固唾を呑んだ。
「これは、イースト菌がものすっごくたくさん、何億も何十億も集まって固まっている状態です。そして、仮眠、といって、このイースト菌は眠っている状態です。ここにちょうどいい温度のお湯を入れると、目を覚ますんですね。あったかくて、気持ちよくなったイースト菌は、活発に活動し始めます。顕微鏡っていう、小さなものを大きく見せてくれる道具で見ると、だるまさんのような形をしたイースト菌が、びゅーんとものすごいスピードでは動かないんですけれど、ぷくぷく動いているのが見えます。そうすると、あ、生きてるんだな、って分かると思います。イースト菌のご飯が、お砂糖などなんですが、これをぱくぱく食べて、活動すると、ガスが出るんです」
「ガスー?」
「目に見えない、気体?空気とは違いますが、空気のように、目に見えないものですね。たとえば、風船も、空気を入れると膨らみますよね?そんな風に、イースト菌も、ガスを出して、このボウルの中のようにパンの生地を膨らませてくれるんです」
子どもたちは、大きなボウルに顔を寄せ合った。
「ぷくぷくしてるー」
リスさんは、そこへ、ささっと薄く小麦粉を振った。
「じゃあ、順番に、指を一本ずつ入れてみてください」
子どもたちは、行儀良く、順番に人差し指を入れていった。
「うわぁ」
「へんなかんじ!」
「穴があいたよ!」
「ちょうど、指の形に穴があきますよね?今、ちょうどいい状態なんです。これが、パン生地が、発酵している、という状態なんです」
「あれ?!」
そのとき、一人の女の子が、声を上げた。
「おじさん?!」
女の子の声に、子どもたちが一斉にそちらを見た。
リスさんと私も、みっちゃんも、そちらを見た。
古賀さんがちょこんと座っている。
「おじさーん!!こんなとこにいたの?」
女の子が足早に駆け寄る。
古賀さんは、目尻を下げた。
「うん、そう。ここにいたの」
担任の先生がが、
「あら、ありささんの親戚のおじさんなの?」
と聞いた。
「そう!おじさん、指揮者なんだよ!」
「えーーっ?!」
「しきしゃってなにー?」
「なにー?」
という声が、児童も大人も入り乱れて大合唱になった。
リスさんと私は、元気に発言した女の子を見た。背の高い、すらりとした女の子。
今、なんて…………?
そういえば、あの時、古賀さんをお迎えに来ていた女の子って…………。
私は、記憶にくっついている紐をずるずると引っ張った。姉妹で、古賀さんのパンの出来を褒めていた女の子たち。古賀さんの腕にしがみついていた、ひときわ背が高く、二年生には見えないその女の子。紐を引っ張りすぎて、私の記憶はがらがらと崩れ落ちた。
おじさん……。
という、響き。お父さんとは、明らかに違う。お父さん、ではない。
……古賀さんの娘さんではなかったのだ!
私はすべてが腑に落ちた。
PTAに混じり、おどおどと失敗する姿、一番見た目が若そうなのに、大きな二人の娘さんに手を取られ褒められている姿……。
古賀さん……。なぜ、あの場に混じっていた?後は、その謎だけだった。
担任の先生が場を収拾し始めた。
「あら、それは珍しいお仕事なのね。こんど学校で鼓笛隊の指揮をおねがいしてみましょうか?」
「えーーっ?!」
低学年の児童は、大合唱する。
すごい団結力である。
「鼓笛隊、やりたーい!」
「あの、ちんちーんっていうの」
「えーっ!バトン回したいー」
「びろんびろんしたいー!!」
先生は、さらに場をまとめた。
「そうねー、4年生から鼓笛隊に入れるので、それまでじっくり考えてみましょうか?皆さん、楽器の演奏や、あのなんて言うんですか、先頭でこうするの」
と言って、ジェスチャーを見せ、児童たちは笑い出す。
「ふふふ。色んなものが好きみたいですが、お料理は、好きですか?」
「えーーっ?!」
「したことないー」
「包丁、持ってる!」
「お泊まり会で、カレー作ったー!」
「あら、すごいわね。じゃあ、パンを作ったことのある人はいますか?」
ここで、児童は、急に静かになった。
「パンが好きな人は?」
そこは、全員が元気よく手を上げた。
「ショーケースに、美味しそうなパンが色々並んでいますね?あの美味しそうなパンの作り方が知りたい人は、しずかーに、リス先生の説明が始まりますよ……」
子どもたちは、水を打ったように静まった。
さすが先生の技である。
「もう少しで説明も終わりなんですけど、このボウルの生地を出して、丸めて、形を作って、もう一度イースト菌に頑張ってもらって発酵させます。そして焼くと、ショーケースの中のパンのようになります」
その課程も、簡易テーブルの上に、説明入りのメモをつけて、順番に置いてある。
「みなさん、しっかりメモをとってくださいね」
「はーい!」
先生がいうと、子どもたちはまたバインダーを手に、一斉にメモを取り出した。
メモを取り終え、暇そうにしていた一人が、私の存在に気がついた。
「お姉さんは、店員さんですか?」
私は、屈んでその男の子に答えた。
「そうです」
男の子は、私の名札を声に出して読んだ。
「サン、タ!」
「すごい!よく読めたわね。なかなかそう読んでくれる人はいなくって」
別の男の子が寄ってきていう。
「ミタじゃない?」
引率の先生と、保護者の方々は、私の様子を窺う。
「確かに、ミタって読む人の方が多いと思うんですが、私の苗字は、サンタって読むんです。戸籍上も、そうなってます」
子どもたちは、大喜びだった。
リスさんのパン屋さんに、サンタさんの店員さん。宿舎にはシューさんもいるよ……ということは秘密にしておいた。
愉快な町探検の時間は、あっという間に終わってしまう。
「あの、こちら皆さんにお土産です。今日は、見学に来てくれてありがとうございました!」
リスさんが、先生と保護者の方に袋を渡した。中には、わんさかポルポローネが入っている。
「このお菓子は、ポルポローネっていいます。スペインのお菓子なんですが、食べる前に、『ポルポローネ、ポルポローネ、ポルポローネ』って三回唱えると、幸せがやってくると言われていますので、ぜひそうして食べてみてくださいね」
児童たちの頭の中は、すぐにポルポローネでいっぱいになり、もう唱えだしている子もいた。
「すみません、こんなにたくさん。お仕事が忙しいのに……。ありがとうございます」
先生は、恐縮しきりで、何度も頭を下げている。
「では、みなさん」
「きょうは、ありがとうございました!!」
代表の児童が大きな声で言うと、全員がそれに続いた。
「ベッカライウグイスの、リス先生、サンタ先生、お店のみなさん、ありがとうございました!!」
「こちらこそ、ありがとうございました」
後日、子どもたちからは、様々に絵が描かれたり色が塗られたりしたお手紙が届いた。子どもたちの感想や、描かれたパンの絵は、最高だった。
リスさんと私は、それを色画用紙に貼り付け、ベッカライウグイスの壁に掲示した。
みっちゃんも、さくらさんも弘子さんも、シューさんも、その手紙を見て吹き出した。
『ありささんのおじさんも、パンが大すきだとわかりました。とてもおいしそうに食べていたので、ぼくも食べたくなりました。しきしゃじゃなくて、パン屋さんがぴったりだと思いました』
古賀さんがやってきて、それを読むと大笑いした。古賀さんでも、そんな風に笑うんだ、とリスさんと私は思った。
その帰り際、扉を開けて、古賀さんがリスさんを呼んだ。
「リスさん!雪虫が……」
リスさんは、呼ばれてお店の外へ出た。
私は、静かに、残るお客さんのみっちゃんへ、コーヒーを注ぎに移動した。
ベッカライウグイスの周りに、小さな丸い松ぼっくりがころころと落ち、雪虫が飛びはじめた、秋の終わりだった。




