F1 第3章《神経の最前線、レースという戦場》小説版
午前6時。チサトは、あえて時計を見ない。
視界の情報すら、今日は**“ノイズ”**に変わる可能性があるからだ。
「やるべきことは、もう身体に入ってる」
そう呟くと、すぐさまスウェットを脱ぎ、前頭葉に低周波パッチを貼りつける。
瑞稀と夏美がセッティングした**「Zoneモード」**の神経刺激装置だ。
「今日は左脳優位で入る感じね」
夏美が記録を取りつつ言うと、瑞稀がボソリと続ける。
「論理じゃ勝てない時が来たら、感覚を切れ。今日は“信号と本能”で動く」
午前9時、サーキット入り。
モーターホームの中は緊張感というよりも、**“修羅場前の静寂”**だった。
「ちょっと待て、このマップ本当にこれで行くの? ターン12でERS全開?」
リョウがデータシート片手に言えば、伊達は肩を竦める。
「無理通して道理を蹴るってやつだ。ドライバーが感覚でOK出してるなら、数字より信じるさ」
「え〜、それ物理法則全否定じゃん…」とボスがつぶやく。
「うちは物理より気合いです」って顔してるチサトをチラ見しながら。
午前11時、グリッドウォーク。
風速4m、東から西。温度、27℃。湿度60%。
デグラデーションは穏やかに見えて、実は**“裏切る風”**が潜んでいる。
「クラッチ、リリースポイント再調整。午前の路面温度上昇で反応早まってる」
チサトが指摘する。
「了解、左足の反応0.02秒前倒しでセッティング済み」
レナが即答する。さすがマシンの“副脳”。
午後2時、レーススタート──
グリーンシグナルが灯る0.2秒前、チサトは全身の筋肉を緊張させた。
目を使わず、“風”でスタートを読む。
クラッチリリース、ギア1→2→3。
ターン1の突入、イン側が開いた。
「イケる──!」
咄嗟の判断でラインを差し替える。
「ターン1、3台抜いた!」
「確認。P11、オコンの後ろ!」
リョウの無線が叫ぶ。すでにトップ10が視野に入った。
レース中盤、C2→C1へのタイヤ変換。
「今、ピット入ったらアンダーカット成立する。でも、次の周だとトラフィックが…」
伊達が判断を迷った一瞬で、チサトは叫ぶ。
「入る!」
0.8秒の判断遅れが、戦術を壊す。
それを知ってるからこそ、身体が先に決めた。
「ピット作業、2.4秒! ナイス!」
「タイヤ温度、もう少しで上がる。ERSはターン8から全開でいける」
後半スティント。
マシンは限界に近い。けれど神経はまだ残っている。
午後3時45分、チェッカーフラッグ。
最終順位──P9。ポイント獲得。
「あと2周あったら、ボッタス抜けてたのに」
チサトがそう吐き出した瞬間、
「その言葉が出るうちは、次も戦えるわ」
と瑞稀が静かに笑った。
「風はまだ、味方になりきってない」
レナがモニターを見つめながら呟く。
「次の戦場は、もっと強く吹かせるわよ」




