F1 第2章《ノイズと調律、そして風が変わる》小説版
午前7時。目覚ましが鳴るよりも先に、神経が起きていた。
「今日のフローは早いなぁ……」
チサトは、寝ぐせも気にせず、パルスオキシメーターを指にはめる。
SpO2は問題なし。脳は酸素を求めているが、呼吸はそれにまだついてこない。
ベッドサイドで黙っていたのは、メンタル担当のひとり。
今日は「朝から眼鏡装備」。戦闘態勢だ。
「REMの比率はいい感じです。けど、深睡眠は短めですね。予選ストレス反応、出てます」
「うん、身体がわかってる。今日が勝負ってね」
その一言で、ひとりは顔を赤らめた。たぶん、褒められたと思ってる。
朝食。トレーの上には、小さな白飯と鶏ささみ、オートミール。
“エネルギーは軽くて鋭く”が今日のテーマ。
「MCTとテアニン、入れてます」
そう言いながらコーヒーを渡してくるのは、たきなことレナ。
安定の無表情。だが、その分、成分配合に愛がある(ような気がする)。
「集中力、切らすなってことね?」
「当然です。あなたはマシンのCPUじゃない。神経を最適化してください」
って、言うことがサイボーグみたいだなこの人は。
午前10時30分、FP3(最終調整)開始。
「アウトラップ、どんなウォームアップにする?」
リョウが聞く。彼は珍しく2文続けた。今日は調子がいいらしい。
「ターン1前までに、ブレーキ温度前後650℃。リヤはちょっと抑える」
チサトの中では、もう走行ラインが再生されている。
FP3、走り出した瞬間に“違和感”があった。
(……路面、昨日とタッチが違う)
「ターン7、エイペックスの手前、フロントが逃げる。路面グリップ、1割落ちてる」
「風速、変化あり。西から東に流れてる」
アイボーの音声が入る。天気予報AI担当だけど、口調がやたら古風。
「なんであんた気象庁じゃないのにそんな正確なのよ」
とチサトが返せば、
「僕の計算資源は、そこの車体コントロールより上です」
と瑞稀が冷静にツッコミ。
午後1時、昼食後の瞑想ルーム。
「フロー状態入ったら、呼んでください」
夏美がタブレットを置き、圭介が天井を見ながら指を鳴らす。
「お前ら、なんでサーキットにいて精神科医みたいな顔してんだ」
と呟きながら、チサトは呼吸を整えた。
4秒吸って、7秒止めて、8秒吐く。
“神経を削る準備”は、ここから始まる。
午後4時。予選開始。
Q1、Q2、そしてQ3。
神経が削られるたびに、世界のノイズが増える。
「トラフィック、クリアじゃない。ピットアウト10秒ズレた!」
「ラッセルが出てきました。回避コードΩで行って」
レナが平然と返す。コードΩとは、“0.5周分のバッファを確保する回避走行”。
「クリアラップ、1周後に来る。温度キープで回して」
「了解。DRS開けるタイミング、3フレーム前倒し」
この会話、知らない人が聞いたら完全に宇宙語。
Q3、最終アタック。
ERS、DRS、ブレーキング、ターンイン、ギアシフト。
全ての“判断”が、0.1秒単位で重なっていく。
「ターン14、アンダー傾向強い。フロント、熱入り過ぎてる」
「了解。次ラップ、ターン13前でターボ遅延2%削減します」
エンジンマップを“感覚”に合わせてカスタムする。
このチーム、マジで変態ばっかだ。
午後5時30分。予選終了。
Q3:P8。
上出来。だけど、チサトの顔には納得の色はなかった。
「0.09秒足りなかったのは、ERSの切れどころ。ターン10で使い切っちゃってた」
伊達がデータを見て呟く。
「あと0.1秒詰める方法、あるわよ」
瑞稀が静かに言う。
「身体で覚えてるでしょ。ターン5のライン、あと20cmインに入れる」
「次は決勝よ。風が変わる」




