F1 第1章《目覚めよ、風の中の神経》小説版
朝の心拍が46しかなかった。
目覚めた瞬間、チサトは「あれ、寝た?」みたいな顔で天井を見上げた。
それは「昨日の夜ごはん食べたっけ?」くらいに曖昧な記憶。
でも、身体のセンサーは正直だった。
Ouraリングが示す睡眠スコアは「82」。まあまあ。でもベストじゃない。
「心拍変動、低めですねー」
リビングのドアの隙間からひょこっと顔を出したのは、生体管理担当のひとり。
今日も白衣の下にバンドTシャツ。テンパり声でチサトに言う。
「昨日の夜、ちょっと自律神経が交感に偏ってました。お風呂の温度、42度超えましたよね?」
……あのな、風呂にまでログ取るのやめてくれん?
でもひとりの予測は意外と正確で、腹立たしいことによく当たる。
朝食。チサトはキッチンカウンターで米をもそもそ食べながら、
メモ帳の横に「C2→C1対応、リアトラクション弱」とだけ殴り書きした。
「カフェイン、あと12分でストップね」
そう声をかけたのは、戦術脳のたきな。
髪をきっちり結んだ、軍人みたいなエンジニアで、感情表現は基本ナシ。
「え、そんな早くやめるの……まだスイッチ入ってないけど」
「入れるのはあなたの責任です」
容赦ない。そのくせ、タイヤ温度の変化に関しては3℃以内でブチ切れるタイプ。
午前8時、鈴鹿サーキット。
モーターホームの空気は、緊張感という名の湿気で満ちていた。
RB(旧アルファタウリ)チームの一角。チサトは無言でトレーニングルームに向かう。
反射板に向かって、Senaptecのストロボグラスをかけると――
「ストロボモード:ハード、タイミング差1.2秒」
反応速度は前日より2フレーム速い。
よし、今日は“聴こえる”日だ。
リョウが無言で頷く。彼は機械より無口なデータオタク。
一度口を開くと、「トー角2ミリ内ズレ」みたいな専門用語しか喋らない。
10時、FP1前ブリーフィング。
レナ=たきなが今日も涼しい顔でプレゼンする。
「本日、C1〜C3のうち、メインはC2。午前中は路面温度が低く、フロントの熱が入りにくい予測です」
「つまり、最初はアンダーが出やすいってことね」
「そうです。ターン5と11、要注意です」
チサトはふん、と鼻で笑った。
(じゃあ、その分ブレーキを残せばいい)
11時30分、FP1開始。
「よーし、行きますかぁー!」
グローブをはめて、チサトはマシンへ乗り込む。
ピットを出た瞬間、世界の“音”が変わった。
エンジンの回転数の中に、タイヤの音が“割って入って”聴こえる。
ターン5。ステアを切った瞬間、リアがズルリと逃げた。
「リア、出ます。ターンイン、0.2秒早くスライド開始。トラクション足りません」
無線越しにすぐレナの声。
《了解。デフミドル削減、スロットルマップ変更します》
すぐ次の周、挙動が変わる。
(ほら、こっちの方が“身体に合う”)
午後1時、昼食&パワーナップ。
サポートの夏美が用意したランチは、白米+具ナシ味噌汁+プロテイン入り玉子焼き。
「今日は集中力維持用にMCTオイルもちょい入れたからね〜」
って、そういうことは食べる前に言って。
「25分で起こして。深睡眠は避けたい」
「オッケー、音楽流す?アイボーが選曲してたやつあるよ」
「やめて、あいつセンスが昭和なんだよ……」
午後3時半、FP2。
今度はロングラン走行。
チサトは10周のうち、リアの内圧変化を“肌で読む”。
「7周目、左リアだけ2psi高い感じ。トー角にズレ出てるかも」
伊達が首を傾げる。瑞稀がタブレットを開く。
「センサーには出てませんけど……」
「私の神経には出てる」
チサトは即答する。
午後5時、デブリーフィング。
「ターン11、午後から風向き5°変わった。だからライン膨らんだ」
「マジで? 解析でも乱流出てたけど……先に感覚で拾ったってこと?」
ボスが笑いながら言う。
「お前、気圧計かよ」
この日、神経は“風”を感じていた。
でも、本番はまだ先。
――明日、予選。もっとシビアな感覚と数字の狭間に立たされる。




