第五話
時が過ぎるのは早く、金曜日の夕方。昼間に始めた各地での演説を終え、西日を背にして陽守は人気の無い帰路につく。
月曜日に燐伎や心槻と食事をしたことが懐かしい。また会えるのならば今度はもっと込み入った話でもしようか。あぁ、親御さんの許可を得てどこかに遊びに行くのもいいな……と、すっかり二人を導く大人面をしている自分がおかしい。周囲に誰もいないことをいいことに一人でくつくつと笑う。
知り合ったばかりのただの子どもに肩入れする理由は本来無い。無いが……心槻が“あいつ”の妹である以上、自分には彼女を守り通す義務がある。そして心槻が燐伎を友人として認めているなら、自分も認めよう。だから自分はあの二人を守る。……それだけだ。それだけのはずだ。
「……?」
気がつけば、前方に色素の薄い金髪を小さく結んだ男が一人。彼は穏やかな微笑みを浮かべてこちらを見ている。……気味が悪い。軽く挨拶でもして通りすがろうと、陽守もまた作り笑いを浮かべた。
「こんにちは」
「こんにちは。えぇと……そう、今は陽守って名前なんだっけ」
……自分のことを知っている? “今は”とはどういう意味だ。いよいよ心の気分も悪くなってきた。
「どういう意味でしょうか」
「……やっぱり、覚えていないよね。当たり前か。僕は早賀――って言ってもわからないだろうし……うん、坂本月予って呼んでよ。ね、陽守くん」
何を言いかけたかは知ったことではないが、やたらと関わりを持ちたがるこいつは何者だ? そう疑問に思った時、目の前の彼から答えが出た。
「僕は月の神。今日は陽守くんに話があってここに来たんだよ」
いつもとは少し違う帰り道を、いつも通り二人で歩く。心槻はこの後電車で故郷に戻り、明日から二日間実家暮らしだ。そんな彼女へせめてもの応援として、燐伎は現実逃避のおしゃべりをしながら心槻を駅まで送っていく。
「こづちゃんが帰ってきたらお祝いしなきゃ!」
帰ってきたら家で一緒にご飯を食べよう、と誘うと心槻はまだ余裕のある笑みで返す。
「無事に帰ってこられたら、だけどね」
「あー、こづちゃん的には戦地に行くのと同じような感じだもんなー。なら絶対に生きて帰ってきてくれよ!」
そう話しながら道を歩いていく。……が、近くで何か変な物音がする。物音というよりも、ドタバタと激しく動いているような音と、誰かの叫ぶ声。……喧嘩でも起きているのか? 二人で顔を見合わせる。
「こづちゃん、警察呼んだ方いいかな?」
子ども用スマホを取り出そうとするが、心槻が一度それを制止する。
「思い過ごしの可能性もあるし、一回現場を見てからの方がいいと思う。杞憂ならそれでいいし、もしやばかったら逃げよう」
「うん!」
そう決めて二人で現場へ走り出す。夕方になっても冷めないぬるい風を切って走る。――音が近くなってきた。人の姿が見える。恐らくは二人。そしてその姿をはっきりと確認した時、二人は足を止め口を開き、小さく言葉を漏らした。
「陽守の、おじさん……?」
目の前で陽守と、知らぬ男が戦っている。……いや、陽守が一方的に攻撃をしかけ、男がそれをひらりと避け続けている。
「陽守のおじさん、何してるのさ!」
思わず飛び出す。その小さな影に気づいた彼は思わず動きを止め、飛びかかられる。
「喧嘩駄目! よくないよ!」
「燐伎さん――に、心槻さん。いいえ、これは私の成さねばならないことです。危険です、お下がりください」
すぐ後から心槻も加入し、陽守が下手に動けぬよう腕を掴んだ。その姿を前に、男は心槻を見るなり少し呆然としたものの、何事も無かったかのように話しかけた。
「心槻さんもいるなんて……幸運だ。はじめまして、僕は坂本月予。心槻さんにもお話があるんだよ」
だが。
「黙れ月の神。お前は望千だけに留まらず心槻さんにまで毒牙を突き立てるつもりか」
二人を背に隠し、普段は決して人に向けて発さないがなるような低い声で敵意を表す。二人は何が何だかわからぬまま困惑するしかない。
「ね、ねぇ陽守のおじさん! 何が起こってるの⁉」
「そうよ、説明してよ」
二人の説明を求める声に、後ろを振り向かず、眼前の敵から視線を逸らさずに端的に話す。
「あの男は月の神。望千さんを……心槻さん、貴方のお姉さんを奪い月へ攫っていった男です」
「……! お姉、ちゃんを……」
燐伎が心槻を見ると、彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。……きっと、姉を奪われたことが悲しいからでも辛いからでもない。間接的にあの男の手により今まで自分が受けてきた仕打ちを思い出し、憎しみを抑えられそうにないのだろう。その証拠に、陽守のみならず心槻までもが今にも彼――月予に飛びかかりそうだ。
「うーん、この調子だと冷静に話はできなそうかな。せっかく会ったのにごめんね。また後で訪ねるから、その時に改めて話をしようよ。じゃあね」
「っ、待て……!」
月予を取り押さえるべく走り出した陽守。だが一歩遅く、彼の手が届くよりも早く月予は瞬時にその場から姿を消した。
残されたのは何もわからないが何か只事ではないことが起きる予感がする燐伎と、消えた月予のいた場所を睨み続ける心槻と陽守のみ。
「……陽守のおじさん。さっき言ったこと本当なの」
しばらく間を起き、ようやく口を開いた心槻が尋ねる。
「えぇ。あの男が自らを月の神と名乗ったのです。……せっかくだ、以前軽く触れた私の目的もお話しましょう。――私は、望千さんを奪った月の神へ復讐をします。必ずや、やり遂げる――」
背中を向けたまま語る。彼は決してこちらに視線は寄越さず、その顔を見ることはできなかった。
その後、陽守はその場からふらふらと立ち去り、燐伎は心槻を駅まで送り家へ帰ってきた。……今日一日で色んなことがあった気がする。
「……」
あの時、陽守はどんな修羅の顔をしていたのか。どれ程の憎悪が出ていたのか――今となっては推察するしかできないが、彼が月予へ壮絶な憎しみを持っていることは間違いない。
ソファに寝転び足をジタバタさせながら一人悶々としていると、大好きな親愛なるいとこが二人分の紙パックを持ってやってきた。
「りっちゃん、野菜ジュース飲まない? 大学院で貰ったんだけどこれ、期限がもうすぐでさ」
「飲む!」
すぐに飛び起き、朔一から野菜ジュースを受け取る。甘くおいしいそれに、少し心が癒された気がした。だが全ての不安を切り払うまでにはいかない。……彼になら話してもいいだろうか。
「……兄貴。今日ね――」
陽守のこと、月予のこと……夕方に見た出来事を話す。すると朔一は何かの合点がいったようで。
「あぁ……そうか。あの人が……」
「兄貴、何か知ってるの?」
何かを知っている様子の彼に素直に聞くと、少し苦笑いしながら答えを返してきた。
「ん? あぁ……今ようやくわかったんだけど、陽守さんには昔に会ったことがあってさ。……陽守さん、まだ望千さんのこと忘れてないどころか、それに縛られてるんだなぁって……」
これ以上は個人の事情だから話せないかな、ごめんね――と、伊達眼鏡越しの目を困らせながら謝罪する。朔一がそう言うのならば、燐伎もこれ以上の追求はできない。仕方なく現状を受け入れ、また野菜ジュースへ口を付けた。