第四話
九月十九日。この日のサクは朝目覚めた瞬間からとても気分が重かった。とうとう来てしまった木曜日。実情を知り、拙い策を講じ、何度も葛藤しながら過ごしていたこれまでの約十日間。――今日、望千は月へ行く。
朝食を摂りながら、“体が重いから学校を休みたい”と半分本当で半分嘘を親に言う。親は当然仮病を疑う……も、これまで体調不良で学校を休んだことなど無い健康優良児のサクが初めて体調面での弱音を吐いたことが気になるのか、対応はどこか優しい。
病院に連れて行くか聞かれ、慌ててそこまでじゃないと答える。なら学校に行け、と言われることを覚悟し次の策も急ぎ考えていたが、予想とは裏腹に親は休むことを許可した。(素行は不良だが)日頃の行いのおかげだろうか。
さて、親はどちらも仕事へ出かけた。サクも朝食を摂り終えた。急ぎ私服に着替えるが、学ランでは怪しまれるため今日は青色のパーカーと淡い水色をした七分丈のズボンを履いて待ち合わせ場所へ。場所はもちろん見晴台だ。
憎い程澄み切った青空。予報でも夕方は一時的に曇るものの夜は再び晴れるそうで、今夜は星も月もよく見えるだろうとお天気キャスターも言っていた。
「すみません、遅れました!」
そう挨拶を向ける先にはいつもの待ち合わせ相手で今夜月へ向かう望千が、彼女もまた私服姿でこちらを出迎えた。
「ううん、時間通りだよ」
腰元にはいつもの三日月の飾りを付け、そこに黄色い鳥と思われるぬいぐるみにオレンジ色のリボンを巻いたストラップが下げられている。
「それ……どうしたんすか?」
いつもは無かったストラップが気になり指を差して尋ねると、望千はうつむきがちに笑う。その口は嬉しそうに弧を描き、頬は薔薇色に染まっており、ぬいぐるみを愛おしげに撫でる。
「これ? 烏のぬいぐるみなの。色が色だしそう見えないよね。でも……太丞くんとの思い出なんだ」
この約十日間で望千は見違える程人当たりがよくなった。月に心を奪われたはずが今は心の大部分が再生しているように見える。これが本来の彼女なのだろうか。
「前から思ってましたけど、心を奪われたっていう割には案外ちゃんと感情出せてますよね」
つかぬことを聞くと望千も不思議そうに顎へ指を当て、一つの仮説を話す。
「そうね……新月の名前を持つアナタだから、月の影響を消している……だったりして」
「よくわかんねぇっす……」
とにかく、大事なことは心が戻った理由ではなく心が戻ったことそのものだ。とはいえ、今から月に行く為の旅が始まる――つまり、意思や事情がどうであれ月に行くことは決定しているのだが。
「……とりあえず、行こうよ」
ここでひたすら雑談をしていても時間はただ過ぎるだけ。そのことはお互いにわかっており、二人は共に見る町での最後の思い出を目に焼き付け、駅へ向かった。
長時間電車に揺られ、駅弁を食べながら最寄り駅まで向かい、次は町民バスに乗り。廃村近くのバス停まで来ると午後三時を過ぎており、スポーツドリンクを飲みながら地図を頼りに進み、廃村に到着した時は西日が最後の挨拶を振りまいていた。
「ここに祠があるんすよね?」
「うん。月の神の話ではこの村にある山の上辺りにあるらしいけど……」
そう言って見回した先には小高い山。奥から夕日を受け、廃村というシチュエーションも相まって黒く威圧感があり、サクは唾を飲み込んだ。だが、ここまで来た以上引き返す訳にはいかない。男気を見せる時だ――望千を見て、強がりながら言う。
「行きましょう。……きっと、いい景色が見られますよ」
山頂まで一時間かけて登り、頂上に着く頃には人工の光無しには歩くことが恐ろしい程薄暗くなっていた。もちろん街灯なんてものは無く、予め持ってきていた懐中電灯だけが頼りだ。
祠は廃村にあるせいか長年手入れがされていないようで、どこからどう見てもボロボロの――今にも崩れ去りそうなガラクタも同然だった。
上空は薄っすらと雲がかかり、雲越しに月の光が透けて届いている。
きっと、月が見える時が最後だ、お別れだ――そんな予感が嫌でもよぎる。それは望千も同じだったらしく、微笑んだ顔をこちらへ向けた。……サクと違うのは、その顔に迷いが無い点だった。
「今日って九月十九日でしょ。……実はね、今日が誕生日なの。今日、私は十六歳になった。……結婚が認められる年齢だね」
満月の名を持つ者が満月の日に誕生日を迎え、その満月へ向かうとは、おとぎ噺か何かだろうか。しかしそんな綺麗なものではない。月に人生の決定権を奪われた者が実質月へ攫われることと同義だ。……やはり気に食わない。
「まさか月に嫁ぐなんて言うつもりじゃないっすよね」
むしゃくしゃを抱きながらも冗談のつもりで話してみる。すると望千は即座に言葉を返した。
「客観的に見るとそうだね」
「なっ……!」
「でも」
雲が隠しながらもどうにか顔を出したがる月を見上げ。
「私が愛する人はこの世でもあの世でもただ一人、太丞くんだけだから。一度月に……余所に奪われた心だけど、太丞くんのことは絶対に忘れない」
――雲が薄くなる。徐々に切れ目が広がり、人の人生を奪うこと以外何一つ欠点の無い満月が姿を見せた。同時に望千が月光に照らされ、体が淡い黄色の光に包まれていく。
「サクくん、私のわがままに付き合ってくれてありがとう。……最後に後一個だけ、お願いを聞いてほしいな」
「……何すか」
声が震える。今自分がどんな顔をしているかわからない。そんな自分に、望千が己の眼鏡を外して差し出した。
「形見としてこの伊達眼鏡を貰ってくれないかな。いらなかったら捨てていいから」
「……いえ、受け取ります。あんたが太丞さんを絶対に忘れないなら――オレだって、望千さんのこと記憶から消したりなんてしてやりませんから」
受け取る為に伸ばしたて手も小刻みに震えている。ああ、かっこ悪い。男気が全くなっていない。それでも確かに受け取ると、望千はにっこりと笑った。……そして。
「ありがとう。サクくんがいなければ、私はきっと消化不良のままだった。どうか、お元気で」
そう言い残して望千の体は薄くなっていき、どこか安心したようなさっぱりとした笑顔で最後は光と共に消えた。
……月に再び雲がかかる。しかし出てきてはまた隠され……と、同じことをずっと繰り返している。予報通りならこの後、雲は完全に晴れるはずだが。伊達眼鏡をかけ、自分勝手な振る舞いをしているように見える月へ叫ぶ。
「てめぇの勝手で、人の人生操ってんじゃねーよ! ……こんなものかけたからって何になるんだよ。何も見えねぇよ。何も、見えねぇ……ッ」
気に食わない、気に食わない。理不尽も、それを受け入れる心の真っ直ぐさも、その覚悟を持たせてしまった情けなさも、意志を抱いていながら結局何もできなかった自分も、何もかもが気に食わない。
やけに冷たい夜風が月の下を、濡れた頬の横を通ったことに、秋の訪れを感じた。
――十月某日。サクは伊達眼鏡をかけて蓮隅大学病院を訪れていた。望千を見送った後、サクは近くの町で保護された。そして親にも先生にも今までで一番の説教をされた。そのことに文句は無い。言える資格は無い。……それでも、やり残したことが一つある。その為に今日ここへ来たのだ。
会うべき人がいる病室を再び訪ね――扉を開け、今日は起きているその人へ声をかけた。
「……はじめまして、加陽太丞さん」
「その声……あぁ、そういうことか」
腰まで布団をかけて起きている、何か合点がいった様子の彼――望千の恋人、太丞は悲しそうにこちらを睨みつける。
「はじめましてじゃないだろう。俺のぼんやりとした記憶が確かなら、お前は望千と一緒にここへ来たはずだ。……俺がうたた寝なんてしている時に」
顎全体が壊れそうな程歯を食いしばり、拳を握り締める。話を聞くに望千の来訪は夢だと思っていたが後に現実かもしれないと悟り、このサクの来訪で確信に変わったという。
簡単な事情は知っている彼へ、事の一部始終を全て伝える。
「望千さんを止められず申し訳ありませんでした」
深く頭を下げると、太丞は短くやめろと声をかけた。
「にしても俺の為……か。ちくしょう……ッ、俺がこんな身になったから……」
布団に数滴の雫が落ちる。握り込まれ、ちょっとやそっとじゃ消えないシワが刻まれる。
「……この伊達眼鏡、望千さんの形見です。太丞さんが望むなら譲ります」
そうサクが眼鏡を差し出すも、顔を上げない彼は力無く首を横に振った。
「それはあいつがお前へ渡したものだ。お前が持っているのが道理だろう。……悪い、今日は上手く話せそうに無い。……来てくれてありがとうな」
そう告げ、こちらとは反対の窓側へ……空の向こうの彼の地へいる思い人に目を遣る。
「……いえ、説明責任がありますから。じゃあオレはこれで」
病院を後にしサクもまた空を見上げる。都会でありながら、秋晴れを満たす透き通った空気はこちらの気持ちなど少しも介さないようにおいしく感じた。月へ向かった彼女は自分にも、彼女の恋人にも消えない傷として残されている。眼鏡のブリッジを押し上げ、見えない月を睨んだ。