第三話
望千が月へ行く満月の日は来週の木曜日。とある廃村にあるという祠が目的地であり目印だそうだ。事前に調べた結果、サクたちが住む町からその祠の辺りまでは丸一日かけて行かねばならないらしい。つまり木曜日の朝には出発する必要がある。
望千との話し合いから五日が経ち、現在は土曜日。猶予はもう一週間も残っておらず、実質無いに等しい。というのも、サクはただ思いつきで同行を選んだ訳ではない。同行の旅や、それまでの過程でどうか望千を引き止めたかったのだ。それこそ自分のわがままで、月と同じく身勝手な優しさだと理解している。それでも気に食わない未来を壊したかった。
そして今日、二人は住む町からかなり離れた大都市を訪れていた。観光ではない、とある目的の為に。
「すげぇなぁ……」
田舎町ではまず見られないビル街。歩道はどこもかしこも人で溢れ、閑静という言葉を知らない街。
観光に来た訳ではないことは重々承知だが、ついあちこちに目を取られてしまう。……サクだけが。
「望千さんはこういう所って気になったりしないんすか」
前方を歩く望千は脇目も振らず、地図を手に持ち、道を確認する為の確認だけをして歩き続けていた。
「大事なのはここで遊ぶことじゃないから」
「そうっすね……」
サクへ振り返ることすらせず前を見つめる彼女の言葉はどこか刺々しく感じられた。その棘の理由をサクは事前に聞いている。そして自らも当初の望千には無かった兆候を感じていた。
「(心を奪われたって話だけど、少しは心が戻ってるよな……)」
何故二人がこの街を訪れることになったのか。それは先日の夜にあった。
その日も変わらず家を抜け出し、サクと望千は夜だけの出会いを果たす。そしてサクは先輩方の噂話で聞いていた“恋人”について聞いた。すると――。
「……恋人は重い病気で、遠くの病院に入院してるの。学校もそこの院内学級に移って……私は彼の回復を月に願って契約をしたんだよ」
望千が月との間に交わした契約の底には恋人への愛があった。月はその愛さえ奪おうとした。サクには到底それが許せなかった。……ただ、それよりも二人が引き裂かれることが気の毒で仕方がなかった。それらの事情を全て引っくるめ、気に食わない。
「会いに行きましょうよ、その人に」
本当は恋人に望千を引き止めてもらいたかった。それにそういったサク側の事情を抜きにしても、せめて最後の別れは済ませるべきだ。
そして休日の今日、二人は病院があるこの街へやってきていた――。
「……着いた。ここよ」
歩き続けて辿り着いた門の付近には“蓮隅大学病院”と記された、看板代わりの重厚な石碑がどっしりと構えている。文字通り大学病院らしく、来るまでに大学が病院の付近、もとい敷地内にあることは確認していた。
地元ではまず見かけないあまりの巨大さにサクは尻込みしかける。……も、そんなことは全く気にせず突き進む望千に置いていかれそうになり、急ぎその後を追う。
一階の総合案内で受け付けを済ませ、恋人――加陽太丞がいる入院棟へ向かう。その移動時間はサクにとってどことなく気まずかった。サク自身、恋人に望千を引き止めてもらう為に今回のお見舞いを提案したが、そもそもサクは部外者だ。恋人はサクのことなんて知らない。だから彼に会うことが少し怖い……というちょっとした不安もある。
そんな不安は恐らく知らずに、望千は無言で歩き続ける。しかし入院棟に入る直前に足を止めた。正確には、足を踏み入れかけて止めた。
「……太丞くんはね、ちょっとツンツンしているけれど本当は熱い血が流れていて、優しい人なの」
そう語る望千の表情をサクが横から覗き見ると、彼女は恋人が愛しくて仕方ないとでも言うように、その顔に赤い花を咲かせていた。この時に、望千の唯一にして最大の未練が恋人であるとサクは真の意味で理解した。
「なら、太丞さんにちゃんと挨拶をしなきゃっすね」
「うん。……優しい彼なら引き止めるかもしれない、ううん、きっとそうだね」
望千もそのことはわかっているようだ。その一方で微笑みを崩さずにサクへ振り向く。
「私の思い、ちゃんと伝えるよ」
「……はい、しっかり言ってきてください」
入院棟のエレベーターを使い、病室があるらしい九階へ移動する。入口付近にあるネームプレートを確認し、二人はとうとう恋人がいる病室の前へ到着した。
「……開けるよ」
中の人に迷惑がかからぬよう、ゆっくりと扉を開ける。室内にベッドは四床あり、左奥のベッド以外は誰も寝ていなかった。そして左奥、南からの太陽光が射す窓辺で寝ている彼こそ――。
「サクくん。あの人が私の恋人、太丞くんだよ」
そう言って近づく。恋人――太丞は眠っているようで静かに寝息を立て、二人が接近しても何の反応も示さない。その表情も穏やかですっかり気が抜けている。ベッドの脇のサイドテーブルには望千が腰元に着けている三日月の飾りと対のものであろう、丸い……太陽と思われる飾りと、オレンジ色をした兎のぬいぐるみに黄色いリボンを巻いたストラップが置いてあった。
「お昼寝している、のかな? 久しぶりだね、太丞くん」
久方ぶりに会う恋人へ朗らかに声を掛ける。当然返事は無い、眠る太丞は望千の言葉を静かに聞いている。病気という苦痛から解放されているその安らぎに、望千も小さく優しい笑みの息を漏らした。
「私、月に行くことになったんだ。だからお別れを言いに来たの」
寝相か、少し身動きしたように見えたが起きる気配は無い。彼は変わらず目を閉じたままだ。
「太丞くんには感謝しているんだよ。アナタのおかげで私は大切って言葉の意味を知ったの。……だから、その恩返しをしたいの。今までありがとう。……元気でね」
最後に伝えたその言葉は震えていた。涙は流さずとも、隠されていた感情が喉元へこみ上げ吐息と共に吐き出される。
……これ以上ここにいてはいけないと思ったのだろうか。最低限必要なこと、もといどうしても言いたい大事な言葉だけを簡潔に伝え、望千は後ろへ体を向ける。
「もう大丈夫だよ。行こう、サクくん」
「……はい、行きましょう」
顔を見せない望千に――心に雨を降らせる曇った顔を見せたくない望千に続きサクは病室を後にした。
「望千さん、本当にいいんすか」
エレベーターの中で、俯いたままの望千へ声をかける。しばらく考え事をしていた様子の彼女だった少し時間が経ってから顔を上げ、サクを真っ直ぐに見る。その顔は揺るがない決意を表し。
「うん、これでいいの。……太丞くんの為なら私は何だって投げ出せる。むしろ決意が固まったよ。私、絶対に月へ行く」
いっそ晴れ晴れとさえしているように見える面持ちに、言えることは何も無い。だから。
「なら最後まで付き合います。……あんたの最後を見送りますから、安心してください」
……本人が全てを飲み込み覚悟を固めているのだ、ならばそれは肯定するべきだ。自分のわがままは通せなくても、せめて望千が納得するように。男気を通し、彼女の旅路の終わりを守ろう――言えぬ本音を心の奥に燻らせながらも、自らも決心した。