#60.2 死の嘆き
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして――――――――!!!!!!!!
こんな、こんなことがしたかったんじゃない。こんなことのために、わざわざ考えることを放棄したわけじゃない。考えてしまえば、それこそすべてを押しつぶしてしまうと思ったから、私の内側に鍵をかけたはずなのに。
「アルル! 助けて!!」
「どうした、いきなり……」
彼女はすぐに私の両手に抱えられているものに気がついた。顔が凍りついていくのがわかる。
「お前、なにを――」
「助けて!」
「チッ、お前のことはあとだな。ヴィズ!」
いまだ事態を察していないであろう呼ばれたもう一人が、「はーい」と柔和な声で応えて出てくる。けれど、私の手に抱えられた人物を見るなり、その顔からいつもの優しさは消えた。
「急がないと」
冷たく鋭い声。
「わかってる」
せめてできることを、と考え、冴えない思考をどうにか回転させて聞く。
「どこに運べばいい?」
「お前は手を出すな」
「で、でも……」
「要らないよ。それとルカを呼んでおく」
両手に抱えていたセンを、半ばひったくるように私から引きはがす。体を盾にしてこれ以上近づかないようにと警告しながら、丁寧に担架の上に寝かせ、ヴィズとともに奥へと消えていった。
腕に残ったかすかな熱がほどけていく。べっとりと腕中を覆う血のりだけが彼女がいたことを思い出させた。足元にもいくつか血の滴った後ができている。これを辿れば、あの凄惨な現場へと戻ることができるだろう。
わかってる。悪いのは私だ。こうなったのはすべて私のせいなんだ。でも、いざ、こうして彼女の最後の温かさが腕から消えると、もう二度とそれを抱えることはできないんじゃないかと不安になる。
失うことが恐ろしい。つい最近、ひとりを失ったばかりだというのに、また一人、しかも私にとって一番大切だったセンが消えるのだとしたら、私は何をこれからすべきだというのだろうか。
おぼろげな記憶を掘り起こす。せめて、自らが犯した罪を記録するために。
気が付いたときには、センは私の前で力なく倒れていた。顔は原形をとどめず、下顎だけが残り、上部はほとんどがつぶれていた。腕や足もすべてひしゃげるかつぶれており、正しい方向を向いているものは一つもない。身に着けていたはずの衣服もすべて剥がれ落ち、露出した肉はすべて赤く染まっていた。その下には大きな血だまりができている。傷の再生は間に合わないどころか完全に停止しており、とても息があるようには見えなかった。
突如として正気を取り戻した理由は、思い出したくもないけれど、きっとアレだ。口の中に現れた未知の感触。鼻を突き抜ける鉄錆の匂い。食んでいたのは生々しい弾力を保った肉だった。
嚙みちぎろうと顎に力を入れて、うつむき加減で歯が食い込んだとき、鉄錆の奥に嗅ぎなれたもうひとつの匂いを見た。それから急激に視界が澄んでゆき、眼前ですべてをさらけ出している彼女の存在を認知したのだ。喉にひと際大きな赤い穴が開いていた。無理矢理引き裂いたような、ぎざぎざで不格好な穴だった。
すべての事態を直感的に理解すると同時に、私は口の中のものを勢いよく吐き出した。べちゃりとだらしない音を立てて床に張り付く。でも口の中に残った味や匂いは消えてくれない。むしろどんどんと強くなり、唾液が生成され、鼻の粘膜それにばかり集中し、気を失いそうになった。
どうにか踏みとどまれたのは、目の前で何もかもを曝け出している人物がセンだったから。事実は恐ろしいほどの速度で現実を理解させるが、それが功を奏したのかもしれない。
私ではどうすることもできない状況なのは明白だった。息があるかどうかを確認することもせず、センを抱えて走った。目的地の具体的な想像はできていなかったけれど、足は向かうべきところを目指してくれた。だからいま、私はここにいる。
途端、体中から力が抜けた。二、三歩後ずさると、背中に壁が触れ、そのまま力なく腰を降ろした。
できることはやったはずだ。
でも、と、渇いた血が張り付いた自分の両手を見る。これほど赤黒くなるまで私はセンを傷つけたのだろうか。血の広がりは腕だけにとどまっていない。ゆっくりと視界を動かせば、腹にも腿にも足先に至るまで血に浸っていた。
床には垂れた血の跡以外にも、私の赤い足跡が残っている。これほどの流血を彼女に強いていたとしたら、助からないかもしれない。
私たちは確かに不死身だ。傷はすぐに治る。病に侵されることもない。年を取るという概念すらない。でも、私はそういうモノですら殺すことができるという特殊性を備えている。
死神――きっとそんな呼び名がふさわしい。私は目で見たものを、手で触れたものを、この舌で味わい、喉で嚥下したものを、問答無用で死に追いやることができる。たとえ不死の存在だったとしても。純粋な死という状態が訪れる。それは私たちのような存在が相手でも変わることのない平等だ。
だからこそ、普段は使うことができないように制限をかけている。見ても触れても死なないように、私は自分の死性を遠ざけている。
けれど、きっとあの時は違っただろう。自分に鍵をかけた後のことは思い出せない。見ていたはずでも、記憶には残っていない。なぜならそれすら無意識的に殺していたから。だから、思い出すことは不可能。そして、そんな事実が何よりの証拠となる。私は問答無用で、彼女にも死を与えたのだろう。それでも最後の記憶がどうにかつながるのは、無意識に記憶を殺すということすら、私は拒んで殺していたのかもしれない。
いや、そんなことはどうでもいいか。
瀬戸際だ、今は。そして、アルルが言ったように、結局、私にできることは何もない。
なぜだろう、妙に落ち着いている。こんなふうに自分の気持ちを俯瞰して見るのは初めての感覚だ。全身はさらなる脱力感に襲われている。体が沈んでいく。目を閉じた。ここは眠るには適した静けさに満ちている。