#60.1 死の痛み
あの日、王が彼女を棄てたあの日、ネフ様もまた棄てられたのだと思う。
怒号が響いている。泣き叫ぶような声が邸を満たしている。壁が震え、戦慄き、今にも崩れそうなほどの衝撃が幾度も繰り返される。ネフ様が自室に籠られてからずっとこんな状態だ。
王はこうなってしまうことを望んでいたのだろうか。それとも、いかに全知全能といえど、それでも見えないものがあるのか。前者であるのなら、私は王を二度と信じることができなくなる。後者であれば、王を信じる私自身を信じられなくなる。どちらに転んでも決して良くはないが、そのいつかはもうすぐそこまで来ている。
だとしても、王のご判断に間違いがあるなどとは思えない。彼女を棄てるという決断の意図は、私程度では到底理解できないが、だからと言って否定できるわけでもない。今までだってそうしてきた。そう信じ、従ってきた。私にとってのかけがえのない主は間違いなくネフ様だが、だからと言って王をないがしろにしたいとは思わない。彼が我らすべての主であることを誇りにさえ思う。けれど――
「――――――!!!!」
言葉にならない叫びが耳を貫く。今のはひと際大きかった。衝撃も凄まじい。
体が強張っている。恐れているわけではない。ただ、哀しいのだ。そんな声をずっと上げ続けているネフ様の声を聞くことが。あれほど苦しそうなお姿は初めてだ。
でも、止められない。私では不可能だ。
膂力の問題ではない。たとえ苦しそうでも、自らを傷つける目的でしかないとしても、救えなかったことに対する贖罪の表れで、その一切の感傷が私にとって関りのないものだとしても、私にはそもそも権利がない。
私はただ主にお仕えするのみ。その声を、言葉を、行動を諫めることはできない。忠義に悖る行為だと、私の内省が私を引き止める。だから、今はこうして何も気にしていない風体を装って机に向かい、必要のない事柄を何度も繰り返している。
一度のぞいたネフ様のお部屋はとにもかくにも荒れ果てていた。何度も迷った末に、やっぱり最初は止めようと、愚かにも考えた。そして、行動に移し絶望する。
原形をとどめないものばかりが散乱し、ひび割れ、崩れた邸の一部が散らばるそこを目にした。壁や床、天井にまで血が飛び散っていた。もちろんそのもとはネフ様ご本人。嵐のように荒れ狂う彼女の腕や顔、脚に至るまで、全身が血に濡れていた。
そこで悟ったのだ。私には不可能だと。そうまでして己を追い詰めるほどに、彼女のことを大切に思っていたのだと。
叫び続ける声は言葉にならない。でも、理解できる。彼女を失ったことを、嘆いている。
最初、彼女に出会ったとき私は彼女のことが嫌いだった。主にすり寄り、害をなし、取り入ろうとする、不道徳な生き物にしか見えていなかった。気やすく話しかけ、乱雑な言葉を使い、何度もネフ様の玉体に触れる。あの時の私にそんな彼女の行為を許せるほどの寛大さはなかった。
思い返せば、所謂嫉妬というものだ。私に彼女を照らし合わせ、彼女を見下し、軽蔑さえした。便宜上の対応だけをし、本心では口すらききたくなかった。けれど、ある折に彼女と話をする機会を得、私は彼女に対する認識を変えた、はずだった。
少なくともあの時、私と彼女は対等な友人になったはずだ。《《同じネフ様を信奉するものとして》》。実際、彼女は彼女なりの敬意をネフ様に抱いていた。
でも、認識が甘かった。彼女の存在はネフ様にとってただの友人ではとうになくなっていたのだ。ネフ様にとって彼女は、東西茜と言う人物は、深く心に突き刺さった楔のようなものだ。決して抜くことはできない、ネフ様の今後を変えてしまえるほどの存在だった。
そのことを今になってようやく理解する。本当についさっきだ、こんな理解に至ったのは。
けれど、そんな彼女はもういない。王が彼女を不要と断じ、次の世界へ連れていくことを許さなかった。その選択を、なかったことにはできないものかと、考えてしまう。
わかっている。王が間違えたわけではない。当然、ネフ様に不徳があったわけでもない。もちろん彼女にも。
誰を責めることもできないのだ。これはある種の理。受け入れることが当然の、帰結すべき現実。でも、今になって、すべてが消え去った後で、その裁可をどうにか取り消すことはできないかと考えてしまう。
彼女が消えたあと、最後の最後までネフ様は何も口にしなかった。ただ、無言で自室へと戻り、あの慟哭が始まった。
いつまで、続くのだろう。
この時間は、私にとっても苦痛だ。主の叫びが絶え間なく響き渡るこの場所で、その帰りをただ待つことしかできないことが、同じように私も自分の身を亡ぼすための試みをしなくてはいけないのかとさえ考えてしまう。
でも、それは余計だ。私の主への忠義は待つことによってしか果たされない。それがせめて、最後まで主の役に立てなかったものができる務めだと、そう、信じている――――……。
と、何度も自分を奮い立たせるために頭の中で繰り返した文言が、もう数えることすら面倒になったとき、扉は開かれた。
いや、正確には扉ではない。穴だ。私が離れることができずにいた執務室の壁に大きな穴が開いた。
その先に佇む一筋の影がある。もちろん知っている。漂う煙の最中にその姿を認める。そこにはもはや何を見ているのかもわからないうつろな目をしたネフ様がいた。
ゆっくりと、こちらへ向かって歩いてくる。私のことは眼中にないようにも見える。
立ち上がり、背筋を伸ばし、主を迎え入れる態勢を整える。明らかに異様な事態ではあるが、最低限の礼節は守るべきだ。
「ネフ、さま……?」
存在を示すことが目的ではない。ただ、見知ったものの声によって、その目に光が灯ることを期待した。
「……ねえ、」
声は聞こえているようで、視線がこちらを向く。いつもの紫とは違う、赤い目だった。
「あかねは?」
どう答えていいかなんてわかるはずもなかった。きっといないことは理解している。でも、その事実がどうしようもなく彼女を壊している以上、何を言っても無駄な気がした。
「るかに、いえば、ゆるしてもらえる、かな?」
「そんな、ことは……」
一体、なにに許しを乞うているというのか。茜が失われたことは自分の罪過だと認識しているのだとしたら、これ以上救いようのないこともない。
「あいたいよ」
ネフ様に罪があるとすれば、それは、彼女は関係ない。あるとすれば自身と、それから王だ。でも、それでも、こんな苦しみは罰としては重すぎる。
「ねえ、どうしたらいいの?」
視線が外れる。言葉を発したのが最後の正気だと、静かに理解した。
下を向いたまま、彼女は歩みだす。腕を伸ばし、私の首に手をかける。
覚悟は決まった。
どうしようもないのなら、それでも私ができることがこれくらいしかないのなら、抗う必要はない。私は主を受け入れる。