1-7
既に、催し物が始まっているからだろう。ドアは閉まっている。前に立っている人もいない。
リサがそっとドアを引き開けると、音と光が洪水のように流れ込んでくる。無数の燭台が煌々と輝き、活気あるオレンジ色が広がる。食堂の奥が舞台スペースとして空けられていて、そこでマジックショーが行われていた。テーブルの上にはクッキーやビーンズなどのお菓子が山のようにある。
「さあさあ、今から魔法の力を使います。普通なら、蓋を開けなければ硬貨を入れることができませんよね? でも、魔法を使えば……ほら、見ていてくださいよ?」
手にあったはずの銅貨がカコンと音を立てて瓶の中に現れると、驚嘆の声が沸き起こった。
リサはその様子を遠目から見る。新入生と思しき人たちは舞台を囲う形で座っていた。上級生はその横で、何かいそいそと準備している。
リサは場違いにも来てしまったような、申し訳なさと孤独感に襲われた。あの明るい輪の中に入れないのかなと勝手に想像すると、胸が締め付けられる。
マジックショーが終わると、上級生たちが楽器を持って移動する。演奏が始まった。最近流行りの曲だと紹介されたが、リサにとっては知らない曲だった。でも、優しくゆったりとした三拍子のメロディは、心を癒すものがあった。
食堂の端っこで立ち尽くす。不意に、規則正しく床板を踏む音が近づいてくる気がした。演奏を邪魔しないようにと、配慮した足取りだった。
リサは顔を上げる。驚きのあまり、心臓が止まりそうになった。
豊穣の麦を彷彿させる髪、透き通る青い瞳——。
上質な白色の上着に、ズボン。ベルトには宝石が散りばめられている。入学式の時ほど豪華ではないものの、美しい白色が彼には十分ふさわしかった。
(王子様だ)
リサの心臓が猛スピードで早打ち始める。体がみるみる熱くなっていく。
(確かにレレちゃん、来るって言ってたけど!!)
その王子様が、リサを見て、リサに近づいてきている。緊張のせいで、優雅な演奏は限りなく遠くの方で鳴っているように聞こえた。
王子様にとって、息をすることと、微笑をたたえながら人に優しく助けを差し伸べるのは一緒なのだろう。
「何かお困りですか」
小声ではあったが、真摯にリサの胸に響く。決して押し付けがましいこともなく、爽やかに感じられた。
「だっ……」
リサは答えようとしたけれど、息ができない。顔が間違いなく真っ赤になっている。
(深呼吸〜!?)
と思って初めて、王子様の横に人がいることに気がついた。
影が薄いわけではない。クリクリとした黒目に好奇心を宿した男の子だった。ぷっくりとした唇を少し開けながら、ずるそうに微笑んでいる。
彼も、美少年と言っていいかもしれない。髪の毛はクリームを塗って固められている。落ち着いた青色の服を着て、袖口から紫色が覗いていた。色合いから見れば、むしろ彼の方が目立っているかもしれないと思った。
「もしかして、新入生だとか。君、そうなの?」
リサがうなずくと、
「じゃあ僕が、晴れ舞台に連れていってあげる。今日は君、新入生が主役だからね。フフ、脇役というのも楽しいものだよ」
男の子は面白がって言いながら、左手を差し伸べる。
(ええっと……?)
リサは戸惑った。お手をするみたいに恐る恐る自分の手を乗せると、そのまま優しく手を握られて案内された。チラッと振り返って王子様を見ると、優しいまなざしと目が合った。けれども、そのまなざしは、リサを見ているような、リサを過ぎていってさらに奥にある何かを見ているような、不思議な感覚がした。
演奏が終わり、雑談タイムに入っていた。案内された空席の近くに、たまたまセルビアがいた。
「あ、リサちゃん!」
セルビアはニコッと喜んで歓迎してくれる。
リサは椅子に座る。黒目の男の子は、後ろの方で優雅に一礼すると、また悪戯っぽく唇を歪ませた。そして未練なく隅の方へ歩いていった。
皆、おしゃべりに夢中なのか、誰も「あの人だれ?」とは言わなかった。聞かれても答えられる自信がないから、リサはホッとした。ただの召使だと思ったのかもしれない。それにしては、育ちの良さが出すぎているような気がするけれど。王子様を探したが、もう見つけられなくなっていた。
「リサちゃん、お顔が赤いみたいだけど、大丈夫?」
セルビアが心配してくれた。
「うん……」
と答えようとした矢先、隣から、
「そっかあ、今日は結局、テウト皇子様は来られなくなったんだね。」
「そう、残念だよねー」
という無邪気な話し声が、聞こえてしまった。
(え、来ていなかったの? それなら……)
リサは自分の勘違いに気がついて、火山爆発のような恥ずかしさに襲われた。
(違う人を、王子様だと勘違い、して、た……?)
「——ィヤァっ」
「大丈夫!? 熱!?」
リサは耳たぶの裏どころか、体中が火照って熱くなっていくのを感じた。
(そんなあ!?)
心の中で悲鳴をあげる。
5分くらい経って、ようやく落ち着くと、事情を話すことができた。と言っても、
「すごく恥ずかしいと思っちゃって、心配かけてごめんね」
という言い訳だけだった。何が恥ずかしかったかなんて、言うのも恥ずかしい。でもそう思ってしまう自分がさらに……リサは間違いなく、恥のジレンマに陥っていた。
改めて周りを見渡すと、新入生は結構な人数がいる。全員の顔と名前を覚えられるかなあと不安になりながら、リサは皆の顔を眺めた。
出身地や親の職業の話をしているうちに、そのうち、
「エリーちゃんはどうして学園に入ったの?」
という話になった。
「えー、お父様に入りなさいって言われたから? お父様は宮廷で働いているの。入ったら箔が付くっていうし、当たり前なんじゃない?」
という人もいれば、
「そうなんだ、ソフィアちゃんは?」
「そうねえ。私も親に誘われたのだけれど、これから社交界に出るときの地盤になるというし、もしかすると、未来の夫がいるかもしれないでしょう? でも私も、卒業したらどうなるかと言っても、まだ先は見えないわよね」
一口に学園に入ったと言っても、いろんな子がいる。
出自を聞いていると、貴族や裕福な商家がほとんどだった。貴族は、宮廷人や王族の親戚など、王都に代々住んでいるところが多く、商家は有力都市の富豪で有名なところが多い。
学園の建前上「身分を問わず」と言っても、現状はそうらしい。
リサは、なんとなく理由を予想できた。一つは識字率の問題だ。
身分を問わないのは真実だとしても、文字を読めるのが最低条件になる。さらに学費の問題があり、奨学金で学ぼうとすると、利発さを証明する必要がある。それを満たす一般市民となれば、ごく少数の人間に限られてくる。しかも、現段階でそれだけ優れているのなら、よほど学問への志がない限り、学園の門戸を叩こうとはしないだろう。今ある自分の仕事で、より収入を上げようとする方が、自然な心情だろうと思われる。
女子の入学理由は、マナーや裁縫などの花嫁修行の意味合いが強そうだった。たまに学問に目覚める女性もいるかもしれないが、学者の道を歩むのは、ほとんど男性に限られている。卒業後は、嫁に行くか、宮中で侍女として仕えるというのが、彼女たちの進路らしい。
「リサちゃんは、どうして?」
セルビアに訊ねられて、リサは言葉が詰まった。
(まさか、王子様に会いたかったからとか、言えないじゃない)
さっきの恥ずかしい事件を思い出しながら、
「あたしも、似たような感じかな……」
と、それとなくごまかす。
まもなく、司会の朗らかな声が聞こえてきた。
「皆様、楽しいご歓談の途中、中断してしまって申し訳ないのですが、次のプログラムに入りたいと思います」
司会が言いかけた途端、誰か人が手招きをして、やりとりを始めた。何が起きたのだろうと、視線と不安が集まる。やりとりが終わった後、司会はパッと表情を明るくして、
「みなさん! 次に入る前に、スペシャルゲストをご紹介します!」
と明るい声をあげた。
「ショーカ」
セルビアがボソリと言った。
「え?」
「ショーカ様がいるわ……」
声がかすれていた。セルビアが見つけた通り、女の人が前方へ歩み出るのが見えた。この辺りの女性ではあまり見ないショートヘアで、艶やかな黒色をしている。
目は切長で、端が少し吊り上がっている。キリッと引き締まった顔立ちは、愛想笑いなどしないという意志にも見える。レディースのドレスを着ているが、裾は膝が隠れる程度にしかない。
衣装は、動きやすいように改良されているらしい。腰にベルトをつけ、60センチくらいの剣を挿していた。歩き方もとても静かで、神秘的な印象を与えた。
戦女神。その言葉が似合う女性を、リサは初めて見た。
リサはチラリとセルビアを見る。セルビアは、ショーカの一挙一動に釘付けになっていた。
会場も妙に静まり返っている。
ショーカは軽い咳払いをして、周りを見た。少しでも視線が合うと、ピリリと電流が走るように感じられた。
「諸君。入学おめでとう。はなむけの言葉として、私の好きな言葉を送ろうと思う。『雨垂れ石を穿つ』『念ずれば花開く』どんな環境にいようとも、どんな境遇にあろうとも、全力で努力をすれば、人生は前進する。生きている以上は信念を貫くべきだと私は思う」
(こういう人なんだ)
初めて見るショーカの存在に、リサは戸惑った。
話の内容をその通りだと思う反面、歓迎パーティーという楽しい場所に現れた彼女が、異様な存在に見えたのも確かだった。
ショーカはダラダラと話す主義ではないらしい。
「では」
と言い終わると、あっという間にいなくなってしまった。
ふと横を見ると、セルビアが固まったまま動かなくなっていた。
「セルビアちゃん?」
卒倒しかけている。何度か声をかけて、やっと我に返ってくれた。
「ごめんなさい、私、なぜだかぼんやりしてしまって……」
そして何かをごまかすように、セルビアは慌てて、
「あ、ねえ、あそこにいるのって、もしかして王子様じゃないかしら」
と指摘した。隅っこの方でショーカと話しているのは、リサがさっき見た人だった。
「ほんと!?」
やっぱり、勘違いではなかったのだ。
王子様がスピーチをすることはなかったけれど、いつの間にか来訪していることを皆が知って、公然の事実となっていた。
部屋に帰ると、レレムが明日の準備をしていた。でもリサの興奮した様子を見て、レレムは手を止めて、聞く姿勢を見せた。
「どうでしたか?」
「うん!」
「よかったですか」
「うん」
リサは何から話したらいいのかわからなかった。想いが溢れて最初に出てきたのは、やっぱりあの話だった。
「あのね、あのね、王子様がね!」
リサの興奮は、数日間続いた。