1-5
その日はよく晴れて、紫の花の木々が一面を誇らしげに咲いていた。段々と暖かくなっていく季節。リサの気持ちもほんわか高揚する。学校が終わって部屋に帰ってくると、レレムが楽しそうな表情で待っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま〜」
返事をしながら、その笑顔の奥に何かあることを、リサは敏感に感じ取る。すかさず、
「何かあったの?」
と、声を弾ませて訊ねると、レレムは気取った手つきで一通の手紙を差し出した。
「お手紙ですよ。セルべトス家のご令嬢様から」
セルビアちゃんからだ。リサは天使も癒されそうな笑顔になって、声にならない悲鳴をあげて受け取る。荷物は床に置いて、その場で読みたくなった。人から手紙をもらうなんて滅多にないからだ。
上質な白封筒の手触り。リサはもう中身を見る前からうっとりとした気分になり、期待を膨らませていた。
折り畳まれた便箋を開く。とても整った読みやすい文字が目に入る。読み初めは真剣な顔になっていたが、段々とまた幸せそうな笑顔が戻ってきた。
ふと視線を感じて面を上げると、リサが読み終わるのを待っていたレレムと目が合った。レレムも手紙の内容に興味があるらしい。
「セルビアちゃんからお茶会のお誘いがあったの!」
「それは嬉しいですね」
「お茶会って、わぁあ、ずっと憧れだった……」
リサは舞い出したくなった。といっても、ダンスを習ったことがなく、ヘンテコ踊りしかできないので、レレムの前ではグッと堪える。後で恥ずかしくなっちゃうからだ。それでも心は確かに舞い上がっていた。
「来週の週末だって。行きたい、行く行く!」
何度も読み返し、軽やかな足取りで歩き回る。額縁に入れて飾りたいと思うくらいの喜びようだった。
はしゃぎ回る姿を微笑ましく見ながら、レレムは言った。
「それならお返事を書く必要がありますね」
「うん!」
屈託のない声で頷く。しばらくすると、リサはふと疑問に思った。そして動きが止まると、今度はちょっぴり恥ずかしげにレレムの元へ歩み寄っていく。
「あのー、お返事って、どう書けばいいのかな……?」
「大丈夫です。お手伝いしますよ」
と、レレムは申し出る。その後、どこにそんなものがあったのか、リサが欲しくなるくらい可愛らしい便箋を持ってきた。
夕焼けがガラスを越えて、机の上をほんのり赤く染める。バランスが悪いのか、ガタガタと揺れるダイニングテーブルに紙をおいて、便箋と睨めっこするリサの姿があった。
「レレムさん、あの、これでいいのかな」
「そうですね。拝見します」
瑪瑙のような茶色い瞳を微笑ませて。手紙の文面に目を通す。
既に机の上には、何枚か書き損じた手紙が散らばっていた。書き間違えた時、どうしようペンが走るのと一緒に戦慄も走っていると、レレムが他の便箋を持ってきてくれて、ほっとした。
慣れていないのだ。でも、その分、気持ちがこもっている。
リサはソワソワと落ち着かない。
(大丈夫かな)
という言葉が全身からはみ出ている。神妙に宣告の時を待つ。
「これで大丈夫ですよ。あとは封をしましょうか」
レレムの言葉に、リサは笑顔の花を咲かせた。その笑顔は、夕日を浴びて一層輝いていた。
「やったあ!セルビアちゃん、喜んでくれるかなあ」
開放感はそのまま期待へと向かっていく。
その気持ちが減らないようにと、レレムは言葉を添えた。
「ええ、もちろんですよ」
「ありがとう、レレムさん」
リサは幸せそうに感謝を告げた。希望を見て生きている限り、人は幸せに生きられるものだ。リサも、既に空想のお茶会が開催されて、至福の気分に浸っていた。
「お役に立てて光栄です。……それと、リサ様。私のことは呼び捨てにしていただいて構わないのですよ?」
やんわりと指摘されて、リサはハッとした。
確かに言われてみれば、自分の召使に「さん」付けで敬称をつけている人をあまり見たことがない。リサはここに来るまで雇うにしろお手伝いにしろ、人に仕えられる経験をしてこなかったのだ。だから、どう接すればいいのかと戸惑うのも無理はない。
いつもの癖で、人差し指を頬に当てる。そうやって考えていると、リサにとって素晴らしい名案をひらめいた。
「んー。あ、わかった!次からレレちゃんって、言ったらいいんじゃないかな」
「ええっと、それは…………」
いつもなら流れる水の如く答えているレレムが、珍しく言葉を詰まらせた。滅多に感情のブレを見せないレレムが、本気で困っている。
「あの、ダメかな……?」
みるみると純粋な青い瞳が不安に染まっていく。レレムはいたたまれなくなり、あっさりと折れた。硬い声音で淡々と賛同する。
「いいえどうぞ、そうお呼びくださいませ。どのようになさりたいのかをお決めになるのはリサ様の権利なんですから」
その表情に、いつもの柔らかい雰囲気は消え去り、丁寧な言葉遣いだけが冷たく刺さる。リサが歩み寄ろうとすると、関わりの短さと立場の違いを思い起こさせるように、彼女は一歩身を引いてしまう。
でも、もともとの身分で言えば、そう変わらないはずだ、という考えがリサにはある。
「あの、気にしなくていいんだよ?——レレちゃんっ」
と、自分で今考えた名前を呼びながら、気恥ずかしさが勝って顔を少し赤らめる。
「えっと、笑ってほしいな。ほら、笑顔でいてくれた方が、あの、素敵だと思う、の……」
語尾がほとんど声になっていなかった。励ますつもりが急に恥ずかしくなってしまい、真っ赤な顔を両手で覆ってしまう。
レレムは急に赤くなったリサを不思議そうに見ながらも、
「そうですか。ありがとうございます」
と言って、仕方なさそうに顔を綻ばせた。リサの行動に好感を持てたのか、その微笑が、今までのなかで一番自然なものに、リサは見えた。
いや、見えたのではなく、知っていたのだろう。そのまなざしは、年下を年下と見て接っしてくる、リサのお姉ちゃんのものと同じだったのだから。
レレムが投函しに部屋を去ると、訪れる静けさの中で考える。
(あたしのこと、どう思っているんだろう)
突き放されたと感じたのは、ほんの一瞬だった。でもその一瞬が心に残ると、時は引き伸ばされて永遠にさえ、近づく。
(ダメだったのかな、嫌い、なのかな)
自分には期待しすぎる悪い癖があると、リサは自覚している。期待しすぎるから、出しゃばってしまうのだ。きっと今のも——と思うと、リサはだんだん泣きたくなってきた。
廊下から足音が聞こえた。ゆったりとした音は大きくなっていく。レレムかもしれないと思って、反射的に泣きたい気持ちを堪える。
「ただいま戻りました」
自分も住んでいて、自分の家のはずなのに、レレムは必ずノックをしてから入る。ドアを閉める時もそっと閉め、さらに余韻を持たせてからやっと振り返った。
「セルビア様もきっと喜んでいただけますよ」
と、いつものように微笑む。
けれど、リサは黙ったままだった。
(本当なのかな)
と思ってしまうのだった。その優しさも、所作も、少し前までは優雅に見えていたものが色褪せて、窮屈なものに感じられた。
リサは視線を落とした。書き損じた便箋が散らかっている。セルビアの字と比べると、稚拙で、醜い、しかもつづりが間違えだらけの自分の文字が並んでいる。
「……」
返事をしないリサを、レレムは茶色い瞳でしばらく見ていた。そしてさりげなく提案を始めた。
「今週末の夜に、新入生歓迎パーティーがあります。リサ様も行ってみませんか」
親しげな微笑をたたえて、ゆっくりと近づく。
「新しいお友達も増えるかもしれませんし、これからお世話になる先生や先輩方の顔も覚えられます。それに」
リサがうつむいたままなのにも関わらず、レレムは話し続けた。リサの隣までくると、少ししゃがんで、耳元へささやく。
「テウト皇子様もいらっしゃるそうですよ」
暖かい息が耳に溶けて、リサはくすぐったくなった。
(——何で知ってるの!?)
という表情で、バッと面をあげる。王子様に憧れているなんて、そんな恥ずかしいこと、レレムにまだ一度も言ってないはずだ。
ニコニコと楽しそうに笑いかけられると、リサはみるみるうちに顔が赤く染まっていく。
「行きたいですよね?」
「……うん」
蚊の鳴くようなか細い声で返事する。
(そうだけど、そうだけど——)
嬉しい反面、恥ずかしい反面、リサはもう、どうすればいいのかわからない。
「それなら、ご夕食の後にお洋服も決めちゃいましょうか」
リサはまるで本物のお姫様のように、言われるままにうなずく。
(嫌いじゃ、ないのかな……)
あんなに楽しそうに笑ってくれるなら、リサの心配は杞憂かもしれない。赤く火照った顔の熱を感じながらそう思うと、ホッと安心できて、リサも少し笑顔になれた。