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「今日は、私もご一緒させていただきますね」
次の日は、とても穏やかな朝を迎えた。ガラス窓から陽の光が差し込んで、食器のふちを白く光らせる。リサは、洒落たカップに注がれるモーニングティーに、気を取られていたので、
「——はっ、そうなの」
レレムの言葉にパッと顔を上げる。朝からお茶を飲む、なんて優雅な生活だろうとうっとりとしていたら、反応が遅れた。
「はい」
レレムはティーポットを静かに置く。控えめな態度は、品の良いウェイトレスを連想させる。
「必要があれば、従者としての役目を果たすようにと仰せ使っていますから」
いつもと変わらぬ整った笑みを浮かべて話す。茶色い瞳が、主人の本心を探る意図をもって、リサに注がれている。
リサは、
(従者って、なんだか本当にお姫様になったみたい)
と、ドキドキして、少しうつむいた。
後で知ったことだが、ダーネス国の文化では「従者」と「召使」は微妙に違うらしい。
従者とは、主人を補佐する役目の者のことである。乳兄弟のように、貴族の主人とセットで育てられることも多く、相棒に近しい存在になることも稀ではない。
対して召使は、文字通り「召し使われる存在」だ。家族丸ごと養われているにせよ、雇われているにせよ、家事や手続きなど煩雑な仕事を早く正確にこなすことが望まれている(望まれていることと、できるかどうかは、イコールではない)。
それではレレムはどちらに入るのか、と言われると難しい。両方のような気もするし、どちらでもいいような気もする。
リサにとって、それはあまり関係のないことだった。でも、いくらお世話してくれていると言っても、何となく、任せきりでは悪いような気がして、申し出る。
「えっと、それじゃあ、何か手伝う?」
「お心遣いありがとうございます」
大人びたトーンで答えられ、リサは体よく断られてしまった。
何となく寂しいような、それでも、これ以上言うのは気まずいような——。いくら優しくしてくれると言っても、赤の他人と同じ屋根の下で暮らすというのは、どこかストレスになるのかもしれない。
(——帰りたいな)
ふと、リサは思う。
(いいえ、まだ来たばかりじゃない。王子様が近くにいるもん。頑張らなくちゃ)
と思い直してリサはティーカップに片手を伸ばす。
決意を固めようと、赤い液体をゴクンと飲み干そうとした。
「——あついっ」
「淹れたばかりですからね。」
学校の1日というものは、慣れないととても複雑なスケジュールに感じられる。
まず、登校したらエルマリア聖堂に集まり、朝礼を行う。この朝礼の時間に、学校全体の連絡事項が発信される時もある。
その後に授業がある。授業は必修科目と選択科目があり、選択科目はいくつかある科目から、自分の好きなものを取る。2年からはそれぞれの進路に専攻、コースが分かれる。法律家や医学研究などもあるが、女性は語学や芸術を取る人が多いようだ。
と言っても、今のリサにとっては1日を生き切ることに精一杯で、将来のことなんて考える余裕がなかった。
今日の初めは外国語の授業だった。リサは後方からそっと入室する。
教室には男女ともに何人かいた。男同士、女同士で楽しそうにおしゃべりに興じている。そのグループの一つにアリーチェがいるのを見つけると、リサは身の縮こまる思いがした。
(気づかれたくないなあ)
本能的にアリーチェのいる場所から離れている席へと移動する。本当は気配を小さくしたかったのに、変に緊張して足元の荷物に蹴つまづいてしまった。
「——きゃ!?」
前のめりになる。倒れそうになったリサの腕を咄嗟に取ったのは、レレムだった。
「お怪我はありませんか」
「あ……うん、ありがと」
振り返ると、心配そうな眼差しが見えた。リサは恥ずかしくなって目をそらす。
(ここに来てからヘマばっかりしてる……)
勘違いしたり、泣いたり、こけたり——。
女の子の短い叫び声に、クラスの視線が集まった。言うまでもなくその中には、今日も流行りのリボン付きショールを履き、羽根ブローチを胸に挿したアリーチェがいた。
「あら、庶民の子じゃない」
クスッと笑う声が聞こえ、リサの顔はみるみるうちに赤くなる。
その時、レレムはリサの腕から手を離した。と思うと、黙ったままその手をリサの顔に近づけた。
「えっと……?」
「これで大丈夫ですよ」
リサが戸惑っているうちに、ずれていた花柄のカチューシャの位置を、そっと元に戻す。その時の笑顔がとても優しくて、リサは思わず見とれてしまった。
(守られている——)
初めて、そう思った。同時に、胸の内が温まる感覚がした。
言うべき言葉が見つけられないまま、椅子に座る。しばらく顔の火照りを感じていたが、周りの歓談が戻ってくると、リサも少しずつ落ち着いてきた。
おしゃべりの中で、一際甲高いアリーチェの楽しそうな声が耳に入ってくる。
「それでパパがね、『これも何かの機会だから』って、この学園に寄進したのよ。いくらかは覚えてないけれど、確か王様の次に大きかったんじゃないかしら」
王様の次となると、かなりの額の寄付ということになるだろう。
お金持ちってすごいなあと、持たざる者の劣等感がリサの心を虐める。それでも人前でそんな自慢をするのはどうなのかなと、これも、心の中で非難した。
アリーチェが相変わらず得意がって自慢話をしていると、
「おい」
そこに、突然男子が首を突っ込んだ。
「お前さ、口を開けばいっつも『パパがどうのこうの』言ってるけどさぁ、お前の親父が偉いかなんて知らねえけどさ、お前は何にも偉くねえだろ」
歯に衣着せぬ物言いに、リサはギョッとして彼を見る。
毛の先までオシャレに気を遣っているアリーチェとは対照的に、彼は身だしなみには飛んで無頓着なようで、髪の毛は寝癖のついたまま、服もサイズが合わなくて肩の布が不恰好にはみ出ている。おまけに口が悪い。
「何ですって!?」
カチンときたアリーチェは勢いよく立ち上がった。そうやって簡単に逆上するからこそ、彼は皮肉げに蔑んだ。
「偉くねえのにウダウダとうるせえんだよ。」
「あなた、貧民の分際でよくそんな口が叩けるわよね!今すぐそのムカつく話し方を直しなさいよ。さもないと二度とそんな——」
「ハンッ、自分の力でここまで来ていない奴に言われたくねえな。どうせ貧民には思い付かねえような汚い手段を使ったんだろ?」
相手は鼻で笑った。口喧嘩が始まって、急に辺りは静まり返る。
(怖い)
とリサは思った。でもリサは目を離さずにはいられなかった。アリーチェがあんなに血相を変えているのを見るのは初めてだ。可愛い女の子も怒れば般若になるものだ。
頭に血が上ったアリーチェがどうするのかとハラハラしていると、パンパン、と手を打つ音が教室に響く。前にいた先生のものだった。
ヤバリア先生という四十代後半のおばちゃんだ。いかにも面倒そうに顔をしかめて、
「はい止め止め。騒ぐなら外でしていなさい。ここは家畜小屋じゃないんだから。授業を始めるんだよ。……ほら二人とも、着席して」
と指図した。アリーチェはわなわなと震えて、
「わ、私と家畜を一緒にしないでいただける?」
「それなら大人しく座ってなさい」
そのやりとりが冷笑を買う。
アリーチェは、座りはしたものの、今度は先生を憎々しげに睨む。あの男子はとっくに後ろへ下がって、ニヤニヤと勝ち誇っている。アリーチェが怒れば怒るほど、いい気味だと笑っているに違いない。
口こそ開かないものの皆、思い思いに目だけの会話が始まった。無言の会話はなかなか収まらなかった。何故なら先生の話があまり面白くなかったからだ。
リサの位置からはアリーチェの姿も、アリーチェに啖呵を切った男の子の姿もよく見えた。
(これからどうなっちゃうんだろ)
自分のことも含めて、リサは不安になる。
終了の鐘が鳴り授業が締められると、こんな場所には1秒たりとも長く居たくない、と不機嫌を表明しながら、アリーチェは立ち去った。
「べヤード、やるじゃないか」
男の子の友達が肩を叩く。すぐに元気旺盛な男子による囃し立てが始まった。女子は女子で、ひそひそと話して楽しんでいる。
アリーチェに同情している人は誰も居ないように見えた。
(可愛そうじゃない)
と、リサは思った。同時に、
(でも、しょうがないよね)
何となくスカッとした気にもなった。アリーチェに傷つけられたから、傷ついたアリーチェを見てせいせいしたのだ。人の不幸のはずなのに喜んでいる——リサは自分の気持ちに恐ろしさを感じて、すがるように周りを見た。無意識に共感してくれる相手を探していた。
セルビアはどこかのグループに混ざって、困ったように笑っていた。先生は子供の問題は子供たちで解決すればいいと無頓着で、鞄を抱えてさっさと出ていく。
リサは自分の従者を見る。レレムは荷造りを既にやり終えていた。リサの目線に気がつくと、私は良き理解者ですし、そうでありたいとも思っていますよと語っているような、いつもの優しい雰囲気で笑いかけた。
それを見て、少しだけ救われたような気がした。安堵が期待に変わっていく。
廊下を歩く最中にそれとなく、
「さっきの、恐かったね」
と、話を振った。
「そうですね」
「あんなこと言われたら、あたしだったら泣いちゃうかも」
リサは自分の気持ちに正直に言う。
一歩後ろを付き添って、レレムはポツリと呟いていた。
「……味方だと思えるものがなかったんだろうね」
「え?」
「いえ、大変そうだなと思っただけですよ。」
リサは斜め後ろを振り返る。レレムの表情に変わった様子はなかった。瑪瑙の瞳は優しく輝いて、
「リサ様、教室はこちらでございますよ?」
「——あ、ごめんなさい!?」
ぼーっとしていたら教室を通り過ぎていたことに気がついて、考えていたことが飛んでいった。