1-3
道に迷いそうになりながら、目的の教室に到着する。
授業は各教室を陣取る先生がいて、授業毎に生徒が移動する形となっている。リサが教室に入ると、すでに何人かの生徒が席についていた。たくさんの長机や椅子、前方の大きなボード。ありふれた日常の中に色褪せていくこれらのものも、今のリサにはとても新鮮なものとして映った。
同じ教室にいる子を見ると、リサは期待の混じった青い瞳を彼らに注いだ。
(お友達できるかな)
リサの心は果てしなくソワソワしている。「友達100人欲しい」とまでは思っていないが、仲良くしてくれそうな友達が欲しいのは確かだった。
たまたま二人並んで座る長机の席に、女の子が一人座っているのが目に留まった。ウェーブのかかった長い黒髪に、淡い水色のお洋服を着て、まるでお人形さんのようにじっとしている。
(きれいな手——)
机に乗せられていた桜色の両手を見てそう思った。農業や荒仕事を一度もしたことがないのだろう。柔らかくて、もっちりした手をしている。
「あの、隣に座ってもいいかな……?」
リサは勇気を出してそう声をかけた。女の子は丸みを帯びた顔をこちらへ向けると、灰味がかった緑の目を微笑ませて、
「どうぞ」
と快い言葉を返してくれる。
リサは、お友達になれるかも、と期待する気持ちが出てきた。その種子は芽を出すと瞬く間に伸びていき、つる植物のように心に絡んで離れなくなってしまう。
荷物を置いて座ると、リサは名乗ろうとした。でも、緊張のあまりたどたどしくなる。
「あの、あたし、リサって言います。家はえっと、ノーヴ家の……あの、ドリレウムっていうところがあるんだけどね、そこから——」
「ノーヴ?」
一生懸命喋っていると、突然、後ろから声が降ってきた。とがめる声音に、びっくりして、
「はいい」
と気弱に答えながら後ろを振り向く。
後ろに陣取っていたのは、頬杖をついて見るからに気の強そうな女子だった。焦茶の髪をボリュームたっぷりに編み込んで、真っ赤なリボンをつけている。ヘアスタイルも今どきだし、身につけている衣服も、社交界で流行っているものを取り入れた派手なものだった。
そして本人の自信も、華美な衣装に負けないほど全身から溢れていた。自分が正しいと思い込む人がよくするように、彼女も一方的に蔑む態度でこう言った。
「ノーヴって、あれでしょ? ダーネス王国には三大魔女がいて、その中で『夢と幻を操る』っていうので有名だけど、何があっても田舎から出てこない変人ですって。結婚してたの?
そんな話、噂ですら聞いたことないんだけど」
鋭い眼光に射すくめられて、リサは泣き出しそうになった。
隣のお人形さんみたいな女の子は、その柔らかさを保ちながら困り顔になって、
「そうなんですか?」
と、尋ねる。
「あなた、結構有名な話じゃない。誰でも知ってると思うけど」
そんなことも知らないの、と言わんばかりに彼女は眉をひそめる。
「国の危機だからって3年前に王様が召集かけたのに三大魔女でノーヴだけが来なかったのよ? 王様が催促したら『病気です』って断ったんですって。絶対仮病よね。それで、どういうことなのかしら」
ずけずけと言われまくって、リサは小さくなるしかなかった。とてもじゃないけれど、言い返せるような性格ではない。気持ちが沈んで、急に話が戻ってきたのにも気づかなかった。
「ノーヴの話よ。いつの間に結婚してたの?」
「あの……あたし、養子です」
「養子?どこから?」
どこかの名家から降りてきたのか、と彼女はまず思ったらしい。けれど、リサには質問の意味がわからなかった。わからないなりに一生懸命説明しようとした。
「ええっと、ノーヴさんと私のお母さんとは、昔からご近所付き合いで仲がよかったんです。それで、ノーヴさんが行かせてあげるって言ってくれて……」
「ふーん、要するに、庶民の出ってこと?」
彼女のプライドの塊みたいな発言に、自分が否定されたような気がした。
(泣いちゃダメ)
涙を堪えるために、黙ることしかできない。俯いて、悲しみの沼に沈んでいく。
値踏みする眼差しは、隣へ移動していく。
「それで、あなたは?」
「セルべトス家のセルビアと申します。」
「セルべトスって、ミレートスの近くでしょ?辺境だからガンドレッド人が来るとか、危なくないのかしら。しかも、何もない田舎だっていうじゃない。まあ、私には関係ないからいいけれど」
偏見に満ちた物言いで、赤バラの棘のように刺してくる。セルビアと名乗った女の子は、曖昧に笑って黙っていた。
移り気な性格なのか、すっかり言い終わると興味が失せたらしい。今度は顔を綻ばせて、誰も聞いていないのに自己紹介をし始めた。
「庶民の養子に、世間知らずのお姫様ってところね。
私はアリーチェ。パパがアイア宝石協会っていう超有名なところの社長をしているの。皆が身に着けているルビーやエメラルドだって、ほとんどうちが取り扱っているものなんだから」
フフン、と得意気な鼻息が聞こえてきそうなほど、アリーチェはお高く止まっていた。
授業開始の鐘が鳴る。
アリーチェの話からは解放された後も、リサの心はどんよりとしたままだった。せっかく楽しみにしていた授業も、全く耳に入ってこない。
自分のことを否定されたこともそうだけれど、何よりも、ノーヴを否定されたことが悲しかった。ノーヴさんはそんな人じゃない——言い返せない自分がもどかしい。
その様子をセルビアはそっと見ていた。急にガンガン言われたことに傷ついて、心ここに在らず、というふうに呆然としているリサを見て、セルビアは手元の紙切れに書き留めると、こっそりと横に流した。
「大丈夫、人生はこれから。気にすることはないと思うよ」
リサは文面を見ると、少し頬を赤らめた。他人に心配されるほど、そんなに悲しそうな雰囲気が出ていたかなと思うと恥ずかしくなった。
気にしないなんて、どうしたらできるのだろう。
気にしたくなくても気にしてしまうから、悩みというのは尽きることがないのだ。それでも授業が終わるころにはいくらか気持ちが紛れたように感じた。励まそうとしてくれたセルビアに「ありがとう」と書いて渡す気持ちの余裕は出てきた。
(もう授業ないよね……早く帰りたいな)
終了の鐘が鳴ると、リサは席を立とうとした。教室の中の人は減っていき、まばらになっている。その時、セルビアがふとリサをまっすぐに見て、
「大丈夫?」
と声をかけてくれた。大丈夫だよ、と明るく答えようと思ったのに、その言葉を反芻しているうちに押し込んでいた心の蓋が開いてしまい、涙がボロボロと流れ出てしまった。
「ごめんなさい」
一度泣き出したらなかなか止めることができない体質は、リサが一番困っている。初対面なのにこんな——と申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
それでもセルビアは寄り添ってくれた。
「いいえ、無理に泣き止もうとしなくても良いのよ。泣いている時って、自分の気持ちに素直になれる時だから……。」
ハッとして面を上げる。セルビアの目は遠くを眺めるように優しく微笑んでいた。
「入学式の後にね、私、泣き出してしまったの。その時にショーカが言ってくれたの。『ここに来てから誰もいないところで、何度も泣いたけど、その度に自分の気持ちに素直になれて、前を一歩進められたから』って」
おっとりとした話し方でセルビアは教えてくれた。その声には密やかな尊敬が乗せられていたけれど、どこか寂しげでもあった。
「ショーカって……?」
「もう二十歳の——お聞きしたことはありません? 3年前に戦女神として現れて、会戦を勝利に導いたというお話を。その時にあまりに熱心に前線に立ちすぎて——まるで死を急ぐみたいに——そのせいで、この学園に送られたと。本当においたわしい限りですわ」
同情心が湧き上がるあまり、一筋の涙がセルビアの頬を伝う。
戦女神の話なら、リサも耳にしたことがある。1431年——三年前に、ダーネス王国はガンドレッドと戦争をしていた、敵は平野を埋め尽くすほどの大群で、このままではダーネス軍が破れるかと誰もが思った時、緑山から戦女神が兵を率いて降りてきたという。天が我らに援軍を与えたもうた——その姿を見たダーネスの兵士たちは鼓舞され、激闘の末、勝利を得ることができたという。
そして、ダーネス王家の切なる願いを聞き届けてくださって降臨された方こそ、この戦女神なのだ、と町のおじさんが熱弁していた気がする。その名前がショーカだということは、聞いていたかもしれないけど覚えていなかった。
セルビアは涙を白いハンカチで拭き取ると、雨上がりの空のような喜びを表情に表した。
「でも、入学できて本当に嬉しいわ。ずっとお慕いしておりましたもの。」
戦女神の後ろ姿を、セルビアは目の裡で捉えていた。
(一緒だ——)
リサの心に秘めている思いが顔を出す。リサが王子様を想う時と同じ目をしていた。セルビアは臆することなく自分の「好き」という気持ちを、出会ったばかりの人に伝えている。
すごいなあ、とリサは素直に思った。
「あたし、も……」
いつの間にか、リサは泣き止んでいた。それを自覚するいとまもないくらい、リサの心の中は甘酸っぱい思いで一杯になっていた。
「憧れている異性がいるの」
と口にした途端、耳の裏側まで真っ赤になってその先が言えない。
「それなら私たち一緒ね」
セルビアは優しく笑ってくれた。