プロローグ
ドリレウムという小さな町がある。
風光明媚な土地柄で、住み心地が良い。町はずれの緑豊かな丘には、昔から魔女が住んでいることで有名だ。
「でも、ノーヴさん、全然魔女らしくないよね。とっても優しいし」
魔女の名前はノーヴ。夢と幻を操る魔法使いだと言われている。夢と幻という、この世ならざるものを従えて、恐怖と狂気の世界に誘うという噂がまことしやかに流れている。
「全然怖くないし、それにどっちかって言うと、おっちょこちょい?怖いだなんて、どうして外の人は言うのかな。一度も会ったことないのに」
小さな唇から疑問が紡ぎ出される。
ドリレウムの町に住むリサは、普通の女の子だ。ふわふわのブロンドヘアに、母親譲りのくりりとした青い目は、どこか不思議の国のアリスを彷彿させる。周りの人たちよりも背が低く、童顔もあって実年齢よりも低く見られることが多い。そのことがリサの、ひそやかな悩みの種になっている。
リサはダイニングテーブルに頬杖をつきながら、不思議がって小首を傾げていた。すると暖炉の前で安楽椅子に座っていたお母さんが、編み物から目を離さずに相槌を打った。
「そうね。きっとノーヴさんにやきもち焼いている人がいるんだわ。
いいじゃない。私たちがノーヴさんはいい人だって知っていればそれで」
「んー。そうかも」
おおらかなお母さんの考えに飲まれて、リサは一瞬だけ納得した気になった。でも、よく考えてみると、やっぱり納得していなかった自分に気づく。
「けど、王様から嫌われているんでしょ?」
「リサ。ダーネスの国王陛下は、そんな小さなことで人の好き嫌いをされるお方じゃありませんよ。もっと寛容なお方です。
焼き餅を焼いているのはこの町の領主だわ。下には威張り散らしているのに、国の使者がいらっしゃったら途端にペコペコするんですからね。ノーヴさんは誤解されているだけよ」
よほど不愉快なことがあったのか、口を尖らせて喋る。気がつくと編み物の手が止まっていた。
でも国の使者が来たというのはもう3年前の話だ。お母さんが不快に感じた事件は、すでに何遍も聞かされているし、まるで壊れたスピーカーのように同じ話をし続けるのには、内心うんざりしていた。
また来るのかな、と警戒していると、案の定その時の話をし始める。リサはせめて心だけでもそこから逃れたいと思って、別のことを考えようとした。
昔は空想と言えば、「物語に出てくる素敵な王子様がいつか会いに来てくれる」と本気で信じていた。恥ずかしいから誰にも言わないけれど、ある時、お母さんにはポロリと言ってしまっている。そしてバラ色の空想を打ち砕いたのも、母の言葉だった。
(こんな田舎の町に王子様なんて来るわけないでしょう、それより忙しいんだからこっちを手伝いなさい、だって)
理解されなかっただけではなく、冷たくあしらわれたと感じたこともあって、記憶にこびりついている。
そういえばそれも、3年前に国の使者がやってきた時だった。使者たちはリサに、メルヘンティックな夢の世界ではなく、厳しい現実を送り届けたのだ。
(お姉ちゃんは17でお嫁さんに行ったしなあ)
リサは今年で15歳になる。お姉ちゃんと同じ年齢で結婚するなら、あと一年、二年——けれど好きな人がいるのかと聞かれたら、そういうわけでもない。
多分、無意識に理想の王子様と比べてしまって、それ以外の男性が目に入っても、あの人は顔が悪いし、この人は物言いが乱暴だし、その人は女の子の気持ちなんて全然わかってく
れないし、とピンとこないからだろう。
とにかく、いずれ訪れる生活に、漠然とした不安を持っているのは確かだった。
(——一体どんな人と一緒になるのかしら!)
胸奥で心がざわめく。リサにとって結婚は、遠い未来のゴールにはなり得ても、ゴール後の方が実は長いということには、まだまだ思いを巡らせられない。
近所の子供達に、編み物や簡単な読み書きを教えているお母さんの助手をしているという、せいぜいその世界の中でしか考えられない。そして、リサにとってはその世界がまた、ちっぽけで、つまらないものに見えていた。
(ああもっと、ときめきを感じることが、どこかにないかなあ。)
遠い目をして、リサは考える。
不意に玄関の木扉をノックする軽快な音が鳴った。
「はあい、どなた?」
無意識にこの場から離れようとしていたからか、リサは勢いよく立ち上がってドアの前に走り寄る。
「あら、その声はリサちゃん?」
「ノーヴさんっ」
喜びのあまり声をうわずらせながらドアを開ける。リサは今にも飛び付かんばかりの笑顔を咲かせて、その女性を仰ぎ見た。
黒に近い褐色の髪を下ろした女性は、垂れ目を細め、薄い唇を微笑ませて応える。歳はお母さんと近かった気がする。白いコートに暗紫色のニット帽というファッションセンスは、リサの目からは珍奇なものに映るけど、不思議と似合っている。魔女と言われるだけあって独特な感性と発想を持ちあわせていて、それも含めてリサはこの人が好きだ。
「ノーヴさん、どうしたの?」
と、訊きながら、リサの無邪気な目線は両手に抱えられた麻袋に注がれていた。ノーヴさんが訪問する時、いつも手土産を持ってきてくれる。「お菓子が入っているかも」と、密かにワクワクしているのだ。
「リサちゃんのお母さんに、とっておきのご相談があって来たのよ。リサちゃんにも関係するお話よ」
ニッコリと相好を崩しながらノーヴさんは答えた。
「あたしに?」
リサは意外に思って、その表情をじっと見た。けれど、何もわからない。
そうしているうちにお母さんも出てきた。
「まあ、ノーヴさん。ようこそいらっしゃいました。外は寒かったでしょう、どうぞ早く中にいらしてください」
と社交用の一トーンかん高くなった声で挨拶する。小さい子供を普段相手にしているせいか、なんとなく仕草が大仰で、滑稽に見えた。
暖炉の近くという特等席は客人に譲られて、たわいのない世間話が始まる。
近所の誰々さん家で夫婦喧嘩があったとか、どこどこのお子さんがとんでもないことをやらかしたとか、前に聞いたような話が繰り返されていく。どうして大人は同じ話を同じように繰り返して満足できるのだろう。1度目は面白くても、何度も聞いていると物足りなく思えてくる。
(私に関係する話ってなんだろう?)
リサは聞き耳を立ちながら、ノーヴさんからもらった砂糖菓子を口に入れた。コロコロと舌の上で遊ばせて、甘い塊を溶かしていく。
「あらあら、そんなことがあったなんて。大変でしたね」
「そうなのよ。それはそうと、ノーヴさんも一時期とっても大変だったでしょう? あの蛇みたいに残忍な領主に睨まれて、お屋敷が兵士で囲まれた時は、もうどうなることかとハラハラしていましたよ。まったく、ひどい人ですよねえ。いろんな悪い噂をばら撒いたり、嫌がらせしたり。あんまり大きい声じゃ言えませんけど、この前だって……」
同情にかこつけてヒートアップしていく批判に、ノーヴは曖昧に笑って、
「確かに色々あったけれど、おかげ様で今はこうして平和に暮らせていますから。ありがたいことですよ」
とやんわり流そうとした。
(ほら、ノーヴさんだって困っているじゃない、何で分からないんだろ)
とリサは心の中で思ったが、それはいわゆる岡目八目というやつである。
お母さんの気持ちはわからなくもない。でも、どんな噂があろうとドリレウムの町の住人はノーヴを慕っている。人生相談にも乗ってくれるし、病気も治してくれる。おだやかで接しやすい人柄もあって、風評被害に同情した町の人たちの結束が反対に強くなった。
確かにお母さんが毛嫌いしている領主とは真逆で、過去の功績を持ち出して威張るような、心のやましいところが全然ない。
お母さんから聞いた話では、先代の王様の時代には時々町外れの丘に高官がやってきて、意見を聞いて帰るということもあったらしい。今の国王に代わってからは人の行き来の無くなって、人々の記憶も薄らいできたけれど、それでもノーヴさんってすごいんだなあ、とリサは思う。
「そう?」
ノーヴの言葉にお母さんは批判の気勢をそがれていた。
「ええ、もちろんそうよ。——ああ、思い出したわ。ついこの前にお手紙をいただいたんですけど——リサちゃん、学園って興味あるかしら?」
「学園?」
急に話を振られて、思わず聞き返す。ノーヴはニコニコと微笑んで説明してくれた。
「王都のすぐ近くに大きな学校があって、『入学しませんか』って招待状が届いたのよ」
「入学ってノーヴさんが?」
「うふふ、こんな歳じゃ、お誘いされても遠慮しちゃうわ。私に養子がいるのを知って手紙を出したみたいね。でもあの子ったら、なかなか首を縦に振ってくれなくて。わざわざお手紙をいただいたのに、もったいないでしょう? リサちゃん、せっかくだからどうかしら。」
「ええっと、それって、あたしが行くってこと?」
リサは話が掴めなくて尋ね返した。ダーネスの街は立派な王宮もあれば人もいて、国内外の魅力的な物が集まっている。一度入ってみたいとずっと憧れていた。
でも、急に行くとなると、心の準備ができそうにない。
「行くとしたらいつになるの?」
「そうね、来年の春くらいになると思うわ。どう? 国が最高峰と謳っている教育——。将来国家を担う人たちを間近で見られるまたとない機会よ。第一皇子様もこの学園でお勉強されていらっしゃるそうだし、どこそこのご子息だってね——」
王子様。
その言葉に、リサはピクリと反応する。
(じゃあもしかして、学園に行けば本物の王子様に会えるってこと!?)
と想像が膨らんだけれど、安直すぎる、とすぐに思い返した。
(そんなことないよね)
都合のいい空想を振り払おうと、リサは首を振った。
「あら、興味なかったかしら」
と残念そうに言われて、リサはもっとかぶりを振る羽目になった。
違うの、と言いかけた途端、子供の気持ちは何だって分かっていると早とちりしたらしいお母さんが、口を挟んで断りに入った。
「ノーヴさん、学園入学は私にとっても嬉しいお話ですけど、その手紙はノーヴさんのお子さん宛に届いたものですよね。名前が違っていたら簡単にバレてしまいますわ。うちの子、考えていることが全部顔に出ちゃいますから」
(そんなこと言わないでよ)
リサはうつむきたくなった。最後の一言には傷ついたが、それはともかく、リサも今更のようにその問題に気がついた。
けれどもノーヴは落ち着いていた。相変わらず優しい微笑をたたえたまま、一通の手紙を取り出し、開く。中から出てきたのは壮麗で美しい便箋だった。ノーブは文章の一部分を指して見せると、
「それがね、名前が書かれていないのよ。ほら。ということは知らないのよ。だから気にしなくても大丈夫だわ」
独特な論法を持ち出してきた。「それって本当に大丈夫かな」と思わなくもないけれど、ノーヴが言うと、不思議と説得力があった。
「そっかあ」
とリサが納得しかけると、さらに畳み掛けて、
「それにね、もしうるさく言われたら名義上養子にすれば、キレイさっぱり問題はなくなるわ。そういうことにしちゃえばいいのよ」
ウフフとイタズラっぽくノーヴは笑う。すがすがしい公私混同の姿に、リサは何だか感銘を受けてしまった。
ノーブは真っ直ぐにリサを見る。
「だから後はリサちゃんの意思だけよ」
「あたし、行ってみたい」
喋りだす側から、頬がほんのりと赤く染まっていく。ロマンティックな空想が、再び白い翼を与えられて飛び立とうとしていた。
(王子様が来ないなら、そうだ、会いに行けばいいんだわ)
とポジティブに考えて、行く理由づけにする。
それを意外に思ったのは、やっぱりお母さんだった。
「え、本当?」
信じられないという顔をして訊いてくる。
「うん、ね、いいでしょ。ノーヴさんもいいって言っているから、そんなに迷惑じゃないと思うし、あたしも行ってみたいし。滅多にないチャンスなんでしょ。あたしもここ以外のいろんな人に会ってみたいなって思うもん」
気分が高揚して、リサの声が上ずっていた。
「でも……」
「お母さんだって、嬉しいってさっき言ってたじゃん」
「そうだけど……、でもそんな遠くにリサが行くなんて。リサがそんな所……。」
リサはキラキラと瞳を輝かせて訴える。けれども、お母さんは頭をクラクラさせて抱えた。
その様子を見かねて、先ほどまで楽しそうに勧めていたノーヴも、同情を見せた。
「まあ、お家の事情もあるでしょうから、ご家族でよく話し合ってみてはいかがですか。」
「そうさせていただきますわ……。本当に、お父さんとも相談しないといけませんわね。」
精神的に滅入った様子でリサの方に向き直ると、真剣な面持ちで諭し始めた。
「リサ、本当に行きたいの?誰も知り合いもいない中で、一人で生きていかなくちゃいけないのよ?何かあってもすぐには相談に乗ってあげられないし、うちはそんなに裕福じゃないから、仕送りだってままならないし、それに——」
「お母さん嬉しくないの?」
学園に行った後に、どんな生活が待っているのか。そこまで意識が及んでいないリサは、そう言い返した。
お母さんはハッとして固まった。
「でも」
と言いかけたが、続きの言葉が出てこないようだった。
夜になって、帰宅したお父さんに話を持ちかける。すると、思っていたよりも簡単に賛同した。
「そんな——この年で一人暮らしなんて、かわいそうじゃありませんか。王都の人達ってせかせかして冷たいって聞きますし、勉強だって本当についていけるかどうか……。私はリサを心配して、言っているんですよ」
「そうは言ったってだな、リサにとっては二度もない機会じゃないか。もし行かせないって止めて、一生後悔させることがあったら、親として責任を持てるのか?」
「でも……」
「人生は一度きりだ。リサが行きたいっていうのなら、お父さんは賛成するよ」
両親がここまで言い合っているのは、自分が単純に希望を述べたせい? リサは終始ソワソワしながら、話を聞いていた。
大人が真剣に議論しているのを見るのは、何だか怖い。一家騒動から夫婦喧嘩になったらどうしようと、固唾を飲んで見守る。
理解ある父親の説得で、お母さんは最終的に、
「……分かったわ」
と折れ、涙ながらに微笑んでくれた。
「お母さん!」
喜びと安心が同時に込み上げてきて、リサは母親に抱きついた。