39.過去
お開きになった小説は「二重勇者はすごいです! ~魔王を倒して現代日本に戻ってからたくさんのスキルを覚えたけど、それ全部異世界で習得済みだからもう遅い~」で間違いございません
「――フール!」
耳を貫いた叫びに、朦朧としていた意識が覚醒する。
胸を塞ぐ違和感に咳き込むと、口の中に鉄の味が広がった。
胸元に視線を落とすと、ひしゃげたブレストアーマーが見える。
もし、防具もなしにあの攻撃を受けていたら、と思うとゾッとする。
(……怖い)
そんな俺の前、五メートルほど先でにちゃにちゃと不快な顔で笑うのは、ファンタジーの代表的な怪物〈ゴブリン〉だ。
ファンタジーやゲームの世界なら、真っ先に倒される雑魚中の雑魚。
実際にこのネクストマーチでも、ゴブリンは最弱に近い魔物だと聞いた。
そんな相手なら、俺だってやれる。
そう、思ったのに……。
「ギャハッ!!」
耳障りな声と共に、ゴブリンが跳ぶ。
一瞬、だった。
その緑の小人が地面を蹴ったと思った瞬間、奴の血色の悪い肌の汚れや、黄ばんだ歯の汚れすらはっきりと見えるほどの距離に、近付かれていた。
「――くっ!」
唸りをあげる凶器から身をかわすため、必死で身体を投げ出す。
無様で、不格好な回避。
この世界に来てから習った教練の内容なんて、まるで残ってはいなかった。
背後で、轟音。
とっさに振り向けば、俺が一瞬前まで背にしていた岩に、ゴブリンが鉄のこん棒を叩きつけ、いや、めり込ませていた。
そして、それだけじゃない。
「――なっ!?」
あまりの威力に数瞬遅れて岩が弾け、破片が飛び散る。
ファンタジー世界に慣れてきた俺ですら目を見開く、非現実的な光景。
(これが、モンスター!)
人を害すること、そのためだけに存在する怪物。
たとえ最弱の魔物といえども、決して侮るべきではなかった。
フォルス王女の話していた「もう三年もこの状態が続けば、この世界から『人間の国』はなくなるでしょう」という言葉が、今さらになって思い出される。
あの時は大げさな、と思っていたが、それが杞憂などではないことが、肌で感じ取れてしまう。
どうあがいても、魔物に人間が勝つことなんて不可能なのではないか、そんな弱気に心が支配されかけた瞬間、
「――フール! しっかりして! フール!」
聞きなれた彼女の叫びが、俺の心をもう一度呼び覚ます。
フォルス王女。
死にかけの俺をこの世界に呼び寄せ、これまでずっと支え続けてくれた少女。
彼女はいつもの澄まし面をかなぐり捨てて、必死に俺に駆け寄ろうと手を伸ばしていた。
そんな彼女の手は、王女の身を案じた近衛兵によって止められて、俺に届くことはない。
ただ、それでも届くものはあった。
「……そうだ」
俺は、決めたんだ。
誰でもない、俺が、決めた。
勇者をやるって。
魔王を倒して、元の世界に戻るって、決めたんだ。
そっと、剣を構える。
ようやく岩からこん棒を抜き出したゴブリンが、不潔な歯をむき出しにしていびつな笑いを見せても、俺の心は揺らがなかった。
「――燃えろ」
誰にも届かない静かな一言と共に、身体の熱が回る。
勇者の力が身のうちを駆け巡り、握りしめた剣が赤熱する。
「……ギャ?」
様子の変わった俺に、ゴブリンが束の間、戸惑ったような仕種を見せる。
だが、それもさほどの時間稼ぎにもならない。
人を殺し、その営みを破壊することを至上の娯楽とするこの邪悪な生物は、目の前の獲物を決して放置出来ない。
薄汚いその怪物は、甲高い叫びを放ち、右手のこん棒で俺の脳天を西瓜のように砕こうと、地面を蹴った。
(確か、に……)
確かに今の俺は、ゴブリンに力でも、速度でも劣っている。
だけど、だからって戦えないって訳じゃない。
迫りくる鉄のこん棒。
岩すらも粉砕するその一撃を、俺は避けない。
避けながら攻撃するなんて器用な真似は、今の俺には出来ない!
だったら、道は一つ!
「――があああああああっ!!」
鉄の強打を受けた左手の籠手が砕け、肉が裂け、骨が悲鳴を上げる。
口からは獣のような声が漏れ、あまりの痛みに視界が真っ赤に染まる。
……だが。
それと同時に突き出した右手の剣は、確かにゴブリンの喉を貫いていた。
「ギャ、ァ……?」
ゴブリンは何が起こったのか分からない、という表情で目を見開き、そのままこと切れた。
力を失ったゴブリンの身体から、ズルリと剣が抜ける。
「……ぁ」
不快な感触と、命を失った魔物の身体を前に、俺は呆然と立ち尽くす。
(勝った、のか?)
勇者の力で左手の傷を癒すことすら忘れ、命の危機を脱した安堵と、命を奪った衝撃に、俺がその場に倒れ込みそうになった時、
「――20点、だな」
放心していた俺を我に返らせたのは、冷たい声だった。
「騎士団長……」
騎士団長、アリア・フェーブル。
二十代半ばという若さにして騎士団の頂点に昇り詰めた彼女は、勇者である俺の指導役でもある。
その剣の技量はすさまじいの一言で、勇者として呼ばれたことで身体能力が上がった俺でも、訓練では彼女に剣をかすらせたことすらまだ一度もない。
彼女は倒れたゴブリンなど一顧だにせず、俺だけを見て言った。
「技を使うのも、自らの負傷を顧みず敵を倒す姿勢も見事なものだ。だがな、それは〈勇者〉の戦いではない」
冷たい瞳が、厳しい視線が、俺を射すくめる。
「勇者であろうとするならば、この程度の魔物に腕を差し出すな! 無傷のまま、攻撃すらさせることなく、ただの剣の一振り、魔法の一撫でで、まとめて叩き潰してみせろ! 誰よりも、何よりも強くなって、人々に希望を与えてみせろ!」
その言葉に、その現実に、俺は打ちのめされた。
そりゃあそうだ。
ゴブリン相手に負傷を見込むような戦いをしていたら、魔王と戦うなんて、絶対に不可能だ。
「だから……」
うつむいた俺の頭が、突然ふわりと抱き寄せられる。
「――だからやっぱり私も、ついていくよ」
顔を上げると、アリア団長の不器用な笑み。
「で、でも、団長にはこの国を……」
「国の守りなど、知ったことか。どうせ魔王を倒さねば、国どころか世界の未来はない。それに、こんな危なっかしい勇者を、放ってはおけないからな」
「フェーブル団長……」
思わず感極まった俺に、彼女は少し照れくさそうに笑って、言った。
「アリア、でいい。だって、私たちはもう……『仲間』なんだから」
――これが、勇者として召喚された俺の、最初の戦いの記憶。
――そして、俺に生まれて初めての「仲間」が出来た瞬間だった。
あ、次回はちゃんと現代の話に戻るので大丈夫です