第6羽 カイトとチビ助
もう、どれほど走っただろうか。カイトの中で、時間の概念があやふやになっていた。
体感的に、現在15時を半ば過ぎた頃。タイムリミットは2時間と30分ほど。
足が上げる悲鳴は限界にまで達しているらしく、明日はロクに歩けないだろうな、とカイトは心の中で独り言ちる。
カイトがそうなっているにも関わらず、遠くで羽ばたいているフクロウは相も変わらず空を飛んでいた。そこは流石の鳥類、この程度の飛行ならば疲れ知らずである。
「ぜっ……はっ……ぜぇっ、はぁっ……」
しかして限界は限界。とうとうカイトはその場に立ち止まり、叫ぶような呼吸をしながら座り込んでしまった。
そうしている間にも、フクロウは遠く、更に遠くへと飛んでいき、やがて見えなくなってしまう。「あー」と思わず声も出てしまって、カイトは己の無力さを恥じた。
「……追いつけなかったか」
周囲には誰もいない。たった1人、路地に座り込むカイト。掘り当てた油田のように、全身から一気に汗が噴き出した。
しかし、今しがた吐き出した言葉とは裏腹に、汗まみれの顔には笑みがあった。
それだけではない。その目に“諦め”の感情の一切は宿っていなかった。むしろ、ゴーグルの向こう側で光るその瞳に映っていたのは。
「んじゃ……鬼ごっこの次はかくれんぼと行こうか!」
──溢れんばかりの闘志。
焦る事なく、しっかりと深呼吸を数回。休息を素早く済ませると、カイトは準備体操と言わんばかりに屈伸を2、3度行う。
首を軽く回し捻り、ゴーグルの具合を確かめると、真っ直ぐにただ1つの目的地のみを見定めた。
「思えば、路地の都合とかで俺は回り道をしたが、あいつはただ真っ直ぐにしか飛んでなかった」
その目はしかと目標を捉えていた。
もし、あの場所にいなかったらどうするか? そういう事は考えるだけ無駄だと、カイトは考える。
「たまたま掴んだ千載一遇のチャンスだ。堅実に掴む余裕は過ぎ去った。そんなら──」
強く、強く地面を踏み込む。地面に足がめり込みそうなほどに、1歩目に全ての体重を乗せる。そうして、地面を力の限り蹴り飛ばし。
「一か八かの大勝負! いっちょ賭けに出てやろうじゃねぇか!」
もう1度、いや、何度でもカイトは走り出す。
目指すは街の郊外。森の緑に埋め尽くされた裏山だ。
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裏山はあまり整備されておらず、お世辞にも歩きやすい道とは言い難かった。
そのやや険しめの坂道は、ここまでぶっ通しで走り続けてきたカイトの足に負担をかける。
「ケッ……中々快適な道じゃねぇか……!」
周囲に誰もいないにも関わらず、軽口を叩いてみせる。軽口を叩けるほどの余裕があるかといえばそうではなく、軽口でも叩いていないと気力が保たないかもしれない、という話である。
それでもなんとか気力を振り絞り、ゴツゴツとした地面を注意深く踏みしめながら前へ前へと進んでいく。時折足を滑らせそうになった場面もあったが、咄嗟に近くの木の幹を掴む事で事なきを得た。
「ふぃー……危ねぇ危ねぇ」
木の幹を掴む腕をグイっと曲げ、その勢いで急な坂道を登り切る。
ふと、振り返って下の方を見てみれば、あんなに広かった学院の敷地が、森の木々の隙間から遠目に見える。それほど高いところまで登ってきたのだろう。そして、おもむろに上を見上げている。そうすれば、どこまでも広い空がやや赤みがかっている事を認識できた。
そこでカイトは、この山を登るのにかなりの時間を費やした事を実感する。
「この山ン中に入った時から考えると……今はざっと16時半ってとこか?」
指を折りつつ思案する。そして気付いた。タイムリミットが、後少ししか無い事に。
ここから学院まで戻るのに、どれほどの時間がかかるだろうか? 恐らく、18時までには到底間に合うまい。
しかし、カイトは笑みを浮かべていた。毎度のニヒルなそれではなく、しっかりと感情の籠った笑顔を。
カイトは笑う。彼は、この状況を目一杯楽しんでいた。
ふと、無意識の動作で腰に手を当てて一息つく。すると、いつもとは違う感触が手に伝わり、違和感を覚えた。
何かをポケットに入れていただろうか。そう考え、カイトがポケットに手を突っ込み、中に入った“何か”を抜き出してやる。そこには、1本の魚肉ソーセージ。そう、昼間にケンからもらったものだった。
──今度は餌付けなんかええんちゃうか? なんてな
──ハッ。お前が俺を、か?
ケンとのやり取りを思い出す。カイトは力強い笑顔を浮かべると、魚肉ソーセージを再びポケットの中へ戻した。
顔を上げる。目的地は直ぐそこまで近付いている。そんな予感が、胸の中を満たしていく。
「そんじゃ……行くとしようか!」
そしてまた、カイトは歩き出すのだった。
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足を止める。あれ程必至になって動かしていた足を、止めた。
カイトは何かを感じ取ったかのように、周囲へ向けて忙しなく首を動かす。
ここまで、カイトは「何となく」頂上を目指そうとしていた。そこにフクロウがいるだろう、という安直な発想の下でだ。
しかし、その発想が間違っていた事をカイトは知った。正確には「直感的に悟った」と言うべきか。
踵を返す。さっきまで登ってきていた坂道を少し下り、横道へと突っ込む。訂正しよう、横道なんて大それたものではない。ただの獣道だ。
歩けば当然、そこら中の枝葉がコートに引っ掛かる。髪の毛に引っ掛かる。
10分ほど歩いてみれば、髪は木の枝葉にまみれてグチャグチャ。その上、お気に入りの黒コートは、ただでさえボロボロだったのに更に傷ついていた。
だがしかし。カイトはそれらを気にする素振りなど一切見せる事は無く。そうして
「……っと」
茂みを手で掻き分け。空けた場所へと出る。やれやれと肩を回せば、コリコリと子気味の良い音が鳴った。どうやら、ここは木々も少なく、山の外の景色がよく見えるようだった。
遠景を望めば、学院がとても小さく見える。ちらりと少し上に目線を向けてみれば、段々と山脈に近付いていく夕日の存在。
これはもう、フクロウを見つけたとしても18時までに帰るのは無理そうだ。そうカイトが考え、思い直す。そう、フクロウ。この山へは、フクロウを追いかけに来たのだった。
「そうだ、あいつ。あいつはどこに……」
「クルルッ!」
鳴き声。それが鼓膜まで届いた瞬間、カイトはその声の主がいる方向へと身体を向けた。
果たして、そこには。
「クルルルル! クルー♪」
大木の枝に留まり、嬉しそうに鳴く、小さなフクロウの姿が。それを見て、カイトの顔が綻んだ。
しかし直ぐ様「カッコつけ」をしようと試みて、しかし顔は心からの笑顔のままで、フクロウ目掛けてグッとサムズアップ。
「よぉ。見ィつけた……ってとこだな」
「クルルッ、クルイィィィィィ!」
真っ白い翼をこれでもかとはためかせて、フクロウが歓喜に満ち溢れた動作を見せる。
そうして飛び立つと、実に嬉しそうに、カイトの周囲をグルグルと飛び回り始めた。頬をポリポリと掻き、やや照れくさそうなカイト。
「合格、ってか? こうも喜ばれたんなら、俺も頑張った甲斐があったってもんだ」
「クルル! クルルル、クルッ!」
「ん、どした?」
そこで不意に、フクロウが何かを訴えるような鳴き声を上げる。カイトから離れ、こっちを見ろと言わんばかりに飛行し、移動する。
どうやら、カイトに“何か”を見せたいらしい。
「こっちか? こっちに何かある──」
言葉を失った。何かを言いかけた口は半開きのままとなり。全ての動作が停止した。呼吸などの生存の為の行動を除けば、今この瞬間カイトが行っているのは、ただ「視る」事のみ。
ゴーグルに反射光が艶やかに煌めく。ゴーグルの向こう、瞳の奥が輝いているのは、決してその反射光によるものだけではないだろう。
──夕日だ。
遠く、遠く。学院よりも遥か遠くにある山脈。カイトならば例え1日中歩いたとしても辿り着けないほど遠くにある山脈の向こう側へと、真っ赤に燃ゆる太陽が沈んでいく。
それは本来、ただの夕暮れである筈なのだ。この国の人間ならば誰もが見る事の叶う、いたってありふれた光景の筈なのだ。
そう、その筈なのに。
「……あ、れ?」
視界がぼやける。ゴーグルを外した瞬間、頬を伝う、一筋のひんやりとした感覚。指でそっと拭ってみれば、それが涙である事が分かった。当然、それはカイトが流したものである。
涙? 夕日を見ただけで涙を流したのか? 幾つものクエスチョンがカイトの頭の中にポップする。が、しかし。
「綺麗、だな」
次の瞬間には、眼前に広がる光景によって、頭を埋め尽くしていた疑問は全て消え去った。後になって、この時を振り返った時、カイトは決まってこう思った。
──あれほど綺麗な夕焼けは、後にも先にも見る事は無いだろう。
気付けば、自分の右肩にあの小さなフクロウが留まっていた。頭を指で優しく撫でてやれば、「クルル」と気持ちよさそうな鳴き声1つ。
「……お前、この景色を見せたかったのか?」
「クルッ!」
「それは俺だけじゃなくて……前にお前を勧誘してきた奴らにも、か?」
「クルルッ!」
それが肯定の返事である事は、誰の目から見ても明らかだった。
何度も、何度も頷くと、カイトはおもむろにその場へと座り込む。土や湿った雑草がスボンにくっつく事などどうでもいいと言わんばかりに胡坐をかき、ポケットから魚肉ソーセージを取り出した。
不思議そうに魚肉ソーセージの包装をまじまじと見つめるフクロウ。その様子に小さく微笑みながら、カイトは包装を破き、見事なピンク色の魚肉ソーセージをフクロウに見せた。
そうしてそれを半分に折り割ると、片方は自分で齧り、もう片方をフクロウのクチバシへと近付ける。
「ほれ、半分こだ」
「クルルルッ♪」
嬉しそうに魚肉ソーセージを頬張るフクロウ。その様子を見ながら、カイトはじっと夕焼けを見つめた。既に、太陽はその半分以上を山脈の彼方へと隠してしまっている。もうじき18時になってしまう事は、カイトにも理解できた。
だが、然程悲観する様子もなく、彼はただ笑う。昼間はあれほど動転していたというのに。今この瞬間、カイトの心は間違いなく満ち足りていた。
「もうじき申し込みの期限が過ぎるな」
「……クル」
「でもま、いっか」
よっこいしょ、と声を出しながらカイトが立ち上がる。太陽は3分の2ほど沈み、夜空が見え隠れしている。
肩には、魚肉ソーセージをモグモグしながらカイトの顔を見つめる1羽のフクロウ。
「あんなに綺麗な景色を見せてもらったんだ。また来年から頑張るかねぇ」
「──クルッ!」
カイトの頬をつつくフクロウ。なんだなんだと訝し気な顔を向ければ、解れきった包帯を咥える姿。
ズイ、と押し付けるようにクチバシを前へ突き出す。受け取れ、という事なんだろうか。そうカイトは解釈した。
「貰うのは貰うけど、これが一体何を──」
「クルッ、クィィィィィィィィィィーーー!!」
「へっ、ちょっ、待っ!?」
そこからは一瞬だった。カイトがフクロウから押し付けられた包帯の端を持った瞬間、すかさずフクロウが反対側の端を、足で器用に掴み──跳躍。羽ばたいて飛び立ち、包帯を持っていたカイトもまた浮き上がった。
驚きのあまり、為す術もなく空中へと連れて行かれてしまう。慌てて、包帯を持つ手と反対の手でゴーグルを装着する。そこで、カイトはある1つの疑問を持った。
何故、自分が空中にいるのだろうか? 包帯越しに繋がっているとはいえ、あの小さなフクロウに自分ほどの重さを持ち上げられる訳が無い。
その上、包帯を離せば真っ逆さまに落ちるのは明白。にも関わらず、自分の包帯を掴む手は、まるで元から身体の一部であるかのように包帯を決して離さない。なおかつ、それでいて掴んでいたり、手がピンと伸びている事による疲れも感じない。
一体何が起きているのか。明らかに重力の法則に逆らうようにフワリと浮かんだ自分の体を見て、始業式での学長の言葉が脳裏に蘇る。
──これが、俗に“魔法”と呼ばれるものです。
──これは本来、騎獣……つまり鳥が自然に使えるようになる能力です。
ゾクリ、と全身が震え上がった。決して、恐怖に由来するものではない。
これは、武者震いだ。心の中からとめどなく溢れ出した“ワクワク”が、全身を震えに震わせているのだ。
「すげぇ……! すげぇよ“チビ助”!」
「クルル……?」
「お前の名前だ! センスが無いのは気にすんな!」
「クィィィィィーーー!!」
フクロウ──チビ助は、自分の名前を祝福するかのように甲高く鳴き叫び、高く高く飛び上がった。やがて自分の飛べる限界高度まで達すると、そこから一気に滑空を始める。
既に夕日は沈み切って、辺りを星々の輝き煌めく夜空が支配する。そんな煌めく空の中心で、チビ助は態勢を低くし、頭を下に向けた。
スカイダイビングの真似事である。
物凄い勢いで空を落ちるチビ助。それに後ろから引っ張られながら、それでいて空気抵抗の暴力を受ける事の無いカイト。彼の言葉を借りるならば、この状況はまさしく。
──自由落下だ。
ほんの数分もすれば、スカイダイビングの終わりが近付く。それを示すように、街の景色がどんどん大きく、間近に迫ってゆく。
やがて1人と1羽は、学院の敷地上を滑空するに至った。校舎の壁に埋め込まれた時計が指すのは17時55分。本当に本当のギリギリセーフ。
目指すは職員室のある校舎。その“異変”に気付いたらしく、なんだろうと空を見上げ、または窓を開ける生徒達。その誰もが、空から落ちてくるカイトとチビ助を見ていた。
それは教職員達もまた例外ではなく、職員室の窓を開けてカイトを指差す。
これ幸い。そう確信したカイトは包帯をやや引っ張り、チビ助に方向転換を指示する。果たして、それに気付いたチビ助は、彼の要望通りに職員室へとその切っ先を変えた。
開け放たれた職員室の窓目掛けて、勢いよく滑空しながら突っ込むチビ助。その後ろから、カイトの叫び声が木霊する。
「高等部1年A組! アオバ・カイト! チビ助をバディとして騎獣登録するぜーッ!!」
アオバ・カイトとチビ助。
1人の少年と1羽のフクロウの物語が、ここに開幕する。
STAGE1 CLEAR!
NEXT STAGE:グロウアップ・スクワイア