第2羽 校門にて
春である。4月である。
あの日より1年(正確には11か月ほどだが)が過ぎた。
春の日差しの中、カイトは初めて歩く道を進んでいた。
カツ、コツ。
よく整備された石畳の上に足を置く度に、小気味の良い音が鳴る。桜並木に囲まれた道は、これから待ち受けるであろう新たな学校生活を予感させる。
1歩1歩、噛み締めるように歩くカイト。その口元には笑みが浮かんでいた。
「──……」
ふと立ち止まり、大きく息を吸う。澄み渡る空気が鼻を通り、肺の隅々まで行き渡る。深く、深く息を吐き出したカイトの胸中は、天気同様に晴れやかだった。
背中に担いだバックパックの重さがどこかへ消え去ってしまうような。期待に満ちた快感がそこにはあった。
と、そんな折。
「……んお?」
不意に強い風が吹き、カイトが羽織るボロボロの黒コートをたなびかせる。それと同時に、カイトの頭上を何かの影が通過したように思えた。
なんだろうかとゴーグルを目の前まで引き下げ、頭上へ目線を上げてみれば。
「……おお!」
空を飛ぶ鳥……否、“騎獣”たち。
まず目に飛び込んできたのは雄々しいタカだ。次にツバメ、それからハト。変わったところだとペリカンの姿も見受けられた。
「ありゃ、ハクチョウか? この目で見たのは初めてだな」
白い羽毛を持つ可憐な騎獣の姿を認め、ゴーグルの下でカイトの目が輝く。青色の髪をくしゃくしゃと掻いている内に、自分の口元がにやけていることを自覚した。
視界一面に広がるのは、これ以上ないほどに澄み切った青空。
春風によって桜の花びらが舞い散るその空を、何羽もの騎獣が飛行する。それはまるで、己の勇姿を見せようとしているかのようだ。
ここにはカイトの夢があった。憧れがあった。
まだ門をくぐることはおろか、校門まで辿り着いてもいないけれど。カイトの目の前には、彼が幼い事から愛してやまなかった光景が広がっていた。
高鳴る興奮を抑えるべく、おもむろに視線を戻す。桜に包まれた石畳が目に映り……そこで、あることに気が付いた。
新入生だ。カイトの横をすり抜けて、何人もの若者たちが学院の門へ向けて歩を進めていく。当然である。今年入学せんとする新入生は、なにもアオバ・カイト1人だけという道理は無い。
とはいえ、数人の新入生はカイト同様、空中を舞う騎獣たちの演舞に目と心とを奪われていた。
「こん中の何人かが……いや全員か」
ゴーグルを頭の上に戻し、シワだらけのコートを正しながら。
カイトは子供めいた情熱溢れる笑顔から、かつての学友たちがよく知る軽薄な笑顔へと表情を切り替える。
これは彼なりの感情隠蔽だ。本人に言わせれば「しょーもない“カッコつけ”」とのことだが。
「俺の……好敵手!」
バックパックを担ぎ直し、足に力を籠める。
石畳の隙間に入り込んだ細かな塵が、カイトが駆け出すと同時に宙を舞う。
周囲の目線などなんのその。気にすることもなく、校門へ向けて走り出すカイト。
その時、急に風が吹いた。それが、これまで歩いてきた道のり、つまり後方からのものであることに気付くのは容易だった。
カイトには、いや、その場にいた新入生には。それが、これから始まる騎手候補生としての生活を祝福する追い風のように感じられた。
おそらくは、これまでこの道を通った過去の新入生の誰もが、そう思ったに違いないだろう。
王立騎士学院。
今年度より高等部への入学を開始したかの学び舎は、新たなる騎士の卵たちを歓迎する。
────────────
足を止める。
否、止めざるを得なかった。
あんぐりと開きそうになる口を寸でのところで閉じ、軽薄な笑みの維持を試みる。
「…………すげぇ」
それでも、反射的に口から飛び出した一言を止めることは叶わなかった。
カイトが見たものは、それほどのものなのだ。
それは、紛れもなく門である。白く塗られたその門は分厚く、見るからに頑丈なものだ。
仮によく鍛え上げられた騎獣が上空からの突進攻撃を試みたとしても、この門にはヒビの1つもつきやしないだろう。
だが、それだけだ。果てしなく天まで届くほどの高さ、という訳でもなく。果てしなく地平まで届くほどの横幅、という訳でもなく。ただ、いたって普通の校門程度の大きさではある。
加えて、その門は既に開かれている。その向こう側には校舎の存在が見受けられ、これをくぐれば容易くそこまで辿り着くことが可能だ。
しかし。
(あの門の向こう、が)
目の前にそびえ立つ校門。それをくぐれば、カイトが望んでいた光景を間近で見ることができる。それでも、カイトはその場から動くことができなかった。
いや、訂正しよう。カイトは、その場から動きたくないのだ。
「なんや自分、不良みたいな恰好しとる癖にそっから動けへんのか?」
と、そこで。カイトの耳に、珍妙な訛り方をした声が届く。訝し気に、首を体ごと右に向ける。
果たして、そこには珍妙な装いの少年が立っていた。
カラフルな服の上から黒いネクタイをつけた彼は、いかにも余裕たっぷりの表情を、その優男然とした顔に浮かべている。
彼の右肩に留まっているのは、恐らく彼の騎獣だろう。灰色の羽毛と太く短く湾曲したクチバシから、ヨウムであることを推測するのは簡単だった。
そこで、カイトは気付いた。
自分と、今話しかけてきた少年の周囲。校門の前に立つ幾人かの新入生らしき者たちが、カイト同様にその場から動いていなかったことに。
彼らがカイトと違う点は、何かに恐怖しているような表情をしているところだろうか。誰もが、校門の向こうの“何か”から目を離せずにいる。
なんのこっちゃ、とカイトは思う。少年が自分へかけてきた言葉も、このことを意味しているのだろうか。
ヘラヘラとした態度はいたって崩さずに、目の前の人物への返答を考える。
「まーな。この門をくぐりゃ晴れて騎手候補生、念願のスクールライフだ。そう考えると、緊張しちまってな」
「誤魔化さんでもええんやで? 自分も“アレ”が怖いんやろうに」
「コワインヤロー! コワインヤロー!」
ヨウムのオウム返し(洒落だろうか?)が何ともおかしくて、カイトはつい口元を緩めてしまう。
“アレ”がなんのことかは分からないが、ちょっとくらいは話してしまってもいいだろう。そうカイトは考えた。
「いや、な。俺たちは初めてこの学校の門をくぐる訳だ。そんなら……」
勢いよく指をさす。力強く張り上げられた人差し指は、少年とヨウムではなく門の向こう側へと向けられた。
それは見る者が見れば、アオバ・カイトという少年が「この学校のてっぺんを取る」と言っているような、宣戦布告のようなポーズとも解釈できたであろう。
「ここで、こんな気持ちであの景色を見れるのは今だけだろ。だから、今俺が見ているものをしっかり目に焼き付けたくてな」
一瞬だけであるが、ポーカーフェイスが解かれる。カイトの少年らしい、熱に満ちた感情をその場で目撃したのは、カイトと言葉を交わしていた少年とヨウムだけであろう。
少年は満足したように笑うと、カイトの目をしっかり見据えた。
「どうやら、周りの新入生とは違うようやな。自分、大物かもしれんで?」
「……で、お前は誰よ」
「おっとぉ、これは失敬! 僕としたことが、名乗るんを忘れるとは!」
「コレハシッケー! コレハシッケー!」
少年が芝居がかった身振りで自分の額をペシリと叩き、ヨウムが呼応するように翼を大きくはためかせる。
彼らは、初対面の人間にいつもこの調子で接しているのだろうか? カイトはそう思わずにいられなかった。
少年は若干緩んだ黒ネクタイをしっかり締めると、優男なりにキリっとした顔つきで口を開く。
「改めて! 僕はケン。ナナドラ・ケンや」
「オイラハビリー! ヨウムノビリー!」
「僕らは1人と1羽でコンビやってるモンや。自分と同じで、今年から高等部に入学する新入生って訳やな」
ニヤリと笑う少年ことケン。ビリーというヨウムが彼の頭の周りをクルクルと飛ぶ様は、噂に聞く喜劇役者という単語を彷彿とさせるものだった。
小さく息を吐いたカイトは、疑問に思っていたことをケンへと投げかける。
「んで? “アレ”とか怖いとかってどういうこった」
「なんや、自分そんなことも知らんのかいな。ええで。自分、僕らとは違う意味で面白そうやからな。特別に教えたるわ」
わざとらしく握り拳を自分の口へ近付け、「コホン」と咳払いをしてみせる。そんなケンの右肩に、再びビリーが留まった。
「この学校にはちょっとした噂があってな。学長センセの騎獣ってのが、表舞台には出たことがないらしいねん」
「そんで、その騎獣とこれに関わりが?」
「話は最後まで聞きいな。んで、その騎獣っていうんが大層おっかない奴らしいてな」
チラリ、とケンが周囲の新入生を見やる。中には、ガタガタと震えている者や踵を返して立ち去ろうとする者までいた。
彼らに対して気付かれないように溜め息をつき、再びカイトへと向き直る。
「僕ら、つまり高等部への入学に最後まで反対したらしいやわ。んで、僕らの入学を許可する代わりに……」
「あー、なんとなく分かった」
カイトは再度、門の向こう側を見る。今の話を念頭に入れてみると、なんだか首の後ろがムズムズするような感覚に気付いた。
目を細め、半ば睨むように目線を遠くへ向ける。すると、どうだろうか。
校舎の向こう側から、何者かがこちらを見定めるような。いや、誤魔化ずに表現するならば。
獲物を狙う捕食者のような視線を向けているのが、明確に感じられた。
ゾクリ、と背筋を伝う寒気に、カイトのポーカーフェイスが大きく揺らぐ。しかし、なんとか堪えることには成功した。ニヒルな笑みを維持するものの、口元は僅かに引き攣っている。
ケンを見る。「気付いたようやな?」とでも言いたげな表情に、少しばかりの悪態を心の中でついた。
「要するに、ふるいにかけるって訳だ」
「ハナマルやで自分……って、あー」
「カイト。アオバ・カイトだ」
「んじゃ、カイト。今自分が感じたんを、周りの連中はこの辺に着いてからずっと浴びせられてるんや」
成る程、とカイトは内心で呟いた。
学長の騎獣がどのような存在であるかは皆目見当もつかないが、大層な偏屈者であることは確かなようだ。
まるで「蛙を睨む蛇」のような眼差しを浴びせられては、そんじょそこらの新入生では身動きすら困難に違いない。
「……にしても、なぁ」
「あん? 俺の顔になんかついてるか?」
ケンが、カイトの顔をジロジロと眺めてくる。その目は、なにかを訝しむような感情がこもっているように思えた。
ジロリ、とカイトが訝し気な目線を返してみると「ああ、堪忍な」と手を振って態度を改めてみせた。
「カイト。自分、なんで僕に指摘されるまであの視線に気付かんかったんや?」
「は?」
「だってせやろ。僕はてっきり“洗礼”食らって動けへんのや思てたら、景色に見惚れてたって言うんやで? なんかあるに違いないやろ」
「チガイナイー! チガイナイー!」
ビリーの声真似を軽く聞き流す。そうして、再び門の向こう側を見つめた。
遠くのどこかから放たれている、爬虫類めいた視線。意識しないと“持っていかれそう”なプレッシャーを感じる。
だが、それだけだ。
ニヤリと笑う。ポーカーフェイスは維持したまま、ケンとビリーに向けてヘラッとした笑顔を作る。
たかが蛇睨みがなんだというのか。切望していた夢が目の前にあるのだ。そこへ歩き出すのに、どうして視線の1つや2つを気にしなければならないのか。
「んー……そうだなぁ」
バックパックを強く握りしめ、1歩踏み出す。
最初の1歩さえ出せれば、もう後は怖くない。1歩、また1歩。それは歩行となり、やがて校門をくぐることに成功した。
そうして、カイトはケンを見るのだ。
「才能、かな」
もう振り向きはしなかった。ケンやビリーがどういう反応をしているのかは分からない。だが、この門をくぐって先へ進むことこそカイトにとって最も重要なことなのだ。
そこで、ふと。振り返りはしないものの、完全に校門をくぐり切る段階で、カイトの脳裏にある疑問が浮かび上がった。
(そういえば、ケン。色々喋ってたけど、当のあいつはその“視線”ってやつを浴びても平気なのか……?)
誰も見ていないのだからいいだろうと、解かれたポーカーフェイスの下でカイトの口が大きく歪む。
ナナドラ・ケンと、その騎獣ビリー。
成る程。王立騎士学院が、今年から開始した高等部への入学。そうして集った新入生、その1人。
(俺の好敵手候補。早くも1人発見、か?)
そうして、アオバ・カイトという少年は、学院の敷地へと足を踏み入れた。