9.地獄と天国
この日は家に帰ってからがまた地獄だった。
政務で忙しくあまり家にはいないお父様が、私の帰宅を待っていたのだ。
お父様は忙しい人ではあったけれど、子供の不手際に関しては、見逃すことはなかった。
家に着いたその足で、お兄さまと一緒にお父様の部屋へ呼ばれる。
我が家では、私が婚約式を挙げる前後から、ヴォルテ公爵家に関わる問題が発生したときは、兄妹一緒に話を聞く決まりになっていた。母は私が幼い時に亡くなっているので、要するに家族会議だ。
問題についてヴォルテ公爵家として共通認識を持つためだと、お父様は言っているが、正直つらい。
「巻き込んでしまってごめんなさい」
お兄さまに詫びれば、お兄さまはクスリと笑う。
「気することないさ。明日はわが身だからな」
なんて茶化して見せてくれる。成績の振るわない私にすら、相変わらずに優しいのだ。
お父様の部屋へ入ると、重厚な机に部屋の主は座っていた。
立ち上がることなく私たちを見つめ、ドアが閉まるのを待つ。
カチャリとドアが閉まった音が背中で響いて、緊張感が高まった。
「アリア」
宰相というだけあって重く低い声だ。
「はい」
「今回のテストについて、何か言うことはあるか」
「私の努力が及ばずに不甲斐ない結果となりました。申し訳ございません」
「努力が足りないと?」
無表情で問い返すお父様は宰相の顔だ。
非情な。
「……いえ、実力も才能も及びません」
「うむ」
お父様は否定しなかった。
それが全てだ。
「それでお前はどうする」
問われて息が止まった。
家庭教師はこの国の最高峰のものが付いているし、勉強時間もこれ以上増やせないほどなのだ。もう、これ以上できることはない。
どうしようもない。だって、努力でどうにかなるわけじゃないのだ。
指先が震え、顔が俯く。
「……」
言葉を失って、空気を失って、ただただ自分の震える拳を握り締める。
唇をかみしめて、ようやく顔を上げた。
お父様の顔は変わらない。
「このままでは、王太子妃として相応しくないのではないかと考えます」
「それは婚約を辞退したいという意味か」
そこまでは言っていない。ただ、もう、私は選ばれる価値がなくなってしまったのだ。
私は言葉もなく、頭だけ横に振る。
「相応しくない……な。それを言うのが精いっぱいか」
お父様は呟いた。
「私としてはお前と王太子との婚約について、特に利はない。私はすでに宰相だからな。だが、ルバート、お前はどうだ。アリアの力は必要か」
「いいえ。父上。妹の力を借りる必要はありません」
「だそうだ。アリア。わが公爵家としてはお前が辞退したいというなら特に反対はない」
「お父様……、お兄さま……」
「だが」
お父様は私を見据えた。
「こちらから辞退することができないことは分かっているな?」
それはそうだろう。王家から望まれた婚約を、こちらから解消することはできない。辞退といっても、向こうから破棄されて初めて成立するのだ。
「はい」
「また、辞退とこちらが思っていても、対外的にはお前が婚約破棄されることになる」
「はい」
「お前はそれを受け入れられるか。婚約破棄された令嬢が、どのような憂き目を見るのか分かっているか」
受け入れられなくても受け入れるしかないだろう。
「それらをよく考えたうえで、婚約破棄させたいのなら、婚約破棄させるように自分で動きなさい。私は表だって手を出せないからな」
「は?」
耳を疑った。そうじゃない! お父様そうじゃないよ!!
「私は協力できますよ。父上」
お、お、お兄さま!? そうじゃないよ!!
「い、いえ、あの、婚約破棄したいのではないのです……」
壮大な誤解が生まれているので訂正する。
「なんだ」
「そうなのか。ならなんだ」
おにいさま? おとうさま?
「私は婚約解消したいのではなく……、婚約者として相応しくない私が、王太子さまから婚約破棄される可能性がある、という可能性のお話をしたのです。そのことを知っておいていただきたいと。そのようなことになればご迷惑をおかけすることになります……」
「なんだ、そういうことか。その程度のこと公爵家としては迷惑にもならん」
お父様は無表情で答えた。つまらん、と聞こえそうな言いぶりだった。
なんか、悪徳宰相みたいな感じなんですけど。
「それに、相応しいか相応しくないか決めるのは王太子だ」
「分かっております」
正論が胸に突き刺さる。
「そして、王妃の適性は勉学の成績のみで測られるものではない。カノン嬢がどれほど強い魔力を持っていようとも、お前がそれに敵わないとしても、お前が培ってきたものはそれだけではないだろう。それらのすべてを鑑みて、殿下は判断される。お前はお前のすべきことをよく考えなさい」
真面目な顔で、お父様は言った。
「はい」
私は深く頭を下げた。
「分かったならもう下がりなさい」
お父様の許しを得て、私たちは下がった。
ドアが閉まるのを確認すると、お兄さまが私の頭にポンと手を載せた。
「父上は分かりにくい。要するに、お前以上に王太子妃にふさわしい娘はいない、ってことだ」
「おにいさま……」
お父様の言葉をかみ砕いてお兄さまは私に伝えてくれた。
そんなつもりで言ったのか、わかりにくいけれど、お父様はとても優しい。
「それに、父上はあんなふうに言われたがお前が婚約破棄されても困ることはないだろう?」
お兄さまは意味ありげに笑った。
「? それはどういう……」
「婚約破棄されれば喜ぶ奴らがたくさんいるってことさ」
それはそうだろう。他のご令嬢たちにもチャンスが回ってくるかもしれないのだから。
でも、それは私が困らない理由にはならない。
「それに、俺はお前が家にいて俺の手伝いをしてくれればそれで良いと思ってるからな。破棄の手伝いならいつだってするぞ?」
冗談めかして言うお兄さまに、私は笑顔を引っ張り出された。
ああ、本当に優しいお兄さま。
「ふふ、おにいさまったら、ご冗談を。でも、ありがとうございます」
お兄さまの温かさにほっとして、私は家族のありがたさを感じていた。
「お嬢様」
ペルレに呼び止められて振り向けば、ペルレは紫色の小さな花束を抱えていた。
「どうしたの?」
「ジーク様から贈りものです」
「まぁ!」
嬉しくて花束を抱きしめる。ラベンダーだ。いい香りがして緊張が解けてくる。乾かせばポプリにもなる。
ああ、嬉しい! ジークにもこんな風に心を砕いてもらえた!
一気にテンションが上がって、ニコニコとしてしまう。
「気障なヤツ」
それを見たお兄さまが、呆れたように吐き捨てるから笑ってしまう。
ルバートとジークで、ええ、ケンカップルも良いと思いますよ? いやケンカップルなら逆もいい?
「早速飾りましょう! サイドテーブルに置きたいから小さめの花瓶はあるかしら? 残りはドライフラワーにします」
そう言えば、ペルレは用意しますと告げて下がった。
私はお兄さまに送られて、自室と戻った。
「元気になってよかった。アリア」
「お兄さまのおかげです」
「ジークのおかげだろ?」
お兄さまは冷やかすように笑った。
「もちろん、お花は嬉しかったですけれど! でも、今回のことがあって、良かったなって少し思っているんです」
「どうして?」
お兄さまは優しく尋ねた。
「今まで気が付かなかったけれど、お父様もお兄さまも、いろんな人が心配してくださって……。こんなことがなかったら、こんなに支えてくれる人が居るんだって気が付かずにいたかもしれませんもの。早く気がつけて幸せですわ」
本当にそう思った。
自分一人で肩ひじ張って、『立派な淑女』になろうと思っていた。自分の頑張りしだいで成れると思っていた。
でも、お父様やお兄さま、ジークもラルゴも、頑張れとは言わなくても、ずっと見ていてくれたと今日気が付いた。
苦しい一日だったけれど、それに気が付くことができたのは幸せだ。
お兄さまは私の頭にポンと手を置いた。
「うん」
そう言って、ガシガシと頭を撫でる。
「止めてください! お兄さまっ!」
「もう寝るばかりじゃないか、少しくらいいいだろう?」
嬉しそうに笑うから、怒る気なんか失せてしまう。
「もう、いじわるなんだから!」
一応、ほっぺを膨らませ怒って見せれば、お兄さまはにっこりと笑った。
「お休み。可愛いアリア」
「おやすみなさい。おにいさま」
私が部屋に入ると、ほどなくしてペルレが花瓶をもってやって来た。
小ぶりの花瓶は、サイドテーブルに丁度良い。
ペルレが綺麗に活けてくれる。
残りの花束を私は窓際に結ぶと、風の魔法をかけた。
ドライフラワーにするのだ。
サワサワとラベンダーが揺れて、穏やかな香りが漂う。
私は花を乾燥させる間に、引き出しから小さな小瓶を取り出した。一緒に仕舞ってあった珍しい白い砂金も並べる。
そして、オイルも用意した。
「ペルレ、エタノールってあるかしら?」
「ございます。お嬢様」
「少しだけ欲しいのだけれど」
「ただ今お待ちしますね」
ペルレが用意している間に、みじかうたの歌集を開く。紫色の表紙。裏表紙には送り主のイニシャルと日付が入っていた。
今日貰った番号L.476を探し出し、青い線を引こうとして止めた。
今日のは特別。
優しさに気が付かせてくれたから。
菫と同じ紫色のインクで線を引く。うん、いい感じだ。
ペルレが戻って来たので、ドライフラワーの出来を確認した。
上手く風が通っている。
私はその小枝を一つだけ手折ると、白い砂金と一緒に小さな小瓶に入れた。
「ジーク様から贈られた香水瓶ですね?」
ペルレが目を細めて確認する。
「ええ。とっても嬉しかったからとっておいたの」
小さいころに、初めてもらった香水だった。使い終わった後も捨てられずに瓶だけとっておいたのだ。
白金の砂金はラルゴからもらったもの。
瓶の中にオイルとエタノールを入れて、ラベンダーのハーバリウムを作った。
満足のいく出来栄えにうっとりとする。
これ、もしかして、ラルゴジークじゃない?
ジークの瓶の中にラルゴの砂とか。めっちゃ、主従じゃん!
キャァァァ!! ヤバい!! ヤバいもの作り出してしまった!!
「美しいですね」
ペルレが感じ入ったように言葉を漏らした。
ハッとして我に返る。そうじゃなかった。目的はそうじゃない。
「ええ、今日の記念にお守りにしようと思って」
みんなの優しさを忘れないように。
そこで、ふと思い付いた。
だったら、あの紐があったはず。
私はお兄さまに昔買ってもらった組紐を取り出した。
「これでペンダントにできないかしら?」
ペルレに相談する。ペルレは眉ひとつ動かさず、組紐を受け取った。
「では……このようにされたらよろしいかと」
ペルレは紫色の絹で出来た組紐を、複雑な花型でハーバリウムに結び付けた。そして私の首にかける。
主従に絡み付くお兄さまとか、たまらんわ!! 私天才か!
天才だな?
って、落ち着け、おれ。
「いかがでしょう?」
「素敵ね!」
「ありがとうございます」
私はラベンダーの香りに包まれて、こんな波乱な一日を穏やかな夜で締めくくった。