51.破滅へのプレリュード
保健室では先生が慌てた様子でベッドのカーテンを開けた。
ジークがそこへ私を下ろす。
私は慌てて涙を我慢して、掌で涙を拭った。
泣き顔など見せてはいけない。
平静を保たなければいけない。
胸元のハーバリウムを握りしめる。
先生は濡れたタオルを用意してくれた。
私は汚れたところをそれで拭う。
「アリアさん、怪我はありますか?」
「いいえ、特にはありません」
「気分の悪いところなど……」
「少し疲れていますが、多分魔力の使い過ぎかと思います」
「魔力を?」
「倒れていた人に魔力を注入したので……。ああ、そうです。先生、私は平気ですが、林の奥の建物に倒れた人が居るんです。今はタクト先生とカノン嬢が様子を見てくださっています。そちらへ向かっていただけますか?」
「え、ええ、貴女は?」
「私は大丈夫です。お兄さまに迎えに来ていただきます」
「分かりました」
先生はそう言って、保健室から出て行った。
「ラルゴ、ルバート様を呼んできてくれ」
ジークがラルゴに頼む。
ラルゴは、頭を下げて静かに出て行った。
ジークと二人っきりになってしまった。
ジークは私を痛ましそうに見ている。
綺麗なエメラルドの瞳が、自分のことのように潤みを帯びていて、本当に優しい人だなと思う。
「アリア、本当に怪我はしてない?」
「ええ、本当に疲れているだけですわ」
そう答えれば、ジークは眉をしかめた。
「君がなんで、アイツに魔力を」
詳しい話は出来ない。
それに私も良く分からない。
「魔力切れ……? でしょうか、倒れていたので」
「……互いに……胸をはだけて?」
ジークが目をそらして聞きにくそうに言った。
「それは……」
改めて言葉にされると恥ずかしい。その時は必死だったし、クーラントは目覚めてなかったからできたことだ。
「あまりに体温が低くて、意識もなかったので温めようと思って……」
ジークはボソリと吐き捨てるように言った。
「……なんで、アリアが見つけたんだ」
「ジーク」
「クーラントは嫌いだ。タクトも」
「ジーク?」
「信じられない」
「……私も?」
ジークを見た。ジークは私を見て、ハッと息を飲んだ。
そして辛そうに眼をそらした。
きっとそれがすべての答えだ。
「私の言葉も信じられないのですね」
ジークは拳を握り締めた。
「そんなことはない」
言葉はそう言っているけれど、納得しているようには見えなかった。
私はジークを見て微笑んだ。
「お調べください。王太子の力を使って、ジークが納得されるまで」
もう、私には何もできない。
ジークがどちらを信じたいか、それだけにかかっている。
きっとジークは、私とクーラント、タクト先生の間を疑っているのだろう。
あの瞬間だけ切り取れば、胸を開けた男女が人気のない場所で抱き合っていたのだ。疑われても仕方がない。
タクト先生の言葉や、状況を見れば無実だということは分かるはずだ。
ただ、頭が分かったとしても、心が納得するかは別なのだ。
人は事実よりも、信じたい方を信じる。
それに、有ったことは証明できても、無かったことは証明できない。
浮気をしたなら、その証拠を探し出せば証明できる。
でも、していなかったら、それを証明することは不可能だ。
証拠を隠したと思われたら、それでおしまいなのだから。
信じてもらうしかない。
「それは、アリア」
「ええ、全ての力をお使いいただいて結構です。検査も受けます」
ジークは顔をひきつらせた。
結婚前の婚約者が受ける検査など、めったにない。形式上存在するけれど、使うものは稀だ。それを使ってしまったら、婚約者の尊厳を傷つけることになる。信用してないことの証になる。
処女検査、だ。
「なにを、言って! 言っている意味が分かっているのか! あの検査は、知らない医師が君の体を」
「分かっています! ただし、その検査は婚約破棄のための理由として使わないで欲しいのです。信じるために必要なら、私は受けます。ただ、初めから信じられないのなら、噂がある時点で王太子妃としてそぐわないというのなら、検査などせずに切り捨ててください」
「切り捨てるなど。それをしたら君に傷がついたのだと周りに知らしめることになる」
「ジークの御心に添います。心配なさらないで。私がしたことの責任は自分で負います。ジークは宰相の娘を妃に迎えなくても、立派な王となりますわ。敷かれた道を歩かなくても大丈夫です」
「アリア、君は、……君の望みは……? 君は僕に信じて欲しいと言わないの?」
ジークが戸惑った顔で私を見る。
信じて欲しい。当たり前だそんなこと。
だけど、それを言葉にしても無意味だと知っている。言えば言うだけ嘘に聞こえる。信じたくない人間ならば。
信じたいと思っていたら、言わなくたって信じてくれる。
私は頭を振った。
「それはジークが決めることです。私の望みはジークが幸せであること、それだけです。その為のご決断をください」
そうだ。それだけ。
婚約破棄されたとしても、前世の自分に戻るだけだ。
液晶画面の向こうで笑う、ジークが幸せだったらそれでいいって思ってた。
離れていても、一緒に生きられなくても、自分の生活が苦しくたって。
ずっとずっと、生まれる前からそうやって、力をもらってきたんだから。
「それは、王太子ジークフリート・アドゥ・リビトゥムの幸せ?」
「いいえ、ジーク、あなた自身が幸せだったら、私はそれでいい」
「僕は……、もう、」
優しいジークが苦しそうに振り絞る言葉。
ああ、終わる。
もう終わってしまうのだ。
「君の婚約者でいたくない」
私は何も言えずに他人のことのようにそれを聞いた。
泣き出しそうなジーク。
こんな顔をさせたくなかった。
何時だって幸せでいて欲しいのに。
私と言えば、涙の一つも零れなかった。
「だから、アリア、僕と……」
「ジーク…さま?」
ジークの言葉にラルゴの声が重なった。
お兄さまを呼びに行ったラルゴが戻ってきたのだ。
「帰るぞ、アリア」
入り口から響く声。
ルバートお兄さまだ。
ジークの言いかけた言葉が気になった。でも、お兄さまはあからさまな無視を決め込んでいる。
ジークの顔が凍り付く。
ラルゴがそっと道を開けた。
お兄さまは、ジークとラルゴを一瞥しただけで、なにも声をかけなかった。
そして、汚れきった私を何のためらいもなく、子どものように抱き上げた。
「お兄さま、歩けます」
「おにいちゃんがね、アリアをだっこしたいんだ」
お兄さまが、私の頭をポンポンと軽く叩く。
疲れてしまった私には、それが何とも心地よかった。
緊張がほぐれていく。
悲しみと同時に、諦めと。
もう、この苦しい恋から解放されるのだという、侘しさと安堵。
車に乗った私は、お兄さまの膝に頭をのせて、ただひたすらに私の頭を撫でる感触に身を任せた。







