46.カノンの賛歌 上
天蓋付きの大きなベッド。豪華なカーテンはたっぷりと大きな窓を包んでいる。
私、カノン・アマービレは、宰相 ヴォルテ公爵家に宿泊することになった。
先ほどまでは、公爵家のご令嬢アリア様と食後の歓談を楽しんでいたところだ。
嘘みたい……。
夢のような一日に、ボウっとする。
・・・
運命の悪戯か。私は、十二歳の魔力検査で魔力があることが判明し、庶民では珍しく魔法学園に入学することになった。
癒しの魔力と、動物の言葉がわかる力のおかげで、特別な保護を受けることになったのだ。
学園の入学式では圧倒された。
右を見ても左を見ても、下町では見かけないキラキラした人たち。
正直、気後れもした。
中でも、新入生代表の、ジークフリート王太子殿下の美しさは群を抜いていて、男女問わず誰もが彼を振り返った。
そして、その隣に当然のように佇む美女は、婚約者のアリア様。王太子殿下と並んでも霞むことないほどの光を放ち、二人は従者のラルゴ様以外寄せ付けないような雰囲気があった。
金の王子、白金の姫、影の従者なんて、周りの人たちは羨望を含んだ声で噂をしていた。
当然私も目を奪われ、その姿に憧れを抱いた。
頑張っていればいつの日か、あの方々とお話しする機会に恵まれるかもしれない。
分不相応だと思ってはいたが、頑張るための目標として掲げるには十分だった。
庶民というだけでなかなか馴染なかった私は、おいていかれないようにと頑張って勉学に励んだ。だんだんとクラスにも馴染み始め、友達もできた。
タクト先生など、先生方も心配してくださったのだろう。
沢山の人に助けられ、そのおかげか、学年の途中で特別クラスへと変更できることになった。
しかしそこからが、大変だった。
特別クラスは、少数精鋭の優秀者だけが集うクラスだ。そして、そこは身分の高い者が多かった。
ジークフリート王太子殿下も、アリア様も同じクラスだった。
私がアリア様を抜いて、女子の主席となったことで、悪意の目を向けられるようになってしまったのだ。
頑張って、頑張って、その仕打ちが、これなんてショックだった。
すれ違いざまに囁かれる悪口。
ペアになる授業では、女子に無視される。
無くなってしまう消しゴム。
ノートに書かれた悪口。
辞書に挟まれた怪文書。
教室には居場所がなくて、助けてくれるジークフリート殿下とラルゴ様の陰に隠れるようにしていれば、ヒソヒソとした声が、私を責める。
『アリア様を差し置いて』
『王太子妃を狙ってる』
『身分をわきまえない恥知らず』
『野良猫は泥棒が上手い』
『可哀そうなアリア様』『アリア様のために』『アリア様が……』
みんなみんなアリア様。
私は、アリア様が怖くなった。
アリア様は何もしない。何も言わない。
ただ、女王のようにクラスに君臨するだけだ。
私には何が何だかわからなかった。
私は何もしていないのに。
ただただ、頑張っただけなのに。
唯一の慰めは、動物たちと一緒に中庭で食べる昼食だ。
心配してくれるタクト先生や、クーラント先輩など、悪意のない人たちが話しかけてくれるからだ。
「大丈夫?」
クーラント先輩は人懐っこい猫のようだ。クルクルと大きな目で覗き込んでくる。
「君、イジメられてるんでしょ?」
その一言に心臓が凍り付いた。
知られたくなかった。
認めたくなかった。
ちょっと嫌われているだけだと。
ちょっと馴染めないだけだと。
少し経てば、きっと仲良くなれるって。
これはイジメじゃない。自分はイジメられてない。
仲良くなるのに時間がかかっているだけだ。
そういうふうに自分をごまかしてきてたのに。
「主犯、アリア嬢だよ。自分は手を下さなくってさ、酷い女だよね」
クーラント先輩は憤慨したように言う。
私は茫然として、サンドイッチを落とした。リスがそれに噛り付く。
カタカタと体が震える。
「可哀想なカノン。ひとりぼっちで我慢してきたんだね。俺は君の味方だよ」
もう、だめ。
もう我慢できない。
こんなの、いや。
でも、だったらどうしたらいいの?
学費は全部国が出している。使ったお金は返せない。
辞めるなんてできない。
入学する前は、とってもとっても楽しみだった。
きっと明るい未来が待っているんだと思ってた。
持て余していた力の使い方を覚えて、他人のために役に立てると思ってた。
それなのに、頑張れば頑張るほど、私は否定される。
「我慢なんかしなくていいよ、先生に相談しなよ。殿下もきっと相談に乗ってくれるよ。わかってる人は分かってる、大丈夫だよ、カノン」
その後のことはあまり良く覚えていなかった。
ただ、クーラント先輩の言うとおり、タクト先生に相談をした。それだけで精いっぱいだった。
なんとか授業を終えて帰ろうとすれば、靴がない。
庶民の私は、学校の許可を得て指定靴以外の革靴で登下校をしていたのだ。
学校指定の布張りのパンプスは汚れやすく傷つきやすい。下町の整備されていない道などを歩いていたら、あっという間に傷んでしまう。この学園の人たちは、ほとんどが車で登下校しているから、私のように歩く必要のある者だけは、靴を履き替えることが許されていた。
何度も馬鹿にされた、何度も哀れみの目で見られた、徒歩通学。
でも、こんなのないじゃないか。
革靴だって安くない。
庶民の私にはとても大切な靴なのだ。学校指定のものではないから、もちろん自分で用意した。
両親が生活費を削って用立ててくれた、それを。
貴族のご令嬢にしてみれば、冗談で済むかもしれない。
でも、私にしてみれば冗談では済まされないのだ。
酷い。
泣き出しそうな気持ちで、学園内を探し回る。
ゴミ箱だっていい。
どこだっていい。少しくらい汚れていても、濡れていたって良い。
見つかってさえくれればそれでいい。
耳慣れた声に振り返る。
白金の髪の冷たい女王様。
同じく美しく優秀な兄を引き連れ、優雅なほほ笑みで、これ見よがしに私に挨拶をする。
酷い。
なぜだか、彼女は私に近寄ってきて、仔細を尋ねた。
自分でやらせているくせに。
なんて怖い人なのだろう。
そう思った、それなのに。
彼女は私のために、靴を脱いだのだ。
公爵令嬢らしからぬ姿で、そのくせ公爵令嬢らしい尊大な物言いで、私に救いの手を差し伸べたアリア様。
宰相家の愛娘として、蝶よ花よと傅かれ、磨きこまれたその柔らかな足を、ためらいもなく地べたにつける。履いているかわからないほど薄い絹の靴下は、きっと破れてしまうだろうに。
「この学園の制服で帰るのです。堂々としてお帰りなさい。町の方々から憧れられるよう、背筋を伸ばして行きなさい」
その言葉通り、アリア様は凛とした姿で、振り返りもしなかった。
私はアリア様の靴を胸に押し抱いて、その背中に黙って頭を下げた。
家に帰った私には、ルバート様の名前で革靴が届けられていた。
アリア様に答えた22センチのバレエシューズ。きっとアリア様が用意してくれたのだ。
ピンクのリボンが付いたそれは、嘘みたいに私の足になじんだ。
涙がこぼれた。
私はバカだ。
人の噂を信じ込んで、自分で何も確かめずに。
あんなに気高く優しい人を、誤解して。
謝らなくちゃいけない。
謝らなくちゃ、そして、きっと怪我してしまったあの足を、許されるなら癒してあげたい。
何でも持っているアリア様に、私にできるのはそれくらいだ。
私は思い立って、すぐに公爵家へ向かった。
贈られた靴を履いて。
迎え入れられた公爵家は、想像するより大きくて戸惑ってしまった。
部屋に案内されれば、いつもの冷たい顔をしたアリア様がいて、恐くなる。
でも、恐く見えても助けてくれたのは、アリア様だった。
ケガをさせてしまったのは、私なのだ。
私が疑っていたことを詫びれば、アリア様は見て見ぬふりをしていたことを詫びた。
信じられないと思った。
見て見ぬふりなんて、みんなしている。
仕方がないことだ。
それを、こんなふうに正直に謝るなんて、私にはできない。
なんて美しくて高潔な人なんだろう。
私なんかに頭を下げるアリア様に驚いて、この人の罪悪感を拭ってしまいたい、そう思った。
私は許しを請うて、癒しの魔法を使う。
足を取れば、桜貝のように頬を赤らめ戸惑って、とてもそれが可愛くて。
可愛いなんて思わず漏らせば、あなたのほうが可愛いなんて怒って見せるから。
本当にどうしようと思った。
さっきまで、あんなに怖かったのに。
それなのに、この人の側にいたいだなんて。
分不相応だって、分かってるのに。
今のひと時は、もう来ない。
きっと明日になって、学校で顔を合わせたら、馴れ馴れしく話すべきじゃない。
私なんか、みんなから嫌われてせっかく魔力があったとしても、使う相手もいないのだ。
そんな、ダメな人間が、側にいるなんて許されない。
解ってるけど。
アリア様は私の手を取った。
白く柔らかな、苦労を知らない綺麗な手。
「心を動かす魔法をあなたが持っていないのだとしたら。だったらなおさら、あなたは本当にすごいわ。私、あなたの側にいたい、そう思ったのよ?」
たった一言で、私を救ってしまう。
この綺麗な手を守りたいと思った。
汚したくないと思った。
私は家に帰ると、アリア様の布張りのパンプスを宝物のように戸棚にかざった。







