第三話「視覚ジャック」
「ただいま」
薫が「性別反転」を用いたその日の夕方、亜香里は自宅である「七星眼鏡店」の入り口のドアを開き、店に入った。
「やあ、亜香里、お帰り。 ちょうどいいところに帰ってきてくれたね」
出迎えたのは、亜香里の父、七星錠であった。 彼の異能力である、物体に異能力遮断機能を付与することができる「封印の鍵」を活かし、この町で異能関連技師として働いている。 もっともそれだけでは不安だというので、常能力者(異能力を持たない者)を相手に、普通の眼鏡も販売している。
「どうしたの? お父さん」
「これからちょっと高橋さんのお婆ちゃんに眼鏡を持っていくんだけど、その間の店番を頼んでもいいかな? この時間帯だからお客さんはそこまで多くないとは思うけれど」
「ええ、大丈夫よ。 もしお客さんが来たら、私はどうすればいいの?」
「用件をうかがって、製作や修理だったら、書類に必要事項を記入してもらって、預かっておいてほしい。 商品の受け取りだったら、店の奥に完成品が置いてあるから、そこから取り出して渡しちゃっていいよ」
錠はせかせかとビジネス用コートを身にまといながら説明した。
「そうそう、それと、知っていると思うけれど、入り口のドアの上のランプが入店時に光ると思うけれど、赤だったら異能力者、青だったら常能力者だよ」
「ちゃんと覚えているわ。 店番は任せて」
「ありがとう、いってきます」
「いってらっしゃい、お父さん」
娘に見送られ、錠はやや急ぎめにドアから外に出て行った。 当然その際に光ったランプは赤色であった。
「……とは言っても、お父さんも言っていた通り、この時間帯は誰も来ないから暇なのよね」
錠に留守番を任されてから三十分。 七星眼鏡店には、お客さんの気配は少しもなく、亜香里は読書をしていたが、それも飽きてしまい、何をするともなくぼーっとしていた。 店内は暖房がよく効いており、亜香里は次第に睡魔に襲われていった。
気が付くと亜香里は、三十メートルほどの暗いトンネルの中にいた。 地面はコケのようなものが生え、隙間からレンガらしきブロックが見える。 電灯のような灯りは一切無いが、前後を見回してみると、入り口も出口もはっきりと見え、しかも外は昼間のように明るいので、トンネルの中の様子はそれなりにはっきりと見える。
「うわ……薄気味悪いところね。 どこなのか見当もつかないけれど、とりあえず出なきゃ」
亜香里はそうつぶやくと、さっそく前方にある近い方の出口に向かって歩き出した。 足はしっかり地面を掴んで、着実に進んでいる。
……と思ったのだが、数歩歩いたところで、亜香里は違和感を覚えた。
「どうして一向に出口が近くならないの?!」
進んでいる感覚は間違いなく足から伝わってくるのであるが、見える出口の光は少しも大きくならない。 後ろを振り返っても、入り口の光の大きさは少しも変わっていない。横に見える、薄汚いレンガやコケの様子も、最初と全く変化がない。
「……あまりにも非科学的ね。 怖いことに変わりはないけれど、これが夢だということだけは、安心できる要素ね。 だって、夢じゃなかったら、こんなに非科学的なことは起きないもの」
亜香里が夢であるとはっきり認識した瞬間、後ろからまばゆい光が襲ってきた。 直視すれば一瞬で失明するであろうほどの光であったが、何故か亜香里にはこれが恒星の光であるとわかった。 そのまま亜香里は、明るくなって怖くなくなった分、より一層奮起して、近づけない出口に向かって歩いていた。
突然、光源の方から、聞き覚えのある、亜香里にとっては慕わしい声が聞こえてきた。
『……里ちゃん』
「鷹野くん?!」
『亜香里ちゃん』
その声は間違いなく、真実の声であった。 しかし、いつもの声とは少し違う、まるで恋人を呼んでいるかのような甘い言い方で、繰り返し繰り返し、亜香里の名を呼んでいる。
「鷹野くん、そっちにいるの? あなたもこのトンネルにいるの?」
『そうだよ。 俺もここに迷い込んだんだ。 ねえ亜香里ちゃん、少しこっちに来てくれない?』
「でも、そっちを見たらきっと目が見えなくなるわ。 夢とはいえ、失明してしまうのはすごく怖いの」
『大丈夫だよ、少しなら、火傷程度で耐えられるくらいの光だから。 ほら、こっちにおいで』
真実の声はいつになく妖しい雰囲気をまとっており、その一語一語が亜香里の耳に入るたび、亜香里の身体を熱く火照らせる。 次第に、理性すらもその声によって奪われていくような感覚に、亜香里は襲われていた。
『ほら、どうして迷っているの? 亜香里ちゃんは、こっちに来ていい人間なんだから、迷わず引き返しておいでよ』
「来ていい人間……? どういうこと……?」
抗いがたい快楽にどうにか耐えつつ、やっとのことで亜香里は真実の声に返事をした。 気を抜けば、すぐにでも膝から崩れ落ちてしまいそうだ。 そうすれば命が無くなる、と亜香里は漠然と考えていた。
『そのまんまの意味さ。 亜香里ちゃんは、選ばれたんだよ』
「だから何に?」
『うーん、亜香里ちゃんはまだ知らないのかな……? 七星の家だったら知っていると思っていたんだけど。 多分教えられていないだけだろうな』
「えっ、お父さんとお母さんは知っているの?」
『うん、各日に知っていると思うよ、アレ
「亜香里!!」
強く身体を揺すられ、大声で名前を呼ばれ、亜香里はようやく深い夢から覚めた。
「あ……真彩」
目が覚めてみると、パンツスーツにサングラスという、いかにも過去に人を手にかけたことがありそうな服装をしている少女が、亜香里の肩を強く掴みながら心配そうな表情(と言ってもサングラスのせいで目の周りはわからないが)をしていた。
亜香里が目を覚まし、テーブルに突っ伏していた状態を回復させると、少女は安堵のため息をもらした。
「……ほっ、亜香里……起きた……」
「ごめんなさい、真彩。 起こしてくれたのね」
亜香里は起き上がり、こっそり垂れていたよだれを拭き取り、グラサンスーツの少女に向き合った。
「……お店……来てみたら、亜香里……うなされてて……」
「ええ、ちょっと怖い夢を見ていたの。 助けてくれてありがとう」
「……確かに、ちょっと怖い……夢だった、かも……」
「み、視たの?」
真実の声を聞いて身体を火照らせていた様子を知られていたのではないか、と恥ずかしくなったが、視られただけではそこまではバレないはず、と、動揺を隠しながら亜香里は考えた。
「……亜香里のこと……心配だった……から……」
「ま、まあ、そうよね。 私でも、真彩がうなされていたら、多分そうするわ。 でも、この夢は誰にもしゃべらないでほしいの」
「……? 大丈夫、誰にも……夢の内容は、言わないよ……」
「ええ、そうしてもらえると助かるわ……」
グラサンスーツといういかつい容姿の少女は、亜香里のクラスメート、すなわち桐ノ葉学園高等部二年B組の、諸星真彩である。 異能力は「視覚ジャック」。 誰かの視覚を「ジャック」し、その人の見ているもの(夢も含む)を自分も視ることができる、という異能力である。相手がどんなに遠くにいてもジャックすることは可能であるが、ジャック可能なのは、少なくとも一回はきちんと実際に視認したことがある相手に限る(つまり、見ず知らずの人間の視覚をいきなりジャックすることはできない)。 また、真彩の視覚ジャックは人間にしか使用できないわけではなく、カメラ等の機械や鳥や魚などの動物にも使用できるという強みもあり、学園における異能力の評価はかなり高い。
「でも、起きていきなり目に入ったのが真彩、っていうのは、なかなか心臓に悪いわね。 殺し屋でも来たのかと思ったわ」
「……だって、この服が一番……しっくりくる……」
真彩は、いささかしょんぼりとしつつも、シワひとつないパリッとしたパンツスーツをアピールするように、その場でくるりと回った。
「あはは、ただの冗談よ。 真彩の私服も、もうすっかり見慣れたわ」
「……ありがとう……。 七星眼鏡店には……感謝してる……」
冗談だということが分かったからか、真彩は笑顔を取り戻し、誇らしげに自分がかけているサングラスを触る。
「そのサングラス、うちのだものね。 ああ、そういえば真彩、今日は何かご用かしら?」
「……うん、新しいサングラス……受け取りに……」
「かしこまりました、少々お待ちください、お客様」
ふざけて礼儀正しい言葉遣いで応対しながら、亜香里は立ち上がり、店の奥に引っ込んでいった。
「お客様、こちらがご注文のサングラスです」
「……ありがとう……ございます……ふふっ」
一分ほど待った後、亜香里はケースに入ったサングラスを持って、再び友人相手に丁寧な言葉遣いをしながらそれを渡した。 真彩も同じように丁寧な言葉で対応したが、少しくすぐったかったのか、ついつい笑ってしまった。
「……じゃあ、試すから……亜香里、ちょっと後ろ……向いてて……」
「ええ。 でも、いつも言ってるけど、別に真彩がどんな目をしていても、別に気にしないのに」
「……ダメ、これは誰にも……見せられない……。 見たら、親友でも……ぞっとするよ……。 亜香里に……嫌われたく、ないし……」
「真彩が嫌がるなら、もちろん無理には見ないわ。 はい、後ろ向いたわ」
「……ありがとう……なんか、ごめんね……」
真彩の両目は、発現時変調によってひどく変色し、本人いわく「見たら誰でも嫌悪感を抱くような、非常におぞましい目」になってしまった。 ゆえに、日常生活では決して濃い黒のサングラスを外すことはなく、仲の良い友人たちに対しても、また自身の家族に対しても、細心の注意を払って目を隠し続けている。 まあ、それが原因で、自分の趣味であるスーツと相まって、異様にいかつい私服になってしまっているのであるが。
「……んしょ。 亜香里、どう? 似合って……いる?」
新しいサングラスを付け、ポニーテールを揺らしながら、くるり、と真彩は亜香里の方を向いた。 亜香里も真彩の声を聞き、安心して真彩の方を向いた。
ごくごく普通のサングラスであるが、大きすぎず小さすぎず、真彩の小さ目な顔にフィットしていた。 白く通った鼻筋の上にストレスをかけずちょこんと乗っているところを見ると、重すぎるということもないようだ。
「良い感じみたいね。 サイズもちょうどいいし、よく似合っていて、可愛いと思うわ」
「……ふふ、ありがと、亜香里……」
可愛い、とほめられることには慣れていないのか、少々恥ずかしそうに真彩ははにかんだ。
「作ったのはお父さんよ。 まあ、お礼、伝えておくわね」
「……うん、よろしく……ね……」
既に真彩のサングラスは代金は発注時に領収済みであったので、真彩は新品のサングラスをつけたまま、ドアの上のランプを赤く光らせ、にこにこと七星眼鏡店を後にした。