第一話 にがくて、あまくて、クセになる。⑤
朝からノアは釜戸に火を入れていた。
鳥と野草をぐつぐつ煮込む。
視界の端では、彼女が椅子の上で膝を抱えて小さく収まっている。
昨日は思わず感情的になってしまった。
腹が立ったのは本当だ。家族はノアにとって本当に大切な存在だから、悪く言われるのは堪らない。
けれど、と思う。
少し怖がらせ過ぎたかもしれない。
自分という生き物の恐ろしさを、もう少し自覚するべきだった。
あれは瞬間的な怒りだったので、今のノアは特に不機嫌ということもない。
さすがにちょっと傷付いたが、でも人狼を恐れる人間からしたら、その人狼と人間が情を交わしたなんて事実は受け入れ難いだろう。忌避感を覚えるのも仕方がないことだ。
それに、ノアはちゃんと見ていた。
ノアが声を荒げた瞬間、彼女はサッと顔色を変えた。あれは単に恐怖しただけではなかった。後悔、したような顔だったのだ。
スープを皿によそう。
優しい匂いが鼻腔をくすぐる。
ノアはそれを懲りずに彼女の前に置いた。
「……………………」
彼女は皿をじっと凝視する。
そこにあるのは拒絶ではなく、葛藤。
誤魔化してしまえばいいのに、とノアは思う。
彼女はストイックで、そしてちょっと、いやかなり頑固だ。潔癖、というのかもしれない。
許せないものは許せない性質らしい。
だから、自分を利用しろ、とノアは言った。
そういう形なら受け入れられるかなと思ったのだ。
食すべきか否か、その判断は彼女の身体自身が下した。
ぐぅ
腹が鳴ったのである。
「っぁ…………!!」
ボッと彼女の顔が真っ赤に染まる。
それは本当に単純に何の混じりけのない、ただただ恥ずかしいという感情で、ノアはその顔を見て可愛いと思った。
そういう表情もできるのだと知ったら、ちょっと嬉しく感じた。
それにしても、まぁ何と正直な腹の音。
「くっ…………」
何とか喉元で笑い声を押し止める。
にやけた顔は背けたが、肩が震えるのは誤魔化せていないと思う。
何とかかんとか笑いを収めてから、ノアは彼女に向き直った。
決まりの悪そうな、複雑な顔。
やがて観念したように、彼女はスプーンを手に取り口を付けた。
久しぶりの食事なので、あっさりした味付けにしたし、一緒に煮込んだ野草は胃に優しいものを選んだ。
ひと口、ふた口、躊躇いがちに口に含む。
不味くないらしくて、ちょっと安堵する。
こくりと咽下するその喉元を見て、ノアは確信した。
やはり食欲は覚えない。自分は人間を食べないのだ、と。
やがて彼女は皿の中身を空にした。
「おかわりは?」
「……………………」
返事はない。いらないという意味だと受け取って、ノアは皿を引き上げた。
その背に、遅れて声がかけられる。
「………………ごちそうさま」
「!」
心が跳ねた。
ノアは思い知る。
彼女は人狼を忌み嫌っているし、だからその言葉は愉快なものでないことが多い。でも、それでもノアは彼女との対話を放棄する気にはならなかった。
結局のところ会話に、他者に飢えていたのだ。
独りの暮らしは単調で退屈で、そして孤独だ。
幸せを知るということは、不幸せを理解するということだ、といつか母は言った。
その通りだ。
誰かといる温もりを知っているから、ノアは寂しさを覚える。
普通の人狼なら、全く知らずに済んだこと。
でも、だからと言って知らなければ良かったとは思いたくない。
母のせいだ、なんて思いたくない。
知っていて良かったと、そう思っていたい。
「ーーーー」
不意にまた、掠れた声がした。
それは本当に本当に小さな声で、普通なら聞き取ることのできない、あってないような呟きだったけれど。
人狼は、耳がいいのだ。
ごめんなさいと、彼女はそう呟いていた。