第一話 にがくて、あまくて、クセになる。④
相変わらずレナに可愛げがなくて申し訳ない……
"これなら、いいだろ。オレの手が加えられている訳でもないし"
見廻りと言って出て行った人狼は、帰って来たと思ったらその腕にいくつかの果実を抱えていた。
人狼の作った食事に手をつけなかったレナへの配慮らしかった。
ーーーーーーーー気持ち悪い。
そう、思った。
何故そんなことをするのか、全く理解できない。そこまでする必要がどこにあるのか。
まさか本当に害意はないと、そう言うつもりだろうか。
いや、実際害意は感じない。感じないが、でも、それは人狼の気まぐれだろう。
人間をちょっと飼ってみてるつもりなのかもしれない。飽くまでの、暇潰し。
ーーーー何て趣味の悪い。
熟した果実の甘ったるい匂いが部屋中に充満している。
レナが口を付けないでいるそれらが、芳香を放っているのだ。
正直に胸に悪い。
レナがここに連れて来られてから、もう三日が過ぎている。
非常食のドライフルーツは尽きていたが、それでもなおレナは人狼の差し出すものは口にしなかった。できなかった。
空腹に甘ったるい匂いはキツい。寝首を掻かれる心配から睡眠もあまり取れず、足首の腫れは山場を越えていたが、体力の方は確実に削られていた。
これではいけない。
それは分かっている。けれど、心が拒否の声を上げるのだ。
キッチンでは火が焚かれ、人狼が湯を沸かしていた。それを横目で眺めながら、このままではいけないと、漫然とレナは思う。
人狼は何やらこちゃこちゃしていると思ったら、どうやらお茶を淹れているらしかった。
「………………」
この人狼はやはり何かがおかしい。そう思う。
やがて部屋にふわっと広がった柔らかい香りは、レナにも覚えがあった。
「飲む気、ないだろうけど」
出されたのは、ハーブティー。
ーーーーーーーー人狼が? ハーブティーを淹れた?
「どこでそんな」
そんなことを学んでくるのだ。
すると人狼はポロリと零す。
「これは母様が」
「ーーーー母様?」
人狼の口からとんでもない単語が飛び出した気がして、レナは思わずおうむ返しした。
今、この人狼は何と言った?
「え、いや」
レナの食い付くような反応に、ちょっと居心地の悪そうな顔をする。
いや、そんなことはどうでも良く。
母様、だと?
「母様が、こういうの好きだったから、淹れ方を教わって、たまに」
人狼はさらりと言ってのけた。
母様が、こういうの、好きだった?
「母親が……」
「いるよ、そりゃもちろん」
何を言い出すのだ、この人狼は。いやそれはもちろん、この世に存在しているからには、生物学的に当然母親はいるだろうが。
けれどそれは、もっと殺伐とした、そして人間からすれば残酷な話のはずだ。人狼の手にかかった憐れな娘がいたのだと。
けれど、この様子は。
「子育てを」
「そう、育てられた。他の兄弟も一緒にね」
更に驚愕の情報だった。
「きょ、兄弟ですって?」
「そう。兄と弟が一人ずつ。母親は、もちろん一緒だ」
「!」
今度こそレナは絶句した。
そんな馬鹿なことがあるか?
だって、それは、何だが変だ。おかしくないか。
あぁ、もしかして、油断を誘うための、この人狼の作り話?
けれど頭の片隅が囁く。
違う。おかしいのはこの人狼の話というより、振る舞いの方だ。
人間の母親がいたから、だからその振る舞いが人間くさ過ぎて、この人狼の行動はレナの目に奇異に移っていたのでは?
「…………いや、そんなまさか」
「そうそうあることじゃないのは認める」
あってはいけないことだ、とレナは思った。
でも、この人狼はさっき、"母様"と言ったのだ。
"母様"、なんて呼び方、そう簡単には出てこない。それはとても相手を大切にする呼び方だ。
そして人狼がそう呼ぶ声には血が通っていた。
「嘘でしょ」
「オレは十六まで人間の母親に愛情をかけて育てられた」
あいじょう。
「母を前に食欲を覚えたことはないし、だからオレは人間を獲物として見てない。それは独り立ちしてからも今のところ変わってない」
この人狼は何を言っているのだろう。
「オレの両親は、本当に仲睦まじい夫婦だった」
「やめてよ!」
堪らず声をあげていた。
「人狼と、人間がなんて、やめて」
仲睦まじい、なんて。
「人狼相手に、心を開くなんて」
あれはこちらを喰らう害獣なのに。
「そんなの、人間としてあるまじき裏切り行為よ」
そう、言った瞬間だった。
「母様を悪く言うな!」
人狼が、声を荒げた。
「っ!」
怒りの気配に思わず身を竦める。
初めてだった。この人狼が恐ろしげな振る舞いをするのは。
今までどれだけレナが暴言を吐こうと食事を無駄にしようと、この人狼は苦笑を零しはしても苛立ち一つ見せなかったというのに。
ーーーー逆鱗に、触れてしまったのだ。
「……………………」
空気が膠着する。
不興を買ってしまった。これは、このまま殺されてもおかしくない。
そう思うのと同時に、この人狼は殺すという選択肢を持っていないのかもしれないと、そんな考えが一瞬過った。
「どれだけ信じ難くとも、事実なんだ。家庭が、愛情が確かにあそこにはあって、そして両親は心ある真っ当な人達だった。誰かに後ろ指指されるような生き方はしていない」
次に言葉か紡がれた時、もうそこに怒りの感情はなかった。
けれどレナはまだ動けなかった。
自分が何をどう感じるべきなのかが分からなかった。
「ーーーーとにかく、ここに飢え死にした死体に転がられても、それはオレにとってただただ邪魔なゴミにしかならないんだ」
少し疲れたような声が言う。
「生き延びる気があるなら、状況を利用することが肝要だ」
この感情が何か知っている。
これは、罪悪感。
レナは自分に辟易する。相手は人狼だ。けれどその相手にレナは罪悪感を覚えている。
人狼、ということを抜きにして考えるなら、自分は随分酷いことを言った。
自分の家族を悪く言われて、嫌な思いをしない訳がない。それも仲の良い家族なら尚更。
自分がされたらと思ったら、レナも当然憤慨するし傷付くだろう。
そういうことを、レナはした。件の母親のことを何も知らないクセに。
だから罪悪感は覚えて然るべきだし、あの時咄嗟に喉の奥には謝罪の言葉がくぐもっていた。
だけど罪悪感を覚えることを、謝罪を口にすることをを許せない自分がいる。
「あれは、何なの」
人狼なら人狼らしく振る舞ってくれ。そう思う。
妙に人間くさくて、それに心が振り回される。人狼の人間くささが、逆に仲睦まじい家庭で育ったことを証明してしまっている。
レナの心は嵐のただ中だ。
あの人狼に、人間とそう変わりない心があるとしたら。
でも違う、そうじゃないと心が尖った声を上げた。
あれは人狼だ。人狼なのだ。
あんなものに助けられる訳にはいかない。
あんなものを見逃す訳にはいかない。
あんなものの存在を、許す訳にはいかない。
レナは人狼を知っている。
人狼に、大切な人を奪われたことがある。
あれが恐るべき獣であることを、身に染みて理解している。
確かにあの人狼は規格外ではあるけれど、でも心が軋むのだ。許容してはならないと、そう叫ぶ。
両親の、弟達の待つ家へ、レナは帰らなくてはならない。
"生き延びる気があるなら、状況を利用することが肝要だ"
あの人狼はそう言った。
利用、そうだ利用してやれば良い。
レナはあの人狼に頼る訳ではない。負けた訳でも、心を許した訳でもない。
言葉を置き換えて自分の心を誤魔化していることには気付いていたが、レナは無理矢理そう思うことにした。
生きて帰る。それが第一。
本当は、状況を利用しろと言った人狼の発言自体が、葛藤するレナの心の内を見抜いた上での気配りだと、逃げ道を用意してくれたのだと分かっていたが。
「母親のいる、人狼……」
レナは無理矢理意識を逸らした。
人間と人狼が、恋に落ちることなんてあるのだろうか。
心を、やりとりすることなんて。