第五話 そうして二人は、向かい合わせに席に着く。⑧
遂に最終話です。
あと少しだけ、お付き合い願います……!
それは確かに終わりに向けた道のりだったけれど、二人でいて一番穏やかな日々だったともレナは思う。
ノアを見つけてからの別れの旅路は特に何の問題も起きず、拍子抜けするほど順調だ。実はレナはあまり帰り道に自信がなかったのだが、さすがは人狼、嗅覚なのか帰巣本能なのか足取りに迷いはなかった。
予定していた最悪森を出てどこかの町からぐるりと大回りして帰るという選択をしなくて済んだので、残念がるべきか最短日数で帰宅できそうな勢いである。
人狼が旅のパートナーだから、襲い掛かってくるものもなく非常に安全な旅。
「レナ、そこ足場が悪いからこっち」
「あぁ、うん」
伸ばされた手を、レナは拒まない。素直に取って、引いてもらう。
二人の間に妙な意地はなくなっていた。でも理性はあって、だから線引きはしっかりされていた。
未練を大きくするようなことは、してはならない。
多分、二人ともそう思っている。
だから、危ないと思えば手を差し伸べるし、その手を取りはするけれど、必要のない接触はしない。
指を絡めたり、抱きしめたり、ましてや口づけなどしない。想いが通じ合っていても、甘い誘惑があっても、心のままには動かない。
別れは、もうすぐそこだ。思い出作りは賢い選択ではない。
どうしたって一緒にいられないなら、傷痕になるようなことをしない方が良い。心のやりとりだけで、もうお互いいっぱいいっぱいなのだ。
もっと早く素直になっておけば良かっただろうか。
そう考えて、レナは首を横に振る。
いや、きっと全て必要だった。必要な手順だった。反発も憎しみも、苦悩も離別も。二人には必要だった。全てを経て、だからこそ今、互いの気持ちがこんなにかけがえない。
それにやっぱりこれだけの時間とやり取りを経なければ、レナは自分を変容させられなかっただろう。
もうすぐ、着いてしまう。自分の暮らすあの街へ、着いてしまう。
レナの心はこの期に及んで揺らぐ。どうにかしようがないのかと、考えようとする。
でも、それはあまりに甘い考えだ。
何かを犠牲にしなければ、何も手に入れられない。あれもこれも、なんて成り立たないのだ。
それに何かを手にするために何かを諦めるのは、普通のことだ。怯えるようなことじゃない。
だから、ここでどうしても心が揺らぐというのならーーーーーーーー
レナは自分で決められる人間だ。
強くないけど、どうしようもなく弱い人間でもない。
今まで沢山のことを自分で決めて選んできた。
人に反対されたって、自分の爪先が向く方向は、結局自力で決めてきた。
ーーーーレナは、自分で決められる人間だ。
「ノア」
その日、二人はついに見慣れた、過ごし慣れた森まで戻って来ていた。ここまでくれば、レナも大体の道のりは把握している。
「ーーーーノア、ここまででいいわ」
これ以上はノアに危険だろうと思う。
森の出口は近い。人と鉢合わせれば面倒なことになる。
この辺りで、別れるべきだ。ーーーーーーーー別れるべきだ。
「……ここまで、有り難う。ノアには必要のない移動だった」
「あんな森深くじゃ心配でレナと別れられない。必要ないってことはない。これで安心して離れられる」
ノアは笑って言った。朗らかさを装ったその表情。
湿っぽいのはレナも嫌だから、同じように微笑を口の端に乗せる。
正面から向き合う。視線がカチリと合う。
「本当に、有り難う」
「うん」
「…………もう、行くわ」
「ーーーーうん」
「ノアも早くここを離れた方が良いわよ」
「そうだね」
「……じゃあ」
未練はある。あるけれど、抱えていかなければならない。
レナはくるりと踵を返した。
返して、一歩二歩と足を前に進める。
「ーーーーーーーーレナ!」
その、背中に。
ノアが堪らずといった様子で声をかけた。
呼び止められた。
あぁ、呼び止められた。
「……………………」
レナは足を止める。観念する。心を決める。
呼び止められて、しまったから。
「…………何」
一つ、深呼吸してから、ゆっくり振り返る。
ノアはしまったと言わんばかりのちょっと困った顔をしていて、でも少し考えてから言った。
「レナ、握手してくれないかな」
握手。
なるほど、抱擁なんかよりは適切な距離感が保てる提案だ。
けれどレナは素っ気ないくらいの声音で淡々と返した。
「その握手は何のための握手なの」
「お別れの、だよ。それから、ありがとうの握手」
「ーーーー却下」
すげなく断ってやる。
「えぇ」
「却下よ、却下。そういうしみったれたのは嫌いだわ」
「最後くらい、良いじゃないか。小さな我が儘だ」
「……………………」
ノアはそう言ったが、レナは腕を組んで仁王立ちしたままそれには応えなかった。
「レナ」
強請るような声に、随分長いこと考え込んでからレナはぼそりと口を開く。
「先に」
「ん?」
「先に私の我が儘を聞いてくれたら、考えなくもないわ」
「何?」
ノアは簡単に尋ね返してきた。
「ーーーーーーーー」
「レナ?」
迷っている。怯えている。何が正しいのか分からない。いや、もう今更正しくなんてなくても良いのだけど。
「ーーーー私を」
振り絞るようにレナは言った。
とても大切な一言を。
「私を、待てる?」
「ーーーーーーーー」
ノアが息を呑む音がする。
意を決して、わざと外していた視線を合わせたら、そこには真ん丸に目を見開いたノアがいた。
「ねぇ、私を、待ってみて。数年、私のために人生を無駄にして」
何かを手放さなければ、望むものを手に入れられない時がある。
悩んで悩んで惑って、最終的に出てきたのがこれなのだ。
レナが言えるのは、選べるのは、これが精一杯なのだ。
「ごめん。ごめんなさい。私、ここまでしか、こんな風にしか譲れない」
どうしてだろう。
これは、ただのありふれた恋の一つかもしれないのに。ずっとずっと続く一生ものの思いとは限らないのに。ものすごく、軽率なことをしているかもしれない。相手なんて、本当は他に幾らでもいるのかもしれない。
でも、やっぱりレナはここでノアをどうしても見過ごせなくて。
「勝手なこと言ってるって分かってる。でも、弟達はまだ小さくて、あの子達をどうしても大切にしたくて。今の私に家族を手放すことがどうしてもできない」
「……………………」
「待て、だなんて一方的で身勝手だわ。口約束で、何の保証もない。でも、弟達が一人前になるまで、せめて、あと五年。それまで、私に猶予をもらえない……? そんな約束はできない……?」
ノアはこれから新しい縄張りを探さなければならない。それはとても危険なことだし、ここからとても離れた地でのことかもしれない。
他から恐れられると言っても、人狼は争いの絶えない人生が宿命だ。本当は、明日の保証なんてどこにもない。
五年なんて、とてもあやふやな未来の話だろう。
「ーーーーーーーーーーーー良いの」
けれど、ノアは震える声でそう問うた。
「レナ、君はそれで良いの?」
「良いも何も……」
「人狼なんかのために、自分の家族を、未来を、人間社会を捨てて良いと?」
「人狼のために捨てるんじゃない。ノアのために、手放すの」
五年待ってくれたら。
その五年で整理をつけたら、別れの手続きを済ませたら、レナはその先をノアに全部賭ける。
馬鹿馬鹿しいことかもしれない。でも、今のこの心の動きをなかったことにはどうしてもできないから。
「だから」
ノア、お願い。
レナは請う。
「迎えに来て」
どうなるか分からない。ノアの両親のように生きるのは、きっととても難しいことだと思う。同じようには生きられないと思う。
でも、ノアとレナには、二人なりの幸福があるはずだから。
「…………迎えに行く」
やがてノアはそう言った。
「絶対に迎えに行く。信じなくてもいいから、忘れないで覚えていて」
馬鹿だな、と思う。
信じる心を試されるのは、レナよりノアなのに。
レナがこれから戻る先には色んなものがある。それらに触れてレナが心を翻す可能性は十二分にある。それに対して、ノアはこれから森の中で独り。独りぼっちで過ごすのだ。
でもその孤独の落差には敢えて触れず、レナは言った。
「本当に、ちゃんと迎えに来てよ。それまでに勝手に野垂れ死んだりしたら、承知しないから」
どんな危ない諍いがノアの身を襲うかは分からないけれど。
「…………我が儘、聞いてくれて有り難う」
「全然我が儘なんかじゃなかった。正直、信じられない。レナ、ごめん。本当にごめん。でも、有り難う。こんなに幸福なことって、ないと思ってる」
明日のことなんて分からないけど。
五年後、二人が無事でいるかも分からないけど。
でも、今、痛みと不安を丸々抱えて、でもその先に幸福を覚えるから。
「握手はやっぱり却下よ。こっちで我慢してちょうだい」
レナは小指をちょんと伸ばした。それを見たノアが真似る。
ちょっと泣きそうな下手な笑顔で。
絡めた小指はいつかの二人を繋ぐ、細やかな、本当に細やかな秘密になる。
まだ夜も明けきらない、靄に沈んだ薄暗い道を彼女は一人行く。
果たされる約束がそこにあるかなど、何の確証もないけれど。
でも、歩みを止めることはしない。
少しずつ少しずつ自分の周りの物事を整理して、覚悟はあったけれど、五年の月日はあっという間だった。し足りないことが沢山あった。
そうっと抜け出して来た、生まれ育った家には名残惜しいあれこれがまだまだ残っている。
でも、彼女は今日、家を出ることをやめはしなかった。未練や後悔は全部連れて行くと、そういう覚悟もまた決めていたから。
五年の月日はあっという間と言うと同時に、とてもまんじりと長いものでもあった。
沢山の不安と迷いを彼女に与えた。
待たせている間、何度も何度も思った。
この気持ちは幻ではないか。一過性のものではないか。思い込みではないか。
今も変わりなく息づく、本物か。
自分は彼を愛しているか。彼もまだ、自分を想ってくれているか。
いずれ手放す家族を思って、罪悪感も覚えた。
何で、何で彼は人狼なのか。
何度も何度も詮ないことを思った。
彼が普通の人間だったら、家族に紹介できたら、ここで一緒に暮らせたら。
自分のしていること全部がとんでもない間違いな気もした。
でも。
でもやっぱり、これだけの月日が流れても。
それでも彼女の心は以前と同じ場所にあったのだ。
森の裾野は静まり返っている。生き物の気配はない。
「……………………」
彼は、いるだろうか。無事でいるだろうか。
約束通りに迎えに来てくれるだろうか。
カサリ、草を踏み分け境界を一歩越える。
そのまま、そこで立ち尽くす。
どれ程そうしていただろうか。不意に僅かな足音が耳を掠めた。
「…………!」
胸が期待と緊張でドクリと鳴る。
やがて静かに声が落ちた。
「なかったことにしてしまっても、良かったのに」
「ーーーー馬鹿なこと、言わないで」
あまりに懐かしい、その声。辿った先に、佇むのは。
「私、約束は守る人間よ」
「…………そうだったね。君は真面目で真っ直ぐで、そして優しい」
頭でピンと立つ人外であることを示す獣の耳。森の全ての生き物が、いや、森の外の人間でさえ恐れる狡猾で残忍な生き物。
けれど、彼女の彼はその口許に柔らかな微笑を浮かべる。
記憶と変わりない、その笑顔。
「ーーーーレナ」
愛おしいと、名前を呼ぶその声が全力で叫んでいる。呼ばれたこちらの胸が震えるほどの感情。
伸ばされたその手を、取る。
「ノア、迎えに来てくれて有り難う」
引き寄せられたその胸の内はとても温かかった。安堵できた。これで良いのだと、そう思えた。
「レナ、レナ」
「うん」
「レナ、オレと一緒に生きて。辛いことや悲しいことが沢山あるかもしれないけど、それでもオレと一緒に生きて」
「うん」
「オレにこの先幸福を教えられるのは、レナだけだから。オレのありったけの力で、レナを幸せにするから」
腕の中から必死なその顔を見上げる。
あぁ、自分はこの心優しい生き物を愛していると心の底から思えた。
「ノア。ノアも私と一緒に生きて。投げ出した他の何より、私と懸命に一緒に生きて。そしたらきっと、それだけで幸福よ」
朝鳥の鳴き声が遠くに聴こえる中、二人は森の奥へと姿を消す。
その先には、小さくとも確かな新しい幸福がある。
一緒に生きて行くという、何よりもの幸福が。
最後までお読み頂き、本当に有り難うございました!
途中更新頻度がすごく落ちて申し訳なかったです……
あんまり甘酸っぱくならなかったですし、途中で"え、これハッピーエンドとか無理じゃない?"とも思ったのですが、何とか完結まで持っていけて良かったです。
本当にここまでお読み頂き有り難うございました。




