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第五話 そうして二人は、向かい合わせに席に着く。⑦






「……気になってることがあるんだけど」

「何?」

 日は既に暮れ、星々の慎ましい輝きが空を飾る。焚き火の前で、ノアとレナは並んで座る。

 そっと窺うと、隣のレナはただ真っ直ぐにその炎の揺らぎを見つめていた。その目許は涙のせいで少し赤い。

 ノアは再会してからの疑問を口にしてみた。

「そのどうしてか、レナからよく知った匂いがするんだけど」


 そう、鼻先がレナの匂いを嗅ぎ取ったあの瞬間、同時に懐かしくて懐かしくて、でももう二度と感じるはずのない匂いもしたのだ。自分にとって都合の良すぎる匂いばかりで、だから目の前にレナが現れた時、ますます幻覚かと信じられない思いがした。

 でも、それは気のせいではなかったらしい。


 今も隣のレナから、確実にその匂いがする。

 それは、ノアにとって、幸せの匂い。

 レナはチラリとこちらを見てからまた視線を炎へ戻して、それから言った。

「……あんたの弟、人懐こくて可愛いわね」

「!」

 そして胸元から小袋を取り出す。

 そっと開けてみせたそこには自分の髪と、それから。

「まさか、会ったの? オレの家族に?そんな……」

 そんな奇跡が、この世にあるだろうか。

 レナには本当に何のアテもなかったはずだ。自分がどこの土地から巣立ちあの棲み家まで流れ着いたのか、まるで知らないはずなのに。

「皆、とても親切で互いを本当に大切にしてる……良い家族ね。こんな私を、何にも責めずに温かくもてなしてくれた」

 独立した今、もう不用意に足を踏み入れられない、父が母のために用意した小さな楽園。ノア達兄妹が最も安心できた場所。

 あそこには今も、家族がきっと笑顔で暮らしている。

「ーーーー元気だった?」

「ええ」

|レナがこっちを見て微笑んだ。

「お母さん、ものすごく美人」

「……自慢の母親だよ」

 優しいけど、それだけじゃなくて強さもあって、そしてとても心配性。そしてきっと寂しがりやだ。母はあの家の太陽だった。


「ねぇ」

「うん?」

「ノアの弟もそうだったけど、どうしてお母さんは"母様"でお父さんは普通に"父さん"なの?」

 確かに、呼称に差が付いている。敬い度合いが違うように思えるのは当然だろう。

「どうしてかなぁ……兄さんがそう呼んでたから?自分達にとって、その呼び方がすごくしっくりきたんだと思う」

 あの家が家庭として機能していたのは、母の努力に拠るところが大きかったと思う。

 人狼の習性を優先すればもっと殺伐とした空気になってしまうところを、まあるく角を削いでいてくれたのだ。

 そんな母を、多分皆敬愛していた。

「愛情を表明するのに、一番良い方法だったのかもしれない。父さんも母様を特別扱いするのが好きだったから、むしろ呼称の差を良いことだと思ってたと思う。当の母様は、同じように呼びなさいって常々言ってたけど」

 結局誰もその言葉に従わなかった。

「本当に偶然に偶然が重なって奇跡的に出会えた訳だけど…………ノアのルーツを、育ってきたあの空気を知ることが出来て、本当に良かった」


 人狼のクセに、なんてもうレナは言わない。彼女は当然今も心の底から"人狼"を憎んでいるだろうけど、ノアをそれとは少し違うフィルターを通して見てくれている。

 二人の違いがなくなることはないが、それは本当に大きな歩み寄りだった。


「……………………」

 沈黙が降りて、再びノアはレナの横顔を盗み見る。レナは多分無意識にだろう、手首のブレスレットに触れている。

 人狼に殺されたという、弟からの贈り物。以前にはなかった色の石が加わって、再び環になっていた。レナの大切な、もの。レナのこれまでと、決意を表す象徴。



 ーーーーノアは訊かなくてはならない。

 逃げ回らず、レナから真っ直ぐ答えをもらわなければならない。



「ーーーーそれで、レナ。これからどうするつもり」

 レナは一瞬だけ、怯んだような顔をした。でもすぐにいつものちょっと素っ気ない感じに戻って言った。

「どうって…………家に帰るわよ。いつまでも出てる訳にはいかないんだから」

 その通りだ。

 レナはノアのために全てを捨ててきた訳じゃないだろう。

「ホント、あと二日見付からなかったら、諦めてそのまま帰るところだったのよ」

 中途半端なことをしたノアにしゃんとしろと喝を入れにきたのである。白黒つけろ、と。

「まぁ無駄足にならなくて良かったわ」

 レナはくるりとこちらと目を合わせた。

「……アルベルトが」

 その名前にドキリとする。

「助けられた恩があるってものすごく葛藤してたけど、あんたのこと黙っててくれたの。だからあの街で人狼狩りは行われてない。よその人狼が入って来てない限り、あの家もまだそのままなんじゃない?」

 ーーーーーーーー真面目な人間だ。恩を仇で返されても、ノアは納得できたのに。

 人狼だから仕方がない、と。

「でもまぁ、ノアはあそこに戻るのはやめておいた方がいいわね。人に姿を見られてるし、危ないもの。どこか、別の場所が必要よ」

 そう、でも正体を知られた今、ノアに帰るという選択肢はない。いくらノアでもそこまで楽観的で日和見なことはしない。



「レナ、」



 ノアは捨てる。あの縄張りを。あそこでの暮らしを。

 新天地を見つけられるか、他の人狼に敵うかは分からないが、父に仕込まれた生きる術を十全に活用して、どこか遠くへ行く。



「ねぇ、ノア」

 レナがノアの言葉を遮った。

 遮って、そして不意打ちみたいに、言った。




「私、あんたが好き」




 はっきりと。



「好きよ」



 何も誤魔化さずに、言った。



「ーーーーーーーー」

 その言葉が胸に刺さる。

 嬉しくて、温かくて、愛おしくて、でも痛くて痛くて苦しい。


 レナは続ける。視線を逸らさずに、正直に。

「……でも私には家族がいて、弟達はまだ幼くて。それに私は絶対に家族にノアを紹介なんてできない。ノアと自分の間に幸せがあったとして、でもそれは家族に、自分の大切な人達に見せられないものなの。結局、私に人間社会を捨てることは難しい」

 痛くて苦しいのは、レナも一緒。

 お互いに残酷な言葉を、ノアはレナに言わせる。

「今の私はノアを選べない。……選ばない」




「ーーーーーーーーうん」

 ノアはただ、頷いた。口の端には小さな笑みさえ浮かんでいた。


 レナが、葛藤を乗り越えてはっきりと言葉にしてくれただけで、もう十分だと思う。

 だって、人狼と人間だ。それも母とは違って、レナは天涯孤独でもなく、回りに上手く馴染み、そして弟を人狼に殺められているという、どう考えたってこちらに心を傾けられるような相手じゃなかったのだ。

 そんな彼女が、真っ直ぐノアのことを好きだと言ってくれたのだ。



 心を通わせられた。

 それだけがもう過ぎた奇跡なのだ。



「酷いことをしているだけだと、そういう風にも思うけど、でもどうしても、自分の口で本当のところをノアに伝えたかった」

 もう、十分なのだ。

「こんなところまで追って、期待させてーーーーでも結局こんなことしか言えなくてごめんなさい」

 ノアはそっと彼女の柔らかな頬に触れてみた。温かくて、その体温にホッとした。

「謝らないで良い。謝らなきゃならないことじゃない。レナはきっと、レナにできる最大をオレにくれた。オレはもう十分幸せだよ」

 本当に。

「でも」

 幸せだと、思えているのだ。

「…………レナ、幸せがいつもまあるい形をしてる訳じゃない」

 この幸福はちょっとあちこちゴツゴツしてるところもあったり、鋭利なところがあったりと、時にノアの胸を刺すこともあるだろうけど。だけどノアにとって紛れもなく一等大切な記憶だ。

「願わくは、レナにとってもこれが消し去りたい過去じゃなく、大切に振り返れる日々になってくれたらと、そう思うよ」

「…………そう言ってくれて、ありがとう」



 いつだか母は言った。言ってそして、とても心を痛めた。



"幸せが分かるってことは、同じように不幸も理解できるということだわ"



 その通りだ。幸せを知らなければ、その裏側にあるものにもまた名前はつかない。

 ノアは確かに苦しみ、自分と彼女の違いを呪い、こんなことなら出会わなければとさえ思いかけた。



 でも。



"だけど、心が温まるということは、本当にかけがえのない感覚よ。あなた達がその感覚を知っていて良かったと、そう思える人生を歩んで。それだけが私の願いだわ"



 それもまた、その通りなのだ。

 胸に宿った温もりは、本当にかけがえのないもので。

 この感覚を後悔なんてしたくない。大切なんだと胸を張っていたい。

 どれだけの痛みや苦しみがそこにあっても、捨ててしまいたいとは思えない。



 幸せとは何か、理解できる育ちで良かったのだ。

 愛するとは何か、知ることができて良かったのだ。



 大切だと思えるものがあってこそ、生きてきたことが鮮やかに色付き意味を持つ。



 ノアは、これで良かった。

 母のことも自分のこともレナのことも。誰のことも恨んでいない。



「…………最後に、近くまで送らせてほしい」

 そう告げると、レナは泣きそうな下手くそな笑顔で頷いた。

「ーーーーーーーーお願いするわ」




 そうして、二人の別れに向けた旅が始まる。







次で、ラスト……!

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