第五話 そうして二人は、向かい合わせに席に着く。⑥
次の朝、レナは再び旅立つことにした。
装備を身に付けて、身形を整える。
「レナ、良かったらこれ、持って行って?荷物になるかもしれないけど」
そう言って、彼女が玄関先で日保ちする食糧やちょっとした薬を手渡してくれた。
「ありがとうございます」
決して良い報告ができた訳じゃないのに、最後まで彼女はレナに対して親切で温かかった。
「レナ、あなたの旅の安全とこれからの幸福を」
これは、気持ちの整理の旅だ。
広大な森の中、当てもなく人を探すなんて不可能以外の言葉で表せない。無理だろうと、きっと彼女も分かっている。レナだって、そう。
だがーーーー
「……たまたまだろうが、ここに辿り着いたのは幸運だったな。ノアを追っているなら、良い狙いだ」
人狼が初めて、レナに対して口を開いた。
「え…………」
そこには何の険も含まれていない。
「人狼は、縄張りを持つ。つまり、他所の縄張りに入れば、それは闘争の火種。そこにはもちろん親子の繋がりも関係ない。だから、人狼は早々に息子を自分の縄張りから巣立たせる」
一度出れば、それは永久の別れ。
次に見えることがあれば、それは侵入者、侵略者としてとなる厳しい世界。
「ノアは分かっている。何より本能で理解している。だから、絶対ここには帰って来れない」
どれだけ家族を愛していても。里心がついても。
それが、人狼という生き物。
「だが、よく知っていると思うが、あれは本当に根は穏やかで柔らかい。そういうところを捨てきれない。最低限の冷酷さを叩き込むのにどれだけ苦労したことか」
思い出をなぞる人狼の声は柔らかい。息子への愛情が感じられる。
「ノアは帰って来れない。だが、その性格を考えれば、見当違いな方向よりは、思い出に引かれてこの近くまで足を伸ばすことはある……と思う」
「ノアが、この、近くまで……?」
「何の保証もしてやれないがな」
そうして、人狼はおもむろに自分の髪をひと房、鋭利な爪で切った。
「この辺りはそれほど獰猛な生き物はいないが、気持ち悪くなければ持って行くと良い」
「!」
差し出された髪。
それは、人狼の警戒が完全に解けていることを示していた。いや、それどころかこちらを慮ってくれている。
「あの、良いんですか」
「……もう切ってしまった」
そおっと手を伸ばす。その手のひらから、滑らかな光沢を放つ、灰色の髪を受け取る。
すると、それを見ていたフェルディが声を上げた。
「じゃあボクも! ボクのももらって?」
そうしてひと摘まみした髪を、惜しげもなく切り落とす。こちらの髪色は、母親と同じ。
「ふふ、すごいわね。人狼三人分の匂いをさせてる存在なんて、まずもってあり得ない。大抵の者は手を出さないわ。最強ね」
そうだな、と彼女の肩を抱いた人狼が言う。
眩しい光景だった。
でも今日は羨む気持ちより、純粋な憧れが大きかった。
有り難く、ノアのものと一緒にそれらをしまい込む。
「この匂いが鼻についたら、ノアも驚くだろうよ。ーーーー幸運を」
最後に人狼が小さく、本当に小さく笑った。
それから数日。レナが自分でここまでと決めていたリミットまであと少しというところで。
その奇跡は、ようやく起こった。
木々の間を淡々と進むだけの毎日。発見するものは特にない。誰とも口を利かない生活は、レナの思考をどんどん掘り下げていく。
諦めは大切だと思った。諦められずさ迷って、自分を見失う訳にはいかない。
ノアとの再会を諦めても、ノアへの気持ちを心の中の別置きの箱にそっと入れて、肯定し続けることはできるだろう。そうやって、自分の気持ちを誤魔化さないで生きていけるようになりたいと、レナは思う。
「………………?」
ふと気付くと、何だか森がやけに静かな気がした。望まれざる異物に対して沈黙を以てやり過ごすような、風も鳥も川のせせらぎさえ鳴りを潜めるような。
ドクリ、小さく心臓が音を立てる。
これは、森の防衛反応。こんな空気を引き起こす何かを、レナはそうそう知らない。あの生き物以外、知らない。
無意識に歩が早まる。低木を掻き分けて行く。木葉が頬を掠めても、構いやしない。
レナはお守りを持っている。一等特別なお守り。
だから、大抵の人狼は避けられる。
お守りが効力を失うのは、居合わせたそれが、元の持ち主だったその時だ。
「!」
そして、視線の先にレナは見つけた。
ずっとずっとずっと探していた背中を。彼女だけの人狼を。
「…………!」
ノア、と声にしたと思ったのに、実際には喉で言葉がこんがらがって出てこなかった。
けれど、気配を察知して、その背中が振り返る。レナを、捕捉する。
目が合った、その瞬間。
全身が総毛立って、ものすごい勢いで身体中を血液がぐるりと巡って、脳がその衝撃にくらりと揺れて、本当の本当にどうにかなってしまいそうになった。この程度では筆舌に尽くしがたい激情だった。
「レ、ナ」
目を見開き呆然とするノア。
あぁ、ノア。ノアがそこにいる。
間違いなくそこに存在している。
レナの、目の前に。
心が、震える。
そして次の瞬間、むくりと首をもたげた感情。
ーーーーそれはとてつもない怒りだった。
そう、レナは急に何だかものすごく腹が立ってきて堪らなくなった。
何だ、その幽霊でも見たような顔は。こんなところにいるはずない、みたいな顔は。
そうだ、こんなところに本来レナがいる訳がない。いる訳がないのだ。誰のせいで、こんな危険を犯してこんなところにいると思っているのだ。
ノアのせいだ。
ノアが、勝手に黙っていなくなるから。レナのためとか一人で決めてしまったから。だからレナの気持ちはひどく中途半端に放り出されてしまって、どうしようもなくなって、こんなところまで追いかけてしまったのだ。
ノアの行動はレナを思ってのこと。それは今もそう思ってる。
だけど、奇跡的にこうして再び見えて、レナはそこに違う側面があったことに今更気が付く。
二人の、ことなのに。これはどちらかの一方的な出来事ではなくて、二人の問題なのに。
それを一人でどうにかしようとするなんて、勝手だ。傲慢だ。
あの日、ノアは堪らずレナに触れてしまったのだ。心の内を告げたのだ。その時点で、もう独りよがりなんて許されない状況になったのだ。
それを、この男は。
レナはまだ呆然としているノアに向かって駆け出した。
腹が立つ。腹が立つ、腹が立つ、腹が立つ!
自分をよくも見くびってくれたものだ。
「レ、うわっ!!」
その胸に飛び込んだと見せかけて、レナは思いっきり握った拳を叩き込んだ。
「こっっっの、馬鹿! お人好し! 自分勝手男!」
「いっ……!」
何度も何度も胸に拳をぶつける。
本当に腹が立つ。レナは人前で泣くのが大っ嫌いなのに、視界はブレブレだし、頬は熱いし、嗚咽は止まらないではないか。全然自分をコントロールできないではないか。
ノアの、せいで。
「許さないんだから!」
レナの心は滅茶苦茶だ。
「言い逃げなんて、絶対許さないんだから!」
レナの人生は滅茶苦茶だ。
「自分が始めたことでしょ、中途半端なことしてんじゃないわよ!」
どうしてくれるのだ。
「せ、責任取りなさいよ、この、自己中っ……!」
どん、と突き立てた拳が、上からそっと握られた。
「…………本当にレナだ」
微かに震えた声。
「こんなとこで偽物なんか出ないわよ……!」
「……会いた過ぎて、幻覚でも見てるのかと」
まるで実体があることを確かめるように、本物なら逃すことがないように強く握り直される手。
再び感じることはもうないと、何度も何度も諦めた温もりがそこにはあった。
「こんなところまで、本当に……」
頬に添えられる手。レナはそれに誘導されるようにノアを見上げた。自分の視界がボヤけているせいかもと思ったが、ノアの瞳もまた潤んでいた。
「ーーーー空っぽのあの家を見た時、私の心臓がどれだけ冷えたことか」
「……無理矢理均衡を破ったのはオレだったから。だから、あの時はあぁするのが最善だと」
でも独りよがりだった、とノアは言った。
「レナ、ごめん」
ふわり、抱き締められる。
「ごめん、でもありがとう。これ以上の喜びはないよ」
これ以上を、レナは与えられない。きっと与えられない。
「ノア…………」
でも今は、こうして再び見えたその喜びだけを、抱きしめていたい。
レナはぎゅっと目を瞑って、その温かな胸に頭を預けた。




