第五話 そうして二人は、向かい合わせに席に着く。⑤
タグにもふもふとあるのに、まだ何ももふもふしていない!
これではもふもふ詐欺だ……!!
ということで、もふもふシーンを投入。
レナの初もふもふは、残念ながらノアではありませんでした。(そのうち、もふもふさせるはず)
「レナ、ちょっと休憩しましょう?」
翌日、レナは自分を快く受け入れてくれたそのお礼に、畑の土作りと薪割りを手伝わせてもらっていた。
一緒に土を耕していた彼女が汗を拭いながら言う。
「ちょっと待っててね」
そうして彼女は井戸の水で冷やしていた果実水をグラスに移して持って来てくれた。うっすらピンクがかったそれは、昨日人狼とその息子が採ってきてくれたもので作ったものだった。
そのまま側の手頃なサイズの岩に二人腰掛けながら、口をつける。
「美味しい……」
「甘酸っぱくて、力仕事の後は染みるでしょ?」
彼女の言う通り甘味と酸味のバランスが絶妙に取れた果実水はすぅっとそのまま身体に馴染むようだった。
「…………ここは、本当に良いところですね」
家を、植えられた花々を、畑を。
|ゆっくり眺めて、吐息と一緒にレナはそう呟いていた。
「そうね、とても住み良いところだわ」
完成された小さな小さな楽園。
彼と彼女と、二人が大切にしているものだけが詰め込まれた、小さな一つの世界。
これを完成させるまでにどれほどの労力が必要だったか、想像に余りある。
「ヴォルフのおかげでよその人狼が入り込むこともないし、人間もまず辿り着かない場所だから人狼狩りにも怯えなくて良い」
人狼と彼女がどれだけ大切に大切に小さなことを積み重ねてきたのか。この一家の幸せは、それに裏打ちされているのだ。
「え? あぁ、そうよ、ジェイドもいるものね。ウチには心強い用心棒がいるから、安心ね」
家先をうろついていた狼が寄って来て何かを主張するように彼女に身体を擦り付けたら、彼女はそう言ってふかふかの毛並みを撫でた。
何でもこの狼は一家の家族であり用心棒であるらしい。レナにはちょっと信じられないことだが、どうやらなかなかの精度で彼女らと意思の疎通が図れているのである。
人狼は時折群れをはぐれた狼と行動を共にすることがあるらしい。縄張り内での安全と自由と引き換えに、よそ者を入れないように見回りや時に共闘することもあるという。
「ウチはね、何故かそういった独りの子に出会う縁があるみたいなの。どの子もとっても賢くて可愛くて良い子」
彼女の視線が家の側に作られた小さな土山に向かう。ぐるりと周りには花が植わっているそこは。
「歴代の子のね、お墓なの」
彼女がそう教えてくれた。
「ウチの子はね、どの子も皆長生きだったわ。ヴォルフの庇護下にあるのだから、リスクも少ないし」
ジェイドも長生きしてね、と彼女が狼の頬をぐりぐりした。抵抗など一つもせず、むしろもっとしろと言わんばかりにご満悦な顔で身を任せている。まるでただの飼い犬だ。
「ジェイドという名前はその瞳の色からですか?」
「そうなの。それに災いや不運を避けられるようにって、そういう風にあやかってもいるの。ふふ、ヴォルフも随分名付けが上手くなったものだわ」
「?」
「ウチでは狼の名付けはヴォルフがするの」
一方子どもの名付けは、全て彼女によるものらしい。上からアーディー、ノア、フェルディというのだと彼女は教えてくれた。
「ここで、ノアが暮らしていたんですね……畑を手伝ったり?」
「えぇ、皆よく手伝ってくれたわ。畑は私の領域でね、イチから作ったの。苗を買ってきてもらって、今では結構な量を収穫できるようになったわ」
確かに畑はなかなかに立派なもので、彼女の作業を見ていても手慣れていることが分かった。これから夏に向けては最も収穫量が増えるのだろう。
「あの家はね、ヴォルフが手を入れてくれて。改修だけじゃなく、増築もしてるの。家族が増えたから手狭になった分ね」
示された指先を辿ると、確かに玄関がある側とはちょっと毛色が違う部分がある。
そう言えば、二つの棟を繋げたノアのあの棲み家も片方が新しく、片方は苔むしていた。もしかしたらここで父親を手伝ったノウハウを活かして、ノアも自力で建て増ししたのかもしれない。
「……まるで人間みたい」
ポツリと零してしまった。
そうね、と彼女は呟いたけれど。頬に影を落とす長い睫毛が不安げに揺れる。
「あぁ、レナ。でも決して私達と"同じ"ではないのよ」
それを忘れないで、と。
そして少しの沈黙の後、
「本当は反対されたの」
秘密を囁くように彼女は言った。
「フェルディを産むことーーーーううん、ノアの時も」
人狼と人生を共にするというのは、生半可なことじゃないと、彼女は教えようとしている。
彼女はとても幸せそうだけど、レナが手に入れられなかったものを持っているけれど、でもそれをただ羨ましがるのは何か違うのだろう。
反対された、というけれど、結局彼女は三人もの子どもを産んだ。
「人狼の子どもを生むのは、普通の出産よりも更に命懸けだから。本当に、一人きりで生まなければならない」
ハッとする。
そうだ、産婆どころか誰にだって頼れない。妊娠から出産まで、本当に自力で生き延びねばならない。それは、なんて不安と恐怖だろうか。どれほどの孤独に押し潰されそうな十月十日だろうか。
彼女の場合、夫たる人狼は献身的だっただろうけど、それでも彼の方に出産に関する知識があった訳ではなかっただろう。
「でも私は欲しかったのよね。本当は、人狼としてはイレギュラー過ぎて良くないことかもしれないけど、家族が欲しかったの。アーディに、ノアに、兄弟を作りたかった。ーーーーううん、ただ単に私が寂しかっただけなのかもしれないけれど」
命を、懸けても。
それでも望んだ大切な子ども達。
「一番最初の時はまだ十九で、出産はとても不安で堪らないことだった。でも、息子達の中で一番大変だったのはノアの時ね。早産しかけて、その後産む時も随分難産だった。無事に産めるのかどうか、途中で本当に怖くなったの。ヴォルフやアーディの真っ青な顔は、今でもよく思い出せる」
ノアの時にそれほど危ない目に遭って、よくあの人狼が三人目を許したな、と思う。あの人狼の愛情深さはよく分かるが、それでも子どもよりもまず彼女のその身の方を重視するだろうことは、レナでも察せられる。
「産む時にあれだけ難儀したからかしら、ノアは兄弟の中でもとりわけ忍耐強くて、そして穏やかな気性の子だった。人狼としては、あまり好ましくない性情だったと思う。でも、そういう子だったからこそ、きっとあなたと意思を通わせられたのね」
にこり、儚げに微笑む彼女は自分の親とそう変わらない年齢のはずなのに、驚くほど可憐だ。落ち着きとこの可憐さが同居しているとは、どういった人生を今日まで歩んで来たのだろうか。
「……レナ、昨日も言ったけれど、あなたがノアを選べないのは当然のことだと思うわ。私と比べて、人狼を選らばなかった自分を責める必要はない。だってあなたと私では、歩んで来た人生がまるで違う」
「……………………」
「私はね、たまたま何も持っていなかったの。人間社会に何も未練がなかったの。それは、それまでの人生の不運を示しているけれど、でも、人狼と一緒になるには幸運なことだった」
レナは、その逆なのだ。
「レナ、あなたは大切なものを沢山持っているのね。家族や友人に仕事。それってとても幸せなことだし、そしてとても一般的なことだわ。そんなあなたがリスクだらけの人狼との未来なんて、天秤にかけるまでもなく選べないものよ。私はたまたま上手く行っただけで、本当に、何の保証もない暮らしなんだし」
理性が、常識がそう言わせている。母親としての本心は、きっと息子を選んで、幸せになってほしいと思っているだろうに。
「でも……」
だけど、彼女はそれは言わない。
レナが苦しくなるだけだから。
「ウチの息子も困ったものね。きっちりフラれてやる覚悟もないんだから。親切のつもりかもしれないけど、黙って姿を消されたりしたら、こっちは消化不良で堪ったものじゃないものね」
それでレナが危険を犯して森をさ迷っているなんて、本末転倒だわ、と彼女がちょっと怒ったように言った。
「でも、これは私が好きにやっていることなので……」
ノアが責められることではないと思う。
でも彼女の前で、レナはあまり上手く喋れなかった。何を言っても気を遣わせてしまう気がするし、何か言って不用意に傷付けるのではないかと怯んでしまう。
「ーーーーね、レナ。レナも触ってみる?」
彼女がもしゃもしゃしていた狼を示して言った。
「え」
「噛み付いたりしないわ。とっても魅惑のもふもふだから、最高よ」
本当に、大丈夫だろうか。確かにこの狼は全然レナを威嚇したりしないし、ここにいることを許している。でも、だからと言って無遠慮に撫で回したりしても大丈夫だろうか。彼女は長年の付き合いで、家族だから、この狼も懐いているのだ。でもレナは昨日今日ポッと出た人間。
でも、腹を見せて撫で回されている狼と目が合ってしまった。
その目が"触れられてやらないこともない(いや、むしろ触って)"と言っているのが、レナにも分かったので、
「…………じゃあ」
そうっと手を伸ばしてみた。
「…………!」
それは、感動のもふもふだった。
温かく、柔らかく、もったりとしていて、でも滑らか。一生触っていられるレベルである。
「すごい」
心配せずとも、もふもふしても狼は怒らなかった。むしろもっと撫でろと腹を押し付けてくる。
「ね、すごいでしょ。これが日々の癒しなの」
「確かに、極上のもふもふです」
目の前のもふもふに全てを持って行かれるので、頭の中が一時静かになる。取り敢えず今はこれに癒されておけばそれでいいのだと、そんな気がしてくる。
「母様? お姉さん?」
家の中から、フェルディが顔を出す。人狼は出てこないが、息子と一緒に家の中にいたはずだ。
昨日と違って、人狼はもうあまりレナのことを見張っていないようだった。
狼をもふもふしていたレナを見て、フェルディが大きな声を上げる。
「あー、ジェイドずるい! ボクも! お姉さん、ボクの耳もふっかふかだよ! 魅惑の触り心地だよ!」
ね? だよね? と母親の方に念押しをして、ずずっと頭を差し出してくる。
「ジェイドは母様にもふもふしてもらってよ」
戸惑ったけれど、彼女の方を窺ったら触ってやってとその目が言っていたので、恐る恐るレナは手を伸ばした。
「…………!」
柔らかかった。そして思っていたより肉厚な耳。毛並みは恐ろしく美しく、本人が自信満々だったその通りにもふもふだった。
「ふふ、魅惑の触り心地でしょ!」
「うん、もう虜になっちゃいそう」
手のひらの縁が、時折髪の方に触れる。
お守りとしてもらったノアの髪に触れた時も思ったが、彼だけでなくフェルディもまた恐ろしく滑らかで絹のような触り心地の髪をしていた。こんな光沢、相当手入れしていないと出ないはずなのに、人狼のキューティクル事情は一体どういうことになっているのだろう。
「母様もね、よくもふもふするんだ。これね、実は触られる方もすっごく気持ち良いんだよ」
「本当?」
「本当」
フェルディがにっこり笑う。
「うっとりしちゃうんだ」
そしてレナの手のひらに、さっきの狼と同じように耳を押し付けた。
目の前にいるのは、ただの可愛い幼い少年だった。
彼女は決して同じじゃないと言ったし、それはその通りだと思うけれど。
レナはもう知っている。
同じじゃないから、心を通わせられないということではないのだと。
同じじゃなくても、言葉を交わし、目線を合わせ、寄り添うことはできるのだと。
もう一度、ノアに会うことができたなら。
その時はノアの耳にも触らせてもらいたいと、レナは心の中でそう思った。




