第五話 そうして二人は、向かい合わせに席に着く。③
リディアと呼ばれた女性はまた人狼の腕により家の中へと引き込まれ、代わりに人狼の方が口を開く。
「見たところ、女の身で珍しくはあるが、あんた、ハンターだな」
分かりやすい敵意や殺気はなかった。でも、ただ静かにひたとこちらに向けられただけのその視線が、それだけでレナの全てを隈無く見定めている。
敵う訳がない、と本能が悟った。
ただ相対しただけでこれほどに丸裸にされた、全てを見透かされた気分になるのだ。力量の開きは絶対的で、自分が捕食者の立場であることを思い知らされる、そういう存在。
「ノアの匂いがするのはその懐のもののせいだろう」
人狼はお守りを忍ばせている場所へ視線を落とす。
「それをどこで手に入れた」
「ヴォルフ……?」
疑われている、と気付いた。そして自分の物々しい装備を思い出す。
「リディア、娘の身でハンターになろうなんて、並の覚悟じゃない。そしてハンターとはもちろん例に漏れず害獣の人狼を討伐対象にしている。ノアはそこらの人狼と比べれば頭一つ抜けて強いが、いかんせん気性が穏やか過ぎる」
「そんな!」
「違います!」
でも、レナはノアを害した訳じゃない。最初こそ敵意をもって攻撃したが、レナはもうハンターとしてノアと向き合っている訳ではないのだ。
「このお守りはノア本人からもらったものです。私は確かにノアを追っているけど、それは討伐のためじゃない。私はノアを見つけてーーーー」
見つけて、もう一目会って。
そうしてどうするのが目的なのだっけ。
「見つけて…………多分、はっきりと告げなくちゃいけないことが、あるんです」
「………………」
人狼の目をしっかり見つめて言う。
怖い、と思った。けれど、そんな理由で目を逸らしては信じてもらえない。
「ーーーーヴォルフ」
数瞬の膠着の後、静かな声が落とされる。
「ねぇ、いいでしょう?」
更に言葉を重ねられて、人狼は大きく溜め息を吐いた。少しだけ、張り巡らされていた緊張が緩む。
「…………分かった」
多分渋々なのだろう。けれどそう許可が降りた途端、女性は嬉しそうにレナの手を取った。
「私はリディア。彼は夫のヴォルフ。この子は息子のフェルディよ。ノアは、私の息子なの」
柔らかい笑顔。問答無用で包み込まれてしまう温かな雰囲気。これが、ノアを育んだ母親の持つ空気。
「ーーーーレナ、と言います」
「レナ、ね。さぁ、レナ。大したもてなしはできないけどウチに上がって」
引き入れられた家の中は、様々な調度品に囲まれ、殺伐とした雰囲気などどこにもなく人間らしい生活感に溢れていた。
「レナ、あなた、随分疲れているようだわ。湯を沸かすから、さっぱりして来るといいわ」
レナよりも幾分小さい彼女は、下から覗き込むようにして言う。
「え、あの」
「ここまで来るのは大変だったでしょう?」
確かにここしばらく、気の休まる時はなかった。野宿の日々だから、睡眠だって警戒が必要だからそうしっかりとは眠れない。だから温かい湯なんて、想像しただけで心がときめいた。というか川や泉があるので定期的に身体は清めていたが、それでも汚れや匂いは気になる。それもこんなレナと対極にいるような愛らしい人を前にしているなら、その不安も倍増するというものだ。
「その間、何かお腹に入れられるものを作っておくわ」
「母様、ボクも手伝う!」
脇に立つ人狼はまだ全然レナを信用していなかったが、レナの方は彼女の心からの笑顔を見て心の警戒を解いた。
ここは、危険な場所ではない。
彼女や子どもを害するようなことさえしなければ、レナもまたここの人狼に危害を加えられることはないだろうと、それがよく分かった。
温かいお湯に触れて、身体の強張りと心も一緒に少し解けたように思う。
レナは湯気を発する自分の肌を見ながら、ホッと一息吐く。
身に纏うのは自分の衣服ではなく、ノアの母親が渡してくれたものだ。私が着ているのでごめんなさいと言われたけれど、オフホワイトのワンピースは清潔でシワ一つなく、ついでに言えば女性らしいデザインだ。
レナだって一応年頃なのでそれなりにお洒落には気を遣うが、やはりどこか機能性を気にしてしまったり、柔らかく甘いデザインは顔に合わないからと敬遠してしまう。
「………………」
着てみたはいいが、やはりちょっと自分には似合っていない気がする。知り合いに見られたら微妙な顔をされそうだ。でも、意を決して出ていったら、彼女は手放しで誉めてくれた。
「レナは手足がすらっとしているから、ラインが綺麗に見えるわね。私が着るよりきっといいわ」
「いえ、そんな……」
「ふふ、女の子相手に服がどうこうなんて、今まで言いようがなかったからすごく新鮮だし楽しいの。私、娘は産みようがなかったから」
本当に楽しそうな顔。そして彼女の言葉で気が付く。
人狼には、男しかいない。人間の娘を拐かして子を成す。そこに、娘が生まれる可能性はゼロらしい。身籠れば、それは全て男児なのだ。
「ねぇ、お姉さん」
そしてノアに続いて彼女が生んだ、末の子がレナにまとわりつく。気分が悪いとか、そういう風には思わなかった。多分、他のノアと何の関わりもない人狼相手なら、それがいくつだろうとレナは嫌悪や憎悪を即座に覚えるだろう。そういう感覚は以前と変わらず自分の中で根付いている。
でも、彼らは違う。ノアに連なる彼らは、あの人狼らしからぬ空気を纏っている。無闇に人間を襲ったりしないし、その感性は同じでなくとも随分こちらに近い。拒絶を示せば、傷付くのはこの子の方なのだ。
それが分かっていれば、感覚としては弟達と戯れているのとそう変わらない。懐っこい、明るい子だ。そして末っ子らしく甘え上手。
「お姉さん、ノア兄からそれもらったんだよね」
小袋に入れて今も首から下げているお守りを指してフェルディが言う。
「うん、そんなの」
「ふふ、じゃあお姉さん、ノア兄ととっても仲良しなんだね!」
仲良し、と言われてひどく胸が痛んだ。
「仲良し、かな」
「そうだよ」
いや、違う。仲良しなんかじゃない。そんな風に形容できる付き合いをレナはしてこなかった。ノアはいつでもレナを受け止めたが、レナはいつもノアに対して不親切で頑なでキツくて可愛げがなかった。
そうだ、自分は今まで一度だってノアに対して友好的じゃなかった。
あの微笑みに、自分もまた微笑み返したことなどあっただろうか。
「だってそんな簡単にはあげないよ」
フェルディが言う。レナに、どれだけ二人の間で天秤が傾いていたか教える。
「特別だもの。もちろん自分のものだって主張する意味もあるけど、人狼が守りをあげちゃったら、種として見るならマイナスだって父さん言ってたよ?」
一つ、餌を減らす行為だから。
そう、奴らにとって人間は特別なご馳走だけど、本来人狼は森からそうは出てこないのだ。森をうろつく人間というのはそれなりに限られていて、だから貴重なそれの匂いを惑わすお守りは、種の保存としての観点からは誉められたものではない。
というか、普通はそんなこと人狼はしようと思わないので、出遭えば喰われて即終わりなのが常なのだろうが。
「そっかぁ、お姉さん、ノア兄の特別なんだね」
特別。
「特、別かぁ……」
レナは全然分かっていなかったのだ。守りとして人狼自ら髪を渡してみせるその行為が、どれほど重い行為か。
じわり、後悔が瞳に滲みそうになる。それを寸のところで堪えていると、ノアの母親の声が響いた。
「フェルディ、構ってもらいたいのは分かるけど、それくらいにしときなさい。せっかくの食事が冷めちゃうわ。レナ、こっちに来て。温かいうちにどうぞ?」
呼ばれてテーブルへ寄ると、そこには肉入りのスープやサラダ、パンなど一般家庭と見劣りしない食事が並んでいる。
「野菜はね、家の隣に畑があったでしょう? そこで私が育てたものなの」
少し得意げな顔。
「ウチの皆は野菜も食べるのよ。人狼にしてはかなり珍しいでしょうけど、やっぱり栄養が気になるものねぇ」
にこりと笑いながら言ってみせたが、次の彼女の言葉には深い深い願いと気遣いが感じられた。
「できるだけ、健康に長生きしてほしいから」
この人がどれだけ家族を大切にしているか分かる。夫たる人狼を心底愛しているか分かる。眩しくて、羨ましい。
一つの理想が、そこにはあった。
「ね、レナ。温かいものをお腹に入れると、きっとちょっと楽になるわ」
彼女は知っている。そう思う。
レナがこんなところまでノアを追いかけてきた、その心の中身に勘付いている。そう思う。
「……いただきます」
口に含んだスープは、とても美味しかった。そして言われた通り、お腹がぽかぽかすると、ほんのちょっとだけ何かが楽になったような気がした。
食事を終えたら、レナは話さなければならないだろう。
自分が何故、ここまで辿り着いたのか。
ノアとの間に何があったのかを。




