表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/42

第五話 そうして二人は、向かい合わせに席に着く。①






 ノアは、全てを呑み込んでくれたのだと思う。

 レナのノアに対する好意も、葛藤も、人狼に対する憎しみも。

 そして家族への愛も、属するコミュニティの大切さも、捨てられないあれこれ全ても。

 甘い部分も苦い部分も、全部全部一緒くたにして、それがレナなんだと丸ごと呑み込んでくれた。

 だからノアはそれら全部を慮って、レナが何にも選ばなくて済むように自ら姿を消したのだと、そう思う。


 対するレナは、やはり全てを呑み込めなかった。

 ノアに対する好意を認めること、彼を他の人狼と区別して考えること、彼に人間と変わらない心があると確信すること。それらはできても、だからノアを受け入れるという選択肢には辿り着かなかった。そうするには、レナには持ち物が多過ぎたのだ。


 理屈は分かる。結果も分かっている。

 結局レナはノアを受け入れないと決めていたのだから、今のこの現状は妥当なものなのだ。

 ただ、レナが面と向かってノアに言葉を向けたか向けなかったか、それだけの違いしかない。


 すっかり春めいた日差しを窓辺から感じながら、ぼんやりとレナはそう思う。

 でも、それだけの違いがあまりにも大打撃だった。

 レナは未だ、あの空っぽの棲み家が与えた衝撃から抜けられていない。


 ノアに出逢ってから、レナは自分の弱さばかりを突き付けられる。

 動揺してばかりで、迷ってばかりで、立ち止まってばかりで嫌になる。

 自分がこんなに駄目な人間だとは思わなくて、そのことに打ちのめされる。

 今だって、ほら。

 レナはショックから全く立ち直れずに、脱け殻のように自室に引きこもっているばかり。

 できることが何もなくても、全ては終わってしまっていて、もう動きようがないのだ。

 ノアは深い深い森のその中へ。


 普段なら家族の手前何とか自分を取り繕おうとするところだが、今回ばかりはその余裕もなかった。

 分かりやすく落ち込んで、ろくろく部屋から出て来ないレナを皆が心配している。

 どうにかしなくちゃと思うのだが、思えば思うほど気持ちは上滑りし、空回っていく。

 失恋、なんて言葉では片付けられなかった。もっと酷いことだと思った。


 こうやって喪失感に耐えていれば、いつかは鈍化して元通り振る舞えるようになるのだろうか。

 ーーーー分からない。


 カイルを失った痛みも、何年経ってもこの胸にある。でも、平素はそれを胸の中だけで納めておける。そういう風に、ノアとのことも扱えるようになるだろうか。それにはどれくらい時間がかかるのだろうか。

 ーーーー分からない。


「ねーちゃん」

「…………何、レオン」

 掛けられた声に振り向くと、そこにはノートやらを抱えた弟が立っていた。

「宿題、見てほしいんだけど。時間、あるだろ」

「ーーーーいいわよ」

 何だかぶっきらぼうな物言いは、レオンがレナに対して距離を測りかねているからだ。今までレナは怒ってみせることはあっても、泣いたり悲しんだりそういう脆い部分を弟達に見せたことがなかった。あるとしたら、長兄のクリスにだけだ。


 カイルの悲劇を覚えているのは、きょうだいの中ではレナとクリスだけなのだ。レオンもヴィンセントも幼過ぎて、悲惨な目に遭ったカイルのことを情報としてしか知らない。記憶には、残っていないのだ。

 あの時は、家族全員が嘆き悲しんでいた。だから、クリスだけはレナの弱った姿を目にしたことがあるだろう。

 そんなクリスも、滅多に見ない姉の姿に、ここしばらく随分戸惑っているようではあるのだが。

「何が分からないの」

「えっと……ここと、ここ」

 開かれたのは算数の問題で、示された部分をレナは軽く解説してやる。やるのだが、分からないと言った割にはレオンの筆は詰まることなく順調に進んだ。

「レオン…………」

「な、なに」

 わざとだということはすぐに察せられた。

 この弟は気落ちしたレナと何とかコミュニケーションを取ろうと、下手な演技までして声を掛けに来たのである。

 情けない。でも、そうやって不器用に寄り添おうとするその姿が愛しい。

「…………説明すれば、ちゃんと解けるじゃない。もっと難しい問題出してあげようか」

 その演技に乗っかれば、弟は途端に慌て出した。姉が心配でも、余計な課題はごめんらしい。

「えぇ! それはいいよ!」

「確か昔使ってた問題集がクローゼットの奥に……」

「やだやだ、ねーちゃん。解けたんだから、もうそれでいいじゃん!」

 笑いながらクローゼットの方へ腰を浮かすと、レオンも安心したように半分笑いながら部屋から逃げ出してしまった。

「ふふ…………」

 可愛い弟だ。どの子も、レナの可愛い弟。

 だが一瞬和んだ心は、戻ってきた部屋の静寂と一緒に即座に影を落とす。

 頬から笑みが抜けると虚しさだけが残って、レナは力なくベッドに横になった。なってしまうと起き上がる気力がもう湧かない。


 どれほどそうしていただろう。

 不意に声をかけられた。

「レナ」

「…………何、母さん」

 視線だけを巡らせれば、そこには母の姿。

 廊下の陰に父が潜んでいることには気配で気付いたが、それには触れないでおいた。

「レナ、そろそろ話してくれる気にはならない? 一体何があったの」

「……………………」

 ありのままを包み隠さず話せる訳はない。ではかいつまんで話せるのかと言えば、それも難しい。心の内を零すことは、レナにとって難易度の高いことだった。

「ーーーー私達のせいね」

「え?」

 黙りこくったレナに母がそういうものだから、驚いて思わずベッドから顔を上げる。

「レナが強くて、そして頑ななのは父さんと母さんに責任があるわ」

「どうして。それは単に私の性格ってだけのことでしょ」

 そう言い返すが、母は眉を下げたまま続けた。

「レナは下に四人も弟がいて、本当ならまだまだ甘えたい盛りの頃から、ずっと下の子達の面倒をみてくれていたでしょう? 父さんも母さんも忙しかったから、それを理由にレナに逆に甘えてた」

 確かに下に四人も弟がいれば、小さい頃から姉としての役割は大きかった。でもそれは大した苦でもなく、性に合っていたことだと思う。

「確かにレナは元々しっかりした子よ。でも、長女としてしっかりしなきゃって、必要以上やな強くてしっかりした、甘えを知らない女の子になってしまった。頑固なほどにね」

 そういう風にレナを育ててしまったのは私達なのよ、と母は言った。

「でも、別に、私はそれで困ってなんか……」

 もはやこれがレナなのだ。レナは今の自分が自分だと、そこに窮屈さは感じていない。

「困っているわよ」

 けれど本人でもないのに、母は断言した。

「困っているわ。辛い時に、悲しい時に誰かに頼ることもできていないじゃない。ーーーーあのね、人間自分で抱えきれない量のものは、外に吐き出さなくちゃいけないの。でないと潰れてしまうの。自分でどうにかできるって、自分の強さを過信しちゃ駄目よ」

「……………………」

 そこまで言われてもなおレナが戸惑っていたら、母はそっとレナの頭を自分の胸に抱き寄せた。

「答えが出るか分からないし、レナの辛さが減るかも分からないけど、母さん、どんな話でも聞くから」

 心配を、かけたい訳じゃなかった。

 もうずっとそう思って生きてきたはずなのに、結局心配をかけている。この間母は、心配はするものだから気にするなと言ったが、それでもやっぱり心苦しい。

 それに加えて母の温かくい胸が、ひどく染みた。張り詰めていたものが、意図せず弛んでしまう強制力がそこにはあった。

「ふっ…………」

 涙が、ころりと頬を転がった。

 嗚咽を堪えて、代わりに澱となって心の底に溜まっていた言葉を絞り出した。


「私が、悪いの」


 背中に回された腕が、ゆっくりと上下する。

「とても、酷いことをしたの。……辛い選択を、させてしまったの。私のために。なのに、もうそのことを謝ることもできない」

 ノアがいない。どこにもいない。

「ずっとずっと、我慢させたり、傷付けたり、そんなことしかできなかった」

 痛みに胸が震える。

「素直な言葉なんて、何一つ。あんなに、優しい人だったのに…………!」

 ノアはいつでもレナの心の在り方を大事にしてくれた。彼は何故かレナの心の柔らかいところを心得ていた。

「受け入れられないからって、それでも他にもっとやりようがあったはずなのに。こんな終わり方じやなかったはずなのに……」

 レナの心にあった様々なフィルターを外せば、そこにはただただ居心地の良い、レナのための場所があったはずなのだ。

 でも、そんなの何もかもが今更。

「ーーーー全部全部、私のせい」

 だから今、レナがこんなに辛くて苦しいのも、自分のせい。自業自得なのだ。

 耐えるように肩を震わせ続けるレナに、それまで黙って聴いていた母が、ゆっくりと声を落とした。

「……レナはその人のことが好きなのね。とてもとても大切なのね」

 そう。レナはノアのことが好きなのだ。とても大切なのだ。この短期間で、その他の全てげ載った天秤と釣り合いが取れてしまうほどに。

「うん……きっとそうなの」

 アルベルトが言ったように、レナはこんな気持ち今まで知らなかった。こんな、扱いにくい、とても大きな気持ちなんて。


「その人には、もう二度と絶対に会えないの?」

 母がポツリと訊く。

 会えない、と思った。あの空っぽの棲み家を見てから、レナはずっとそう思っている。

「絶対の絶対に会えない?」

「………………」

 重ねて問われて、改めて考える。


 会えないと思う。無謀だと思う。あの深く広大な森の中、何のあてもなく誰かを探し出すなんて、それは本当に不可能なことだ。

 森に潜む危険は数知れず、自分の身を守りきれるかどうかも怪しい。

 でも、絶対の絶対に? と問われて、レナの中に何かむくりと起き出す気持ちがあった。

 母もまさか相手が森に住まう者で、それどころか人狼なんて思いも寄らないだろう。だからこそ、傷心の娘に無防備な問を投げ掛けている。

 本当のことが知れれば、即座に反対されることは分かっている。だから、口にはしない。


 でも。


 レナは何度も何度ももうノアには会いたくないと思ってきた。でも、その度二人は森の中で鉢合わせる羽目になった。

 二人の意思を超越したところで、何かの巡り合わせのようにあの森の中、何とも言えないタイミングで出逢い続けてきたのだ。


 分かっている。そんなの奇跡だって分かっている。だって今回、ノアは自らのその意思で去ったのだ。今までとは状況が違う。相手にしなければならない範囲は無限に近い。


 でも。ーーーーでも。


 運命、なんて言葉は馬鹿馬鹿しいけど、"もう一度"がないとは言い切れないのでは?

 絶対の絶対とは、言い切れないのでは?

 

「会える、かな……」

 自信なんかない。期待なんてこれっぽっちもしていない。でも。

「その前に、会いたいかどうかが重要よ」

 このまま、部屋で嘆き続けることが全てなんて、あんまりだ。押し付けられた状況を甘んじて受け入れるなんて、自分らしくない。

 レナのこの足は、レナの意思でどこへだって行けるのだから。

 会いたいかどうかと問われれば、会いたいのだ。それに間違いはないのだ。

 会えたって、きっと結論は変わらない。それはノアを余計に傷付けることかもしれない。

 でも、このまま全てを受け入れるなんて、レナの小さくて狭くて頑なな心にはできそうにもないのだ。

「私、まだ諦めたくない……」

 いいや、そうじゃない。レナは言い直す。


「まだ、諦められない」


 あともう少しだけ、望みを繋いでみてもいいだろうか。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ